サイバー老人ホーム−青葉台熟年物語

108.カムバック

 最近、NHKでロッテ・オリオンズの黒木投手の再起へかける姿を紹介する番組があった。文字通り「人間ドキュメント」であり、かつて、華のあるエースだっただけにカムバックにかけるその下向きの姿に心をうたれた。勝利の雄叫びを上げる黒木投手の姿より、先の見えない自分を信じて泥まみれでリハビリに取り組む姿の方が寧ろ人の心を打つのかもしれない。

 リハビリとは機能訓練を通じて機能回復・社会復帰をはかることで文字通りカムバックであるが、この「雑言」にご投稿いただいた田山さんが言われるようにリハビリもスポーツも「人と話をするときに自慢し、優越感に浸れる事柄」の側面があるようだ。

 私の場合、昨年12月15日に退院してからちょうど1年(発症以来1年半)が過ぎた。脳卒中患者にとって発症後半年間の急性期と言う言葉がある。すなわち発症してから半年間は急速に回復するがそれ以降は緩やかな回復となるということである。言葉を変えれば急性期を過ぎればあまり回復しないということで、退院する時この言葉の重みに打ちのめされた思いで病院を後にした人は多いし、私もその一人であった。

 この急性期というのを誰が言い出したか分からないが、今の理学療法士(PT)は等しくそう思っているようである。然らばこの急性期というのは何を根拠に定めたのかといえば、明確な基準があるわけではないが、先人がそう定めたことであって医学的な根拠があるわけでもなそうである。推測するに脳卒中の場合、脳細胞の壊死により手足の麻痺が起きるのであるが、発症後6ヶ月程度は発症前の記憶が残っており、新たな命令回路を再構築しやすい環境にあるためではないかと思っている。

 だからといってその後においても再構築が出来なくなったわけではないが、急性期6ヶ月という言葉のためにリハビリを断念した人はかなりいるのではないかと思うと罪作りな医学常識である。

 昨年退院の祭、PTから「障害のあるものとして充実した人生を送ってください」と言われたが、僅か半年の間のわが身の変わりようを思うとき、言い知れない無念さを感じたのである。ただ、その中で、自動車運転への可能性を一縷の希望の光と受け止めていたのである。

 年が改まって諸官庁が平常に服するのを待ちかねて、明石市の運転免許センター(兵庫県の場合)で運転能力の確認をしてもらったのである。結果は可能ということであるが、従来の運転資格に「左アクスル、左ブレーキに限る」という制限が加えられたのである。

 すぐに車の改造に着手して、1月末には改造を完了し、2月から運転を再開したのである。再開といっても左足でアクスルとブレーキ、更に左手だけでハンドルを操作することは並大抵ではない。はじめは自宅の車庫の出し入れを繰り返し、2週目に1日だけ娘に横に乗ってもらい近くの住宅開発地の道路を繰り返し運転することにしたのである。その後違和感なしに運転できるようになったのは4月になってからである。

 続いて、趣味として取り組んでいた油絵の教室への復帰である。もともと通っていた絵画教室が神戸の三宮にあり二回の乗換えを含めて、通常でも1時間の行程である。当初2月頃を予定していたが、気候の関係もあり3月から復帰した。実績についてはこのサイトの「青葉台画廊」の通りであるが、左手の不器用さには殊のほか苦労したがそれはそれとしての味があるのかもしれない。

 自動車の運転で行動範囲は飛躍的に広がったが、4月に高校の同級会と5月の兄弟会に参加するために2回にわたって家内と信州を訪れたが、何れも列車の乗り継ぎであった。6月に入って運転にある程度自信もついたので発症後初めて家内と二人で鳥取県の大山鏡ヶ成の国民休暇村に旅行をした。

 更に、12月に入って「麻痺―改善」というML(メーリングリスト)グループの一泊の大阪オフラインミーティングに単独で参加したのである。ただこれら何れもプライベイトのことであり、社会復帰ということではないかもしれない。

 これが社会復帰になるかどうか分からないが、このサイト「青葉台風土記」の一部が西宮市のFM放送に採り上げられて1月に出演したのが始まりである。この頃多少発声障害の傾向もあり、その準備を含めてちょうど良いリハビリなったのである。

 6月からは登録してある介護センターからの紹介で、特別養護老人ホーム入所者に月2回の絵を教えるボランティア活動に参加することになった。初めの頃はなかなか集まってもらえなかったが、最近は待ち構えてもらえるようになり、僅かな人数ながら人の生き甲斐を見つけ出すことに多少なりとも貢献できたことは何よりの励みになった。参加者の作品はこのサイト「こころのかがやき」に掲載している。

 更に、暮れになってから社会参加の接点として残した西宮市シルバーから「安産・子授かりで霊験あらたかな越木岩神社」のホームページ作成に参加させてもらい、ささやかなカムバックになったのである。

 ところで肝心の体の方のカムバック(回復)であるが、退院時、杖を突いての歩行であったが、毎朝起きた時の手足のストレッチに始まり、週1回の病院でのリハビリはPTによる訓練が30分、施設を使っての自主訓練が1時間半、更に週1回2時間のプール歩行が9月から加わった。これ以外は自宅近くの公園を毎日およそ3キロ、その間に100段の階段の昇降とひたすら歩き回った結果、ほぼ杖なし歩行までこぎつけた。

 9月になって、愛犬「ペロ」との散歩道でもあった福知山線廃線跡のオフロードを途中まで行くことが出来た。上肢の方は未だ回復には程遠いが、最近は公園の鉄棒を使ってのストレッチまでは可能になった。

 斯くしてこの1年間のカムバックは、車による走行距離が5千キロ、リハビリのための歩行距離約400キロ、昇降した階段2万段、となるがこのくらいではリハビリ仲間では自慢にもならない。「趣味は登山」」の田山さんなどは毎日2万歩(約10キロ)の歩行をしており、これでこそ立山登山も可能になったのであろう。頂上にたった時、感極まってとめどなく涙がこぼれたそうであるが、この気持ちは痛いほどわかる。

 ただ、私はまだ泣くほどには至っていない、まだ越えなければならない、また越えたい山々は沢山ある。いつか目標にしている頂きに立てた時、独りでさめざめと泣いてみたいと思うのである。(02.12仏法僧)

     参照「越木岩神社」http://www5.ocn.ne.jp/~koshiki/