サイバー老人ホーム

244.江戸ファッション

 近頃の女性ファッションは、まことに目を見張るようなものばかりである。昔は民族衣装などといわれ、夫々の国の伝統に根ざした衣服があったが、近頃では、こういうものでも巧みに取りいれている。

 ところで、江戸時代の人々は一体どのようなものを来ていたのだろうか。時代劇の映画や芝居で、大体のところは想像できるが、取り分け、百姓・町民の衣服となると定かではない。

 そもそも、奈良時代までは、大陸での衣服の様式をそのまま引き継いで上下に分かれた衣服を着ていたようである。それ以前は、毛皮や、最も原始的な織物を二枚縫い合わせ、それに手足を出す穴を開けて野原を駆け回っていたのだろうから大きな進歩といえよう。

 日本独自の衣服が出てきたのは、平安時代以降であり、この頃は十二単とか、束帯などといわれるものが出現する。十二単と言うのは、華麗な印象を受けるが、当時の書院造と言うのは、戸障子もないない空疎の部屋で暮らすわけで、むしろ寒さしのぎであったらしい。

 室町時代に入ると、それまで、公家や武士が下着として来ていた小袖が我が熊さん、はっつぁん、百姓が表着として着るようになって、小袖全盛時代を迎える。

 然らば、この小袖とはなんぞやと言うと、それまで、公家や武士が来ていた表着は袖巾が広かった。それに対して、小袖は巾が狭い、それはそうだ、表着より巾が広かったら、着るのに骨が折れて仕方がない。

 この小袖が、簡単で、活動的であると言うことで、総ての階層に広がったらしい。この小袖と言うのは、世界でも類を見ない直線縫いであり、基本的に布地一反で着物一枚が作れると言う優れものである。

 それでは、一反とは、どの程度の布であったかと言うと、寛永四年(1627)十二月、幕府は織物の巾と長さを次のように決定した。

 即ち、絹紬は、長さ曲尺三丈二尺(970cm)、巾一尺二寸(三十六cm)、布木綿は三丈四尺(1030cm)、一尺三寸(990)cmと言うことである。多分、この差は、絹と木綿の縮み代を考慮したと言うことであろう。

 したがって、江戸時代のファッションは、この小袖一本であり、近頃の様な国籍も生い立ちも不明なようなファッションはない。

 しからば、総てのファッションは同じであったかといえばとんでもない。布の織り方や、染色、刺繍、箔押しなど加工技術の進歩により、絢爛豪華に変化し、一目みただけでその人の身分がわかるような着こなしと言うのがあった。

 さらに、これに加えて、髪型や、装身具に、日本人が誇る技の巧みさが加わり、同じ小袖であっても、着方によって様々な表情を出していたのである。

 ただ、幕末頃は、絹物や、柄物はご法度であり、はっつぁん、熊さんがお目に掛かれる代物ではない。現在に残されている着物は、いずれも、高貴なお方や、金持ち御大尽の婦女が御召しになっていたもので、我が百姓などお目にかかったこともないものばかりである。

 そうなると、我が百姓たちはどのような衣服をまとっていたかと言うことになり、身包み剥いで見る必要がある。

 先ず、男の場合、一番下は越中褌と言うのは間違いない。次に下半身は股引きである。ここら辺りまでは、私の子供の頃でも多くの大人たちが身に着けていた。然らば、上半身は何かといえば、胴着である。この胴着と言うのは、着物の下半分を切り落としたようなもので、武士の場合、胴服と言って、袖のないものが陣羽織である。

 私の子供の頃でも、山襦袢と言って、今の作務衣という僧の作業衣のような物を身にまとい簡単な帯を締めていた記憶がある。

 ただ、夏場になるともう少し簡略されて、背中の部分を取り除いた腹掛けになって、今でも祭りのオア兄さん達が身につけているようである。

 一方、女性の場合はどうかと言うと、農作業の場合は殆ど同じである。それ以外のときは、男の褌に変わって、腰巻、または湯文字などといわれていたが、下着といえばこれ一枚である。ただ、ご禁制の多い中で、当時の女性にとっては、腰巻に様々な色や、柄を使うのが、隠れた楽しみで合ったらしい。

 その上はと言うと、肌襦袢などと称した小袖を重ね着し、衿をかすかにのぞかせて楽しんでいたらしい。

 この襦袢と言うのは、基本的には小袖と同じであるが、用途に合わせて、肌襦袢・長襦袢・半襦袢があった。これらは何れも小袖の下着であって、袖が筒袖で肌触りの良い晒など織物で作られていた。

 襟元に、重ね着の襦袢の襟足を覗かせるなど言うのは、良家のお女中衆のすること思われがちだが、江戸時代、一般的には半襦袢が正式な襦袢と考えられていて、長襦袢は遊女が主に着ていたらしい。

 ところで、享保五年(1720)、信州善光寺西街道朝積(おみ)宿から欠け落ち(逃散)した甚之丞と倅千太を「願い奉る尋ね人の覚え」と言う書面が残っており、これによると、人相より所持した衣類の方が詳細に書かれている。

「衣類
一、木綿布子無紋鼠色  壱つ
一、きれつれ      壱つ
一、麻のなわ帯     壱筋
一、麻の袋無地     壱つ
右同人甚之丞倅千太年二十歳中背、痩せ方、面長
一、木綿布子吉岡五所紋丸の内雁金  壱つ
一、木綿布子吉岡五所紋丸の内梶の葉 壱つ
一、木綿布子花色五所紋丸の内三つ柏 壱つ
一、木綿布子鶯茶地片五所紋丸の内かたばみ 壱つ
一、木綿縞帯    壱筋
一、木綿風呂敷浅黄壱つ紋丸の内剣かたばみ 壱つ
一、木綿浅黄股引、はば着  壱つ」

 当時、村人が欠け落ちした場合、名主以下の村役人はその旨届け出ないと罰せられたので、人相、所持品などを届け出たのであろう。この中で、「きれつれ」と言うのは分からない。

 ここで、布子を言うのは、綿入れの小袖の事で、着物と言うのは、布一枚で縫い上げたものを単衣または浴衣である。二枚の場合は袷、更にその間に綿を入れたものが、布子または綿入れ、今でも丹前など言って、夫々の季節に合わせてきていた。

 欠け落ちするに当たって、取って置きの一張羅をかき集めたと言うことだろうが、布子五枚と言うのは可なり恵まれた家であったのかもしれない。

 上の手配書の中で、「吉岡五所紋」と言う記載があるが、この吉岡とは、宮本武蔵が吉岡憲法一門と決闘をしたことがあったが、このときの吉岡家は、剣法指南役である一方、染色技術を持った家柄で、今でも続いているらしい。

 この吉岡染めとは、憲法黒とも呼ばれ、やや緑色がかった黒染めであり、分かりやすく言えば垢染みた黒と言うことになる。私が子供の頃でも、衣類を購入する場合、「汚れが目立たない」と言うのが重要な選択肢だった。この吉岡染めと言うのは、文字通り汚れが目立たない色相と言うことに成る。

 また、五所紋とは、この小袖に五箇所に紋を染め抜いたと言うことで、現在、一般的に家紋の入った紋付とは異なる。武家の中間や、奴といわれていた身分低き人が身にまとっていた大きな紋が入った衣服で、身分低きものに許された(経済的にも)、意匠と言うことになる。

 上の書付の中で、「はば着」と言うのは、脚絆といった歩が分かりやすく、旅人が股引きの上、または空脛の上に巻いていたものである。この場合、布はば着であるが、百姓が普段身に付けたり、駕籠訴の時などは、藁で編んだ「藁はば着」を付けていたと言うことである。

 ところで、私の子供の頃、いつも着させられる着物には腰周りと、肩に帯のようなたるみがあった。これは、腰上げと肩上げであり、子供の成長に合わせ上げを調節し子供の体に合わせるという優れものである。

 近頃は、僅か一シーズンだけ着る高価な子供用衣類の古着が、山のように溢れ返っている様だが、衣の進歩と言うのは、まさにムダの創造以外の何物でもなさそうである。

 江戸時代はなんといっても古着の時代である。特に人の大勢集まった江戸では、あらゆる古着が売買され、継ぎの当たったものから、女性の腰巻まで売られていた。

 江戸で古着が売られていたのは、お江戸の中心日本橋に近い富澤町と、外堀である神田川流域の柳原である。場所柄富澤町では、比較的上等な古着が売られていたが、柳原に並んだ古着の出店では、夕べ、追剥ぎに「身ぐるみ脱いで置いてゆけ」と身ぐるみ剥がされた物が、翌日の昼には店先に並んでいるような状態だったらしい。

 ところで近頃の女性ファッションに中で、従来下着と思しき衣服を表着として、堂々と町を闊歩している女性を見かけることである。これも、かつては十二単の下着であった小袖が、表着に変化した女性たちのファッションに対する目ざとさと言うことだろうか。(08.07仏法僧)