サイバー老人ホーム-青葉台熟年物語

156.故里追憶

 昨年、高校時代の友人から奇妙なものを送ってきた。明治に入ってからの私の故郷信州の主な出来事を一覧にした年表である。ただこの年表、単なる年表だけではなく、各年次ごとに記入欄が設けられているのである。何ゆえこの年表を私に送ってきたのか、また何のために使うのかわからないので早速友人に問い合わせてみた。

 その結果、この用紙を使って自分史や家族史を作るためのものでこれが一つのビジネスに結びつくかどうか友人から頼まれて試しに送ったと言うことである。

 なるほど、明治以降の地方史ばかりか、日本における主要な出来事も記されていて、それなりの興味を持って眺めた序に、私の親兄弟のそれぞれの生年月日や没年を記入してみたがせいぜいさかのぼれるとしても両親までである。これだけでは何の面白みもないし、とても新ビジネスに結び付けられるものではない。

 そこで物の序にもう少し調べてみた。もともとたいした家系でもないから調べてみてもたいしたものが出てくるとは思えないと多寡をくくっていたのである。

 そもそも私の故郷は信州の北東部で千曲川の上流の一寒村で、現在は千曲川を挟んで隣同士の二つの村が合併したまちで、日本一高いところを走っている鉄道の名に由来した町名になっている。
 ただ名だたる神社仏閣や有名な観光地があるわけではない。わずかに松原湖と言う小さな湖と、八ヶ岳登山口ということで多少知っている方もあるかもしれない。

 子供の頃から農事に関係した素朴な行事はあったが、いわゆる無形文化財とか郷土芸能の類のものはおよそ見たことがない。ただ、松原湖と言う湖の湖岸に諏訪神社があり、寅年と申年の7年ごとに行われる諏訪大社の御柱祭りのミニチュアー版が唯一の祭りと言えるかもしれない。

 私の生まれたのは千曲川の左岸の村であるが、敷地面積はかなり広大であったが農地や人の住む平地はごくわずかで敷地面積の10パーセントにも満たなかったのではなかろうか。残りは八ヶ岳山ろくの荒涼とした原生林であった。

 この寒村にさしたる歴史などあろうはずがないと思って調べていくうちに意外な事実が次々にわかってここ半年はすっかりのめりこんでしまった。

 まづ、この村の発祥を示す記録が私の生まれた集落の旧家にあったのである。それによるとわが故郷は元和五年の年貢免除証文と言うものから始まっていた。元和五年と言うと今から385年前と言うことになり、この年貢免除証文は新田開発が滞っているので当時の代官が向こう三ヵ年年貢を免除すると言う証文である。

 公式にはこうしたことになるが、各村々にはそれぞれの伝承や伝説がある。私の子供の頃にも親から様々なことを教えられた。中には真におどろおどろしいようなものがあったが、ただそのことが事実であるか証明するものはないと思っていた。ところがインターネットなどによって調べていくうちに次々に新しい事柄が分かってきてこうなると面白くてやめられない。

 最初に手がけたのが私の生家のあったすぐ上から開けていた福山田圃と言う棚田である。ただ棚田と言っても一般的にイメージする山の傾斜地に開いた田圃ではなく、緩やかな傾斜に沿って四方を自然石の石垣に囲まれた田圃で、私の故郷でも屈指の良田とされてきた。子供の頃は広大な田圃のような気がしていたが、私が故郷を離れてから国道141号線が拡幅され、加えて最近は道路沿いに事業用建物が立ち並び見る影もなくなっている。

 この田圃の開墾に取り組んだと思われるのがおよそ450年前の慶長年間と言うことで、ここが年貢免除の対象となった田圃である。ただ、この田圃の開発に当たってはなみなみならない苦労が有ったようで、結局、当初もくろみの200石取りの田圃ができたのは225年後の弘化元年と言うことである。

 また義務教育制(当時は4年)ができたのは明治33年と言われているが、明治22年生まれの私の父がわが村の学校を出たと聞いていたが学校の校舎ができたのが明治41年で少し勘定が合わないと思っていた。ところが今度田舎に帰って何人かの人に有って話を聞くうちに思いもよらないことを聴いたのである。

 それは私の子供の頃、図書館と言う集会所があり、此処で様々な寄り合いや青年団の演芸会などを開いていたが、図書などは一冊もなかった。ところがこの建物は村の鎮守の観音堂として建てたものを予定していた坊主が不幸にも病死してしまったために、隣村(部落)との合同の学校として使うようになったということである。

そういわれれば傾斜地を背景に、三方を石垣に囲まれ、民家にしては不釣合いの石段があったが、庭園らしきものはなく機能一点張りの奇妙な建物だった。すなわち父たちは此処が学校として使われていた頃の卒業生であったのかもしれない。
 今ではこの建物も取り払われてしまったが、図書館ではなくて読書館であったかもしれない。今にして思えば惜しいことをしたと思っている。

 この建物には更に余談があり、明治維新となり廃物を唱える輩が多く、安置する予定になっていた十一面観音像を福山田圃の近くの岩屋に移したとなっている。私の子供の頃近くの岩のくぼみに朽ちかけた木彫りの仏像らしきものはあったが、十一面観音像など見当たらなかった。

 こうして子供の頃の伝承や伝説を追いかけて行くうちに、せいぜい幕末程度かと思っていたわが故郷の歴史が、今度田舎を訪れて見聞するうちに、なんと平安初期までさかのぼれることができたのである。
 だからと言ってこれがなんの役に立つと言われればそれまでだが、現役を離れて今心に残るものと言えばこうした思い出や幼い頃の記憶ばかりである。ただ、こうしたことを考えるとき無限に想像の世界が広がっていくことは無性に楽しいことである。

 「故里は遠くにありて思うもの」と言われが、ただ昨今の経済を主体とした世の中で、果たして今の若者たちにどのような思い出を残してやれるのかと思えば暗澹たる思いがする。かつての美田福山田圃の石垣がブルドーザーで瞬く間に掻き均されて商業地に転用されていくのを見ると、400年昔からの祖先の慟哭が聞こえてくるようである。(04.05仏法僧)