サイバー老人ホーム

309.江戸古地図散歩1

 日本には映画や芝居、さらに小説に時代ものと云うジャンルがあり、今もたくさん作られている。斯く云う私なども時代ものは大好きで、若かりし頃は黒澤明監督作品の大ファンであった。今でも全作品のCDを持っていてときどき見ては楽しんでいる。

 あの黒澤明監督の不朽の名作「七人の侍」などは、まさにその時代に生きていたかのような錯覚さえ覚える。最近では、山田洋二監督の作品に耐えがたい魅力を感じ、再び時代映画のメガフォンを取ってくれることを一日千秋の思いで待っている。

 また小説では、キ印がつくほどの藤沢周平さんの大ファンで、同じ作品を繰り返し読み返している。こうした巨匠たちの作品に共通して言えることは、時代考証が非常にしっかりしていることだと思っている。

 その中で、古き地名と云うのが大きな要素になっているのではなかろうか。我が故郷に残る「縄打ち帳」に記されている田畑の小字地名などは、私が子供だった頃も殆ど変わりなく残っていた。

 日本の町名が大きく書き換えられたのは、昭和三十七年、「住居表示に関する法律」が施行されてからで、その目的として、「この法律は、合理的な住居表示の制度及びその実施について必要な措置を定め、もつて公共の福祉の増進に資することを目的とする」となっているが、これにより歴史との深いつながりが断たれたのである。

 昭和六十年まで、およそ三十年間関東で暮らしたが、主として職住とも江戸城に対して南西側だったので、城北や、墨田川流域の墨東地区にはほとんど土地勘がない。古地図を眺めながらかすかな記憶とともに時代小説など読むと一段と興がわいてくる。

 私の好きな藤沢周平さんの「用心棒シリーズ」の中の「刺客編」に、
「広小路を走り抜けて、下谷の御成り街道に走りこむと、焦燥は一気に高まった。左右に武家屋敷がならぶ道は薄暗く、通る人影も見えずにひっそりとしている。(中略)

 樹木が繁る加賀原の角で、又八郎は立ちどまった。しばらく息をととのえ、手足の顫(ふる)えをなだめながら、その間に刀の目釘を舌でねぶって湿りをくれた。胸の鼓動が静まり、手足のこわばりが解けるまで待った。そして、静かに角を曲がって河岸に出た。

 筋違(すじかい)橋(ばし)の向こう岸に、淡い御門の灯が見えるだけで、河岸はすっぽりと乳色の暮色に覆われている。」

 この筋違橋とは、現在の万世橋(千代田区神田)の事である。この橋は、徳川家将軍が上野寛永寺に詣でる時に渡る橋で、文化八年に作られた江戸期古地図によると一町ほど西に寄った所に正平橋(昌平橋)がある。その先に、後に湯島聖堂といわれた通称昌平校で知られた昌平坂学問所があり、神田川に面した寂しいところである。

 天保七年に神田の名主斉藤幸雄・幸孝・幸成三代にわたって編集した「江戸名所絵図」によると、「須田町より下谷への出口にして神田川に架(わた)す御門ありて、此の所にも御高札を建てられる。この前の大路を八つ小路の辻と字(あざな)す」と書かれていて、長谷川雪旦の挿画が描かれている。

 これを見ると、江戸城曲輪外から、曲輪内を眺めた風景で、筋違御門の周りには、広大な武家屋敷の塀に囲まれて、遠くに駿河台の家並が見える。

 主人公の青江又八郎は、脱藩までして、用心棒をしながら糊口を凌ぎ、国元の御家乗っ取りを画策する一派を追っていたのである。

 この時、又八郎は、根岸(台東区)の里の商家の別荘(下屋敷)で、そこの隠居の身辺警護をしていて一味の首領との果たし合いの刻限に遅れていたのである。この広小路とは、上野広小路の事で、まさに用心棒青江又八郎と一緒になって薄暗い江戸の街を疾走しているような心地である。

 ただ、藤沢作品のような場合はかなり探し出せるが、私が手に入れた「江戸古地図」と云っても、当時の江戸おのぼりさんの土産のようなものだったろう。町名と雖(いえ)どもなかなか探し出せない。

 こうして作品を読んでいくと、印象に残る作品と云うのは、町名などもきちんと時代考証をしていることが分かる。

 ところで、江戸と云うのは、豊臣秀吉により、天下統一がなされたのち、徳川家康が関東移封を命じられてから開かれた街で、その前は、太田道灌の居城があったところと云う程度のことは聞いている。

 これに関し、幕末下級武士山本政(まさ)恒(ひろ)の「山本政恒一代記」には、次のように書かれている。

 「そもそも江戸は武州国豊島郡の東南隅に当たれり。豊島入江の水門口なるを以て、治承年間(1177〜1181)の頃より江戸の名称起りたる由なり。天正年間(1573〜1592)徳川家康公御入国の際は、今の高台を除くの外は皆沼地なる由なり。長禄二年(1457〜1460)の地図を挿画とす。見給うべし」

 この長禄二年というのは、足利義政の時代の事で、ここに掲載された絵図と云うのは、山本政恒が筆写したものであろうか、当時の江戸に地形がしのばれて面白い。

 この頃、「江戸城は長禄元年扇谷上杉氏の家宰たる太田左金吾道灌公氏の築けるものにして、高き山なしと雖も、入海あり、諸国往還の便あり、誠に目出度き所なればとて、静勝軒と名付く」

 子供のころ、山吹の花の古事で教えられた太田道灌の居城は、今の東京湾の入江でもあった。神田川流域の神田山や上野の山と不忍池、そしてのちに徳川家菩提寺となった芝増上寺の愛宕山台地と赤坂溜池に挟まれた紅葉山擁する一帯に江戸城は建設され、あたり一面は、葦の生い茂った沼地であったのだろう。

 まず最初に手掛けたのは、飲み水の確保である。天正十八年(1590)には、湧き水である井の頭池から、神田・日本橋を通って京橋に至る神田上水を開き、承応三年(1654)には多摩川から水を引き、四谷から麹町、そして赤坂・京橋に至る玉川上水を完成させたのである。

 「山本政恒一代記」には「天正十八年七月九日小田原城を発輿、九月までに屋敷を賜いて、慶長八年二月に諸国大名に命じ、各丁夫を出して江戸市街を修治し、運送の水路を疎(そ)鑿(せん)せしめらる。此の役夫は全て千石に一人ずつ課せられければ、世に千石夫とよべり」と書かれている。(11.05仏法僧)