サイバー老人ホーム

257.不義密通(フリン)3

 「守貞満稿」に、後家の浮気を裏付けるかのように、「江戸は後家も丸髷なれども、髻(もとどり)の元結の上に髪の毛を纏い元結を隠す。名づけて毛巻きと言う。これを後家の風とす。けだし髪巻きせず。(中略)因みに云う。江戸の毛巻き、京阪の後家嶋田を本とすれども、江戸にて他をまとい又京阪にて両輪等結は好色の始まりか。

 然りと言えども、寡婦はかえって男の心懸くる事ある者故これを厭う。後家は他の目に立たざるように夫あるものの如し、かえって好色の後家に後家風するもあり」とあり、後家とは言え生きていかなければならず、人それぞれであったのだろう。

 しかし、江戸時代は、夫のある女と密通した場合、女(め)敵(かたき)といって、密通した男女とも殺しても構無しと言う事で罪にはならなかった。実際に、敵を取られた話もある。

 ところで、江戸性風俗に関する著作の多い歴史学者の氏家幹人さんの「小石川御家人物語」によると、宝暦十一年(1761)、伊勢津三十二万石藤堂和泉守に使える三百石九人扶持の和田半兵衛の妻もよが、あろうことか主人に仕える家士喜兵衛と密通致し、同年七月、主人の妻との情事に恐れをなした喜兵衛は親の病気を理由に突然暇を取って屋敷を出てしまった。

 ところが、八月廿日の朝、もよも欠け落ちし、行方をくらましてしまった。家を出るときよほど気が動転していたのか、文箱の中に相手の男宛の文一通と、多分二人の相談役になっていたらしい甚八という前田信濃守の家来に宛てた手紙がはいっていた。

 これを手がかりに、夫の半兵衛は直ちに伝手を以って前田信濃守の屋敷に手を回し、同月二十五日、もよはあっけなく発見されてしまった。

 この前田信濃守とはどのような人物か分からないが、少なくとも信濃守という官職名がある限り、従五位下以上と言うことになり、旗本と言うことになる。

 文政五年(1822)の文政武鑑よると、幕府高家に中に、知行一千石の「前田信濃守長粲」と言う名が有り、若しかしたら加賀前田家の流れを汲む名門だったかもしれない。

 本来なら、もよは手打ちになっても仕方ない所だが、それにしては不義密通に及んだ人の女房を囲い込むとはいかなる了見だったのだろうか。

 もよの身は、取り敢えず半兵衛の養子旅川弥太郎方に「押し込め」、もよの実家と交渉したが埒が明かず、「乱心」と言う名目で監禁したままになった。

 それでも十一月になると、もよは、和田家では主婦不在では下女達の指図も出来ないと、一旦半兵衛の家に帰され、座敷牢同然の一間に押込められた状態で、家事に何かと指図していたと言うのである。

 和田家の内情を知る人の話では、以前から夫婦仲が悪く、その上家事の取り捌きも良くなかったので半兵衛の方でも離縁を考えていたとの事、それにしては「家事の捌きも良くない」女に下女の指図をさせたとはいかなる所存であろうか。

 翌宝暦十二年一月十八日、藩から離婚願いの許可が下りて離婚が成立、しかしもよの実家でも、もよを引き取る意思がなく、外に寄る辺のない四十を過ぎた熟女は、そのまま弥太郎宅で監禁生活を送る。そして、「其の用却(費用)は半兵衛より差出す筈に追って議定す」となった。

 もよは、それから五年後の明和四年五月に、剃髪し比丘尼になって、「翌年五十歳余にも相成ることなれば、浮気の儀も之有る間敷きゆえ、幸いな事なれば部屋より出し置き、おやそ守り(子守)にし然るべし」となったと言うのである。

 藤堂家といえば津藩三十二万石の大藩である。その家臣三百石九人扶持といえばれっきとした士分である。本来であれば、女敵である喜兵衛をどこまでも追って討ち果たさなければ武士の一分が立たないと言う事である。それがいくら武士道廃れたりといえども、「其の用却は半兵衛より差出す筈に追って議定す」とは一体何たる体たらくと言うことになる。

 「御定書」には身の毛がよだつような恐ろしい御仕置が書かれているが、実態はそれ程でもなかったのかもしれない。

 ただ、「御定書」は、幕府の秘密文書で、原則は三奉行と京都所司代しか閲覧が許されない秘法であったが、極秘裏に諸藩や評定所でも写本が流布していたと言われている。

 当時、僅か五十戸ばかりに寒村であった我が故郷の村にも残っていたというから驚きである。ただ、こうした写本により市民は「御定書」の存在を知り、厳しい御仕置から強い道徳律に成っていたのは間違いない。

 同じ「御定書」の中に、「女犯(にょぼん)の僧御仕置の事」と言う条項がある。この女犯とは、僧が不淫戒を破り、女性と交わることである。その内容は、「寺持ちの僧  遠島」、「所化僧(修行僧)の類  晒しの上本寺触れ頭へ相渡し寺法の通り致すべし」、「密夫の僧  寺地所化僧の区別なく獄門」と何れも厳しい。

 ところが、「下半身事情」によると、品川宿の客は、主に侍と僧侶であったと言う事である。それをもじって、「品川の客にんべんのあるとなし」という狂歌が読まれたと言う事である。(09.02仏法僧)