サイバー老人ホーム-青葉台熟年物語

180.本 物

 尾形光琳の「紅白梅図屏風」と言う国宝がある。左側に白梅、右側に紅梅を描き、中央に川の流れを配した二曲一双の屏風図で、尾形光琳の最高傑作といわれ、小学校時代から時々教科書などでお目にかかってきた。

 この「紅白梅図屏風」は、金箔の押された地に、力強い筆致で描かれた左右の梅ノ木と、中央には現在でも通用するような斬新なデザインで川の流れが黒く描かれている。
 ところが、先月、NHKの「光琳 解き明かされた国宝の謎」と言う番組を見て、吃驚仰天、何と金箔の地と考えていた部分にも、金は殆ど使われていなかったと言うのである。

 子供の頃から見慣れた「紅白梅図屏風」の写真などには、紛れも無く金箔を押した四角い痕が残っており、おそらくこれを見た人すべてがそう思っていたのではなかろうか。

 NHKの番組によると、紛れも無く、これらは顔料を使って画いたもので、しかも、金箔と金箔が僅かに重なり合う状態まで、絶妙に画き上げていると言うのである。

 更に、中央の川の流れは画いたものでなく、布などの染付けに使われる型押しで描いたと言うのである。この調査に立ち会った学者や、高名な画家でも信じられないといっているので、私ごとき節穴が分かろうはずも無い。この作品、尾形光琳一人によって描かれたと言うよりか、琳派の総力を挙げて造られたものと言うことになる。

 この作品を指して、ある高名な学者が、「擬作」と評していた。「偽作」と言うのは聞いたことがあるが、「擬作」と言うのは聞いたことが無い。そこで早速、「擬作」というのを辞書で調べると、「本物に似せて作ること」と言うことで、一方、「偽作」とは「にせ物を作ること」と言うことであり、いずれにせよ本物ではないことになるのだろうか。

 しからば「紅白梅図屏風」の国宝としての地位はどうなるかということになるが、勿論、その価値をいささかなりとも失うものではない。「紅白梅図屏風」を似せて画いたものではなく、その中の金箔を似せて画いたということで、むしろ、その技術の確かさに舌を巻く思いである。

 ところで、話はガラッと変わり、近頃韓流などと称して、世は韓国ブームに沸いているようである。その発端はテレビドラマ「冬のソナタ」などがきっかけになっているようだが、残念ながらその時間帯まで起きていることができないのでまだ見たことが無い。

 テレビなどで見ていると、若い人達だけでなく、いい婆さんたちも夢中になっているようで、その姿を見るたびに「また取り残された」と言う忸怩たる思いをさせられている。
 しからば、なぜ今頃と言うことになるが、そこには韓国民族に根ざした韓国独自の文化への強い憧憬があるのではないかと勝手に思っている。

 我々が子供の頃、朝鮮とか朝鮮人という言葉には強い蔑称的な響きがあった。従って、在日朝鮮人の人達はそれを隠すために、日本名を名乗ったりしていた。勿論、その背景には日本の朝鮮支配という長い忌まわしい歴史があるのだが、その風潮を変換する大きなきっかけになったことがある。

 それは、中曽根内閣の時に、日韓双方の間では、名前や地名を呼ぶ際にそれぞれの国の呼び方とすることに決めたことである。それまでは韓国人であっても、日本式の呼び方にしていたが、韓国人は韓国式、日本人は日本式に改まったのである。

 考えてみればおかしな話で、明治時代には欧米人を漢字の当て字で呼んでいたようで、今でも米国、英国は依然としてその名残を残しているが、今の時代にそんなことが通用するはずも無い。

 この時から、日本人の中に韓国人を外国人という認識が生まれて来たのではないかと思っている。それまでは名前は日本人でも、「本物で無い日本人」、即ち擬日本人と言う意識が日本人の中にあり、それが朝鮮人蔑視の大きな要因になっていたのではないかとおもっている。

 強いては言えば朝鮮文化に対してすら擬日本文化という見方があったのではなかろうか。かつて、日本文化は朝鮮半島を経てもたらされたことは紛れも無い事実だが、いつしか日本の国力がそれを凌駕する時期があり、そこから二国間の不幸な歴史が始まる。その背景には七百年を超える李王朝の長い支配による文化の停滞が原因の一つであったかもしれない。

 ただ、朝鮮民族には長い時間に培われた民族意識があると言われ、それは「恨(ハン)」と「情(チョン)」と言う言葉で集約されるそうである。「恨」とは朝鮮民族が艱難辛苦に立ち向かう情念のようなものらしい。一方、「情」とは、その過程のおける喜怒哀楽の表現みたいなものらしいが、いずれにせよ一口で表現できるよなものではないようだ。

 基本的には儒教に根ざした民族意識が底流にあり、これに「恨」によって己を昇華させ、「情」の発揚となって、派朝鮮民族の精神構造を形作っているのではなかろうかと勝手に想像している。ただ、現役時代に交流のあった韓国の男性を見た場合、日本人に比べ常に堂々としていたが、それも一つの表れではないかと思っている。

 こうした民族の意識が長い間連綿として受け継がれ、今の韓国の人々の間に色濃く残っていて、そのことが、戦後、精神的な支柱を失った日本人にとっては、安心感と、たまらない魅力になっているのかもしれない。即ち、韓国文化は紛れも無い本物の文化であり、日本の場合はアメリカナイズされた擬アメリカ文化といえるのかもしれない。

 しからば、かつての日本固有の文化とはなんであったかといえば、それは「空」ではなかったかと思っている。この「空」というのも一言で言い表せるものではないが、卑近な言葉で言い表せば物に対する拘りを断ち切るということではないかと思っている。

 日本の文化というのは、良いつけ、悪いにつけ、武家社会の影響を受け継いでいるものであって、そこには物に対する拘りを極力排除して、精神を高めることに主眼が置かれて、すべてにわたって控えめというのが美徳とされてきた。今では余りお目にかからなくなった「清貧の思想」などはその名残かもしれない。

 戦後、アメリカ式民主主義の導入により、日本人の精神的支柱が失われた最大の理由は教育制度と家族制度の変化が最大の理由ではなかったかと思っている。この「空」の思想の中には強い自制心を求められており、近頃の物質文明全盛の中では物欲に埋もれた今の日本人には耐えられないのかもしれない。

 それにしても、好い歳をした婆さんまでが、一人の韓国人を徹夜で追い掛け回すとは、正に国辱的な現象であり、それにも増して、この親が育てた子供に未来を託すと思うと暗澹たる思いがする。

 この時期、「かっこいい〜」「可愛い〜」「面白〜い」で人間の価値を判断されるようでは、本物の良い男にも、良い女にも巡り合えないのではなかろうか。(04.12仏法僧)