サイバー老人ホーム

347.五輪塔

 突然ながら、皆さんは、五輪塔と云うものをご存じだろうか。例によって、Goo辞書によると、「地・水・火・風・空の五大をそれぞれ方形・円形・三角形・半月形・宝珠形に石などでかたどり、順に積み上げた塔。平安中期ごろ密教で創始され、大日如来を意味したが、のちには供養塔・墓標などとされた」と書かれていて、まさにこの通りである。
 何故今頃こんなものを取り上げたかと云うと、私の住む街の最寄り駅、JR福知山線生瀬駅の近くにざっと見て三百基の五輪塔が置かれている場所がある。

 もともと、この場所が火葬場だったという事で、いつの間にかここに置かれていたものもあるらしいが、大部分はこの街の中心生瀬町の浄橋寺門前にあったものを近年になってからここに移したと街の長老から聞いたことがある。

 この五輪塔には、私の子供の頃の忘れられない思い出がある。小学校六年生になって待ちに待った学校を終わったばかりの男先生のY先生が担任になった。ある日、隣村に「五重塔」が見つかったという事で大騒ぎになり、そこで、早速校長のO先生と、担任のY先生が見に行くと云うので、私など何人かの悪ガキも付いて行くことになった。発見された集落と云うのが、千曲川を挟んで我が家から見てほぼ対岸である。

 いくら田舎と云っても、五重塔と云うのは歌留多やメンコの絵柄などによって知っていたが、川向うの集落に五重塔があったなどは全く聞いたこともなかった。そこで、勇躍出かけたのであるが、着いてから、「これだ」と紹介されたのは崩れかけた道の脇に土の中から顔を出しているいくつかの石の塊であった。これがどこでどう取り違えたのか知らないが五重塔ならぬ五輪塔だったのである。

 何時しか頭の隅からも消えかけていたが、再び思い出したのは、五十になって関東から今の住所に移転してからである。移転して間もなく愛犬ペロを飼う事になり、連日、周辺を歩き回っているうちにこの五輪塔を見かけたのである。

 当時はさほど驚きもしなかったが、五重塔と誤って伝えられた時から五十五年の歳月を隔てて、「ふるさと史物語「三寅剣の謎」」を出版した。その中に五輪塔のあった集落(箕輪)と五輪塔について若干触れたことがあり、五輪塔の起源は当時何を調べたか記憶にないが、平安時代中期であると聞いていたのである。この新しい街に平安中期の遺物が無造作に置かれていることに少なからず驚ろかされた。

 最近になって、この生瀬地区の浄橋寺と、この五輪塔について再び一文を書くに及んで、今度こそはいい加減な事では収まらない事になって、急遽、NET古本屋を探したところ、薮田嘉一郎氏の手による「五輪塔の起源」なる本が見つかった。

 早速読み始めてみたが、およそ難しくて半分以上はただ読んでいるだけである。ところで、この薮田氏と云う方が如何なる御仁か調べて見ると、明治38年京都生まれで京大を中退され、出版社などを経て考古学や、金石学を学ばれ、「その卓抜した着想と堅実な論証から、講壇の古代史・考古学者からも一目おかれた存在」という事で、とてつもないお人であったらしい。

 よく読むと、成るほどと頷ける内容で、中には経文などの解説があり、僧籍にある人でも、ここまで精通されている方は少ないのではないかと思われるほどの内容である。

 そもそも、この五輪塔と云うものが、日本独自に生み出したという事で、その論拠を詳細に述べられている。形状を見れば、寺社などで見かける石灯篭に似ているが、肝心の燈明を入れる部分が無い。冒頭に述べた五大とは仏教の言葉で万物を形づくる要素、即ち地・水・火・風・空の事を指す言葉で、五輪ともいう事である。

 そして、これが最初に出現したのが、京都市岡崎の廃寺法勝寺の跡から見つかった軒丸瓦に描かれたものが最古とされている。この法勝寺は、承暦元年(1077)に、毘廬舎那仏を本尊とする金堂の落慶供養が執り行われ、永保三年(1083)には、高さ約八十メートルとされる八角九重塔と愛染堂が完成した。

 しかし、応仁の乱(1469)以降は衰退し、やがて廃寺になったという事である。後に、発掘された軒丸瓦に五輪塔が描かれていて、調査の結果、保安三年(1122)に建立された法勝寺小塔院の軒瓦に使用されていたものと考えられ、ここから、五輪塔の起源が始まったと考えられているのである。

 五輪塔は、高野山に上って、宝塔と合体し形を整え、高野の念仏聖によって全国に普及せられたという事である。当時、聖は全国的に広がり、念仏教の布教活動を広げていた。それまでの上層の学僧と違って、流派や学閥に妨げられずに各宗派の如何にかかわらず、五輪塔が布教に有利な道具であることから大いに用いられたという事である。

 然らば何故に、この五輪塔如きにものがこれほど重視されたかと云うと、持仏の頂点とされた大日如来を表していたということ以外に、仏教に係るさまざまな事物は、その根源はほとんど中国や、朝鮮、更には遠くインドなどからもたらされたものが多く、その中で、この五輪塔を初めて図案化したのは日本人で、それも真言密教の興隆により五輪塔なるものが創成されたのは特筆すべき事柄であった。

 今でこそ、日本人の手先の器用さや、研究熱心さは世界の注目されるところであるが、平安中期と云え、この国を支配していたのは、朝廷を中心とする王朝国家体制であった。
 当時は、貨幣制度も十分に確立していない中で、時の政府は税収を確保するため、律令制の基本だった人別支配体制を改め、土地を対象に課税する支配体制へと大きく方針転換した。この方針転換は、民間の有力者に権限を委譲してこれを現地赴任の筆頭国司が統括することにより新たな支配体制を構築するものであった。

 ここから武家の出現を見て、やがては、源氏の出現により鎌倉に幕府を置き、この国を牛耳る事になるが、執政に慣れない武家政治と、狡猾な王朝側との確執はとどまるところを知らず、南北朝時代、室町時代を経て戦国時代に突入する。

 ここまでは、主に支配者側の話であるが、被支配者側である農民などはその煽りを受けて、塗炭の苦しみの中にあったのだろう。その農民たちを救うために、念仏教が各地で旗揚げし、その一つ、浄土宗法然上人とその一番弟子の浄土宗西山派の證空上人が、暦仁元年(1238) 、たまたま證空上人がこの生瀬の地に参り、それが御縁で浄橋寺を建立し、浄土宗を普及させたのが、三百基の五輪塔の発端という事になる。

 即ち、浄土宗を普及するために、五輪塔を造らせ、お経をあげるのと同様の御利益がある事を教えたのであろう。当時、さほど豊かではなかった農民たちは、世の乱れから塗炭の苦しみから逃れるために、こぞって五輪塔を造ったのであろう。

 従って、今に残された五輪塔は、鎌倉時代から、南北朝にかけての遺産という事になる。ただ、この五輪塔は、程んとが一石造りである。一石作りとは一つの石から彫り上げたもので、一般的に知られているものよりは簡素である。

 人が死んだら墓に葬るというのは、弥生時代後期から、埴輪や、甕棺などによって知らているが、これらは主としてその集落の支配者のものだったろう。従って、平民は目印の石をいくつか並べただけの土葬で、やがて、仏教の渡来により、火葬が行われるようになったが、この火葬は釈迦が火葬(荼毘)された事に由来している。

 今では、生瀬の五輪塔を振り向く人もあまりいないようだが、かつての村人たちは、五輪塔の出現により、平民でも、極楽往生できることを知り、爆発的に広まったのだろう。
 昨今、テレビの影響か骨董品ブームだが、平安中期の日本人の手による五輪塔は歴史的価値は十分すぎるほどあるが、残念ながら五輪塔には骨董価値は皆無なのだろうかと、つい、罰当たりの事を考えてしまう。(14.01.15仏法僧)