サイバー老人ホーム-青葉台熟年物語

166.秘め事

 某民放局に「新婚さんいらっしゃい」という番組がある。多少言い訳がましくなるが、取り分け好きな番組ということでもないが、日曜日の午後一時からといえば余り見たい番組もないので家内に付き合って時々見ている。

 内容は新婚夫婦をスタジオに呼んで出会いの馴れ初めや新婚生活について司会の桂三枝さんの面白おかしい突っ込みたいし、新婚夫婦が答えるという番組である。たぶんに番組製作者側のやらせを感じさせるが、それに臆することもなくしゃあしゃあと応じているところが、なんとも今風で面白い。ただ、面白いとは言え私の年代では正に目が点になるようなことの連続である。

 昔から誰でも秘め事といって、たとえ親でも、まして他人である夫婦の間でもじっと心の中にしまいこんでおくことがあった。その中には夫婦生活、取り分け性に関することなどは他人に対しては秘め事であったような気がする。

 勿論、のろけ話として冗談めかして話す場合も合ったが、だからといってあからさまにすべてを開けっぴろげにするなどということはなかったような気がする。その背景には羞恥心とか、はしたないという気持ちが働いていたはずで、これが日本人の美徳の一つとも言われ、この中には何らかの自制心が働いていた。

 ところが「新婚さん・・・」では見ているこちらが赤面するようなことを公共の電波を使って公開するわけで、その内容たるや信じがたいことがこの日本で起こっているのではないかと疑いたくなる。

 更に最近、インターネットのあるメグマガで紹介されたサイトを見てますます混乱してきた。若い女性が生々しい性描写を売り物にしているのである。勿論これにはネット社会ということもあって、自ら公開しない限り顔も素性も分からないことによるのかもしれないが、ただ、これらのサイトを見てみると、顔見知りの仲間も居るらしく、それらの人との赤裸々のやり取りまでしている。

 我々が若い頃にも猥談といって、この手の話は無くもなかったが、それはもっぱら酒席の事であって、それも男に限られていたようで、しかも一定の節度というものがあったような気がする。

 それが最近はテレビであってもサイトであっても女性のほうがはるかにどぎついようで、口に出すことも憚られるような内容である。なぜそうなったのか考えてみると、言い古されたことではあるが、戦後強くなったのは女性とストッキングなどといわれてきているが、その強さは今や性に関することに矛先が向けられているようである。

 それだけ女性にとって過去において性というものは閉鎖的であり、受動的なものであったものがどうやらその天井が抜けてしまったことにあるのかもしれない。

 然らばなぜ女性が斯くも文学的に変化?したのかと言うことになると、脳の働きというのは何かをしたいという欲望と、それを抑えようとする働きがあるそうである。
 その抑えようとする働きは脳の前頭野という所で発せられるそうであるが、成長期に高度成長による際限のない欲望の追及の結果、日本人の前頭野の働きが明らかに退化したのではないかと思っている。

 勿論、性に関しては男女に共通することであるが、女性の場合、長い間の忍従の習慣から開放された反動がより明確に出たのかもしれないが、それならば男はどうなのかと言えば基本的に動物の性であったということで他には何もなく、何億年前に四本足から人間が分かれた以前から変わっていないことになる。ただ、女性にしても男の本能を巧みに利用している節がある。

 勿論、今更女性だけに貞淑などということを押し付けようとは思わないが、それであってもいささか節操がなさ過ぎるのではないかと思うのである。
 昨年の暮れだったろうか、ある有名大学の学生が主催する合コンで女子学生が集団暴行されるという事件があったが、憎むべきは鬼畜にも劣る男子学生であるが、そうしたものに参加した女性側にも何らかの期待感が有ったのではないかと思っている。

 そもそも合コンというのがどのようなものかその実態は知らないが、我々の頃はコンパといえば同好の士が集まって乏しい資金を出し合い飲み会をするというもので、大人から見ればたわいない「若者のバカ騒ぎ」程度に思っていた。

 ところが最近の合コンとは、まったく関係のない人間が、そこには男女の新しい出会いを求めたものが多いらしく、この出会いの中で、水を飲むような安易な男女の交わりが行われていることは合コンに参加するものは大方知っているということである。

 その結果、運良く?適当な相手にめぐり合えるかもしれないが、一方で性の興味だけで、子供が生まれるという性行為の神聖な目的を忘れてしまったような子供にまつわる理解不能の事件がおきているのかもしれない。

 ただ、好きあったもの同士でも恋人生活と結婚生活とは根本から違うもので、結婚生活というのは自制と忍耐の積み重ねであり、良い点ばかりを見せ合った恋人生活とはわけが違う。

 この「雑言」で以前に取り上げた俵万智さんの「トリアングル」を地で行っているような女性が結構あるらしい。これもあるサイトの話であるが離婚歴のある女性が自ら「未婚の母」になる事を希望して妻子ある男性との間に子供を持つのであるが、そのときの理由が振るっている。「育児はせいぜい20年、そのために一生一人の男の世話をせねばならないなんて真っ平御免、その上、間が悪ければダンナの介護までさせられたら、なんで結婚までしなければならないか」ということである。

 すべての負担は女性側にのみに課せられると思っているのか、父親のない子供はどのように考えているか考えたことが有るのだろうか。
 結局、「トリアングル」のMのような男性の子供を生むのだが、子供の生まれた後のMはトドのように変身してしまう。どだい長い人生の中で毎日が晴天のような日が続くはずがなく、幸せなんてものは忍耐と自制を成し遂げた先に巡ってくるものである。

 ただ、これなどは子供をつくりたいという願望があってのことだから多少は救いようがあるが、「若いうちに稼げるだけ稼いで・・・」後は遊んで暮らすということで、口に出すことさえ憚るようなことをしている人もいるようだが、遊んで暮らすことがそれほど幸せと思っているのだろうか。

 勿論、これが世の女性の平均的考えとも思わないが、最近の子供にまつわる理解不能の事件を見るにつけ、こうした子供たちがその親たちを支える時代になった時、どのような報いを受けることになるのだろうか。
 今となってはどうしようもないことかもしれないが、結局秘め事を抱え込んだままおさらばする以外の道は無いということなのか、ねえ、田島陽子先生・・・。(04.07仏法僧)