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312.江戸古地図散歩4

 小伝馬町は、ご存じ罪人を留め置く小伝馬町の牢のあったところで、御仕置が決まり、死罪になった場合、唐丸駕籠に乗せられ、浅草御門を過ぎて間もなく、小塚原(荒川区南千住)の刑場にひかれていったのである。

 かつて江戸時代から明治初期にかけて存在した刑場で、江戸時代には、それぞれ江戸の入り口に存在した板橋刑場(板橋区板橋)、鈴ヶ森刑場(品川区南大井)とともに三大刑場といわれた所である。

 小伝馬町と云えば、テレビドラマの「必殺仕置人」で、かの藤田まことさん扮する「中村主水」や、時代考証に提唱のある作家佐藤雅美さんの、「物書き同心居眠り門蔵」の住んでいた八丁堀(中央区八丁堀)は、日本橋から南へ京橋の手前で東へ竹町で掘割を越えたあたりである。

 ただ、小伝馬町と云えば牢屋のイメージがあるが、「守貞謾稿」によると、建具や諸箪笥・長持ち・挟み箱などを商う職人や商人店もあったと云うことである。ところで、最近まで、その存在がなぞだった浮世絵師東洲斎写楽は八丁堀に住んでいた能役者斎藤十郎兵衛だとする説が有力になっている。

 「浅草橋より東は柳橋・大川端・西は左衛門橋・新し橋(三倉橋)・和泉橋・筋違橋(現万世橋)・昌平橋迄、北は片側町、南は柳原と唱え、露店もありて古着商多し」

 小伝馬町の東南は、堀留めになり、江戸時代、島送りとされた者は、ここから流人船に乗せられ、永代橋で家族と涙の別れを惜しんだところである。

 なお、永代橋とは赤穂浪士が本懐を遂げ泉岳寺へ渡って行った橋であり、文化四年(1807)深川八幡の祭礼の日に群衆の重みで崩落して、多数の犠牲者を出した橋である。
 
ただ、幕末御家人を先祖に持ち、「半七取り物帳」を残された岡本綺堂の「風俗江戸物語」によると遠島の場合、流人船が出るのは芝の金杉と永代橋の二か所であり、永代から出る方のものはどんなことがあっても戻ることができぬ者で、金杉(港区芝)から出る者は、何年後に特赦になる者と決まっていたということである。

 この堀留めの先は葭町であり、今の人形町あたりで、この葭町は、「守貞謾稿」によると、「男奉公人口入所」と書かれているが、陰間と云われる男娼の陰間茶屋の集まっていたところである。

 元来は陰間とは歌舞伎における女形(女役)の修行中の舞台に立つことがない陰の間の少年を指し、男性と性的関係を持つことは女形としての修行の一環と考えられていた。 陰間茶屋は当初芝居小屋と併設されていたが、次第に男色目的に特化した陰間茶屋が増えていったということである。

 浅草橋手前には、浅草御門が置かれていて、このあたりから両国橋に掛けて最も繁華な町が続いていて、時代小説の恰好な舞台である。

 ところで、藤沢周平さんの「橋ものがたり」と云う短編集で出てくる町名はおよそ七十三である。主に、深川・本所辺りに下町を描いたもので、全てが実名とも思えないが、いかにも物語と町名がマッチしていて、小説の名人とうたわれた藤沢周平さんの面目躍如という所である。

 浅草御門を出て、現在は江戸通りと云われる通りをまっすぐ北に向かうと幕府の御米蔵が立ち並ぶ蔵前通りになり、我が祖先たちの血と汗の結晶が掻き集められたところで、さらにしばらく進むと浅草寺となる。

 現在の言問橋あたりからやや東に向かうと、江戸五街道の一つ日光街道と、奥羽街道に別れる鳥越街道を経て千住に至る。

 江戸と云えば、何といっても吉原である。吉原は当初は、今の人形町あたりにあったが、明暦大火(1657)で日本橋の吉原遊廓も焼失し、幕府開設の頃とは比較にならないほど周囲の市街化が進んでいたことから、浅草田圃に移転を命じられて浅草寺の北側に移転したのである。

 「江戸名所図会」によると、浅草寺を過ぎて間もなく鳥越街道から、日本堤に入る。「日本堤は、聖天町(台東区浅草)より箕輪に至る。其の間凡そ十三町の長堤なり。新吉原は、日本堤の下にあり。俗に五丁町と唱えたり」となっていて、五丁の方形な土地だったようである。

 古地図で見ると、方形の周囲にお歯黒溝(どぶ)と呼ばれる幅二間程の堀が巡らされ、出入口は正面を山谷堀沿い日本堤側のみと外界から隔絶されていた。

 「江戸名所図会」の挿絵によると、周りを田んぼに囲まれた廓内には、おびただしい人家が軒を並べ、挿絵に付け加えられた俳句に、「闇の夜は 吉原ばかり 月夜かな」と書かれていて新吉原仲之町の賑わいが描かれている。

 当時は、現在の土手通りに平行して山谷堀があり、堀を猪牙舟で通う遊客も多かったと云われている。堀と通りの間が土手になっていたが、現在では取り崩されているが、現在も「土手通り」の通称で名前が残っていて、多くの鼻の下の長い男どもがこの土手通りを行き交ったことであろう。

 時代小説作家佐伯泰英さんの「居眠り磐音シリーズ」に、「東西の橋際に日除け地を広く設け、両国広小路とした。東詰の広場では背後に回向院を控え、昼前は葛飾や小梅村など近在の百姓衆が、野菜を持って集まり、青物市場が立った。昼からは市場の後をきれいに片付けて、小屋掛けの見世物が客を呼び集めた。一日中、人の往来が絶えないところから両国の広小路である」。当時の情景が見えるようである。(11.06仏法僧)