サイバー老人ホーム−青葉台熟年物語

119.貧者の一灯

 昨年6月に登録してある介護センターからの紹介で、特別養護老人ホームの入所者に絵を指導するボランティア活動を始めたことは、この雑言「カムバック」で紹介している。

 今年の2月に市の広報誌に「パソコンボランティア講師募集」の記事が載っていたので、早速応募したところ、驚いたのは14名の募集に対して83名の応募があったということである。結局、2倍の人員に広げ28名の「予定者」を選び、3月に2組に分けてその為の養成講座が開かれたのである。

 これが我が実力から見て幸いかどうかは分からないが、このメンバーの一人に加えられたのである。もともと高邁な奉仕精神など持ち合わせる柄でもないが、ここのところいささかボランティアづいている感じである。

 今までどちらかと言えばボランティア活動と言うものに対しては冷淡な方で、拒みはしないが積極的に参加すると言う方でもなかった。この傾向は私ばかりでなく、男の場合はある程度共通した感覚ではないかと思っている。
 尤も、男性の場合は女性と異なりボランティアに参加できる人というのは主に現役からリタイアした人が対象になり、その点、年齢と時間的に制約されるからこう言う結果になるのかもしれない。

 更に、今度のセミナーに参加者した一男性の発言で「ボランティア活動に対する戸惑い」と言う発言があったが、これが男性共通の感情かも知れない。そもそもボランティアとは、「自ら進んで社会事業などに参加する人」と言うことらしいが、なんとなく自ら進んで奉仕するほどの余裕があるわけでもなく、また篤志家モドキと見られることに男性特有のテレが有るからではないかと思っている。
 尤も、あまり肩に力をいれず、地域社会とのコミニケーションを主体とした「まあいいか」程度に考えるのがボランティア活動参加の極意で、賽銭箱に投げ入れた賽銭の額程度に身の丈であればよさそうである。

 それならば女性だって同じ筈であるが、大概のボランティア活動を見ても女性の参加者が圧倒的に多い。勿論、ボランティア活動の内容が女性向である場合は当然であるが、今度の選定にあたっても、男性がどれほど応募したかは分からないが女性16人に対して男性12人ということである。

 これは選択肢の多寡が原因ではないかと思うのである。この多寡と言うのは、やることが一杯あると言うことではない。何故やらないかと言う選択肢である。ボランティア活動であれ、仕事であれ、基本的には参加する人の能力が必要であるが、この場合の能力とは他と比較しての優劣と言うことではなく、単に出来るか否かと言うことである。

 そのボランティア活動に必要な最低限の知識・体力・技力があれば十分で、最近のボランティア活動を見れば男性の場合、ほぼ大方はどれかの能力を持ち合わせているはずである。それなのに参加者が少ないと言うことは選択肢が多すぎて、何もする気にならないのではないかと勝手に思っている。

 選択肢が多いと言うことは、最終的にボランティア活動に至る前に、何らかの選択肢に落ち着いてしまうと言うことになり、その中には面倒臭くなり、結局は「座敷豚」を決め込むことも含まれているのではないかと思っている。

 ただ、能力の行使に報酬が期待できる場合は別で、男性の場合は、長い間の報酬のための労働と言うことに慣れきってきて、労働の前提は報酬であると考えているふしが有ると思っている。

 その点、失礼ながら女性の場合は、家事と言う直接的には無報酬の労働に慣れきっていることがボランティア活動などに参加しやすい意識構造になっているのではないかとこれも勝手に考えている。

 ただ、報酬のための労働と言うのは当然のことながら年齢と言う選択肢で制限されることになる。定年を迎えたところで、そろそろ娑婆っ気と言うものを捨てて、人生の締めくくりを考えなければならないところであるが、未だ体力と言う選択肢が残っているのである。そんな事をするよりもしたいことがあるとばかり、自分に都合のよいことを漁りまくる。
 その結果として、生活習慣病だの、無理がたたっての足腰などの故障を背負い込むことになり、やがて全ての選択肢を閉ざされることになる。

 これは私が参加しているあるML仲間の書き込みから知ったことであるが、古代アテネの政治家のペリクレスと言う人の言葉で「私たちは公共の事柄とかかわりを持たない人を無益な人間と考える。我々の生き方は「参加」、即ち「関わり」を必要とするのだ」と言うことである。

 私の場合、ことさら体の障害を理由にしたり、されたくもないが、何もしないということは、間もなく人間の尊厳すら失うことになり、寂しさよりも恐怖感を覚えるのである。
 最後に残る選択肢は意欲だけであるが、幾ばくなりとも社会との関わりを持てるならもって銘すべしであり、どんなボランティア活動であれ、参加させていただけるのは生きる喜びに繋がるのである。

 昔から「貧者の一灯」と言う言葉があるが、広辞苑によると「貧者の、たとえわずかではあっても、真心のこもった寄進。至誠の貴ぶべきことにいう。」と言うことで、世の徳目の一つと言うことらしい。

 然らば、私のとって今度のボランティア活動は残された最後の選択肢であり、至誠と言うほど大げさでもないが、文字通り「貧者の一灯」と言うことになる。
 それにしても今度のパソコンボランティア講師28名の善意の人たちと、これからはじまる沢山の人達との新しい出会いに年甲斐も無く子供のように心弾むものがあるのである。(03.04仏法僧)