サイバー老人ホーム-青葉台熟年物語

26.初 恋

 人生はさまざまな人との出会いと、その時々の出来事の積み重ねである。ただ、その積み重ねの中で、それが恋であったかどうかは別として、初恋と言うのはいくつになっても心に残るものである。それが儚ければ儚いほどいつまでたっても色あせることがない。

 私がある女の子を初めて意識したのは小学校5年生の頃のことになる。ただ、これが初恋というかどうかは定かではない。何故なら私からその相手に対して意思表示をしたわけでもなく、彼女がとりわけ私を意識していたわけでもないからである。
 彼女は私が4年生の終わり頃に転校してきたように記憶している。当時はまだ戦後間もない頃で、彼女が疎開児童であったかどうかははっきりした記憶はないが、周りの女の子より垢抜けていて、転校してきたときから意識の中にあった。

 彼女とはその時から同じ敷地にある中学を終わるまで同じクラスであった。何処が好きかと言うと余りはっきりとはしないが、とにかく目元が優しかったのである。ただそれだけである。ところが、自分の思いを伝える言葉が喉まで出かかるのだが、どうしても口の外には出なかったのである。

 中学を卒業すると彼女は女学校に、私は男子校に進み、それでも通学列車の中で時々彼女の白いリボンのセーラー服姿を憧憬のまなざしで見かけることもあったが、とうとう卒業するまで声もかけられなかったのである。
 高校を卒業すると、私は東京に、彼女は両親の故郷である福島県いわき市(当時平市)に転居したと言うことを風の便りに聞いていた。

 それから25年以上の歳月が流れて、私が40代の半ばに、5年ほど福島県に単身赴任したことがあった。そんな夏のある休日、彼女が住んでいる、あるいは住んだことがあるいわき市にふと行って見たくなったのである。
 福島県の中通り地方(中央部)にある宿舎から夏井川渓谷の沿って2時間以上もかけていわき市に向かったのである。 そこで何があるわけでもなく、ただ、彼女が住んでいる(かもしれない)同じ土地に立って同じ空気を呼吸してみたい、なんて夢のようなことを初老の男が考えていたのであるからお笑いではあるが、本人はいたって真面目であったのである。

 結局、いわき市のはずれの蝉しぐれの降り注ぐ公園に立ち寄りしばらくそこで過ごし、そのまま帰ってきただけであった。それでも良かったのである。

 それからまた歳月は流れ、中学を卒業して43年目の、還暦をまもなく迎えようとする今から4年前に中学の同級会が何十年ぶりに山梨県で開かれたのである。 会場に出向いて受付をしていると後ろから私の肩をたたき名前を呼ぶ人がある。振り向いてみるとそこに一人の女性が立っていて、「私を覚えていますか」と声をかけてきたのである。
 見ると紛れもなくそこに昔の面影を残した彼女が立っていたのである。思わず年甲斐もなく「あなたに会いたかった」という言葉が素直に口から出たのである。その嬉しさは我が人生の中でも特筆すべき出会いの一つであったのである。

 勿論私も彼女も母校を遠く離れており、同級会であっても会えることなど微塵にも思ってはいなかったのである。それに今更会ったからと言ってどうなることではないが、私の人生の中でどうしても埋まらなかった思い出の空白がこの時、ようやく埋められたような安堵感がその言葉になって出たのである。

 彼女も歳相応に穏やかな老いを迎えていたが、昔のあの優しい目元は今も変わりはなかったのである。その夜、何人かの男どもと、彼女たちの部屋に行き、昔話に花を咲かせた時、初めて知ったのであるが、彼女はいわき市に越したのではなく、母方の里である内陸部の阿武隈台地に囲まれた小さな町に越していたのである。 

 しかもその町は仕事の関係があり、何度となく行き来していた町であり、もしかしたらお互いにすれ違っていたかも知れないのである。冬など寒風が吹き荒ぶあの町で、40数年間を過ごした彼女の人生と我が人生でもっとも熱く燃えた一時期に目に見えない交錯があったことを思うと、感慨はひとしおであり、人生の織り成す綾の不思議さをしみじみ感じたのである。

 ただこのことは我が愚妻に対する「マディソン郡の橋」かと言えばそうではない。多少言い訳じみるが、幼い時の思いはその時のまま凍結していて、それ以上の変化はない。いわば我が青春の頃の憧れの女性像として描いた吉永小百合さんに対する気持ちと同じである。多分そうである、と思っている。

 ただ困ったことは、このとき以来、私の記憶の中から彼女の幼い頃の面影が消えて、再会した日のイメージに置き換えられてしまったことである。勿論、そのことに失望しているわけではないが、ほろ苦い幼い頃の思い出がまた一つ消えてしまったことに一抹の寂しさも感じるのである。(00.6仏法僧)