サイバー老人ホーム

322.限界集落

 先月中頃、田舎で同級会があったので久しぶりに参加した。同級会と云っても、同学年は卒業時、120名ほどいてクラスは3組であった。従って厳密に言えば同年会と云う事になるが、始まった頃から同級会と呼んでいた。

 従って、同級会と呼ばさせてもらうが、今年の参加者は23名だった。過去には私も幹事をした事があり、その時は、伊勢で行ったのが受けたのか、参加者は50名で過去最高であった。

 それからは寄る年並みで毎年減少し、昨年の同級会から今年までに3名の同級生が亡くなっていると云う事であった。

 実は、私も、5年程前に、箱根湯本で行ったのを最後に、意識的に遠ざかっていた。それが何でこの期に及んでと云う事になるが、若干義理を立てたところと、会場が私の生家に近かったことから、おそらく、故郷に戻るのもこれが最後になるのではないかと感じたからである。

 斯くして、互いに久闊を詫びながら同級会は始まった。さすがに、この歳になると、酒量は若干減ったようだが、口だけは衰えるところはみじんもなく、夜が更けるまで、声の限りに老害を振り撒いていた。

 その中で、聞き捨てならないことを耳にした。それは、我々共通の母校である村の小学校が今年の3月を以って閉鎖されたと云うのである。中学校の方は何年か前に町村合併により嘗ての隣村に併校されたが、この時は、両村の中間に新しい校舎を建てると云う事になって、不承不承ながら納得していた。ただ、校名や、校章、校歌まで全て変り忸怩たるものがあった。

 ところが、今度は小学校である。小学校と言えば明治時代からの歴史があり、私の故郷に生まれた人は全てこの学校の校門をくぐった筈である。それをどのような理由があったか知らないが、かつての隣村の小学校に統合すると云うのである。

 当日は、同級生の中に町会議員が二人出席していたが、当然、厳しい追及に会った。ただ帰ってくる答えは極めてあいまいなもので、何でも、かつての隣村の小学校の方が自然が豊かという理由で、統合されたと云うのである。

 たわけめ!思わず、怒声が出るところであった。確かに、学校の周りの自然環境と云うのは、児童にとっても大切である。ただ、これを言うのは、京浜工業地帯や、阪神工業地帯で云うことで、長野のド田舎で、自然環境を云々するのは場違いと云うのも甚だしい。逆に、通学や、生活環境としての便利さの方うが問題の方が大きいのではないだろうか。
 
 翌朝、一行と別れて我が生家に向かった。その途中で、かつての小学校に向かい、明け放されたままの校門をくぐり、かつての母校に入った。

 校舎にも、校庭にも人影はまったくなく、校舎内もきちんと片付いていた。校舎の裏手から校庭に出ると、私の記憶していた校庭よりも二倍も広くなっていた。

 かつて校庭の西側には、八ヶ岳火山の噴火によって押し出された凝灰岩が立ちふさがっていて、高さは30メートルにも達する崖の上には、戦時中には「忠魂碑」が建っていたが、戦後すぐに倒されて、藪の中に捨てられていた。これ等の岩山も、綺麗に削り取られ、その痕跡は跡かたもなかった。東側には、結構広い墓地が欅の巨木に囲まれていたが、お義理程度に一カ所にまとめられ、かつての面影など微塵もなかった。

 私が通っていた頃の記憶の残るものと言えば、敷地の隅に植わっていたプラタナスの巨木が辛うじてその余命を保っていて、その他は、かつての校門の左手に立っていて、毎朝、登校時に帽子を取って挨拶をした二宮尊徳翁の石像だけであった。子供たちの姿はおろか、声一つ聞こえない校舎と云うものは、何んと空疎なものであろうか。自然と、涙があふれ出た。

 校門に別れを告げ、我々が通っていた頃は、我が村でも唯一の銀座通りとされた商店街に入った。現在は、此の通りに並行して国道141号線が走っていて、通行人のほとんどはこのバイパスを通っていた。

 嘗ての商店街通りの商店や、同級生の家など、全ての屋号を空で暗じていたが、その全てが閉鎖されていた。このような光景をシャッターを下ろすと云われてるが、この商店街は、かつての木造の商店街から、シャッターを取りつける暇もなく閉鎖されたのだろうか。中には、この地区でも名門の商店などもあって、盆踊りや、恵比寿講などで賑わっていたが、あの頃の繁栄はどこに行ってしまったのだろう。

 こうした学校や、商店の閉鎖は、単なる建物の閉鎖だけでなく、その街の文化の灯が消えるのと同じである。様々な人間が、街を牛耳ってきただろうが、余りの無策に唖然とするばかりである。故郷に対するすべての懐かしさが消えうせた様な気がした。

 間もなく我が生家に着いた。嘗ての我が家には、義姉が一人で住んでいる。誰も面倒を見ないのではなく、何回か、甥姪の家に引き取られた事もあったが、結局義姉自身の判断でこの家に戻っていた。

 私の生家から、隣の集落まで凡そ一キロは私がこの村にいた頃まではこの地区でも名の知れた田圃が広がっていた。この田圃、福山田圃と呼び、「福山田圃で取れた米はおかずがなくても食べられる」と言われた銘柄米であった。

 その後、ここを通る国道141号線が拡幅され、それにつれて沿道には商業施設が多く進出し、今度帰ったら消防署まで進出し、昔の美田の面影は影も形も無くなっていた。

 この田圃、残された記録に依れば、秀吉に依って天下が統一され、小諸領の領主に命じられた仙石秀久(後出石藩領主)に依って新田開発を行った田圃で、僅か二十町歩余りの荒れ地を拓くのに、着手から完成まで250年もかかっていて、これ自体が立派な文化財である。

 千曲川沿岸のなだらかな傾斜のある段丘に拓かれた棚田で、こうした棚田は自然の地形に沿って拓かれるのが一般的だが、ここの田圃は升型に拓かれていて、四囲を石垣に依って仕切られている。この石垣がほぼ垂直に積まれ、角石の組み方等、不慣れな百姓の手に依るものとは思えないあたかも城壁を思わせる美麗な摘み方であった。

 これは私の推測だが、仙石秀久と云う武将は、武術はさほどではなかったが、城造りに長けた武将だったのだろう。小諸領に入封するや戦国時代各地に散在した郷士を呼び集めて、荒れ地であった千曲川沿岸の新田開発を命じたのである。その事は古文書に残っていて、その一番手に上げられたのが福山田圃ではなかったかと思っている。

 その福山田圃は、今では見る影もなく荒れ果てていたが、福山田圃につながる沢筋の一番奥に私に家の田圃があった。政府が休耕田政策を打ち出した最初に今は亡き兄が休耕地に指定した田圃であった。今度の帰省で、始めて其の田圃まで行って見た。

 農道は辛うじて残っていたが、その田圃の脇に立った時、呆然とそこに立ちすくんだ。田圃の中に、直径が30センチにもなる木が何本も生えていたのである。見渡すと、廻りの田圃も木は生えていなかったが、一面の葦の原が広がっていた。

 勿論田圃として再耕する等と云う事は不可能であり、間違いなく田圃は昔の自然の中に帰っていた。付近には美しい小川が流れ、芹や、クレソンが所々に生い茂っていた。

 帰路について、家の近くに来た時、人家の裏山に何か動く物を見つけた。目を凝らしてよく見ると、何んとカモシカの夫婦が餌を漁りにここまで出てきていたのである。しかも私の姿を見ても逃げようとしなかった。

 私の子供のころではみた事もなかった鹿が出現すると云う事は四五年前に帰省した時に聞いたことがあったが、特別天然記念物のカモシカが目の前に現れる等と云う事は思ってもみなかった。

 田舎を去るに当り、先祖の墓参りをして故郷を後にしたが、ふと限界集落という言葉が脳裏をかすめた。

 限界集落と云うのは、年齢が65歳を超えた人が、全人口の50パーセントを超えた集落を指すそうだが、我が故郷は、集落に限らず、街全体が限界集落を迎えているようである。

 そのなかで、町会議員自らが未だに嘗ての高度経済成長時代の再来を夢見ているようではこの村の再耕などとても及ぶものではない。住民の半数が、物欲を離れた段階で、如何にして村を維持して行くか考えるべきではないかと思いつつ故郷を後にした。(12.05.01仏法僧)