サイバー老人ホーム-青葉台熟年物語

18.コレクター

 今、読売新聞に奇妙な小説が連載されている。あの「老人力」を書かれた赤瀬川原平さんが執筆されているものである。何が奇妙かといえばこれは赤瀬川さんの身の回りに起きたことを日記風に書いたもので、いわゆるフィクションではない。それなら「小説」ではないかといえばそうではないらしい。

 らしいというのはその「小説」に登場するのが実在の人物ではないということになっている。たとえば赤瀬川さんらしい人のことを「A瀬川さん」、同じように長谷川さんはH谷川さん、人物以外の固有名詞も同様に変えている。Y売新聞というようにである。面白いのは東海林さだおさんらしきのを「S海林さだお」さんとやるから面白い。「海林」を「ゥジ」とでも読ませることになるのかと思うが、そこのところは「小説」だから適当に読めばよいらしい。

 さらに会社の固有名詞を「S説新潮」とやって、普通名詞の小説にSを付けて固有名詞の「新潮」はそのままだから奇妙で面白い。赤瀬川さんという方は例の「老人力」でもそうだが、大変なアイデアマンであるらしい。この固有名詞の著し方には著作権は及ぶのかどうかわからないが、ぜひ使わして欲しいと考えている。

 ところで、この小説を通じて知ったことであるが、A瀬川さんは中古カメラのコレクターであるらしい、ご自分では謙遜されて「うん十台」程度などといわれているが、日常の利用を優に超える範囲をお持ちなのだから立派なコレクターである。

 A瀬川さんが中古カメラのコレクションに凝りだした(A瀬川さんに言わせれば熱病にかかったのは)のは10年程前かららしい。この病気にかかったきっかけは何であったか知らないが、もともとカメラや写真に関する仕事が関係しているらしい。最近は「激しい症状」はだいぶ治まってきているらしいが、それでも中古カメラ市みたいなものにも出掛けられると夢中になと云う。

 この小説の中でA瀬川さんは「この病気があるからむしろ精神は安定し、ほかの大病は免れている」、いわゆる「一病息災」ということらしい。「人間というのはいろいろな意味でエネルギー存在であるから、エネルギーの一極集中はどうしても災害をもたらす」。すなわち「最低一つはエネルギーの抜け穴が必要である」ということである。

 最近某テレビ局の「なんでもK定団」という番組があって興味を持って見ている。自分が何か持っているかといえば何もない。以前、旅行に行ったときにみやげ物売り場で気に入った「ぐい飲み」があれば買ってきていた。集めてどうということでもないが、それで晩酌をするときに、多少は旅の思い出にでも繋がればよい程度に考えたのである。ところが最近は酒量も減るといつしかその興味もなくなった。興味がなくなってみると集めた「ぐい飲み」は単なるガラクタになってしまった。

 あの「なんでもK定団」でも実に奇妙なコレクターが出てくる。陶磁器や絵画など美術的な価値があるものについては定番でもあり納得も出来るし、骨董品の希少価値も理解できるが、空き缶までとなると首を傾けたくなる。この意味不明のものはだいたいこれからも際限もなく作られていくわけで、それと一生付き合うとなると果たしてガス抜きになるかどうか疑問である。

 それも空き缶や耳掻き程度は負担も知れたものであるが、費用のかさむものであったら、本人はよいとしても家族は大変である。人間というものは不思議な生き物で、拘るととめどなく自己中心に考えるものらしい。熱が冷めて眺めてみればガラクタ以外の何物でもないにだが・・・。

 もっともブリキのおもちゃに市場が成り立っていることも不思議である。骨董品や工芸品等は現在の技術では復元できないところに面白さがあるが、ブリキのおもちゃというのは工業製品であり、しかもその技術はむしろ稚拙である。したがって復刻版というのも出ているらしい。それなのに何十万の値がつくところにコレクターの世界の不思議さを感じる。しかしなんとなくこうしたものに市場を作り出した先駆者の作戦に乗せられているような気がしないでもない。

 人間というものはA瀬川さんの「エネルギー存在」というか常に何かに向かって「もう少し・・・」と考えているものらしい。もう少し美味しいもの、もう少し綺麗なもの、もう少し高いもの、常に自分が手の届きそうな何かを目指しているようだ。これがあるから人類は進歩したのだろうが、しからばこのコレクターのエネルギーは一極集中以外の何なんだと考える。

 熱が冷めてしまうと意外にその空しさを思い知らされるのだが、それよりも今は物に執着するエネルギーさえ失せてしまったということか、それはそれでも良いのだが、なんとなく「億劫」になってきたということになると、いよいよ本格老人である。(00.4仏法僧)