サイバー老人ホーム

316.同期の桜

 「お前と俺とは同期の桜、同じ兵学校の庭に咲く、咲いた花なら散るのが覚悟、見事散りましょ国の為」、御存知軍歌「同期の桜」の歌詞である。この歌は子供の頃から始まって、大人になっても何度となく歌い、且つ歌わされてきた。元歌は西條八十の作詞と聞いているが、だからと言って、今更軍歌を取り上げる積りはない。

 同年、同級、同期と言うと、それがまったくの赤の他人であっても、なぜか不思議と懐かしさとか、親密感などが浮かんでくるものである。

 私が生まれたのは、昭和十二年、この年に日支事変が起こり、やがて第二次世界大戦、そして敗戦、高度成長、ドルショック、そしてバブル経済と、数々の激変の時代を潜り抜けてきた時代である。

 幼年期は、「欲しがりません、勝つまでは」の合言葉のもとに、生まれた時から、耐乏生活を強いられ、猛烈に腹をすかした世代であった。昭和十九年に当時国民学校に上がり、二年の時に終戦を迎えた。

 学校と言えば、学んだことより、日常生活で履物言えば藁草履で、他に代用食と防空演習と教科書を墨で消したという印象しか残っていない。こうした時代背景のもとに育ちながら、私は、昭和十二年生まれと言うのは特異年ではなかったかと思っている。

 何が特異かと言えば、この年生まれの人が、それぞれの分野で活躍しているそうそうたる方が多いということである。

 その草分け的存在が、御存知美空ひばりさんである。尤も、この人が世に出た頃、私などは藁草履に青洟(はな)を垂らしながら野山を駆け回っていたが、余り美空ひばりさんは好きではなかったと云うよりは、小生意気に思っていた。

 なぜかと言うと、我々の子供の頃は、将来は偉い兵隊さんになると言うのが男の子の夢であり、その憧れが敗戦によって無残に打ち砕かれた後で、気概だけは硬派を辛うじて保っていたのである。当時は、かつての戦国英雄迄否定される様な時代であり、突然出現した美空ひばりさんには大きな戸惑いであった。その後、歳を重ねるに従って、この人の偉大さは、私などの音楽的文盲がとやかく口を挟めるようなものではない。

 ただ、「同期の桜」に美空ひばりさんを上げるならば、当然、御本家三人娘、江利チエミさん、雪村いずみさんを上げなければならない。この三人、何れがあやめかカキツバタかは別にして、昭和二十年代の後半から、この日本と言う国を大いに元気づけてくれた事は間違いない。

 更にもう一人、島倉千代子さんがいる。尤も、この人は、学年は同じだが、早生まれの為、昭和十三年生まれである。この方は、見かけは、三人娘に比べ、一番か細い印象があったが、歌手としたら一番頑張って居られる。

 一方、男の方はどうかと言えば、断然、加山雄三さんである。人間年を取れば、やがて知らず知らずのうちに老醜とは言わないまでも、老人顔になってくるものである。ところが、この加山雄三さんはいくつになっても、全く年を取らない。きっと、常日頃から節度のとれた生活をしているのだろう。

 歌手では、平尾昌晃さんや、井沢八郎さん等もおられるが、前記五人にははるかに及ばない。ところが、作曲家としての平尾昌晃さんとなると、がぜん重みが違ってくる。取り分け、音楽教育不毛の時代に育った我々としたらまさに驚異である。

 歌謡界の中に燦然と輝くこれ等の人をかき分けて、ひと際大きく輝く巨星がある。それは、作詞家阿久悠さんである。日本の歌謡曲と言うのは、故郷叙情、酒と女の負のロマンを内にはらんだものが多いが、阿久悠さんの作品は、それぞれの世代の生き様を表した作品が多く、それがたまらなく共感できるところに魅力がある。作詞家と言えば、山口洋子さんも、歌謡大賞の常連だった。

 一方、演劇の世界ではどうかと言うと、これ又、たまらない魅力のある人がいる。その第一人者は、緒方拳さんである。この方を初めて知ったのは、NHKの大河ドラマ「太閤記」であった。この時から、存在感のある俳優だとは思っていたが、歳をとるに従い、ますます重厚さを増して行った。また、渋いわき役で活躍している山本学さんや柳生博さん等も、穏やかな人間性を彷彿とさせる名優である。スケールの大きさを感じさせる加藤剛さんも、昭和十三年生まれだが、学年は同じである。その他にも、伊藤四郎さん、常田富士男さん等個性豊かな方が数多おられる。

 スポーツの世界では、王・長嶋の様な華やかに脚光を浴びた人はあまりなかったが、その中で、同じく十三年生まれの同級生でかつての鉄人稲生和久さんは誰もが納得する名選手である。また、三十七歳で阪急ブレーブスの監督に就任し、念願の日本一を含む四連覇を遂げた上田利治さんなどもいかにもいぶし銀のように戦前戦後を通じて欠乏の時代に少年時代を送った人と言える。

 また、ゴルフの世界でも、この時代に生きた典型の様な人がいる。それは、日本プロゴルフ界のドンと言われた杉原輝夫さんである。当時は、身長が僅か百六十二セントと云う小柄ながら、当時、青木・尾崎という巨漢選手に挟まれて堂々と渡り合い、六十八歳十カ月で日本ツアーの最年長予選記録を達成した豪のものである。

 一方、御笑いの世界でも多士済々である。まず、この人も昭和十三年生まれの同級生と云う事になるが、古今亭志ん朝さん、若くして将来を嘱望され、毒舌で名を為す立川談志さんをして、「金を払って聞く価値のあるのは志ん朝だけだ」と言わしめたと言われている。その他にも、林家木久造(木久扇)、笑福亭仁鶴さんなど、多士済々である。

 もう一つ、この年生まれの特異性として総理大臣経験者が四人も居ると云うことである。その最初は、橋本竜太郎さんである。橋本さんは、第八十二代総理大臣として就任し、八十三代迄続いた。昭和十二年生まれとして、私が最も違和感を感じているのは橋本さんである。
 
 凡そ生まれてからこの方、あの人の様な同期生に合った事がない。何が違うかというと、あのポマードべたべたヘアースタイル、人を小馬鹿にしたような物腰、そして鼻っ柱の強さである。尤も、これはあくまで、マスコミ上に取り上げられた時の印象であって、実際はどのような人であったか知らない。

 次が、小渕恵三さんである。小渕さんと言えば、昭和天皇崩御の後、年号が平成に改まった事を最初に示した人で、当時官房長官であったろう。小渕さんは第八十四代総理で昭和十二年生まれらしい誠実さを感じられる人柄らだったが、惜しむらくは在任中に亡くなっている。

 続いて、第八十五・六代の森喜朗さんである。食糧難時代に育った昭和十二年生まれとは思えない堂々たる体躯の持ち主である。その割には失言が多く、これが元になって失脚したと記憶しているが、何となく我身に通ずるところがある。ところが、最近になって、やけに幅を利かせるようになって、こうなると何となく老醜を晒しているような気がしないわけでもない。

 もう一人、戦後四十五年間、自民党政権が続いた中で、初めて野党として政権移動を果たした細川護煕さんがいる。御存知肥後熊本藩主第十七代当主で、もともとは自民党であったが、行政改革を旗印に日本新党を立ち上げ、野党八党の大連立により、第七十九代総理に就任したが、船頭多くして思うように党内がまとまらない中、例によって政治献金疑惑を自民党に突かれ、高い内閣支持率の中、惜しまれつつ僅か九ヶ月で総理の座を去った。

 一方、世に言う文化人と称される人は少ないのではないかと思っている。その理由として、教科書に墨を塗っていた世代で、まともな教育を受けなかったと言いたいが、それだけではなく、私自身がこの方面にはあまり拘わらなかったというのが主な理由かもしれない。

 前出の阿久悠さんや、平尾昌晃さんは別として、まず、文筆家では似顔絵作家の山藤章二さんで、絵ばかりでなく、痛烈な風刺を利かせたエッセーで知られていて、いかにも十二年生まれらしい。

 中には、本業が作家だったか、やくざ屋さんだったか分からない様な安部譲二さんなどがいる。私が子供の頃、任侠の世界に憧れを持った時もあったが、安部さんもそんなものだったのかもしれない。

 その他は、放送作家のはかま満夫さん、写真家の浅井慎平さん、立木義弘さん等であるが、その他は、余り知らないと言うよりか、読んだ事も見た事のないというのが本音である。従って、学者となればさらに縁遠くなってしまうが、その中で、養老孟志さんがいる。御存知と言いたいが、私が呼んだのは、「バカの壁」だけで、しかもその中身の半分も分からなかった。

 それと、もう一つ少ないと感じているのが、財界人である。勿論、トヨタ自動車の張富士夫社長や、ソニーの出井伸之社長など何人か居られるが、財界活動や、製品などがマスコミに取り上げられるような場合を除き、私の様な馬の骨がこれ等の人を知る由もない。
 従って、現経団連会長の米倉弘昌さん(元住友化学社長・会長)の外、殆ど知らない。惣じて、他の年度と比べても、その他の分野で活躍している人に比べ、財界人と云わない迄も経営者はかなり少ないような気がする。

 そして、最後にどうしても上げたい人がいる。それは、古陶磁器鑑定家の中島誠之助さんである。この方は、御存知「開運なんでも鑑定団」の最古参のレギュラーである。中島誠之助さんの説明は我々素人にとっても極めて分かりやすく納得性がある。そればかりか、決して人を不愉快にさせない心配りにはほとほと感心させられる。これは、我々昭和十二年生まれが潜り抜けてきた世相に大きく影響されていると思っている。

 ただ、成長期に厳しい食糧難にさいなまれたせいか、意外に、若くして亡くなられる方が多いのも「同期の桜」の一人として気になるところである。と並べ立ててきたが、だからどうだと聞かれても一言もないが、昭和期の激動ワンセットを共に生きた者同士として互いに懐かしさを覚える年代になったということである。(11.11仏法僧)