サイバー老人ホームー青葉台熟年物語

176.極楽浄土

 最近、我が家の米の消費量が一日二合ということを聞いて愕然とした。昼食はほとんど米食以外で、爺さん、婆さんの二人暮らしだから当然と言えば当然だが、それにしても情けない量である。

 食べ盛りの頃、ドカ弁と言う深さが二寸もある弁当箱にぎゅうぎゅう詰めに飯を詰め、あんまり一生懸命に食べて、食べ終わったとたんに腹が減ったなんてあほな事もあった。

 あの頃は、一食の量は二合と聞かされており、その思いは、その後の山登りなどの食料計算の基準にもなっていた。それが二人合わせて一日二合というのはいかさま少ない。これだから現在の米農家の苦境や、米の作柄と言うものが余りとやかく言われなくなったのも分かるというものである。

 昔、芝居や物語の中で死期の近い老人が「せめて白い飯(まんま)を腹いっぺい食べてえなあ」などという台詞があったが、今の時代では凡そ縁のない話である。

 ただ、戦中戦後の一時期にはこれ程ではないが、食糧難と言うのは全国的なものであった。
 私が子供の頃、外で遊んでいて「ご飯だよ」などと家人がよびにくると、すかさず「お前んち、いいなあ、おれんちは代用食だよ」などという言葉がお互いに飛び出したのものである。

 考えてみると、白米だけのご飯など盆暮れだけで、炊き込みご飯などといえば聞こえがよいが、普段は麦飯なら良いほう、芋、豆などの混ぜ御飯だった。
 中でも大根飯というのがあったが、色は米と同じ白色をしているが、当然のことながら米のような粒々感などなす。何時までたってもなれることは出来なかったが、それでも食べなければ空腹を満たすことも出来ず、遮二無二口に押し込んでいたような気がする。

 ただ、これが幸運したのかどうか分からないが、未だに、食べ物の好き嫌いのない体質になったことは、それはそれでよかったのかもしれない。

 ところで、主食はどこの家庭でも同じようなものであったが、代用食と言うのは、主食の代わりになる食べ物と言うことである。その中で、シチューはいやと言うほど食べさせられた。

 シチューといえば聞こえが良いが、芋や人参などの野菜にうどん粉を溶いたものを入れて煮ただけの食べ物で、今のようにクリームや肉がふんだんに入った栄養満点名ものではない。狙いは出来るだけうどん粉の消費量を抑えて、しかも腹持ちさせると言うお袋の苦心の作であったのかもしれない。

 しかし、来る日も来る日も、このシチューモドキを食べさせられると、いくら食べ盛りと言えども、「たまには白米だけの御飯が食べたいなあ」と言うことになる。以来、特に嫌いと言うほどでもないが、シチューは取り分け率先して食べたい食べ物ではない。

 この頃はすべての日本人が、腹いっぱい食べられる生活を夢見ていたのではあるまいか。やがて、それが欧米並みの豊な食卓が憧れに変わり、何時しか飽食の時代に代わって行った。

 子供の頃、「お飯(マンマ)をこぼすと目が潰れる」なんて親に言われたこともあったが、今の時代、残すのが当たり前、分からないのがバイキング料理でも平気で残すやからがいる。
 食べられないなら、初めから取らなければ良いと思うのであるが、目と頭は胃袋とは繋がっていないらしく、さしづめ現在は、全国民全盲と言うことになる。

 立食パーティーなどでも、もったいないを通り過ぎたものが捨てられている。人を遇するというのは、まず視覚を遇すると言うのが大切と言うことであろうか。
 それにしても、地球上には、「せめて死ぬ前に」と思っている人々が大勢いることを心すべきで、かつてはこの国でも、「白い飯を腹いっぺい食べたい」と言うことが、究極の幸せと考えていた時代があったのである。

 ところで、明日食べるものを心配する前に、この国には食べることになんらの心配をしなくて良い「幸せ?」な人々がいる。

 一切の労働もせずに、世間との接触もしようともせず、家に引っ込んだまま、それで何十年も生きていられると言うのだから不思議である。
 また、能力も時間も有りながら、なんらの仕事に就こうとしない、努力もしない無業者とかニートという前代未聞の芋虫みたいな人種や、生活の一切を親の庇護に頼り、親の寄生虫のように、自らの人生を切り開こうともしない未婚女性等々、この国には「豊な社会」の弊害の中で生きている人が多すぎる。

 これ以外にも、前者と少し意味は違うのだろうけど、ホームレスの人々もこの範疇に入るのかもしれない。

 更に、働くことをなんと勘違いしたのか、お金を集めることにだけ集中し、人間としての道徳観などまったく考えない詐欺や強盗が横行して、盗る方も、採られる方も、さして珍しい事件ではなくなってきている。

 また、飯の作り方も知らない馬鹿女が、かつては女性の最も悲惨ななりわいとされてきたものを、一瞬の華美にあこがれて、自ら求めてひさごうとしている。しかも、それで、常識では想像もできないほどのお金をたやすく手に入れられるこの国の仕組みを、一体どう解釈したらよいのだろう。

 仏教の世界で、極楽浄土と言うのがある。極楽浄土とは、「西方十万億土の彼方にあり、まったく苦しみのない理想郷で、今も阿弥陀仏が法を説いていて、阿弥陀仏を信じ、ひたすら念仏を唱えると、死後ここに迎えられる」という世界である。

 人が働くのは、いつかは働かなくとも食える極楽浄土のような社会を夢見ているからだと言う人もいる。取り分け明治以降、列強諸外国に追いつけ、追い越せの掛け声の下に、一心不乱に豊な社会の実現を目指して努力した結果が、とんだ極楽浄土を作ったことになるのだろうか。

 それにしても、「苦しみのない理想郷」のはずが、経済の間違った流れの中で、この国の形が壊されて行くように思えてならない。(04.11仏法僧)