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282.御用だ!2

 更に、江戸の町では町奉行の支配体制の中に惣町年寄りと言うのがあった。この惣町年寄と言うのは町奉行の下に属し、樽屋・奈良屋・喜多村の三家が代々世襲していた。

 惣町年寄の成立は、大阪の陣以降と考えられ、職務は、御触・指令の伝達、名主の進退、株仲間の統制などと言うことであったと言う事である。

 お馴染み、「守貞満稿」によると、「樽屋籐右衛門、本姓水野氏、戦場に酒樽を献じ、遂に府命(幕府の命令)にて族称を改む。また東三十三カ国に枡を売ることを許し、他にこれを売る事を禁ず」と言うことである(別掲「年貢の納め時」参照)。

 「館市右衛門はその先奈良人故に今も奈良屋と称す。平日出仕には一刀肩衣なり」となっているが、もともとは江戸初期の材木商で初代は茂左衛門で、江戸の町を開く上で功績があったのだろう。

 ただ、「酉(元禄六年(1693))八月十九日、奈良屋市右衛門殿へ召し呼ばれ仰せ渡され候は、頃日(きょうじつ=近頃)釣り船多く出候。家業に致し候漁人は格別、慰みに釣り致し候者、向後で候はヾ御捕り成らるべき旨仰せ付けられ候間、堅く停止に仕るべき候云々」と言う文書が残っていて、趣味の釣を禁じており、町奉行の配下にあって、この手の事をしていたことが伺える。

 この、樽屋、奈良屋、喜多村三家の御屋敷は、江戸古図面によると江戸時代のメインストリート、江戸城常盤橋を渡って浅草両国橋に抜ける本丁通り右手に広大な屋敷地を持ち立ち並んでいる。

 ただ、実際の江戸の町政は、町年寄の下につく町名主によっていたということである。「守貞満稿」によると、「坊長(町名主)を言うなり。京阪の年寄同じき職なれど、京阪は世職にあらず、江戸は世職にて他業なきなり。京阪は一町一人なり、江戸名主は三、五町に一人おく、今世、江戸町数一千六百四十一町、名主二百八十四人にしてこれを掌る」
 この坊長とは「律令制度坊令の下にあって、坊内(町内)の監督・検察・収税の任に当たったもの」ということで、町の戸口の管理、治安の維持、徴税の徹底などの任に当たった役職と言うことである。

 「名主は支配地の衆地主より役料を納めて費えに供す。またこの課金の外に、大小戸より訴訟などあるものは謝金を送るの類みな役得と名付く」

 江戸時代、基本的には土地はすべて将軍から借りていると言う事になっていた。この名主は、町方も在方も奉行所などに出る場合は、肩衣を着す事になっていて、このことが身分を明かす重要なポイントだったので、しばしば騒動を起こしている。

 更に、名主の下に家主が居り、「地主の地面を支配し、地代・店賃を店子より集めて地主に納め、公用・町用を勤め、自身番所に出て非常を守るを職」としていて、この家主が、「江戸惣じて二万零一百十七人」居たと言うことである。

 江戸時代、江戸市民の八割は長屋住まいだったといわれ、その多くは町地に建てられていたが、幕末に至るに従い、大名も、旗本も懐具合が悪くなり、広大な武家地の一部を町人に貸し与えてその地代により辛うじて生計を維持していたと言う事である。

 そして、その土地に家を建てたものを家主と言い、この長屋を管理するものを大家と呼ばれていたのである。
 
 この大家は、店子と呼ばれる借家人の一切を管理して、よく聞く話に、「大家と言えば親も同然」であり、大家は店子の生国は勿論、商売・宗教などを掌握し、身元保証人無き者には貸してはならず、店子の出入りは人別帳(宗門帳)として厳重に管理していた。

 更に店子は、向う三軒両隣で五人組を組織し、お互いに助け合うと同時に間違いが置きないよう連帯責任で監視しあっていたと言う事である。

 「守貞満稿」によると、この町を監視する自身番と云うのが、「毎町阡陌にあり。広さ九尺に二間を定制とすれども、今は庇に矯(ため)げて二間に三間ばかりもあり」とある。この阡陌とは東西南北に交差している交差している道、即ち街角に設置していたのである。

 自身番は町内の町会所兼警防団詰所のような所であり、岡ッ引は町内の自治制には認められていないのが建前であり、犯人が連行された折に岡ッ引が一緒に入ってくることはあっても、ここが岡ッ引の溜り場ではなかった。

 自身番は町役人の詰めるところで、言うなれば役所の派出所のようなところで、一町に一ヶ所であるが町数が増えたので二、三町で共同の自身番を設け、三百ヶ所程度であったと言う事である。

 自身番では犯人を一時留置したり、取り調べたり、また夜の警戒をするなどというのが自身番の仕事ではなく、事務上の事が主なものであった。

 自身番では書役を使って三年間毎に提出する人口統計、町入用の割付の計算、人別帳の整備、奉行所からの書類の受付などをすると言うのが主な仕事であった。

 自身番に立寄る役人は町奉行所の定町廻同心だけでなく、町会所掛り、赦帳選要(赦免願い)人別調掛同心、町年寄などがあり、また遠国から尋ねて来る者で、今でいう交番のような役割もあったのだろう。

 そして、書役は地主から月に五貫七百文の給料をもらっていたとなっているが、一節によると書役だけは幕府から年に一両ないし二両の手当てを貰ったと言う事になっている。

 ところで、もし町内に事件が起きた場合、家主の叱責注意で済まぬ時は、自身番から名主に届け、それでも済まぬ時は町奉行所に届け出ると言うことになっていた。

 刑事犯罪の場合は、町奉行所に届けて定町廻同心に来てもらい犯人を捕らえて自身番に連行して一応取り調べると言う事である。

 自身番は、町内家主が常に交代でこれを守り、時により会合を開いたりしていたと言う事で、「官の下吏(下っ端役人)追補の罪人、まづここに繋ぎて罪状を問ひ」と言うことである。

 ただ、町人はお互いの連帯責任から高い道徳意識を持っていたと言われるが、中には無宿者として流れ込んできたり、不届き者が跡を絶たなかった。

 従って、九尺二間の狭い家にこれらを収容できるはずもない。そこで出現したのが、佐藤雅美さん描く所の、「縮尻鏡三郎」の活躍する「大番屋」である。
この「大番屋」とは、江戸市民が建てた施設で、江戸市中には何箇所かあったそうだが、
 江戸古地図に萱場町の大番屋と言うのがある。大番屋では参考人を呼んで本格的に取り調べ、一日で終わらない場合は大番屋にある留置所に留置いたと言う事である。

 罪が確定すると町奉行所に書類を提出して入牢証文を請求し、手附同心が証文を作り吟味方与力が書類を審査し問題がなければ交付した。

 夜中でも急ぐ場合は交付し、重罪犯人は証文が交付される前はひとまず奉行所の仮牢に入れられ、交付されると小伝馬町の牢屋敷送りとなる。更に入牢の際に、もう一度与力が取り調べ、この時点で嫌疑が晴れれば釈放されることもあると言う念の入れ方である。(01.03)