サイバー老人ホーム-青葉台熟年物語

189.蕗の董

 今年は我が家の周りでも桜が咲き始めたのが例年より十日程遅い四月に入ってからであった。この傾向は全国的で、故里信州でも四月の下旬の満開になっているらしい。これも昨年の夏ごろから続いている天候異変に一つだろうか、気になるところである。

 ところで、春から初夏にかけては山菜のシーズンであり、この山菜というもの、私は例外なく好きである。取分け蕗の薹(とう)というのは最も好きな山菜の一つである。ただ、山菜というもの、料理方法といえば天ぷらにするか味噌和えにするかいたって素朴なもので、今風のグルメ志向にはあまり馴染まないものかもしれない。

 その中で蕗の薹は断然油味噌が好きである。蕗の薹を微塵に刻んで、油でさっといためたところに味噌と少々の調味料を加えただけのごく単純な料理である。これを料理といえるかどうか分からないが、これを熱いご飯に少量載せて食べるのが絶品で、ほんのりとした苦味と、春の香りがして、これを食べると春の到来の喜びを感じる。勿論、モロキュウにつけても、お握りにつけて焼きお握りにしても天下絶品である。

 ずいぶん安手の食べ物が好きだと思われるが、ここら辺りが田舎育ちの真骨頂かもしれない。私の子供の頃、先ず最初に春を告げるものは蕗の薹だった。まだ日影には雪の残る頃に、陽だまりの黒い土の中から鮮やかな萌黄色の蕗の薹が芽を出す。これを積んでくると母親が必ず蕗味噌を作ってくれた。

 ところでこの蕗という植物、いたって風変わりな植物である。通常目に付く大きな葉っぱとそれを支える茎の部分はあるが、いわゆる幹の部分は見えないと思っていたら、幹の部分は地下茎といって、地面の下にあるらしい。

 それならば葉っぱを支えている茎は何かといえば、葉柄と言う事で、我々はこの葉柄を食べていることになる。そして問題の蕗の薹は蕗の花ということになる。私の子供の頃は蕗という植物は極めてありふれた植物で、湿気の多い場所には何所にでも生えていた。

 したがって、それだけ親しみやすかったのであろう、蕗はいろいろに用途に使っていたような気がする。まず、この大きな葉っぱと葉柄を使って、山の湧水などを飲む場合に柄杓として利用していた。かすかに蕗の香りのする水を飲むと生き返ったような心地がした。

 この大きな葉っぱという特性を生かして、様々なものをつつむのに使っていて、珍しい昆虫などを捕まえた時は虫かごの代わりにも使ったが、カブトムシなどは大体帰るまでに逃げられていた。少し尾篭な話であるが、トイレットペーパーの代用にも使ったことがあるが、あまり拭き心地の良いものではなかった。

 ところが、最近NHKテレビで蕗を取り上げていて、それによると、蕗にはポリフェノールの一種、フキフェノールが含まれていて、活性酸素の働きを抑制する作用があるというのである。更に、ぺダーフェノールというのも含まれていて、なんと癌を予防する働きもあるというのだから凄い。加えて、フキノンというものも含まれていて、これがなんとアレルギー予防にもなるということで、良いとこだらけである。

 もっとも、今の段階では人体での確認は取れていないとのことであるが、そもそも、食べ物の中で、苦味とか、渋み、えぐみなどは通常の美味とは反対に位置するものだが、歳をとるに従い、こう言うものを欲するようになるのは、これらが体の中で不足するか、普段の美味飽食の反動だろうと勝手に思っている。

 ところで昨年北海道に行ったとき、大きくて、美味しそうな蕗がいたるところにふんだんに生えており、北海道には蕗を食べる習慣は無いのかと思い、泊まった宿で聞いた事がある。
 答えは「ある」ということだったが、それにしてはもったいない話で、本州では箸の太さほどのものであっても採ってしまい、先日スーパーで蕗の薹を買った時も親指の先ほどのものが八個入って300円だった。

 この堂々とした蕗を見ていると蕗の薹もさぞかし立派だろうと思うのだが、観光地などでもあまり蕗にまつわるみやげ物など無かった。多分、山のもので、海のものでも豊富な北海道では、蕗などという素朴なものはあまり省みられないのではないかと思っていた。

 これだけ良いとこだらけのものを捨てて置く手はないだろうと思って、場合によっては北海道に移転しても良いと思ったのであるが、其処はそれ、目をつける人もあるもので、私などののろまが考える前に事業として蕗の薹を採集して、食品として加工している人も居るようである。

 そのとき映像に出てきた北海道の蕗の薹を見ると正に手の平を広げたような大きさで、味もボリュ−ムもさぞかし豪快であろうとつくづく羨ましくなった。

 ところで、蕗の薹の別名として「蕗の爺」「蕗の姑」という言葉があるということだが、何れにせよ、爺にとっても婆にとっても蕗味噌でも舐め舐め、ひっそりと粗食に生きているほうがよいという先人の嗜めかもしれない。(05.04仏法僧)