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311.江戸古地図散歩3

 桜田門外南へ芝愛宕下、西久保当たりには広大な大名屋敷が建ち並び、愛宕山から見下ろすと、江戸の大半が見渡せた。足元から大小の武家屋敷が一望のもとに眺められてさぞかし壮観であったろう。また赤坂・四ツ谷・市ヶ谷・牛込・小石川及び筋違門以西は大名・旗本の屋敷となり、その門外には大名中屋敷・旗本屋敷・御家人屋敷が入交っていた。
 古地図で目に付くのは、徳川御三家と云われる、尾張徳川家、紀伊徳川家、水戸徳川家の広大な敷地である。

 まず、尾張徳川家は、市ヶ谷(現自衛隊市ヶ谷駐屯地)、紀伊徳川家は赤坂食違御門外(現赤坂離宮)、そして「水戸殿は小石川門外通りに表門と為し、東は春日町、北は富坂上、西は牛頭天神下通り、いずれも広き四方の屋敷なり」である。

 大名ではだんぜん加賀前田家であり、現在の東京大学本郷キャンパス一帯がかつて加賀藩の江戸藩邸があり、その中に今でも残る重要文化財に指定されている赤門がある。赤門と云うのは俗称で、正式には「御朱殿門」であり、加賀藩十二代目藩主前田斉泰が徳川十一代将軍家斉の娘溶姫を正室に迎えるにあたり、華麗な御殿造営の為に造られたものである。

 また甲州街道の入り口には、信州高遠藩内藤氏の下屋敷があり、ここを内藤新宿と呼んで、現在の新宿御苑はその屋敷跡である。江戸府内外に多数存在した大名江戸屋敷の建築遺構は、わずかな例外を除いて消滅してしまったが、今は、外国大使館や、有名ホテルなどとしてその名残を残している。

 一方、「旗本は、三百石以上一万石以下なれば、高に応じ相当の屋敷あり」と云うことで、江戸古地図に所狭しと書き込まれている。

 ここよりもう一ランク下がって、「御家人は三百石以下にして多くは組屋敷を設け住まわせしむ。与力・御徒方はおよそ二百坪、同心は百五十坪以内也」となって、現在の新宿一丁目あたりは幕府百人組与力の組屋敷が立ち並んでいた。

 我が山本政恒氏(うじ)は、幕府御徒方だったので、今の御徒町近くに二百坪ほどの敷地を持つお屋敷に住んでいたということになる。

 ここまでは大方は武家地の事であって、町方はどうであったかと云うと、「町屋は、神田橋外三河町より、南の方御堀端以東、大川端まで都(すべて)町屋にして、駿河町・尾張町・伊勢町等と国名を附し、各国々より出店せしものなり。この町を下町と云う」

 江戸時代、「花の御江戸は八百八町」などと言われていたが、寛政四年(1752)の記録では千六百六十一町に達していたと言われ、この中には同一町名で、丁目の異なるのも町と呼んでいたろうが、それでも千町は下らなかったろう。

 これらの町には、主に町の名前になっている国の出身者が住んでいたということだが、駿河町とは後の室町の事で越後屋(現三越)などもここにあった。

 「三河町至って貧町なれど、諸大名の駕籠人足、陸(ろく)尺(しゃく)と云う、丈高く丈夫なるものを選び、駕籠の担ぎ方を練習せしめ諸家の用を弁ず。その他挟み箱・道具持ちいずれも供立てに作法あれば、練習したる者に非ざれば弁じ難し」

 大名や旗本が登城する場合、主人の所持品などを運んだ中間・六尺と呼ばれる身分の者がいたが、これらの多くは、この三河町に住んでいたと云うことである。

 ちなみに、三河町は、現在の千代田区内神田一丁目と神田司町二丁目付近および神田美土代町の一部にあたる。

 江戸時代、最も重きを置いた通りは、本町通りであったと云われている。この本町通りは、常盤橋を出て、まっすぐ北東に両国橋に向かった通りで、今の靖国通りがそれに当たるのであろうか。江戸城を守る上で、御米蔵のある浅草蔵前と直線で結ぶこの通りに重きを置いたのかもしれない。

 常盤橋御門を出ると、その両側に、江戸三年寄りと呼ばれる広大な屋敷があった。この三年寄りとは、「市中名主の惣督なり。樽屋籐右衛門、舘市右衛門、喜多村弥平衛」、以上三人を云い、いわゆる江戸の草分け名主で町奉行に属していた(別掲「年貢の納め時」参照)。

 「守貞謾稿」によると、「本町三丁目には、薬種問屋多し、古は呉服問屋多きよし、今は一・二丁目にあれどもおおからず」とある。

 この本町の通り一つ隔てたのが石町で、江戸時代、時の鐘が鳴って市民に時刻を知らせていたが、江戸城に於いて昼夜十二刻に太鼓が打ち鳴らされるのが標準時であり、これにより町の鐘つき堂で時の鐘がつかれていたのである。

 そのもっとも代表的なのが、石町の鐘で、「江戸名所図会」に、「石町三丁目の小路にあり。辻源七と云える者これを役す」とある。この鐘の聞こえる範囲は四十八町、家一軒から鐘撞き料として四文ほど徴収していたということである。

 鐘つき堂は、石町以外に、上野のお山、本所横川、四谷天竜寺、赤坂田町成満寺が公認であった。今では時計など持ち歩かなくとも至る所で目に付くが、江戸時代、この時の鐘の音が市民にとって貴重な時報であったろう。

 ただ何といっても、江戸の中心は、日本橋である。「江戸名所図会」に、「日本橋、南北に架(わた)す。長さ凡そ二十八間(約五十五メール)、南の端詰西の方に御高札を建てらる。欄干擬宝珠の銘に万治元年(1658)九月造立を宣ず。この橋を日本橋と云うは、旭日(あさひ)東海を出るを、親しく見る故にしか号(なずく)ると云えり」と書かれている。歌川広重の「東海道五十三次」の第一作目で当時の江戸を彷彿とさせる。

 「日本橋より南は通り町と云い、通町四町、中橋・伝馬町・京橋を渡り、銀座四町・尾張町・竹川町・出雲町・進橋を渡り、芝口三丁目・源助町・露月町・柴井町・宇田川町・神明町・浜松町四丁・金杉橋を渡り、金杉栄町・田町・高輪・品川宿に至る。東海道口なり」

 かつて私が若かりし頃、青春の意気を以って活躍したのもこのあたりで、唯一土地勘が残る場所である。

 「江戸名所図会」に描かれている町の通りはかなり広く描かれていて、ほぼ平屋建ての屋敷と合わせて、今の東京とは想像もできない雄大な街並みである。

 最近、NHKの「ぶらタモリ」と云う番組で、タレントのタモリさんが東京の古い町を探検する番組で知ったことであるが、現在の銀座通りの車道部分は江戸時代の通りの幅と同じと云うことで、五街道などは想像以上に広かったようである。

 「日本橋より北は室町三丁・十軒店・白金町・今川橋を越え、乗物町・鍛冶町・鍋町・新石町・須田町二丁・筋違橋御門を経て、御成り道・上野広小路・山下を回り、車坂町・坂本四丁・金杉・三之輪新町・千住大橋を渡り、千住に至る。奥州および日光道の入り口なり」

 橋を渡って東側が本舟町であり、その隣が小田原町で、江戸時代、江戸市民の台所を預かる魚市場だったのである。

 「江戸名所図会」に、「船町、小田原町、安針町等の間、悉く鮮魚の肆(いちぐら)(店)なり。遠近の海陸のけじめもなく。鱗魚をここに運送して、日夜に市を建て、甚だ賑わえり」と書かれていて、日本橋魚市の様子が描かれているが、およそ立錐の余地もないほどのにぎわいである。

 更に、十軒店より東へ下ると、「小伝馬町・馬喰町通り、浅草橋御門を出て、蔵前通り、浅草観音雷神門外に至り、それより東は吾妻橋を渡り、小塚原を経て千住に至る」となっている。(11.06仏法僧)