サイバー老人ホームー青葉台熟年物語

50.ダンディズム


 我が家からかの有名は有馬温泉までは車で15分程度である。ということは何も自慢するほどのことではなく、それだけ我が家が山奥ということでもある。しかし有馬温泉は私にとっては湯治場であり、かけがえの無い憩いの場でもある。

 そう言うといささか優雅に聞こえるがそれほどのことではない。以前にも触れたが新聞購読のサービスとして時々、有馬ヘルスセンターの無料招待券を頂くのである。それなら一銭もかからないかといえばそうではない。やや法外ともいえる駐車料金と、少なくとも下足、脱衣のロッカー代が必要である。更に昼食や風呂上りの一杯を含めるとそこそこの金額になるが、来ている同類達を見るとそこは考えていて昼飯、飲み物持参できているので果たしてこれで採算が取れるのかと人事ながら気がもめるのである。

 このヘルスセンターには専属の舞踊団による日本舞踊と歌謡ショウがついているからたまらない。日本舞踊といっても、ド演歌にあわせて踊るもので失礼ながらそれほど高尚なものではないかもしれない。それも午前と午後の二回にわたって行われ、内容もちゃんと変えるサービスである。一風呂浴びた後、一杯やりながら持参の弁当を食べ、不敬ながら手枕でショウを見るなんていうのは至福の極みというものである。

 ところでこの日本舞踊というの、はじめの頃は見ていてもいささか気恥ずかしい思いもあって、後ろのほうで「関係ないよ」というような顔をしてみていたのである。ところが、回数を重ねるうち、だんだん興味が湧いてきて、行くたびに前のほうに移っていくのである。

 もともと日本舞踊というものにはどちらかといえばかなり冷淡な側に立っていたような気がする。というのは、今は故人になっている義兄の一人が無類の踊り好きであったのである。根っからの職人であったのであるが、どちらかといえば好きを通り越して「キ」の字に近いほうであったかもしれない。

 我が家の縁者の寄り合いの席でも衣装は勿論、小道具まで持ち込んで踊り始めるのである。これにはいささか苦々しい思いで眺めていたものである。晩年になってから方々から呼ばれて指導したりしていたようであるが、不思議なことに同じく故人になったかなり堅物の部類であった姉までが義兄に付いていそいそとテープレコーダの番をしていたのである。

 この日本舞踊というもの何回か見るうちになんとなく分かってきたような気もするから怖いものである。突き詰めて言えば人の所作の一番美しい形を表現しているのではないかと勝手に思い始めている。
 日本人形や博多人形の造形に見られる姿態で、これが音楽に合わせて演じられており、日本女性の典型的な美しさを表現しているのではないかと思っている。文学的には永井荷風描くところの世界のような気がするがもう少し湿り気が多いような気もしている。

 こういうことを言うと、かの田島先生に叱られそうであるが、かつて日本女性にはちょっとしたしぐさの中にも他人を意識して形をつくる「しな」をつけるという風習があった。最近の外股で闊歩し、和服に厚底靴の若いお嬢さん方にこんなことをいっても無理な話で、この女性の「しな」などというものは日本舞踊の世界の遺物となったのかもしれない。

 しからば男の場合はどうかといえば、男の場合は「しな」とはいわないで「いき」ということになるのであろうが、「いき」を辞書で調べると「洗練された色気と生気を内につつんだ、繊細で淡白な美」ということである。今風に言えば「ダンディズム」ということになるが、こうなると、いまどき顕微鏡で探しても見つかりそうも無く、この言葉すら死語になったような気もする。

 この「ダンディズム」という言葉の意味は表面的には「おしゃれ」とか「伊達好み」ということらしいが、真意は「内につつんだ」という背景があり、ただ単に外形を着飾ればよいということではなく、心のおしゃれであり、見栄であり、やせ我慢であり、そこはかとない男の哀歓を感じるようなものではないかと思っている。
 言うなれば若くも無いのに若ぶって、弱いくせに剛毅で、もてもしないのにもてた振りをする。金も無いくせに羽振りがよくて、それでいていやみが無い。かつてはこんな男を街でもよく見かけたものである。

 これをよくよく突き詰めてみるとこれは演歌の世界である。思えば石原裕次郎さんや、小林旭さんの歌には男のダンディズムを感ずる歌が多くあった。若かりし頃一時大流行したダスターコートの襟を立てて「夜霧よ今夜もありがとう」なんて、心は「裕次郎」を気取ってみたものである。

 最近の演歌では、なぜか男をテーマにした歌が少なくなったような気がしている。確かに北島三郎さんの歌など男の歌が多いが、ダンディズムというよりもっと生活に根ざした人生の応援歌のような歌であり、同じ事務所の鳥羽一郎さんの歌にはダンディズムを感じるが、都会的なかっこよさというより、泥臭さならぬ汐臭さであるかもしれない。

 いずれにしてもこの演歌の衰退とともに男のダンディズムも薄らいでいったのではないかと勝手に思っている。もっとも最近の若者のツッパリというのはダンディズムの一つの表現かもしれない。そう思ってNHKのポップス・ジャムなどを見ていると今までどちらかといえば嫌悪していたこうした若者達もなかなかであり、特にキンキ・キッズの堂本剛君などなかなかの好青年である。とわ申せ、今の高校生のズボンをずり下げた醜悪極まりない「団子虫」スタイルはどうやっても受け入れることが出来ないのである。

 しかし、我々の同年代の頃、ダンディズムを気取っていたあの「蛮カラ」スタイルとどれほどの違いがるかと聞かれるとあまり変わりは無く、人間というのは進歩も後退もしていないのかもしれない。(01.02仏法僧)