サイバー老人ホーム−青葉台熟年物語

60.あの話の続き・・・

 先日東京にいた頃の旧い友人から電話がかかってきた。たまたま大阪に来たので会いたいという。彼、O田さんとは二十何年振りかの再会である。翌日待ち合わせの場所に出向き探していると私の昔の呼び名で呼ぶのである。改札口を出てくるO田さんの姿を見て懐かしさより先ず再会の喜びが噴出したのである。
 とにかく梅田に出てと言うことで、梅田の地下街の適当な店に入って再会を祝したのであるが、堅苦しい再会の挨拶などもなく、二十余年と言う歳月など全く意識しない不思議な再会だったのである。

 O田さんとの付き合いは、私が卒業後最初に入った会社での仕事仲間であるが、入社10年も過ぎた頃に分社化に伴うあるプロジェクトのメンバーとして本社に集められた時からである。そのプロジェクトは一部門のこととは言え、「社の100年の大計を立てるほどの大きなプロジェクトであったのである」と少なくとも集められた我々は考えていたのである。

 このプロジェクトには役職者以外では私とO田さんの他に、B場さん、I葉さんがいたが自己表現の少ないI葉さんとはあまり深い付き合いはなかったが、他の3人は文字通り寝食を忘れてと言いたいのだが、よく飲みよく遊びながらも夢中になってこのプロジェクトに取り組んだのである。この当時、このプロジェクトを率いたのは実力者のK村さんであったが、K村さんの後ろ盾の下に関連する部門との間でかなり際どい折衝を続けてこのプロジェクトの完遂をめざして進めていたのである。

 ところが我々にとって不運だったのは強力なバックボ−ンであったK村さんが1年余りで工場に転勤になってしまったのである。それとともに我々に追い風であった今までの流れが一変して一気に逆風に変わってしまったのである。プロジェクトはその後間もなく終息に向かい、単なる報告事項として幕を閉じたのである。

 その後、このプロジェクトに参加した我々にとってかなり過酷な人生となるのであるが、その一因はこのプロジェクトに参加するときのいきさつにたいする認識の食い違いがあったのかもしれない。このプロジェクトを始めるに当たり、どのような人選の基準があったのかは今となっては知る由もないが、当時のメンバーは二三の例外があったが、全て各地の工場に勤務していたものであったのである。

 当時の我々としては不遜にも「選ばれた」者の意識があったのである。事実、その後永い年月の経過とともにこの時のメンバーの中から二人の上司が社長に次ぐ位置にまで到達したのであるから、あながち思い上がりばかりではなかったような気がするのである。

 少なくとも我々4人の中でも私如き野人を除いて、他の3人は出自、学歴とも申し分がなく、取り分けO田さんなどはおおらかな人柄で、将来経営陣の一角を担われることが約束されているかと思われるほどの人材だったと思っていたのである。ただ「選ばれた」か「はみ出した」かは紙一重であって、その処遇は格段に違うのは当然であるが、本人の意識にずれがあった場合は感じ方に月とスッポンほどの落差が出てくるものである。

 その後はごく常識的な方針のもとに分社化と業務の運営が行われ、我々もその中に組み入れられ、何年か経過したのである。
 やがて我々の属する部門にY国さんが役員であり、且つ部門の長として親会社から赴任されて来られたのである。Y国さんも優れた管理者で特に社員教育については一家言を持って居られる方であったのである。我々もその中で殊のほか厳しくしつけられ、中でもY国さんの指導理念には優勝劣敗の原則が強く押し出されていたような気がする。

 O田さんに言わせれば「君を鍛えそこなったと言われたY国さんはビジネスライクな合理的な判断と教育(鍛える)の両面を備えた厳しい人物であった。優秀で合理的な面をもつ彼は当時の村社会的ビジネス環境から疎まれた面がある反面、自分の思想を貫く厳しさのあまり部下に悲劇を生む芽を内包していたのかもしれない。」

 間もなく私は敗者として社を去ることになるが、その日はあの過激派による丸の内爆破の日であったのである。その30分前にあの場所で別れの挨拶をして回った殊更暑い夏の日であったのである。

 私が去って、何年か後にB場さんが親会社の工場に管理職として転勤することになったのである。これ自体は栄転であり、喜ばしいことであったが、B場さんの場合、東京を離れて地方に永住できない家庭の事情があったと聞いている。転勤後、あまり日を経ないでB場さんは自ら命を絶ってしまったのである。
 B場さんからの最後の年賀状に「一献交わしたし」と添え書きがしてあったが、もしこの時B場に会っていたならばB場さんの悩みの一端でも支えることができたかも知れないと思うと今でも悔やみきれないのである。

 O田さんは「B場さんとは仕事外でもテニス、スキーを共にし気心も通じ、皆と少し違う仲間意識があったような気がする。」
 「亡くなる数週間前に社に来た時に一杯やりましょうと誘ったが「又にしたい」と忙しいようであった。少し疲れていたようではあったが、彼は弱そうに見えても打たれ強い性格と思っていたので気にも留めなかった。私は人の心を思いやる繊細さは今でも欠けるが、彼の心がそこまで追い詰められていることを見抜けず、また人の心の弱さを知らなかったことに対し忸怩たる思いが今も残る。」と述懐しているのである。

 O田さんはその後、どちらかと言えば不本意な亜流を歩かれたのであるが、思えば青雲の志を持って集まった3人であったが、その後に待ち受けていた人生は言葉には表せないあまりにも予想だにしない変遷が待ち受けていたのである。Y国さんはその後、傍系の会社の役員などを勤められたが、今の時代としては早過ぎる年齢で病没されたのである。

 O田さんがかつて主張した「(財閥)マーク使用反対(親方日の丸思想)、技術者の良心のない製品(コストダウンのやりすぎ)は出すな等々吼えた時期がありましたが、小賢い連中には耳を貸す人が全くいなかった。
 このこのことが後にセクハラ、株主総会、クレーム問題と立て続けに一企業内に留まらない大きな社会問題を引き起こすことになり、経営不振による合理化により、一般社員は悲惨な運命に向かうことになるが、その責を負うべき当事者、責任者の殆どは処分されていない。」と手厳しい。

 更に「古い体質の政治や官僚の世界ですらも年功序列やキャリヤ組の不合理な扱に変化の兆しがでてきた。社は永年にわたり優秀なビジネスマンの評価を誤り、古い体質を残し構造改革・近代化が最も遅れた企業になってしまった」というのである。
 また「貴殿のストーリーに登場する優秀なビジネスマン(?)達は登場時期が早すぎ、正当な評価を受けられなかったことが共通の問題点ではないか」と結んでいる。
 社の現状を見るにつけ、今となってはあの頃の考えを聞くすべもないが、Y国さんの求めた優秀な人材とは何であったのだろうかと思うのである。

 O田さんに再開したあの日、殊更この事に話題が集まったわけではないが、二十余年の歳月など一気に吹き飛んで、私たちにとって、あの日、あの時に時計は止まり、あの話の続きが未だ終わっていなかったのである。(「 」内はO田さんのコメントによる)(01.05仏法僧)