サイバー老人ホーム

349.「ふてくされるな50代」

 いささか古い話で恐縮だが、2月12日の朝日新聞朝刊に歴史小説作家の童門冬二さんとの「異才面談」というコラム記事が載っていた。その見出しに「ふてくされるなよ50代」とあったので、つい目に留まったのである。

 そもそも、この童門冬二さんとは如何なる方か、時々、テレビの歴史物でお名前を見て、時代小説作家だということ以外に殆んどと云ってよいほど何も知らない。

 調べて見ると、お生まれは1927年と云うから、私よりちょうど10年早いという事で、戦後東京都庁に勤められ、企画調整局長など歴任され、美濃部都知事のスピーチライターとして活躍され、美濃部都知事の退官とともに、52歳(1979)で退官されて小説家に転じた方であるという事で、文字通りエリートコースを歩かれた方である。早速、近くの図書館へ行って「戦国を終わらせた女たち」と云う作品を借りてきた。

 ただ、そうは云っても、今の50代がふてくされているなどとは全く思ってはいない。それどころか、昔は年寄りとは、物知りなご近所の御隠居としてえてして尊敬の的として取り扱われていた様な気もするが、近頃の年寄りは、50代以下の人達とは全ての面で完全に遊離してしまったように感じている。

 そこでこの「ふてくされるな50代」と云う記事であるが、このコラム記事の冒頭に、「今の時代、役職を若い人に譲ったり、仕事を辞めたりしても、残りの人生は長いが、うまく生きた人はいますか」という質問から始まっている。

 確かに、我々がまだ現役だったころに、世の驕りからバブル経済の崩壊と云う過程を通って、一気に不況のどん底に落ち、それから「暗黒の死の10年」を過ぎ、多少の上げ下げはあったが、一貫して不況和音の奏でる中を日本全体が沈み切ってきた。

 最近になって、アベノミックスかどうか知らないが多少上向きになってきているようだが、この何年間の間に、かつて世界に誇った「日本的経営」がすっかり影を潜め、弱者があちこちで生まれ、顧みられなくなった。

 これらの事について、童門さんがどのように感じて居られたか分からないが、名君として名高い、米沢藩藩主上杉鷹山を指して、「上杉家直系の治広(上杉家10代目)に藩主の座を譲った」事について、「隠居後も藩政に対して影響力を持ち続け、何かと家臣らが頼ってくるのを見越し、隠居後もお城の方を見て、問題が起きれば指図をした老獪な男で、今では鷹山のやり方は正常ではないと思っている」と述べられている。

 成程、さすが高名な作家のお考えになるだけの事はあるとも思うが、少し前に、私の好きな時代小説作家藤沢修平さんの書かれた「漆の実のみのる国」を何度目か読んだ後だけにその相違が気になった。これは、筆力や、解釈の相違ではなく、作者御自身の人生の生き様の相違であろうと思っている。

 米沢藩は、寛永15年(1638)持ち高51万2千石余あったものが、そのご、数次に亘り減石され、最終的に15万石に減石された。

 このどうにもならない急場をどのように凌ぐか、歴代藩主は頭を悩まして、中でも第8代藩主上杉治憲(はるのり、後の鷹山)は様々な形で対応してきて、上杉家本家の9代目藩主治広に譲って、隠居として藩政を実質陰で指導した事に対して童門さんは指摘したのである。

 江戸時代の藩主や、領主と云われる人は、一方で、江戸幕府を形成する主要な要素であり、その体制を維持するためには「儀礼三百威儀三千」などと云われる厳格な規律の基にあったのである。その中には、各大名泣かせの手伝い普請と云うのがあり、限られた財政の中で苦慮していた。

 そもそも、国とか、今で云うなら会社のトップとなれば、こうした礼儀三百威儀三と同様に原則的な事を並べ、実技的な事にはなかなか頭が回らないものである。鷹山は、この仕事上の不合理を取り除くために、敢えて原則と実技を分離し、治広には幕府に対する対応を主体に当たらせ、鷹山はこれ等に対応できるような有能な家臣をそれぞれに充てて藩財政の再興に力を注いでいる。

 そして、もう一人の失敗例として、「武田信玄は隠居した後も名声を独り占めしようとして、家臣たちの前で嫡子勝頼に恥をかかせ、家臣たちに不肖の3代目として軽んじた」ために、武田家を滅亡に追い込んだと云われている。これは、武田信玄の頃は戦国時代の真っただ中であり、この場合は、悠長な「礼儀三百威儀三千」などと気取っている場合ではなく、常に実技(実戦)に明け暮れた。

 確かに、信長、秀吉、家康に比べて、外交的センスは不足していたかもしれないが、信玄・勝頼の時代は、一歩間違えれば滅亡につながるため実戦での手腕が重要視させていたのかもしれない。だからと云って、信玄の功績が無かった事にはならないだろう。

 一方、第二の人生をうまく生きた人として、伊能忠敬を上げている。その理由として、「計算法に強かった忠孝は、「伊能家の養子となり、伊能家の財政再建に尽力、50歳で隠居し、その後、本当にやりたかった天文学を学び、社会に役立てようとし、それによって第二の人生の出発点が隠居だった」としている。

 この場合は、今の時代とよく似ているが、定年までに蓄積した何らかの実技を役立てようとしても、忠敬のように都合のよい受け入れ先が容易に見つかるものではない。

 そして、編集者から最近童門さんが、「50歳からの勉強法」と云う本を出されたことに関し、「現役時代に後顧の憂いが無いようにするには、どうしたらよいか」と云う質問に対し、「50歳位になると、会社や、上役の不平、不満が出てくるが、そうではなく、「公」を考えなくてはならない。公とは、会社にとっても、社会にとっても良いことは何かを考える」ことで、「今まで会社から受けた恩を感じ、めぼしい後輩の育成に励む。今は戦国時代のような時代、50代でふてくされてはどうにもならない」と云われている。
 
 誠にごもっともなお話だが、用済みとなった年寄りのたわごとを聞いてくれる若者など何処にいるのだろうか。童門さんは、第一次石油ショック(1973)の影響がまだ冷めやらない1979年に退官されているが、ひときわ厳しい経済情勢の中で如何様な理由で身を転じたのかそれを聞きたかったのではなかろうか。

 御存じ、今は亡き藤沢修平さんは、教師や、業界誌の記者など経験しながら、その間に胸の病を経て作家として大成された方である。一方、童門さんは、三十代の頃から執筆に精を出しておられ、私ごときのド素人がどうのこうのと述べる立場ではないが、戦後の混乱期に東京都庁に入られて、局長まで登り詰めたお方で、エリートコースの人生経験をされた方で、負の経験など余りなさらなかったのではなかろうか。

 「公」と云うのがいかような事を指しているか分からないが、朝日新聞の読者も、出来うれば「公」に報いたいと思っていても、大部分の読者が私ごとき凡人であれば、思い通りに叶うことなどごく一部のエリート族を除いて夢のまた夢である。

 最後に、「振り返って後輩を教えるようなことがあるか」と云う編集者の質問に対して、「俺のようになるなでもいい。無駄な時間を過ごしていない限り何がしかの学びの種はある。例えば出世人生から各駅停車に乗ったとしても、自分自身を客観的に見たら「お主、やるな」と思えるところがある。

 「50代は人生を棚卸しして、自分を見つめる時期にすべきだ」と童門さんは答えているが、「「人生は起承転々」、いつまでも学んで、転がってゆくしかないという心得である。社内でふてくされても仕方がない。私も57歳、伊能忠敬のように今をやりきり、「転々の人生」が理想とみた」と云うのが編集者の締めの言葉である。

 これを見て、世界の朝日新聞の編集者がこの程度の内容で満足していては困る。そもそも、人選に当たって、高級公務員の職をなげうって、激戦の作家の世界に入った童門さんの勇気には賛辞を贈るが、生活の方途も分からずに手をこまねいている中高年者を導くには、少し、ミスキャストではなかったろうかと思う。

 なるほど、童門さんは、高名な時代小説作家であるが、天下の大朝日の狙いは、名の通った大名や領主の身の振り方ではなく、市井の片隅で必死に生きていく庶民の身の振り方だったのでは無かろうかと思っている。(14.03.15仏法僧)