サイバー老人ホーム

346.人任せ

 近頃、何事につけてとんと面白いことが無くなった。これが寄る年波の至らしめる結果であり仕方ないと云えばそれまでだが、だからと云ってお迎えがあるまでそのままでよいという事にはならない。

 そこで、薄れてきた記憶力を振り絞って一体なぜこうなったかつらつら考えてみた。身近なところで、衣食住のうち、最も身近な食はどうかと云うと、これがかれこれ十二年前に患った生活習慣病から抜け出すために、発病以来、努力、努力を重ねてきた結果、どうやら食に対する興味が無くなってしまったようである。

 そもそも、食指が動かされるものと云えば、だいたい制限食に決まっている。代表選手がアルコール類、次が最近スイートとよんでいる菓子類、そして濃厚な味を誇る肉料理である。これらはすべて制限食であり、これを制限すると、残るは野菜と、魚貝類である。
 魚貝類と云っても、高級なものはいずれも制限食に入っていて、残るは小魚か、青味魚である。唯一、制限が緩和されていると思っていた穀類が、最近は糖質制限と云うハードルに引っかかって極度に制限されるようになった。こうなると、食を楽しむなんてのは夢の外であり、食する行為すら興味を感じなくなって当然である。

 次が、衣である。こっちは食よりももっと深刻である。もっとも、これを深刻ととらえるかどうかは見る人の相違かもしれないが、食の場合はいくら興味がなくなったとは言え、喰わなければ死を待つ以外にはないから無理しても口にねじ込んでいる。

 ところが、衣については、興味がわかなかったら買う事も、見る事も、着る事も無いわけである。そもそも、衣と云うのは着るPTOと云うのがあって、その目的によって着たり、貼ったりすることになるが、肝心かなめの動く目的と云うのが殆んど無くなったので着る事も、買う事も無くなった。簡単に云えば着た切り雀でも、周りを気にしなければそれでよい事で、周りは薄汚い爺の服装など見る気もしないだろうから、最小限のよそ行きがあれば、目を鱗のように探し回らなくとも事足りる事になる。

 次が住であるが、こちらは生まれた時から不自由していて、今更慌てて、どうの、こうのと騒ぐほどのことは無いが、問題は最終的に御陀仏になった時、周りの身内に迷惑がかからねばよいと思って、始末しやすいように修理と手入れはそこそこに行い、取り分けエコ関係については力を入れてきた積りだ。尤も、肝心かなめの電力については、周りの環境は整っているが、肝心の懐環境が整わないので諦めていた。

 残るは文化面だが、これが問題で、日常生活の中で最も大きな比重を占めるテレビ鑑賞だが、面白味と云うのが全くと言っていいほどなくなった。そもそも、いったい何を見るかと云えば老人の定番であるニュース番組、次がスポーツ番組、そしてドラマと映画である。

 ニュース番組は、面白いか、面白くないかで制作するものではないので、面白くなくなったというのは世間の成り行きで、要は見る方のとらえ方の問題だろう。次のスポーツ番組だが、これが己の星の弱さが至らしむ結果か、私が贔屓にするチームや人が、すべてゴロ負けする。その代表選手が駄目トラで、来年こそプロ野球など断じて見ない事に決意を固めたのである、多分。

 そしてドラマ、これもかなりの期待感を持って見始めるが途中からだいたい諦める。ただ、今度のNHK朝ドラ「ごちそうさん」はかなりのめり込んでみている。大河ドラマ「八重の桜」もかなり興味を持って見ているが、問題は、高齢化による聴力の劣化と、加えて方言を良く聞き取れないという欠陥がある。

 尤も、バラエティ番組と云うのがあるが、過去に、貴乃花親方、野村監督夫人等のこの種番組の攻撃目標にされた時からこの種番組は一切見ない事にしている。

 前からかなりこだわっていた映画鑑賞だが、最近の映画はストーリーも時代も、国籍も分からないものが多くなった。加えて最近の映画は制作方法も変わったためか、むやみやたらに暴力物や、空想物が多くなった。

 考えてみると、最近の映画は漫画本からヒントを取っているのだろうか。時にはそういうものが有っても良いのかもしれないが、のべつ幕無しに暴力行為や、破壊行為に曝されると、いい加減食傷を起こし、もう少し真実性を見たくなるのも道理と云うものだろう。
 次が音楽番組で、これも面白味とか、感動と云うものが無くなった。尤も、こと音楽については、以前からこの「雑言」でも度々云っているが事だが典型的な「音楽的文盲」だから、内容の良し悪しなど論じる資格もない。ただ、時々カミさんと聞く演歌番組でも、最近の歌手とういうのは美空ひばり、三橋美智也、春日八郎時代と音の感覚が変わったのか音痴ばかりか、はたまた喉の酷使かと思う事も有るが、自分の音痴を棚に上げて小難しいことは別にして、音域と云うのが全体に狭くなったと思っている。

 最近、最も面白くもないと感じるものに政治番組である。とは申せ、もともと政治にそれほど関心があったわけではない。そもそも私が政治に関心を持ち出したのは第一次安保委闘争(昭和34年)の頃からである。当時夜学に通っていて、学校に行っても連日、アジ演説で勉強するなどと云う雰囲気ではなく、教授までもが、「今時代が変わろうとしている。よく世間を見つめておけ」などとアジる状態であった。あれから五十年、安保のアの字も聞かなくなった。

 尤も、あの頃安保体制に導いていたのは、今の内閣の安倍総理の叔父貴にあたる岸内閣だったろうか。その後、左右に振れる幾多の変遷を経てようやく民主党政権に変わったが、結果は、民主党政権のあの体たらく、今は全くの無関心派になって、今度の特別秘密法案など見向きもしない。寧ろ、ベ平蓮以降マスコミの横暴に聊か頭に来ていたので余計政治に対する関心が無くなったと云えるかもしれない。

 こうして見ると、私の生活は、自ら努力したものは知れたもので、大方は「人任せ」であったわけである。これで、面白い、面白くないなどとは甚だおこがましいわけで、面白くしたいというなら自分でやればよいだけであることにようやく気が付いた。それも、今の若僧たちに任せずに、老いは老いとしての活動を見つけ出せばよいわけである。

 まず、問題の食であるが、定年も間近の頃、先を見越してクッキングスクールに一年ほど通ったことがある。その後、殊勝にも食後の後片付けをしたことがあるが、生活習慣病で入院したため、必然的にやめてしまった。今になって、調理や、後片付けなどは無理だが、制限食のレシピを考える事ぐらいは出来そうである。

 生活の中で、生活の支えになるものとして手工芸と云うものがあり、私も下手な横好きで、様々なものに手を出した。現役の頃は陶芸と云うのに夢中になった時があったが、暇と、経済的な理由から、定年になったら始めようと思っているうちに体が動かなくなった。

 簡単な手作業は今でも続けているが、手工では左手一本しか使えないというのは致命的である。それでも、片手だけの油彩は復活させ、七十までは続けたが、体力はそこまでだった。最近、その頃のへたくそな作品を額縁に入れ、自分の部屋に掲げているが、これ結構楽しくて、それを描いた頃の事をしみじみと思い出すのも楽しみである。

 最近になって太陽光発電の専門業者の売込みがあり、話を聞いているうちにむらむらと欲望が燃え上がり、カミさんとの意見の相違をどの様に調整しようかと慎重に思案の最中である。勿論、これによって収益を上げようなどとは毛頭思わない。思わなければ可能性はかなり出てくるもので、次世代に対してせめてこの程度の環境保全の貢献するのも、用もなくなった老人の責務ではなかろうか。

 こうして、自分で出来ること探してみると結構有るかもしれないと考え、濡れ落ち葉か、テレビ前の置物から少し抜け出そうと、心に決めた次第である。(25.1.15仏法僧)