サイバー老人ホーム

282.御用だ!1

 江戸時代の治安が、十手と言う奇妙なものを振り回していた岡っ引きと言う者によって保たれていたと言う事は映画やドラマでおなじみである。

 この十手なるもの室町時代から十手術と言うものが登場し、戦国時代に於いては兜割りの武器として有名になったと言う事である。江戸時代に入ってからは御存知悪党の捕物用武具として江戸町奉行所の与力・同心、はたまた同心に仕える岡っ引と言う小物が手に持ち、悪党に向って「御用だ!御用だ!」と叫んでいたのである。

 ただ、岡っ引きと言うのは、正規の幕府の役人ではなく非正規の雇い人であり、実際には公式に十手は持てず、必要な時のみ貸与されていたと言う事である。

 ところで、幕府の組織であるが、将軍の下に御存知大老の外、老中、京都所司代、大阪城代、若年寄、寺社奉行、奏者番と五つの組織が幕閣と評される幕府の中心であったと言う事である。

 大老とは、将軍に代わって政治全体を取り仕切っていたと言うことである。いわゆる今でいう総理大臣であり、譜代大名の中から選ばれた老中五〜六人の中から選ばれた幕府の最高職であった。

 老中は、月番で政務に当たり、老中の下に町奉行、勘定奉行など十二余の部署を随えていていた。この中で、町奉行が町の治安取締りの大元締めである。江戸の場合、町奉行は南町奉行と北町奉行が有り、各奉行所には夫々一人の奉行がいて、この両奉行の役宅が夫々の奉行所になっていたのである。それでは、武家は誰が観察したかと云えば、老中支配の大目付、目付と云う事になる。

 江戸古地図を見ると、南町奉行所は、呉服橋御門内に有り、今の有楽町マリオン付近と云うことである。一方、北町奉行所は、今の東京駅八重洲口北側付近に当たるらしい。
この町奉行は、両奉行所各一名で役高三千石、直参旗本の中から選ばれて管轄区域は江戸の町方のみであった。

 したがって面積の半分以上を占める武家地・寺社地には権限が及ばなかったと言う事で、八っつぁん・熊さんの住む町方の刑事・民事に関する訴訟を捌いていたのである。

 ただ、一説によると、江戸時代後期の江戸の総人口は三百万、町方だけでも百万を越えていたと言われる中で、僅か二人の奉行で裁けるはずもない。

 従って民事については訴えがあった場合、月番奉行が訴えのあった町役人に和議を勧告し、訴状に裏書きしてから被告のいる町の町役人に渡し、七日間の猶予を与えて調停していた。

 一方、刑事事件については、月番・非番の区別なく、この両奉行を支えている与力・同心が動いたのである。

 この与力は、身分は包衣、即ち従五位下と言うことで、世に言う御家人であり、役高は公表二百石、御目見以下であった。

 与力は、今で言う警察署長に相当するもので、一騎、二騎と数えられ、馬上が許され徳川将軍家の下級旗本の待遇を凌いだと言う事である。

 この与力と言うのは、町奉行所の実務を担当し、一奉行所に二十余騎、南北合わせて五十騎で、この中で、吟味方与力とは予審判事のようなもので、巡察、裁判の審理、捕縛などを担当し、両奉行所とも七人だったと言う事で、俸禄は百二十俵から二百三十俵で、南北共に筆頭与力は年間三千両という役得があると言われ、下級武士ながら大変な権勢を誇っていたのである。

 与力は、南北共に五組に分かれて、支配の組を監督し、支配下の同心の公私ともに面倒を見ていたと言うことである。

 更に与力の下で庶務・警察などの公務を行う同心と言うのがいた。この同心は江戸の司法・行政・警察事務を務めた町方同心、市中見廻りを行なった定町廻りと、定町廻りの補佐を行なう臨時廻り、町奉行直属で変装して市中の隠密探索をする隠密廻りなどが有り、小説や映画でよく知られているところである。

 かの有名な藤田まことさん演ずる「必殺仕事人」の中村主水や、時代小説作家佐藤雅美さん描く所の「物書き同心居眠り紋蔵」などであり、これら二人は何れも過去の判例などを調べる例繰り方の勤番同心と言う事になる。

 この同心は南北あわせて二百四十人、役高は三十俵二十人扶持、南北の同心六人から組織され、定町廻り、臨時廻り、隠密廻りの三廻りといわれる巡視役として、夫々支配の与力の下に組み分けされ、同心筆頭クラスは八十俵(二十八石)五人扶持(五石)程度の俸禄を受けたと言う事である。

 町奉行配下の与力と同心の多くは八丁堀に屋敷(組屋敷)を拝領し(いわば現代の警察官舎)、しばしば、同心の代名詞とされた。ちなみにこの屋敷は与力が約三百坪、同心が約百坪程度の屋敷を拝領されたということで、この八丁堀とは現在の銀座の東側、京葉線八丁堀駅辺りで江戸城のまん前に当たる。

 与力は士で有り御家人の身分のものがなるが、同心は卒であり、平たく言えば足軽の身分のものがこれに当たった。同心には縄張りがあったわけではないが、立ち回り先の自身番が決まっていたので自ずから縄張りがあったことになる。

 この同心には配下に、御存知何人かの岡っ引きがいたのである。岡っ引きは、警察機能の末端を担った非公認の協力者で、即ち同心から鑑札を貰いこの岡っ引の仕事を引き受けていたのである。

 したがって、岡っ引きには、定まった俸給がなく、支配の同心からの心付けや、事件があった場合、被害者と加害者で内済(示談)に持ち込んだ場合を引き合いと称し、その場合の口利き料みたいなものを双方から頂いて生計を立てていたと言う事である。

 江戸は、八百八町と言われているが、寛政四年(1752)の記録では千六百六十一町に達していたと言われ、それらの町を岡っ引き毎に町割し、総勢五百人ほどの岡っ引きが昼夜を問わず江戸の町に目を光らせていたと言う事になる。

 この岡っ引きは、江戸での名称で、関八州では目明かし、関西では手先などと各地方で呼ばれていた。岡っ引きは、町や村内の顔役に委任されることも多いことから親分と呼ばれ、配下に手下を持つことも多く、これを下っ引と称し、いずれも褒められた程の身分ではなかったらしい。

 必然的に博徒・テキヤの親分が目明しになることも多く、これを「二足のわらじ」と称したと言う事で、公式には十手は持てず、必要な時のみ貸与されていたと言う事である。

 したがって、五百人ほどの岡っ引きに、二・三人の下っ引きを随えていた事になり、目明しと下っ引きで総勢二千五・六百人が総人口三百万、町方百万とも言われる江戸の治安に目を光らせていたのかと言うとそうではない。(10.03仏法僧)