サイバ−老人ホーム−青葉台熟年物語

126.福知山線廃線跡

 JR福知山線は大阪駅から京都の福知山駅までの路線である。昭和62年に複線化に伴い、篠山口までは宝塚線という愛称で呼ばれているが、私はローカル色豊な響きがある福知山線のほうが好きだ。

 私が、この地に越してきた時は勿論福知山線で、当時も宝塚までは電化されていたが、日に何本かディーゼル機関車が客車を引っ張ってあえぎながら動いていた。会社の帰りに大阪駅で乗り込むと、あちこちに清酒のワンカップといくらかのアテ(つまみ)を抱えて乗り込む人も見られるのどかな通勤風景だった。

 我が家は宝塚から一駅目だが、この一駅が大変で、日中は2時間に1本程度の列車しかない。何故こんな不便なところに越してきたのかと言えば、理由は簡単で都心からの距離の割に安かったと言うことだけである。
 ところが、越して2年目になんと三田までの複線化と電化が一気に完成した。これほどの大工事が一気になどできるはずがないと言われそうだが、実にあっけないほど突然に開通したのである。

 勿論、工事をしていると言うことは聞いていたが、肝心の駅舎なども木造の無人駅のままだったり、駅を出てすぐにトンネルに入るのだが何所にも複線のための工事の形跡はない。更にその先は武庫川の深い渓谷に沿っての線路が続いており、これから予想される難工事を考えると、私の生きている間に完成すれば大成功と考えていた。

 ところが、工事は次の武田尾駅の先まで、全て新しいトンネルの中で行われ、トンネルが貫通するとあれよあれよと言う間に開通してしまった。開通してしまうと、前の線路は廃線跡として残り、やがてここが格好のハイキングコースに変わったのである。

 現在のハイキングコースは生瀬駅で下車して、一旦171号線に沿って400メートル程進むとこの廃線跡にはいれるが、我が家からは武庫川に半島状に突き出した町内を裏側に回ると武庫川に掛かった水道橋に出る。ここで対岸に渡るとそこがかつての青野古道の木之元地蔵に通じる渡し場で、川沿いの住宅を抜けて、背後の田んぼの中の小道を行くと自然に廃線跡に出る。(写真:青葉台(左)と木之元に掛かる水道橋(空色))

 ここからは廃線跡のハイキングコースとなるが、それまでの福知山線沿線の風景と一変し、周りを切り立った崖の囲まれた渓谷沿いを行くことになる。ここから次の武田尾までは途中六つのトンネルがあるが、福知山線が明治32年に開通当時のいわゆる手掘りのトンネルで、周りは赤レンガが詰まれているが煤で真っ黒に汚れた古色蒼然たるトンネルである。

 しばらく対岸の切り立った崖を楽しみながら進むと、最初のトンネルに差し掛かるが、このトンネルを出たところまでは今は歩道になった旧線路は綺麗に整備されていて歩きやすい。それというのも、このトンネルの入り口にダム建設の予定があり、一時測量や地盤調査などの名残であり、その後このダム建設にはお決まりの反対運動などもあり頓挫しているようである。

 最初のトンネルは迂回路もあり、途中に30メートルほど掘り進んだがそのまま放置された岩屋があり、徴用された朝鮮人労働者の労働によるものと言う立て札はあるが、当時の難工事が偲ばれる。
 トンネルを出ると旧線路は一変し、レールは撤去されているが枕木、砂利はそのままで、その上、十七年余の歳月の隔たりと共に、周りからは背の高い雑草と雑木がいっせいに押し寄せてきて、間もなく自然に帰ろうとしている荒涼とした風景に変わる。(写真右:雑木に埋まるトンネル入り口)

 武庫川は右手に大きく迂回して、最も景色の良いところであるが、消え逝くものへの憐憫か、はたまた空しさへの感傷だろうか。ここまでが昨年の到達点であり、私にとっては過ぎ去りし時の無常観をそそる風景である。(写真左:大きくうねる武庫川)

 この二番目のトンネルは六つのトンネルのうち最長で、しかもカーブしているから全く見通しが利かない。したがって、中は真っ暗、足元は砂利と枕木だが、所々枕木が抜けていたりするから恐ろしく歩きにくい。何回か転びそうになりながらようやく抜けた時には汗びっしょりで、さすがに疲れた。
 尤も、休日ともなると梅田の地下道並みの賑やかさと言うことであるが、この日は平日であり、行き交う人もなかった。

 この辺りの武庫川峡谷は岩肌が最も美しいところで、信州木曽川の寝覚の床と言う名勝を彷彿とさせる風景である。さほど長くもない三つ目のトンネルを過ぎると今まで右側を流れていた武庫川は流れを左に変え、谷幅も広がってくる。

 四つ目のトンネルを抜けてしばらく行くと、右手に宝塚市が管理する「桜の園」という自然公園がある。以前は土手横に注意しなければ分からないような入り口だったが、今度行ったら目を見張るような立派な入り口と看板が出来ていた。
 この公園、水上勉さんの小説「櫻守」のモデル笹部新太郎さんが明治の頃、桜の新種や育成のためにこの辺り一帯に植えたものが、そのまま放置されていたものを近年宝塚市が買収して自然公園にしたもので山桜の巨木があちこちにある。(写真左:櫻の園入り口)

 以前は、ここから山伝いに公園を一周し、更の海抜500メートルあまりの大峰山を登り、十万辻を経て宝塚市の中山の最高峰からそのまま宝塚駅にいたる、総延長20キロにも及ぶハイキングコースをものともしないほどの健脚を誇ったものだが、今、ようやくにしてその入り口まで到達できたことになる。

 ここからは短いトンネルを二つばかり過ぎるとやがて武田尾駅に至るが、以前のいかにも田舎の停車馬然とした駅舎はかなり手前にあり、廃線後もしばらくは残っていたが今は跡形もない。

 以前、会社の帰りに乗り過ごし、雪の降りしきる駅舎に降り立ったとき、タクシーはおろか、何もないこの山間の駅舎に呆然と立ち尽くしたことがあったが、新武田尾駅はそこよりも更に500メートルほど先に、殆どトンネルの中に埋め込まれたように作られている。

 この山間の小さな集落には、武田尾温泉があり、桃源郷のようなところである。かつては訪れる人もさほど多くなかったが、新線の開通で、休日には最も乗降客の増えた駅かもしれない。

 我が家からここまでは7キロ余りの行程、私にとっての目標はまだ見えてこないが、これも一つの里程ではある。かつては駅前だった酒屋に立ち寄り、本来ならビールと行きたいところだが、家内にたしなめられながら、アイスクリームを食べて私のとっては発症後初めてのネイチャーリングは終わったのである。(03.06仏法僧)