サイバー老人ホーム

313.江戸古地図散歩5

 一方、西側の昌平橋を過ぎると、当時はなかった聖橋と御茶ノ水橋が続く。この聖橋を渡ったところが、湯島聖堂であり、かつて幕府の昌平坂学問所、すなわち昌平校である。

 浅草橋から、和泉橋にかけて、神田川に沿って柳原通りと云うのがあるが、江戸時代、神田川に沿ってあたり一面にススキが生い茂っていた。ここに江戸一番と云われる古着の露天商が店を出していたのである(別掲「江戸ファッション」参照)。

 「昌平橋より水道橋までは、南は駿河台の土手、北は御茶の水と唱う土手通りなり。それより小石川門・牛込門に至る」

 今は、昌平橋の隣は聖橋となっていて、私が、東京に出てきて、働きながら通った夜学の大学が御茶ノ水にあった。駅のホームから当時の神田川を眺めると、かつての遊郭吉原のお歯黒溝のように濁っていて、ときどき川底から直径一メートルもある大きな円を描きながらヘドロが吹きあげていた。

 当時六十年安保闘争華やかな時期であり、多少文学付いて世の中を斜に構えて眺めていた思いがあり、最近、歌手のあさみちゆきさんが「聖橋で」と云う歌を歌っているが、この歌を聴くたびに、当時のほろ苦い思い出がよみがえってくる。

 「江戸名所図会」によると、水道橋は、「小川町より小石川への出口、神田川の流れに架す。この橋の少し下の方に神田上水の懸け樋あり。故に号(な)とす」となっており、絵図によると神田川をまたいで曲輪内へ水が送られていたのだろう。ちなみに、このあたりはすべて開削して水路を引いたと「ぶらタモリ」で知った。

 「牛込門より西南に廻り堀続き、市ヶ谷門・四ツ谷門・赤坂門を過ぎ、山王下・赤坂溜池に至る」

 このあたりは、多少土地勘も残っているが、残っているとしても、中央線沿線に沿って程度である。

 「上野広小路南外れより西に向かい、湯島天神下を下り、西富坂へ登り、伝通院前を通り、大塚に至り、西へ下りて音羽一丁目に至る。同所護国寺前より雑司ヶ谷、森川通り、巣鴨を経て板橋に至る。中山道入り口なり」

 今の春日通りを通る道筋であり、現在は、春日町(文京区)で白山通りに別れて、記載の通り巣鴨・板橋を経て、中山道につながっている。

 私の持っている文化八年の江戸古地図にも、中山道は描かれていて、音羽一丁目や、護国寺・雑司ヶ谷が板橋を経て中山道につながると云うのは何かの思い違いだろう。

 なお、伝通院は、徳川家の菩提寺であり、徳川家康の生母於大の方の遺骨が埋葬されており、於大の方の法名伝通院殿をとって院号を伝通院としたと云うことである。

 元和九年(1623)に八百三十石に加増され、また慶長十八年(1613)には増上寺から学僧三百人が移されて関東十八壇林の上席に指定された。壇林(仏教学問所)として多いときには千人もの学僧が修行していたといわれている。

 一方、伝通院は、通常、大奥の御台所と、その奥女中たちが参詣することが多く、その為寺僧との間に不道徳なことが行われたとも云われている。(11.06仏法僧)