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310.江戸古地図散歩2

 江戸に入った徳川家康によって、本丸整備・西の丸建設が始められた。そして慶長八年(1603)、江戸幕府を開くと同時に大規模な「天下普請」が始められたのである。

 まず、神田山を切り崩して日比谷入江を埋め立てた。石垣担当は池田輝政・加藤清正・福島正則ら西国大名、縄張り担当は築城の名手藤堂高虎である。天守の工事になると伊達政宗・蒲生秀行・上杉景勝らも動員されている。

 「守貞謾稿」に、「慶長八年(1603)、海内を没して神田山を崩し、城巽(たつみ)(東南)海を埋めて凡そ方三十町を造り、また市井に川を掘る」と書かれており、後に下町と云われた江東地区はこの時に造成したのだろう。

 さらに、七年後の万治三年(1660)には、玉川上水から分水し、青山上水、さらに四年後の寛文四年(1664)には、三田上水を完成し、江戸城南部の水利を確保したのである。それに伴い、人々は先を争うように江戸を目指して集まってきたのだろう。

 当時、江戸の七割は、武家地と寺社地であり、町民はわずか三割の町地の中にひしめいていたのである。

 幕府は治安維持上の理由もあって、江戸府内の人口については秘密事項になっていたのである。それにしても江戸は建設途上の土地であり、加えて各大名家の江戸勤番武士なども加わり、男女比率が驚くほど偏った土地であった。

 一説によると、町方の男女比は享保六年(1721)では男性六十四.八%、女性三十五.二%と圧倒的に男性が多く、天保三年(1832)のデータでは約四分の一が地方出身者であった。

 ところで、江戸の範囲を御府内とか、朱印地内などと呼ばれるが、「山本政恒一代記」によると、「江戸城を中心としてその曲輪より四方へ二里ずつ、すなわち四里四方を以て江戸内(御府内)と云えり。東は常盤橋門より砂村・亀戸村・木下川・須田村、西は半蔵門より、代々木村・戸塚村・角筈村・上落合、南は外桜田門より、上大崎村・南品川宿、北は神田橋より、千住宿、尾久村・滝野川村・板橋、各二里御府内と唱う」となっている。

 当初、隅田川より東は下総国と呼ばれ二つの国をまたぐ橋という意味で「両国橋」と名づけられたが、万治元年(1660)に両国橋が開通して隅田川より東は武蔵国に編入され市街地に加えられたと云うことである。

 ただ、江戸時代の刑法法典「御定書」で、「所払い」の場合は、「軽追放、江戸十里四方、日本橋より四方へ五里ずつ」、「江戸払い、品川、板橋、千住、本所、深川(両国橋)、四谷、大木戸より内御構い、ただし、寺社奉行支配場所、武家屋敷等は御構い無し」となっている。

 「江戸城、本丸・二の丸・三の丸となす。本丸と西の丸の間に紅葉山と云うあり。ここに徳川氏代々の位牌所あり。本丸の東に大手門、十万石以上御譜代大名勤番す」

 城で最も重きを置くのは大手門であり、大手門の警衛には十万石以上の譜代大名が当たっていたのだろう。紅葉山は江戸城中央部にある小山で、歴代将軍の霊廟があった。NHKの大河ドラマでも安政の大地震の際、篤姫も紅葉山に避難したとなっているが、今はその面影はない。明暦三年(1657)に書かれた「新添江戸之図」によると、本丸と西の丸の間にちょっとした岩山の様に書かれている。

 「東南に内桜田門、下馬札あり、六万石以上大名勤番す。南の方坂下門あり、御手先頭与力・同心、勤番す」、側近の最も信頼のおける家臣をここに配した。

 「南の方、坂下門、御先手頭与力・同心が勤番す」、現在の宮内庁入り口である。「なお南に西の丸大手門(追手門)、六万石以上の大名勤番す」で今の二重橋辺りになる。

 「西は吹上門、北は北拮(はね)橋門、これは不浄口にして締め切り。北の方平川口門・御先手頭与力・同心勤番す」

 一説によるとこの門を生きて通ったのは、浅野内匠守一人だと云われている。事件後、浅野内匠守はひとまず一関藩田村家に移され沙汰待ちになり、同日即刻切腹となったのである。なお、田村家は、現在の西新橋の交差点の近くであった。

 現在は、皇居東御苑に入るのは、大手門のほか、平川門、北(きた)拮(はね)橋門の三カ所から入れるようになっている。

 「北の曲輪内大手門より凡そ半丁ほど隔たり中の御門下乗橋、ここにて登城者皆下乗す」

 大名・旗本は、大手門を入り、下乗橋を通って内曲輪に入って中の御門で乗物から下りて徒歩で本丸中の口御玄関に向かう。

 それより大手三ノ門・中雀門(ちゅうじゃくもん)、この門を入り正面玄関となり、通常は大広間のある右に進むとなっているが、ここからでも、およそ二十六もの門があり、幕臣たちはそれぞれのお役に従い別れて行ったのであろう。ここまでが、曲輪内と呼ばれる範囲である。

 「外曲輪は大手掘り続き南の方和田倉門・南へ並び馬場先門・日比谷門・西へ外桜田門・西北へ廻り半蔵門・田安門・清水門・竹橋門・雉子橋門・一ツ橋門・神田橋門・東南へ廻り常盤橋門・呉服橋門・鍛冶橋門・数奇屋橋門・山下門・幸橋門・虎ノ門・西北へ廻り、赤坂門・喰違門・四ツ谷門・市ヶ谷門・牛込門・小石川門・筋違橋門・浅草橋門等なり。

 その門々を見附と云い、三十六見附と云う。御譜代及び外様大名江番之を守り、番士は上下(かみしも)または羽織袴にて勤番し、下番中間など従事、総て御目付け方の指揮を受け法令を守る」

 それぞれの名前の記憶はあるが、この中で現存する門はどれほど残っているか記憶にない。

 「和田蔵門内を内曲輪と唱え、ここに老中・若年寄りの屋敷を設く。また呉服橋内に北町奉行所、数奇屋橋内に南町奉行所あり。その最寄に評定所・寺社奉行・伝奏屋敷・火消し屋敷引あり」古地図にも、これらの名前は載っていて、豪壮な大名屋敷が立ち並んでいたのであろう。

 ちなみに北町奉行所は、現在の東京駅八重洲口北側付近にあり、南町奉行所は有楽町マリオンの附近にあったという事で、南北と言うのは必ずしも方位では無かったらしい。(11・05仏法僧)