サイバー老人ホーム

245.江戸グルメ

 ただ今美食の時代、右を向いても左を向いても、若き妙齢な御婦人が大口開けて頬張っているが、江戸時代の人たちがどのようなものを食べていたかと言うのは、分かっているようで良く分からない。

 家臣に傅かれながら二の膳、三の膳を前に優雅に食事をするなどと言うのは、お殿様の世界のことであって、我々下々の世界のことではない。

 現在と基本的に違うのは、冷蔵庫など保存設備がないから、生で食せる物を除き、普段食べられるものと言うのは、保存の利く食材と言うのが第一条件であった。

 江戸時代、寺子屋の教科書のベストセラー「定訓往来」に、食せられるものとして列挙しているが、これなどをみても、凡そ保存の利く食べ物である。

 先ず、「米、大豆、味噌、醤(うしお)、酢、酒、塩梅」などは当然であるが、「秣、糠、藁」となると分からない。この「秣(まぐさ)」とは、牛や馬の飼料にするための草のことであり、人間の食するものではない。

 次の「糠、藁」も同様だが、ただ凶作の時期には糠まで売買されており、食物として用いていたのかもしれない。次の「藁」は、天明三年の大飢饉の時、幕府は「藁餅」の作り方まで示し、飢饉の備えるようにお触れを出している。

 そして「海月(くらげ)、熨斗鮑(のしあわび)、梅干、削り物は、干し鰹、円鮑(まるあわび)、魚の躬(鮫の干物)、煎海鼠(いりなまこ)」とここまでは何れも干物である。

 一方「生物は、鯛、鱸(すずき)、鯉、鮒、王余魚(かれい)、雉、兎、鵠(くぐい)、鶉(うずら)、雲雀、水鳥、山鳥一番(ひとつがい)」となるが、この中で「鵠」とは白鳥の別名であり、今ならさしずめ手が後ろに回るような代物である。

 そして、「塩魚は、鮪(しび)の黒作り(塩辛)、鮎の白干し、鱒の楚割(すいり干物)、鮭の塩引き、鯵の鮨、鯖の塩漬け、干し鳥、干し兎、干し鹿、干し江豚(いるか)、豚の焼き皮、熊の掌、狸の沢渡り、猿の木取(ことり)、鳥醤、蟹味噌、海鼠腸(このわた)、烏賊(いか)、栄螺(サザエ)、蛤、蝦(えび)交じりの雑魚」とここらは、今でもグルメの中に入りそうだが、凡そ世の下々がどれほど食していたことやら。

 ただ、この中で「熊の掌」はなんとなく分かるような気もするが、次の「狸の沢渡り、猿の木取(ことり)」となると全く分からない。

 少なくともここに書かれているものは、当時の寺子屋で子供達に教えていたことであり、一般に通用することであったのだろう。

 ところで、江戸後期の町儒者寺門静軒が書いた「江戸繁昌記」と言う本がある。この本、総て漢文体で書かれていて、下世話の話を漢文体で著し、為政の無能振りを皮肉ると言う内容で、間もなく発行停止になっている。

 この「江戸繁昌記」によると、当時の江戸では、「鮮魚を好み、常に三日肉食をしないと骨が皆ばらばらに成るといわれ、毎日何万の魚が江戸人の腹の中に葬られ」ていたと言うことである。

 この中で、天保四年当時の江戸魚河岸の繁盛振りを著わしたくだりが有り、それによると、「遠江、伊豆、相模、安房、上総下総などの船や、漁船が織る様に密集し、面舵や取舵が互いに呼び合い、船腹が触れ合う」混雑だった。

 然らば、この魚市場でどの様な魚が商われていたかと言うと、「春の空に、平目が山を築く様に積み重ねられて口をパクパクさせ、秋の風に鱸(すずき)はぷちぴちと川を傾けるように沢山横たわる。夜は鰹、折から鳴くホトトギスと飛ぶことを競い、夕方の魚河岸の鯵は、茄とはしりを競う。

 生簀のぼら、雪詰めで送られてくるふぐ、腹の白いアンコウ、目の冷ややかなカレイ」と言うことで、凡そ今ではお目にかかれないような魚を含め、あらゆる魚が持ち込まれていた。

 それらの中には、「鯨、鮭、たらなど遠国物は塩、干し肉、ほじし、ししびしお(塩辛)などにして長風に波を破って、万里の遠くからここに集まる」

 この「江戸繁昌記」に書かれている、夫々の魚の表現が面白く、「マグロ、はもは重なり合い、ひれを横たえて陸に押し上げられた船の如し。

 蛸の頭施餓鬼(無縁の亡者)の僧よりも多く、平家蟹の足は乞食の虱より多し。「イシモチの首は賽の河原の石より多く、エイの背は地獄の釜の蓋より大きい。

 更に、「シジミ、ハマグリ、赤貝などは勿論枡で計っても計り足りない」、かつて、日本近海はこのような豊かな海に囲まれていたのであろう。

 「鮑は小石のように重なり、巌を崩したかと思われ、サザエは殴り合うように集まり、タイラギ(タイラガイ)は互いに支え合い、東海(ぼぼ)夫人(がい)は安房宮の宮女を連ねたようなり」などと表現されている。

 ここで、安房宮とは、秦始皇帝の「安房宮( アボウキュウ )に引っ掛けて、安房の海岸と海女達をさしており、「東海夫人」の読みと合わせて意味深長な表現である。

 当時、江戸の河岸での商いは、一日千両にも及んでと言うことである。ただ、こうしてあげられた物は何れも食材であり、これが江戸市民の口にどのように加工されて入ったかと言うことである。

 江戸後期に成ると、江戸の町には、様々な立売屋が出現する。お決まりの酒売りの他に、「焼き芋屋、立ち食い蕎麦屋、ところてん売り、汁粉屋、天麩羅屋、西瓜売り、いか売り、団子売り、煮豆や」などがあった。

 これ以外に、「煮売りや」と言うのがあって、「 刻みするめ、焼き豆腐、こんにゃく、くわい、蓮根、刻み牛蒡」などを煮て、長屋前で小規模に商っていたと言うことになる。

 これより、もう少し商売規模を広げたものが「居店」であり、「 茶飯、豆腐汁、煮しめ」などであり、一人前五文程度であったと言う事である。ここまでは今で言うファミリーレストランであり、「江戸繁昌記」に出てくるような、珍味は見当たらない。

 尤も、男の世界ではこれで黙っているわけも無く、お決まりの「居酒屋」がある。居酒屋での惣菜は、一皿八文、酒一合二十文ということで、見習い職人の一日の日当が、二百文程度と言うことだから、今の時代に比べ、可なり割安と言うことになる。但し、これも、何時の時代も同じで「ほんの一杯だけ」と言う場合のことになだが・・・。

 百姓の場合はどうかと言うと、米を作っていながら、凶作によりその時々に酒造りや、売ることを禁止している。
 天保七年の大凶作の時、我が故郷の「凶作心得要書」によると、天保七年「生酒一升十月廿日より三匁」とあり、これが天保八年「酒五月より五百文位」となっている。銀一匁と言うのは、およそ百八文であり、凶作前は何百三十文くらいと言うことになる。したがって、一合三十三文から五十文であり、江戸に比べて割高と言うことになる。

 ところで、この雑言「241.祭り好き」の中の、美濃国多芸(たき)郡島田村の富農服部家の婿養子を迎える時の、馳走は次のような者であった。

「献立
  汁・・・白味噌、とうふ、花鰹かけ
  平・・・扇かまぼこ、畳昆布、三色玉子、長いも、蓮根、飯
  焼物皿・・・刻みするめ、大根、青昆布、ごま酢
  煮付け皿・・大かれい
  硯ふた・・・かまぼこ、車海老、椎茸、新生姜、桜ばえ、九年甫(香橘)、くわい
  丼・・・いか、蓮根酢
  吸物・・・蛤うしお
  鉢・・・ぼらひらき
  丼・・・赤貝、うど、きくらげ三杯酢
  丼・・・香の物」

 おおよそ、どの様な料理か想像できるが、おそらく、これが当時の百姓にとっては高嶺の花とも言えず大御馳走だったのだろ。取り分け山国である我が祖先たちにとっては、ここに記載されている海の幸は想像もできない物であったに違いない。

 「江戸繁昌記」に、「犬儒」と言う一項が有り、「いたずらに肥えて腹が大ききく一字も知ることも無き人を、鮟鱇(あんこう)と言う。嘘偽りを固め、上辺だけで人に誇り、真実の少しも無き者大口魚(あんこう)なり。

 剣を腰に差し、士と称し、武道に外れて禄を食むは、太刀魚なり。儒者でありながら軽薄にして、醜きこと言語に絶するは、小田原町(魚河岸)の犬なり。然れども斯くの如き犬儒にあらざれば、魚肉を食う事あたわず。犬儒で無き人儒は小田原町の犬の如く、骨がばらばらになり、真に哀れなり」

 ただ、江戸時代美食を貪った将軍を初め、身分高きものは、何れも短命だったといわれ、我が祖先達のように、粗食に耐え忍んできた者が、「骨がばらばら」にもならず、今の時代にDNAを連綿と受け継いできたのではなかろうか。

 それにしても、近頃、寺門静軒殿の御忠告が聊か身に浸みる御仁が増えてきているようにも見えるが、これも粗食に耐えたDNAの僻みということあろうか。(08.08仏法僧)


参考文献:「庭訓往来」「江戸繁昌記 寺門静軒記 竹谷長次郎訳 教育者新書」