サイバー老人ホーム

314.江戸古地図散歩6

 所は変わって、「両国橋より少し下流を東へ流れるこの川を竪川と唱え中川逆井御番所に出る。一つ目より五つ目まで五橋あり。その橋の南北大通りなり。

 この川の北を本所と云い、南を深川と云う。深川の南は海にして、州崎に止まる。本所の北は綾瀬・堀切村なり。

 この両地は河川多く水路の便あれば、米蔵または木場を設け、材木問屋多し。大名の下屋敷・旗本・御家人・社寺・町屋人入り交じれり」

 このあたりも、小説の舞台によく登場するところである。佐伯泰英さんの「居眠り磐音」シリーズの主人公坂崎磐音は、竪川の近くの六間堀町の金平衛長屋に住んでいたことになっている。

 「六間堀町から御籾蔵の脇を通り、新大橋を渡った。(中略)新大橋を渡ると大名屋敷沿いに日本橋川へ出た。次いで、御城に向かって西に進む。日本橋を抜けて東海道に入った。」

 この六間堀町は、「江戸名所図絵」によると、両国橋より川下にかかる新大橋の東詰、即ち深川側の町名であり、「この橋は、両国橋の旧名を大橋と云う。故にその名によって新大橋と号(なずけ)られるとなり」となっている。

 古地図によると、両国橋を渡って、少し下流に下ると御籾蔵があり、やがて新大橋に出る。坂崎磐音はこの辺りをねぐらにしていたのだろう。

 一方、竪川は、両国橋を少し南に下がったところで、現在の首都高速七号小松川線の下を流れている川である。文化八年(1807)に作られた古地図にも、大川から一つ目、二つ目、三つ目で新辻橋で大横川に至っている。ただ現在は、大横川は途中でなくなっている。

 この頃、深川は、永代橋の先、越中島の埋め立てが始まったばかりで、沖合に波除杭が打たれたばかりの状態で、現在の富岡一丁目の永代寺が波打ち際のすぐ近くであった。

 深川と云えば、深川芸者と聞かされていたが、深川芸者は通常、江戸城に対して辰巳の方向にあることから、「辰巳芸者」と呼ばれ、「意気」と「張り」を看板にし、舞妓・芸子が京の「華」なら、辰巳芸者は江戸の「粋」の象徴とたとえられる

 「守貞謾稿」にも、「江戸の遊女強いて金銭に泥(なじ)まず。見識を専らとするを良とす。古き俚諺(りげん)(ことわざ)にも、京の女郎に長崎の衣装を着せ、江戸の張りを持たせ、大阪の揚屋に遊びたしと云うことあり、女は京を良しとし、衣は長崎、青楼家作は大阪美観とし、江戸は意気張りを専らとす。

 仙台候、三浦(揚屋)の高尾を身受けありしかど、金に動かず有約の男に操を建により、ついに身外ずにて下げ斬りとなること、世人の知る所なり」、天下の伊達藩主の願いでも聞き入れなかったということだろう。何んとなく辰巳芸者の気概が分かるような気がする。

 深川は明暦(1655)ごろ、主に材木の流通を扱う商業港として栄え大きな花街を有していた。商人同士の会合や接待の場に欠かせないのは芸者(男女を問わず)の存在であったために自然発生的にほかの土地から出奔した芸者が深川に居を構えたのが始まりである。

 土地柄辰巳芸者のお得意客の多くは人情に厚い粋な職人達でその好みが辰巳芸者の身なりや考え方に反映されていると云われている。

 薄化粧で身なりは地味な鼠色系統、冬でも足袋を履かず素足のまま、当時男のものだった羽織を引っ掛け座敷に上がり、男っぽい喋り方。気風がよくて情に厚く、芸は売っても色は売らない心意気が自慢という辰巳芸者は粋の権化として江戸で非常に人気があったといわれて、何となくその姿が見えるようである。

 また源氏名も「浮船」「葵」といった女性らしい名前ではなく、「音吉」「蔦吉」「豆奴」など男名前を名乗り、これは男芸者を偽装して深川遊里への幕府の捜査の目をごまかす狙いもあったと云われている。

 十返舎一九の「東海道中膝栗毛」に伊勢古市宿で、途中で一緒になった京の男と女郎を総揚げして酒盛りを始めたが、どの女郎を誰にあてがうかの段になってひと悶着が起こった。

 江戸の場合、こういう時は本人が最初に目を付けた女に盃をさせば、それによって相手は決まっていた。ところが京では、座主が、内々に茶屋の女房か、女郎にささやきかけて、それぞれの相方を決め、この時に自分の相方はこれと上者を指名しておくということである。したがって、男の思い入れと必ずしも一致しなかった。

 江戸時代、女郎を買うと云うのは、単に、双枕(セックス)だけが目的で買うのではなく、盃を差すと云うことは、一夜の夫婦約束をするということであった。したがって、盃を差された方は、その相方に対し、精一杯の良妻を演じたのであって、そのことが、江戸と京阪の女性たちの受け止め方が違っていたのではなかろうか。

 私が東京にいたころから、「深川芸者」は気風が良いなどと聞かされてきたが、当時の薄給の私などではとても御目にかかれるような存在ではなかった。

 さて、「外桜田門より霞ヶ関・虎ノ門・を出て、愛宕山裏を通り、飯倉を経て、赤羽橋を渡り三田に出て、品川に向かう。」

 品川は、東海道の最初の宿場、品川宿は、南品川(大井町辺り)・北品川・徒歩(かち)品川に別れていたと云うことだが、江戸に入る人も、出て行く人もここでそれぞれの垢を流したことだろう。

 江戸時代は、女性の人権侵害と、幕府自ら招いた貨幣制度の崩壊に加え、ごく一部の富裕層による富の独占は防げなかった幕府の責任を除き、武士、町人、百姓とも押し並べて貧困の中で高潔な道徳意識を持ち、とりわけ文化面では世界に誇るひときわ華やかに花開き、これほど平和な時代はなかったのではなかろうか。

 一時期勤めた会社の事務所が品川に近い三田にあり、ビルの窓からかつての漁村の家を思わせる様な仕舞屋(しもたや)風の人家が並んでいるのが見えた。そこから泉岳寺や、東京タワーはすぐそこだったが、とうとう一回も訪れたこともなく、上方に越した。

 青雲の志を抱きながら上京し、傷心の中に心差し半ばで東京を離れなければならなかった東京の街に今更未練はないが、古地図に併せ、かつてこの街とともに生きた人々に思いを馳せると愛惜の感がひとしおよみがえってくる。

  刺客・用心棒日月抄:藤沢周平著・新潮文庫
  守貞謾稿「近世風俗史」:喜田川守貞著・宇佐美英機校注・岩波文庫
  東海道中膝栗毛:十返舎一九作・麻生磯次校注・岩波文庫
  幕末下級武士の記録:山本政恒著・吉田常吉校訂・時事新報社
  江戸名所図会:斎藤月岑(幸成)作・塚本哲三編集・有朋堂