サイバー老人ホーム

255.不義密通(フリン)1

 最近、ある本で読んだことだが、近頃は結婚している事が男女の性的交際の歯止めにならなくなっていると言う事である。それが事実かどうか知る由もないが、外国映画などを見ると、同様な事がいとも簡単に、あたかもお茶を呑む良いうに行われているのを見ると、これからの人類は一体、どのように成るのか空恐ろしい気がする。

 日本では、男女七才にして席を同じゅうせず等と言われたのはつい五十年前であり、日本女性の貞節は世界の注目する所であった。

 もっとも、これは女性の有り様を不埒な男が評した言葉であり、日本男性の場合はまったくこの正反対であったかもしれない。

 昭和三十年代後半になり、海外渡航の門戸が開かれると、土地成金などのノーキョウの一団体等が大挙して海外に進出した。その主な目的が、売春禁止法の布かれた後の買春が目的であったといわれ、各国から顰蹙を買った。

 もっとも、当時は海外旅行といわず、国内旅行でも同様な傾向があり、会社の慰安旅行などでも、旅館でひそかにストリップショウなどが催されていて、大きな声では言えないが率先して見に行った方である。

 もともと、日本人のセックス好きは定評のあるところで、昔から、本妻以外に側室、そばめ、妾、てかけ等々様々な呼び名の女性を傍らにはべらす習慣があった。

 ただ、これらは、上流階級や、一部の富商の場合であって、一般の民百姓には、そんな余裕はない。その代わり、遊女、女郎、果ては、夜鷹などがあり、この習慣は、昭和31年に売春防止法が施行されるまで続いていたと言う事になる。

 それ以後はぷっつりと後をたったかと言うと、そんなことはない。今度は、フーゾク産業と名を変えて、まことひやかに夜の町に蔓延しているらしい。

 ところで、最近、豊富な資料に裏打ちされた時代小説作家永井義男さんが「江戸の下半身事情」と言う本を出されている。この中で、「現代日本の男たちが、風俗産業に対してさほど後ろめいた感情を持ち合わせていないのも、やはり江戸の遺伝子が作用しているからなのだろうか」と言われている。

 果たして私なども遺伝子を受け継いだかどうかは定かではないが、まるでこの種の事に興味を示さない朴念仁ではなかった。ただ、近頃は性年齢の低年齢化が進み、主役は、中高校生に移っていると言う事だがその実態は知らない。

 江戸時代の性年齢はどうだったかと言うと、今に劣らず早かったというのは定説である。その主な理由は、当時、男は十五才に成ると元服と言うことで、前髪を剃り、いわゆるちょん髷を結い、一人前の男として認められる事になる。

 一人前と成ると、妻を迎える事も出来、遊郭などにも出入が許されていたと言う事になるが、これは、町方の男の事で、しかもそれなりの身分や身上を備えた者であったろう。

 永井義男さんの「下半身事情」によると、江戸時代は売春が驚くほど盛んだった。これは、住環境が劣悪だった事に大いに関係しているのではなかろうか。」と言うことである。

 たしかに、江戸町民の七割から八割は長屋住まいで、それも間口九尺、奥行き二間の棟割長屋だから環境が良いわけはない。

 しかも、「江戸の市中には岡場所と呼ばれる売春街がいたるところにあり、そのほか宿場女郎があった。岡場所や宿場の女郎では割り床がふつうだった」と言うことである。

 この、割り床とは、六畳一間を、二人の男が衝立屏風だけの仕切りで、お互い買春をするという今では考えられないおおらかさであったらしい。

 ただ、いたるところと言うのはちょっと言い過ぎで、江戸の町は、七割が武家地、ないしは寺社地であった。従って、これらの中に公然と岡場所があったなどと言う事は考えられない。

 この結果、いわゆる三割の町屋の中にまぎれて岡場所があったのかもしれないが、ただ、町地には九尺二間の棟割長屋が立ち並び、とても女郎が身を寄せる隙などなかったのではなかろうか。また、食うや食わずの百姓や、日雇奉公している長屋住まいの若造などに女郎買いなどするほどの経済的余裕がなどあるはずもない。

 それでは女性はどうであったかと言うと、女の元服とは、女が結婚して眉を剃り、歯を染め、丸髷(まるまげ)に結ったことであり、外見上で未婚の女性と明確に分かれていた。

 「守貞満稿」によると、「京阪の既に嫁して歯を染め髷(まげ)を改めざる女も、妊(にん)身(しん)して大略五ヶ月頃に至り始めて髷を改め、両輪等に結び眉を剃るなり。江戸は未だ嫁さざる、既に嫁する女も歯を染むる者は専ら髪を丸髷に改め、眉を剃るなり」と書かれている。

 即ち、女にとって元服とは結婚して、歯を染めて、眉を剃ると言う事である。この歯を染めるというのは、おはぐろといって鉄をお茶や酢につけて、黒くなった液体に、付きをよくするために五倍子(ふしの)粉(こ)(ヌリデのアブラムシの瘤)を入れて、これを歯に塗って歯を黒く染める日本独特の化粧法である。

 私の子供の頃でも、たまに見かけた記憶があるが、明治生まれの母などを、「年を取ってからも歯が白いなどと言うのは恥ずかしかった」と言うのを聞いた記憶がある。
 当時の女性にとって、歯を染めるというのは大人への仲間入りであったのだろう。更に、娘時代の髪型は島田であるが、結婚すると丸髷に変わり、特別な思いがあったに違いない。

 従って、髪形と、歯を見れば亭主もちである事がわかり、男もそれなりの付き合い方をしたのだろう。

 江戸時代、幕府の刑法法典「御定書」と言うのがある。これは、様々な犯罪のその裁きの判例をもとに定められた物である。この中に「密通御仕置の事」と言う条項がある。

 この密通とは、妻あるいは夫以外の異性とひそかに情を通わすことと言う事で、今風にいうならフリンと言う事になる。これに不義が付くと、男女の道にはずれることになり更に罪は重い。

 「密通御仕置の事」には、二十六項もの項目があり、これらは何れも判例から来たものでそれだけ江戸時代でもフリンは多かったのかもしれない。

 その第一項は、「密通致し候妻 死罪」とある。この死罪とは、「首を刎ね死骸取り捨て様しもの(刀の試し用)に申しつける」とある。即ち、亭主持ちがフリンなどしようものなら、刀の試し切りにされて、死骸も取り捨てるという厳しいものである。

 続いて、「密通の男  死罪」、更に「密通致し実の夫殺し候女  引き回しの上 磔(はりつけ)」と一段と厳しくなる。(09.01仏法僧)