サイバー老人ホーム-青葉台熟年物語

90.平凡の中の非凡

 世の役立たずの亭主をさして「濡れ落ち葉」という表現がある。最近テレビを見ていたらこれに「柱の番人」、更にお好みサイトで知ったのであるが「お座敷豚」という呼び方もあるらしい。何れも家庭にいてテレビにかじりついているか、一日中ごろごろしている役立たずの亭主のことで、誰が考えたか実に言いえて妙である。女性に「濡れ落ち葉」ということは聞いたことがないから男特有の症状かもしれない。

 この状態というのはご存知の通り、家庭において、カミさんの言うことに一向に従わないし、自ら率先してやろうともしない亭主の姿である。考えてみると私も多かれ少なかれこの傾向がなかったとはいえない。しからば世の男どもは何故こうした傾向がなるかと考えたが良く分からない。とにかくやる気が起きないのである。

 然らば全てのことにやる気がないかといえばそうではない。自分の好きなゴルフともなれば普段は蹴っ飛ばしても起きないのに、時間になればぴったっと目を覚まし、夜の明けきらないうちからごそごそと動き回り、時間になればいそいそと出かけてゆく。したがって疲労困憊して動けないと言うことではない。

 これを男の側からの心理で言えば面倒臭い、若しくは邪魔臭いと言うことになる。然らばこの面倒とはどう言うことかと広辞苑を引いてみたら、本来の意味は「目に無益を意味する「ダウナ」のダウをつけて、「目ダウ」即ち見るのも無益なことと言うことで、いくらなんでもここまでのことではない。従って最も近いのが、物事をするのが煩わしい、と言うことになるが、ここに「臭い」がつくと非常に面倒と言うことになるらしく間違っても「面倒臭いなあ!」などと言わぬことである。

 一方、関西でよく使われる邪魔臭いの邪魔とはどうかというと、「仏道修行を妨げるよこしまな悪魔」ということだが、まさか「濡れ落ち葉」を仏道修行と決め込んでいるわけではあるまい。尤もこれに「臭い」が付くと「感じられる」という意味だそうで、本人は結構仏道修行と思っているのかもしれない。

 然らば何故わずらわしいかといえば、自己の裁量権がないからである。この裁量権のない仕事を「ああしろ、こうしろ」と鼻面を持って引き回されるから煩わしくなるのである。ところが会社の仕事となると全てに裁量権を持っているのはオーナー会社の社長ぐらいなもので、大方は裁量権のない仕事を無理強いされているのである。無理強いされると自己抑制をすることになり、そこにストレスが溜まるのである。

 従って濡れ落ち葉を決め込んでいる亭主の姿は自己抑制の塊として、そこにへばりついていることになる。それならば、この塊をどう溶かすかといえば、裁量権を与えてやればよいのである。「犬の散歩して」「庭を掃いて」「掃除機ぐらいかけて」などと何ら裁量権の無い命令をしても動くはずがない。この手の命令は会社の仕事で辟易しているのである。更にもう一つは、こう言う仕事では達成感が無いのである。誰でもやれる、いつでもやれる仕事は達成感がないと考えているのである。

 そこで「犬の健康管理と教育」とか「庭の管理に関する年度計画」などと大風呂敷を広げて、それもある程度長期的に指示して後は放し飼いにしておくと、結構乗ってくるもので、こう言う仕事のさせられかたには案外に慣れているものである。

 ところで、私のように身体障害者になった場合はどうなるかといえば、これが不思議である。本来、否応無しに濡れ落ち葉になりそうであるが、これがならないのである。尤も、ここで濡れ落ち葉を決め込んでいたら、葉っぱどころか土に還ってしまうから、人間を辞めなければならないことになる。人間の体というのは不思議なもので、2週間動かさないと固まってしまうものらしい。これを廃用症候群という。

 但し、動き回るといってもそこは限度がある。裁量権を任されたから自由に動き回るというわけにはいかない。かといって、あれをやれ、これをやれでは人並み以上にストレスが溜まることになる。そこで考えたのが、日常生活で今まで出来なかった些細なこと、即ち日常の雑事でも小さな目標を立てて、それに挑戦するのである。それが可能になったとき、思わぬ達成感を味わえるのである。

 私の場合は右手が麻痺だから両手を使ってやることは出来ないが、片手で出来る領域を出来るだけ広げればよいのである。先ず、左手を利き腕にすることはこの雑言「リハビリテーション」で述べた。この左手を使ってする作業のうち、左手自身のことは難しい。例えば袖めくり、袖口のボタン留め、爪を切りなどである。

 何んだそんな事かなどという無かれ、これが毎日のようにあり、その都度家族に来てもらうのは自他共に以外に邪魔臭いのである。この他洗面、風呂、トイレ、食事などには殊のほかこの類のことが多い。嘘だと思ったら一度片手だけで顔を洗い、髭をそってみるが良い。切り傷の一つや二つは間違いの無いところである。更に、誰かの爪をきってみるが良い。これをぱちぱちと小気味よく切れたらあなたはかなり手馴れた介護者ということになる。
 
 考えてみると日常生活というのは、こうした面倒臭く、邪魔臭い平凡なことで成り立っており、これがごく当たり前の生活ということかもしれない。これらを嫌って、濡れ落ち葉を決め込むなんてのは罰当たりの所業で、自ら廃用症候群を求めているようなものであるある。

 ところが、体に障害がある場合、こうした平凡な動作でも非凡なものになる。しかし、工夫をすれば大概のことは出来るようになるから人間というものは不思議なものである。ここで大切なことは障害のあるからだの部分を忘れないことである。使わないと瞬く間にその存在すら忘れてしまう。手というのは不思議なもので、もてなくても添えるだけで動作はかなり楽になるのである。
 
 これらの日常の雑事を達成した時は、殊更喜びを感ずるから結構得をしたような気分になるから不思議である。更に、健常者であればごく当たり前のことであっても、障害者がその能力の中で全力を尽くしている姿というものは感動を与えるものらしい。

 この前、田舎で同級会があったとき、友人の一人が近くのお寺で貰ってきた書がある。誰の言葉か知らないが、「本気ですれば、大抵のことができる」「本気ですれば、何でもおもしろい」「本気ですれば、誰かが助けてくれる」ようである。(02.07仏法僧)