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285.御用だ!4

285.御用だ!4
 次に、関八州以外の我が故郷の場合はどうであったかと言うと、支配は勘定奉行である事は同じであるが、支配地に陣屋と言うのを置いていたのである。

 我が故郷に残る大正八年編纂の「南佐久郡志」によると、「天領では各地に陣屋を設け、代官置いてこれを支配せしむ。代官は普段江戸に住し、年に一二回陣屋に出張するのみ」と書かれている。

 しかし、「幕府は代官をして、元締、手代、手附と称する武士数人と、足軽数人を率いて陣屋に居らしめ、訟獄を聴断し、租税を徴収し、兼ねて領内謦保の事に従へり警保の事は、手代中に出回り方と称するものあり、時々領内を巡視し、且つ領内の門閥高く声望あるものに郡内取り締まりを命じたり。陣屋所在地に触れ方を置き、諸令を領内名主に伝達せしむ」と云うことである。

 即ち、代官とは村々などには滅多に来ず、陣屋での実質支配者は元締めであり、専ら手代と手下が村々を巡回し、村の年貢の徴収や治安を維持していたと言う事である。

 ところが、我が故郷に残る、前出の「代吉日記帳」の寛政十年四月一日の条に、「蓑笠之助様御手代、大木伍六郎様海尻村問屋御着き遊ばれ、当村より海尻まで五カ村分ご祝儀として当村分壱分差上げ申し候」と書かれている。

 この蓑笠之助氏(うじ)、この時より三年前の寛政七年から文化元年まで代官を勤めた人である。

 面白いのは、代官ともあろうものが、大木伍六郎と言う部下一人を引きつれて、陣屋より三十キロも離れた山村まで廻村していたと言う事で、一般に言われる所の「お代官様」とは大分違ったイメージである。

 しかもこの蓑笠之助殿、文化元年(1804)九月には、「馬流村(現小海町)御泊りにて金子五十両、原山本屋え御返し遊ばされ候、勿論利無し」と書かれていて、代官時代、何かの理由で五十両の借金をし、わざわざ返しに来たけど利息はなかったと言う事だが、ここであえて「勿論」と付けた所がいかにもせこい話である。

 それというのも、この御仁、二ヵ月後の十一月には、「蓑笠之助様より、恩田新八郎様御支配御引渡し」となっており、立つ鳥跡を濁さずと言うところだったのだろうか。
然らば、村ではどの様な人間が村を支配していたかと言うと、御存知名主・組頭・百姓代・五人組などの村役人と云うことになる。

 前出の、「大吉日々覚え帳」よると、寛政十年から天保十年までの四十一年間に、我が故郷で起きた刑事事件は四十一件である。もっとも、これは我が村以外の近隣何カ村を含めたもので、当時の組合村だったのだろう。

 この中で最も多いのが、今でいう窃盗、すなわち盗みで十八件である。次いで、盗みのうちに入るが、「野荒し」が五件である。この野荒しとは、田畑の作物を荒らしたり、盗んだりすることで、天保八年の凶作の時に三件発生しており、その中身はまだ取り入れの終わっていない粟や、稗などの穂を切り取る「穂切り」であり、中には、「天保八年九月三日、鎰掛村勇左衛門、原にて大根盗み取り四日高札場へ晒し候由」などと云うのがある。

 当時の食糧事情がどのようなものであったか思いを致すに、盗る方も、盗られる方もそれぞれ命がけであったのだろう。


 ちなみに、我が祖先たちの名誉のために敢えて弁解しておけば、事件の加害者がすべて我が故郷の村人というわけではなく、窃盗事件として記録されているものと云うことである。

 更に、その内容は、「夜明け前八右衛門、弥曾八庭の薪盗み取り候所名主清兵衛に見付かり甚だ相詫びに付き其の侭に致し候」とか、「天保八年四月二十日頃蕨売り下り行き、帰りの節鎰掛小次郎、与五左衛門の鍋を盗み十九日に半右衛門並びに与五右衛門参り取り返し候也」などと些細なものが多く、今なら事件として取り上げるか疑問の事件が多い。
 次が、今でいう殺人事件が三件発生しているが、このうち二件は村内で死体が見つかったという事件で、残り一件は、「天保五年七月二十一日、海の口村(南牧村)湯沢にて同村彦右衛門倅代巳と申す者二十五歳にて臼田(佐久市)無宿代七と申す者に切り殺され、右代七二十四日に御影(陣屋)へ御引き取り遊ばされ候」と云うことである。

 続いて、「追い剥ぎ」が二件、「暴行」が二件である。この追い剥ぎは、文化十四年九月二日、当村の一人が字糠沢と云うところで追い剥ぎに会い、金一朱を奪われた。

 「それより段々おいはぎ出御影御役所に御届申し上げ候ところ、御役人向嶋愛三と申す人手下五・六人も引き連れ、九月十六日馬流(小海町)□□屋の前にて三人御召し取りに成られ、外に一人逃れる」という事件である。

 また、「暴行」は、「文化九年一月十四日、西馬流村朝蔵の子並びに野沢安平衛倅、右二人土村にて打擲に会い御影御役人並びに岩村田御役人二人お出で遊ばされ候」と云うことで、どのような発端であったか分からない。そのほかには、別掲「不義密通」に記載の、婦女暴行事件三件と、勾引事件が一件である。

 この勾引事件は、「天保九年正月二十七日、東馬流村源左衛門娘、同村伊右衛門倅に連れ出され候、弥左衛門娘も同日同断」と書かれている。もともと、勾引とは、かどわかし(誘拐)のことで、これがかどわかしであったかどうかは分からない。

 この四十一年間を、五年ごとの事件の発生をみると、最初の五年間は三件、次も三件、次の文化六年から文化十年までは八件、次の文政十一年までの十五年間は、毎五年ごとに各一件、そして文政十二年から天保四年までは二件であったが、天保五年から天保九年には一気に十五件に増加している。

 勾引はその中の一件であり、未曽有の凶作の中で、親子供に生き抜くための究極の選択として、人身売買が行われたのではなかろうか。この間は、盗みや野荒しが多発しており、前代未聞の凶作の中で、村民の窮乏は目に余るものであったのだろう(別掲「凶作」参照)

 これらの事件の処理として、御影御役所(佐久市)などの役人の手を借りたのは、傷害などの重罪九件だけで、そのほかは各村での村役人の手によって処理されている。

 尤も、全てがこのような形で処理されたわけではなく、摂州(大坂)にて仰天するような事件が起きている。

 それによると「昨戌(嘉永三年)我ら所持の土蔵にて、衣類四十品余り紛失仕り候に付き、早速易者に占わせ候処、盗人は手近の者の仕業の吉申し候間、氏神にて御籤を上げ見候処、居村忠兵衛と上り候故、又また処々方々にて占わせ候得共、矢張り同人の由申し候」と云うのである。結局、忠兵衛なるものが、一切覚えなしと主張し、無罪放免になったということだが、今でいう冤罪その物のような取り扱いも行われていたのだろう。

 ところで村役人には、名主一名と、数名の組頭、百姓代がいたが、定役と年番制の場合がある。

 我が故郷の場合、「元和年間より元禄十三年迄は定名主をして村事一切の事務取り扱いを為したり、村夫銭勘定については惣百姓代立て割り付けを為したり。元禄十四年より年番名主と成りたるに依り、五人を以って一人宛て年番に名主役を相勤め、組頭役を五人、百姓代一人を置きて御上納及び村夫銭割り其の他村事に関する一切を名主・組頭・百姓代寄合に手取り決めたる事」となったという記録があり、明治以降、近村との合併により戸長(村長)が置かれるようになったが、私が子供の頃でも江戸時代の風習は引き継がれていた。

 戸数わずか五十軒足らずの僻村であったが、数多く残された古文書を垣間見ると村役たちは命を賭して村人の生命と財産の保持に努めてきたことがうかがわれる。

 日本は敗戦によってアメリカからもたらされた民主主義によって、多くの自由を得た。その結果、昭和三十年代後半より高度経済成長の波に乗り、やがて核家族化が進み伝統的な家族制度が崩壊していく。

 これに伴うように、列島改造の波が押し寄せ、全国各地に新興住宅が出現し、国民すべてが文化的住宅の取得を人生の夢と感じるようになる。

 一方、取り残された農山村では、若者の姿が消え、かつては大多数の生活のよりどころであった農地等の荒廃が進んだ。

 かつては、名主等の村役人に守られてきたこうした山村は、人間の住む最小単位である自治組織すら支える事の出来ない限界集落となって行った。

 一方、かつてはサラリーマンにとって高根の花であり、憧れのマイホームであった新興住宅は、世代替わりの時期を迎え、人間関係は一層希薄となった。そしてコミュニティ機能の低下により、取り残された住人たちは、かつて身をもって演じた核家族化の悲哀を味わうことになる。

 その結果、近頃は、こうした新興住宅ではコミュニティのよりどころであった自治会の会長はおろか、役員になろうと云う者もいない。寧ろ自治会を辞めると云う者まで現れている。

 何年か前に、オウム真理教と云う新興宗教により、多くの犠牲者が出たことは記憶に新しいことであるが、若し悪意を持って自治会を利用しようとしたら、これを防ぐべき手立てはない。

 今更「五人組」を復活させろと言っても始まらないが、豊かさゆえに何でも行政任せにしてきた結果、最近の地域内での犯罪の多発に対し、これから行政・住民双方では一体どのように対処したらよいのだろうか。

江戸時代「武士の生活」:進士慶幹編・雄山閣
守貞謾稿「近世風俗志」:喜多川守貞著・宇佐美英機・岩波文庫
江戸繁昌記:寺門聖軒著・朝倉治彦・安藤菊二校注