サイバー老人ホーム

256.不義密通(フリン)2

 江戸時代の死刑には七段階あり、最も重いのが「鋸挽き」であり、「一日引き回し、両の眉に刀目を入れ、竹鋸に血を着け、側に立て置き、二日晒し、挽き申すべしと申す者これあり時は引き候事」と、想像しただけで身の毛もよだつ想いである。

 以下、磔、獄門、火罪、斬罪、死罪、下手人と七段階になっている。密通の場合、上の磔が最高刑だが、総じて女の御仕置が厳しいようである。

 ただ、こうした御仕置が厳格に行われたかと言うとそうでもない。江戸時代には加害者と、被害者側との内済(示談)によって基本的に解決され、「御定書」に規定によりお裁きが執り行われたのはそれ程多くもなかったかもしれない。

 こうした不義密通に関する、示談書の類は可なり残っている。
 これは常州龍ヶ崎村(茨城県龍ヶ崎市)で起きた事で、「私儀、大徳村寛左衛門殿娘うたと馴れ合い不義致し候処、当月四月中布川村医師周平殿方へ仲立ちこれ有り、貴殿方へ右うた殿に未だ執心これ有り趣を以って申し断候処、左の扱い人(仲介人)立ち入り、手切り金とて、金三両なり確かに請け取り申し候、然る上は執心など決して相残し申す間敷き候」という念書を入れている。

 これは、「御定書」に「縁談極め候娘と不義致し候者」と言う条項があり、これによると、「縁談極め置き候娘と不義致し男並びに娘きり殺し候、親」は、それに紛れなかった場合は「構無し」、即ち罪には問わないと言う事になる。

 従って、前の場合とちょっと異なるが、若し娘うたが縁談が決まった後であれば、この男房吉は切り殺されても罪にならなかった事になるが、この場合は金三両の手切り金でかたがついたということになる。

 また、これは出所は分からないが、忠兵衛の家(屋号「中橋」)に奉公していた下女と、隣家の借家人源次郎が密通して下女を妊娠させてしまった。これに対して、下女の親が出てきて話し合いになった。

 「貴殿召抱え下女たけと私(源次郎)心得違いにて密通致し、あまつさえ懐妊致させ、実親罷り越し掛け合いに及ばれ、申し開き之無く、門蔵殿・新作殿を以って詫び、療治養生料として金一両二分差出し、勘弁いたし貰い候」と言う結末になった。

 はじめの医師周平殿は、房吉は不義致しではあったが、言わばうたを横取りした事で、大枚三両もの手切り金を払っている。

 一方、下女たけの方は、心得違いに密通した源次郎に妊娠までさせられて、金一両二分で勘弁とはいかにも白々しい。この後源次郎は、この金を忠兵衛に横取りされたと吹聴したために、再び訴えられ詫び状を出したのがこの文書である。

 この詫び状を出したのが文久三年(1863)と言うことだから、一両二分などはした金、妊娠させられたたけがその後どうなったか気にかかるところである。

 この場合の「御定書」の規定は、「下男下女の密通  主人へ引き渡し遣わす」といたって素っ気ない。

 ところで、我が故郷にも同様な事件が起きていた。前出の「代吉日々覚え帳」の文政十二年三月十一日に、「源吉、甚之丞娘きんをはらませ、金五両詫び証文にて相済」と書かれている。甚之丞と娘きんがその後どうなったか書かれていないが、この寒村で金五両の示談金はいかさま高額であったろうと推測される。

 更に、それから四年後の天保七年正月十五日に、「河上上原村作左衛門下女に五人にていんもん(陰門)に傷付け、御検使遣わし甚だ六ケ敷く相成り候」とある。

 正月十五日とはいわゆる小正月であり、河原でどんと焼きなどをし、舞い上がったのかもしれない。こうなると、まさしく不法行為で、「御定書」には、「夫之有る女得心之無くに押して不義(強姦)致し候者 死罪、但し、大勢にて不義致し候はヾ頭取(首謀者)獄門、同類重追放」となっており、「夫之有る女」ではないとしても、首謀者の遠島は免れなかったのではなかろうか。

 続いて天保八年八月十八日に、「惣兵衛女房並びに吉兵衛を不義致し候に付き、ひょうそうえ一夜さらし、十九日茂吉、直吉、おつや同道にて村中軒別に引き回す」と書かれている。この「ひょうそう」と言うのは分からないが、晒すとすれば高札場辺りだったのだろう。取り分け奉行所から役人を呼んだわけでもなく、男女の不義密通は村役人の手で裁かれたのだろう。

 この「代吉日々覚え帳」は寛政八年(1796)から天保十年(1839)までの四十三年間の主な出来事を記したものだが、男女関係を記したのはこの四件である。当事者は、夫々に高い代償を払わされた事になり、あえて書き残しているのを見ると村人にとっては強い道徳律になっていた事だろう。

 一方、「下半身事情」によると、江戸では、「料理屋茶屋の奥座敷、船宿の二階座敷などが男女の密会に利用されたが、現代のラブホテルに相当する商売もあった。それが出合茶屋である。」と言うことである。

 たしかに、江戸時代夫と死に別れた寡婦がかなり多かったようである。その理由は、疫病の流行や、栄養不良であった。したがって、こうした寡婦が当時あちこちに出現した出合茶屋で、男女関係に及んだと言う事であろう。

 取り分け、上野の不忍池の周りにはこうした出合茶屋が軒を連ねていたらしく、その様子を歌った川柳が数多く読まれている。

 「出合茶屋あんまり泣いておりかねる
  不忍といえど忍ぶにいいところ
  弁天の開帳をする池の端
  ひそひそと繁盛をする出合茶屋
  賑やかでは儲からぬ出合茶屋」

 男のほうはともかく、女性はやはり利用する層が限られてくる。後家さんが多かったのは無理もないとして、奥づとめで宿下がりの女中にもよく利用されたと言うことである。

 その背景には、「御定書」には、「夫これ無き女と密通致し誘い引き出し候者  女は相帰させ、男は手鎖」と比較的穏便な処置である。したがって、銭にも得にもならない後家の情事など目明しも見て見ぬ振りをしていたのかもしれない。

 ただ、今と違って江戸時代の夜はとても暗かった。そのため女の一人歩きなど物騒でできなかったので、勇気のあるアベックは昼間から大いに利用したと言うことである。(09.01仏法僧)