サイバー老人ホーム

259.不義密通(フリン)5

 それでは人偏のある侍、取り分け平侍の下半身事情はどうであったかと言うと、決して女性にもてるとか、色目を使われるようなういた存在ではなかったようである。江戸の大半を占めていた徳川家家臣は御家人といわれる平侍であった。

 これらの侍は、今で云う文京区小石川を初めとする武家地に立ち並ぶ組屋敷や武家屋敷に赤貧芋を洗うような生活をしていたのである。決して、夜な夜な女郎買いに出かけるような裕福な生活はしていなかったろう。勿論、中には小利口に立ち回って、女の生き血を吸うような者もいたかもしれないが、基本的には実直な慎ましい生活をしていたとのではなかろうか。

 「江戸下半身事情」によると、「吉原では勤番武士は嫌われた」と書かれている。この勤番武士とは、地方藩主が参勤交代などに従って江戸に出てきて、勤務するものである。

 この勤番武士が遊郭のある吉原では野暮の代表としてさげすまされたと言う事で、そのわけは、「金払いが悪く、要求が大きい」と言う事である。この要求が大きいとは、たまの女郎買いだから、この時とばかりしつこく迫ったと言う事である。

 確かに、国許に女房を残しての単身赴任であり、せめてたまの女人の肌触りであり、その心情は分からないでもない。

 ただ、勤番だからと言って単身赴任手当が付くわけでもなく、国許で殿様から賜わった御扶持だけである。夜な夜な女郎買いに出かけようものなら忽ち舌が干上がってしまう。これを証明するものが残っていた。

 それは、万延元年(1860)五月江戸勤番を命じられた紀州藩大番組の酒井伴四郎と言う侍が、五月十一日に国許を立ち、江戸には五月二十九日に到着日、その年の十一月末に江戸を立つまでの江戸詰めの暮らしを丹念に記述した「江戸江発足日記帳」である。

 これによると、当時、紀州藩勤番は、赤坂藩邸北側にあった「相の馬場勤番長屋」に住んでいた。
この長屋、瓦葺本板塀の粗末な二階造りで、石高で居住条件が異なっていたらしい。

 その内訳は、「妻子無し、二階三間梁、平し一間庇」「二十石より三十五石迄、二階一間半、平三間」とある。具体的広さは分かり難いが、今でいうなら四畳半一間の世界ではなかったろうか。

 この伴四郎殿と同居していた三人の同輩の毎日の仕事といえば、人に会うことが殆どで、その他は一緒に江戸入りした叔父の膳奉行格衣紋方の宇治田平蔵殿のご機嫌取りと、神社参詣が主な仕事のようである。

 この六ヶ月の間に、怪しき記載といえば到着後一月程たった七月八日に「八つ時(午後二時)過ぎ民助御鷹の餌物鳩持参いたし早速炊き皆々食い何れも飯、予は酒を呑み、夕方より例の方へ行き、帰りかけ上総屋へより内儀に洗濯賃渡し六つ半(午後七時)帰り申し候」と言うのがある。少々下司の勘ぐりになるが、この「例の方」とは一体どの方であったか。

 更に、七月十六日には、「観音へ参詣、おばけの見世物を見物致し(中略)、阿なご、いも、蛸甘煮にて酒を呑み、飯を喰い、それより吉原見物に行き、初めて花魁道中を見る」と言うのがある。「御鷹の餌物鳩持参いたし早速炊き皆々食い」と言うのが気になる。

 「御鷹の餌物」とは、将軍または紀伊大納言の鷹狩り用に飼っていた鷹の餌と言うことであろう、それを早速炊き皆々食いとは、どう言う事か。当時の勤番武士は色気より先ず食い気のほうが先ではなかったかと思うのである。

 ただこの日記の冒頭に、「房事」と言う記載が所々にある。この「房事」とは、「男女の交合」の事であるが、例えば、七月七日の冒頭に、「房事四つ時(午前十時)頃直助・民助(何れも同輩)同道にて出殿致し候」と書かれている。

 出殿(出勤)に最も気が張り詰めているときに、「男女の交合」を致すとも考えられず、多分、厨房の当番の事を書いたものと推測する。(09.03仏法僧)

 ところで、「下半身事情」によると、「江戸の町は売春で大繁盛し、吉原には遊女三千といわれ、二百軒以上の妓楼がひしめき、合わさせて三千人前後、多いときは七千人もの遊女がいた」と言うことである。

 更に、江戸周辺の江戸四宿(品川、内藤新宿、板橋、千住)の宿場には宿場女郎(飯盛り女)がいた。

 また、「安永(1772−81)の頃、江戸には五十箇所近い岡場所があった。中でも本所入江町(東京都墨田区緑町)は繁盛した。『当世武野俗談』によると、入江町には四十一もの路地があり、両側に女郎屋が軒を連ね、女郎の数は千三百人を越えた」と言うことである。

 ただ、こうした岡場所は、江戸幕府から許可されたものではなく、時々、取り潰されている。取り分け、寛政改革、天保改革で総て取り払われ、徹底的に取締まられた。この他、夜鷹と称する隠れ売女が居り、「江戸は遊女だらけだったといっても過言ではなかろう」と書かれている。

 しかし、これらの遊女の総数がいかほどであったか定かではないが、江戸の住民三百万に対し、だから江戸の性が乱脈であったとは思えない。

 その根本的な理由は、江戸市民、武士何れも極めて貧しかったと言う事である。いくらセックス好きの日本人であっても、明日の食う飯をも考えずに、色狂いをするとは考えられない。

 更に、江戸市民は、武士であろうと、町人であろうとも、事の善悪を判断するだけの教養を身に付けていた。人間の欲望が高じると、善悪の判断を超えて暴走するといわれているが、それを抑制するのは教育である。

 通常の子弟の教育は、寺子屋であるが、それにも行けない子供達はどうしたかと言うと、親兄弟、隣近所の付き合いを通じて自然に身に付けていたのである。

 更に、幕末に至るに従って、本来の武士道と言うのは廃れたといわれているが、道徳意識や、礼儀などは立派に受け継がれて、日本人の血に受け継がれていったはずである。

 加えて、性病である。「下半身事情」によると、当時の遊女のほぼ百パーセントは性病に冒されていたと言う事である。

 それを証明するものとして、医師橘南谿「北?(ほくそう)?談」に「今にては遊女は、上品なるも、下品なるも、一等に皆黴毒(ばいどく)なきは無く」と記されていると言う事である。

 更に、かの有名な杉田玄白の「形影夜話」に「病客は日々月々に多く、毎年千人余も治療するに、七八百は梅毒科なり、斯くの如き事にして四五十年の月日を経れば、凡そこの病を療せし事は、数万を以って数ふべし」と書かれていると言う事である。

 この事が書き物に残されていると言う事は、性病の怖さなどは十分に知れ渡っていたのではなかろうか。

 ただ、何時の時代でも不埒な人間はいるもので、取り分け混乱した時代にはこうした人間が、世間の鼻摘まみと思われつつ跋扈していた事も事実である。

 また、遊女について鼻の下の長い男と違って、まともな市民はその行く末の過酷さは十分知っていたはずであり、女性であったら誰しも自ら遊女に成る事を望む者などなかったのではなかろうか。

 勿論、運よく身請けされたり、年季明けになった幸運な遊女もあったろう。だからと言って、今の時代のように、自分の奢侈のために売春行為をするなど言うものはなかったろう。

 「下半身事情」によると、「翻って、現代は玄人と素人の境界があいまいになり、学生時代に風俗店でアルバイトをし、その後、一般の会社に就職した女性や、パートや契約社員として企業で働きながら、開いた時間は風俗店であるバイトをしている女性もいる」と言うことである。このアルバイトとは一体何のためだったろうか。更に、現代のフーゾク嬢は原則として、自由意志と自己責任で風俗店で働く事を選んでいると書かれている。

 これが事実とすれば、嘆かわしいを通り越して、世も末と思うのである。たしかに、医学の進歩や、避妊具の発達により、性行為による女性の受ける負担は軽減したかもしれない。

 しかし、新聞で読んだ事であるが、若年時の性行為による子宮頸部に発生す子宮頸癌と言う病気が増加しているとも聞いている。更にエイズも増加傾向にあると聞いている。

 それにも増して、愛情もない、単なる快楽のための性行為により、生まれた子供の虐待や、犯罪につながっているとしたら、性行為と言う神から授かった神聖な行為を冒涜する罰当たりの所業と言うことに成るのではなかろうか。(09.03仏法僧)