サイバー老人ホーム

284.御用だ!3

 江戸時代、罪人を捕えたら小伝馬町の牢に送り込んで、などと思われがちであるが、実際はまず自身番に拘留され、次が大番屋に送られる。そして小伝馬町送りと成ると可なりの重罪で、ほぼ御仕置が確定し、ここで御奉行が片肌脱いで大見得を切るなどと言うことは無かった様である。

 江戸時代には、今の日本橋堀留町当たりまで掘割が入っていて、小伝馬町につながれた罪人はこの掘割で船に乗せられて島流しになったのであろう。日本橋函崎町近くに永久橋と言うのがあり、遠島者の家族などはこの橋の上で永の別れを惜しんだのかもしれない。
 「江戸名所図会」を見ると、町々の境には木戸と云うのがあり、木戸は夜の四ツ刻(午後十時)頃に閉鎖され、遅れた場合でも簡単な諮問を受けてそこの潜り戸を通っていたようである。

 この木戸を守るのを木戸番といい、通称番太郎と云っていた。その際には必ず拍子木を打って、次の木戸に通行人が向かうことを知らせた(これを送り拍子という)。つまり江戸の町では、身元の知れた者でない限り、夜歩きなど出来なかったのである。

 「守貞満稿」によると、「これまた専ら阡陌にありこれを衛(まも)る夫を番人、俗には番太郎と言う。多く北国産の人多し。御成りある事(将軍の御成り)、その他府命あること、あるいは水道普請水切れの事、御免勧化来るべき事などは、鉄棒引きて町中にこれを知らせ、夜は拍子木を打ちて六時(むつとき)を報じ、その他総て町内の雑事を職とする」と言う大変な家業があったわけである。

 この中で、「御免勧化」とは、仏の教えを広めたり、寺社・仏像などの建造・修復のため寄付を集めることで、幕府の許可を得て行うと言う事である。

 「この番屋、広さ九尺に一間を定制しと言えども、庇に矯(まげ)て九尺二間ばかりなること自身番と同じ。けだし番人は私宅別に之無く、皆妻子とも番小屋に住みて、飯もここに炊きて食すなり」と今で言う在宅勤務と言うことになる。
ただ、これだけの重労働で幕府からお手当てを頂いていたわけでなく、町の費用から手当が支払われていたと言う事であるが、これだけでは生活が成り立たない。

 そこで、「この番小屋にて草履・草鞋・箒の類・鼻紙・蝋燭・瓦・火鉢の類」を売り、このため草履・草鞋は店にて売るものは甚だ稀であったと言うことである。

 更に、冬になると、「焼き芋、薩摩芋丸焼きにし、夏は金魚なども売る。また常に麁菓子(駄菓子)一つ価四文なるものを売る」、この菓子を俗に番太郎菓子と言ったと言う事である。

 喜多川守貞より三十年ほど早い町儒者寺門静軒の「江戸繁昌記」によると、「煨(わい)薯(しょ)(さつまいも)」という一章があり、「今即ち、八百八街各路の番所、皆此れを焼きて之を売るもの、必ず招牌(看板)を掲げて此の三字を書す」、三字とは栗(九里)より少し下がって「八里半」美味いと云うことである。即ち、番太郎は住む家と、小商いを保証する事で、この過酷な家業を引き受けていたと言う事である。

 ここまでは江戸市中、即ち町方の防犯体制であるが、いわゆる我が故郷のような在方はどうであったかと言うと、支配によって異なっていた。

 即ち、江戸八百八町は町奉行の支配下におかれていたが、いわゆる関八州といわれる幕府御膝元においては、勘定奉行支配下にあったのである。ちなみに、関八州とは野州(下野、)上野、常州(常陸)、武州(武蔵)、房州(安房)、上総、下総、相州(相模)を指す。

 勘定奉行は、町奉行と同様老中支配下にあって幕府勘定方の最高責任者で、財政を扱う勝手方で、直轄領(天領)の民生と幕府の財政を統括し、更に関八州の天領・私領の訴訟をも受理した。

 勘定奉行は、寺社奉行・町奉行とともに三奉行の一つで、共に幕府最高協議機関の評定所を構成したということである。旗本から選ばれた総員四名、役高は三千石で、神田橋外、虎ノ門外、小石川門外、小川町に役宅があった。

 評定所においては、関八州内や江戸府外の訴訟について担当し、郡代・代官・蔵奉行などを支配したということである。

 この中の代官と言うのが直接我が故郷を管理していたのであるが、世に言うところの「悪代官が云々」など言うのはあたらない。この代官と言うのは、江戸私邸が代官所になっていて、ここで様々の御仕置をするなどと言うことはない。

 関八州の場合、代官所から送られる佐藤雅美さん描く所の、「八州廻り出役桑山又兵衛」の活躍する所になる。

 この代官の下に夫々の支配地に陣屋と言うものを置いていたのである。ただ、代官の支配所は五万石から十万石の領地をわずかの属僚で支配するわけで、徴税業務に追われ、警察業務にまで手がまわりかねていた。もともと代官の主務は徴税、つまり年貢の取り立てであって、悪人を何人捕らえたところで点数稼ぎにはならない。

 いきおい、警察業務はおろそかにならざるを得ない。その上、関八州は天領・大名領(私領)が入り組み、統一した犯罪捜査ができず、犯罪者が逃げ込むのに好都合な立地条件でもあった。

 「桑山十兵衛」によると、当初、四人の八州廻り出役配下の手附・手代から二名ずつ計八人で巡邏隊を構成し、各一人ずつが指定の地区を巡回する決まりである。ただし、その後増員が図られ、創設してから十年後には、定員は十人で、巡回先も決まっておらず、各八州廻りが江戸へ戻ってくると、次の巡回先などを計画し、それを上司の留役に報告して出かけたようである。

 出役には、雇足軽二人、小者一人、道案内二人がつき、計六人が基本的な構成メンバーであったと言う事である。

 廻村の期間は凡そ四、五十日程経ったらいったん江戸に戻り、帰着届けを出し、係りの留役に廻村の経緯書を提出した。留役は連絡事項や注意事項を言い渡し、必要があれば江戸に戻っている八州廻りとの宅寄合、あるいは廻村している八州廻りへの廻状の送付を命じたりした。

 ところで、この出役の権威であるが、地方を徘徊する無宿者や前科者にとっては鬼より怖い存在で、町方同心より低い地位にありながら、与力・同心以上の者しか手にできない銀磨きに唐草彫り、紫か浅葱(あさぎ)の紐に同色の房付きの十手と言う権威のシンボルを八州廻りはちらつかせて関八州を肩で風を切って渡り歩いていたというのである。

 この頃、在方でも素人賭博が盛んで、これらの現場を押さえた場合は叩き以下の場合は出先で即決、抵抗する者はその場で討ち捨てることができたと言う厳しさである。

 更に無宿者は、有無を言わさず取り押さえ、犯罪容疑の濃い者は江戸送りにした。この場合の、仮設の牢用の囲いや、江戸送り囚人用の駕籠(唐丸駕籠)製作費、また送るための費用はすべてその村が負担したと言う事である。

 もっともこのくらいの厳しさでないと、広い関八州を高々十人位の出役だけで押さえられるはずもない。(10.04仏法僧)