サイバー老人ホーム-青葉台熟年物語

98.武士道

 最近、代議士や企業による金銭に絡んだ事件が頻発している。かつて疑獄と言う言葉があり、政府高官が絡んだ大掛かりな贈収賄事件をそう呼んだのである。最近は規模が小さくなったか関与する政治家が小粒になったの疑獄と言う言葉も死語になったらしい。
 それに代わって企業ぐるみの不祥事が頻発し、企業幹部が撃ち揃って最詣礼をする姿をよく見かけるようになった。ことの真偽は別にして日本でその道を代表するような人が報道陣の前で深深と頭を下げる姿は、本人ならずともやりきれない思いがする。

 企業と言うものの存立する大前提とは、企業活動を通じて社会に貢献することであり、そのために社会の大切な資源である人材をはじめ、あらゆる資源を使っているのである。個人と違って組織化された企業体が活動するエネルギーは膨大なものであり、お金を出せばよいと言うものではなく、社会に及ぼす影響は計り知れないものである。それだけに企業体を運営する立場にある幹部は高い道徳観が求められるのである。

 よく言われるように、欧米や諸外国では宗教を前提にした道徳教育を小さい頃から行い、人間形成行っているのである。ところが日本では宗教の自由を掲げながら、その実、宗教のない国である。このことは外国人にとって信じがたいことで、宗教の長い歴史の積み上げによって作り上げられた道徳教育なくしてどうやって人間形成をするか最大の謎と言われている。

 かつて日本にも世界に誇れる道徳教育があった。それは武士道を根幹とする道徳律で、これが親から子に子から孫へと受け継がれ、日本人の遺伝子に刷り込まれてきたのである。武士道と言えば忠義とか忠臣蔵などを思い出すがそんな皮相的なものではない。武家社会における武士と言うのは時と場合によっては人を殺めることのできる権利を持っていて、それだけに高い教養と道徳観を求められていたのである。この武士の生き方が規範となって一般の市民にも深く浸透していたのである。

 武士道は基本的には仏教や儒教、更に孔子の教えを源泉として、それに日本独自の族社会(藩、一族、家族等)における道徳観念を定めた不文律である。そこには幾つかの徳目(守るべき項目)があるがその中心をなすものは「義」であるとされている。「義」とは「正義の道理」であって、我々が無条件に従うべき絶対命令とされている。

 今、企業の「正義」は何かと言えば、社会への貢献以外に何ものでもない。然るに最近の企業(企業家)は収益をあげることに汲々とし、企業の大義を忘れ、寧ろ社会に対して歯向かう行為をしているのであって、糾弾されて当然である。

 武士道は損得勘定を取らないことを旨とし、むしろ足らざるを誇りにしたのである。我々が小さい頃でも、「お金に細かい」「お金に汚い」など、お金に執着することは恥ずべきことだと教えられてきた。企業の幹部とは、一般社員と異なり、時により、他人の人生を左右するような高い権能を持っているのであって、いわば現代の武士階級に相当するのである。然るに昨今の企業の不祥事を見るに付け、最近の企業幹部の「品性(徳目)」のなさを嘆くのである。

 私の最も尊敬する、かつて国鉄総裁をされた石田礼次郎さんは「粗にして野なれど卑にあらず」という名文句を残しているが、石田さんは国鉄総裁に在任中は無報酬だったと聞いている。

 勿論、武士道の中で「忠義」というのは重要な徳目である。但し、武士道では個人よりも国を重んじ、主君と意見が分かれる時、家臣の取るべき忠節の道はあくまで主君の非を説くことであり、無節操なへつらいをもって主君の機嫌を取るものを「佞臣(ねいしん)」、あるいは、追従の手段で主君を迎えようとするもの「寵臣」と呼び、武士道の評価は極めて厳しかったのである。最近はこの「忠義」と言うものを履き違えているようである。大義のための義憤は正当な怒りであり、「勇気」をもってあがなうべきである。

 また、最近のこれら「特権階級」は、発言が次々に変わることがあるが、武士道では「武士に二言はない」とされ「誠」ということも重要な徳目であったのである。武士は商人や農民よりも高い社会的身分であることが、より高い誠が求められたのである。明治時代には今の世の中では当たり前になっている手形や小切手に、「御返済相致さざる節は馬鹿と御嘲り下され度候」と裏書していたと言うことで、「誠」ということが商売と言えども欠くことのできない道徳律であったのである。最近は誠心誠意と口では言いながら、その実、裏では己の利益をあげることに汲々とし、大義をないがしろにしている。

 これは、武士道では何よりも「名誉」を重んじたからで、私が小さい頃でも「人に笑われるぞ」「体面を汚すな」「恥ずかしくはないのか」などの叱声は良く聞かされてもので、まして大衆の面前で謝罪する、罵声を浴びさせられるなどは絶えがたい恥辱であったのである。廉恥心は道徳意識の出発点であり、廉恥心がなくなっては人間失格である。

 更に武士道では、人の上に立てば立つほど「仁」の心が求められるとされている。「民を収めるものの必要条件は仁にあり。愛、寛容、他者への同情、憐憫の情は至高の徳として認められてきた」のである。然るに、昨今は自分さえ良ければ、自分の会社さえ儲かればと言う世の中になってしまった。

 何故日本人の道徳観がここまで落ちてしまったのか、かつては日本人の代名詞のような「礼儀正しさ」は何所へ消えてしまったのか、そもそも礼儀とは「慈愛と謙遜と言う動機から生じ、他人の感情に対する優しい気持ちによって物事を行うもので、いつも優美な感受性として表わされ」てきたものであるが、戦後、アメリカ式民主主義(個人民主主義)によって日本人の絆が失われたのが最大との理由と勝手に思っている。

 今では慈愛と謙遜はおろか武士道など薬にしたくても見当たらなくなったが、せめて人の上にたつ人ぐらいはほんのかけら程度でも持ち合わせていて欲しいと願うばかりである。

 ところで、「偉そうに、お前はどうだった」といわれれば、「粗にして野なれど卑にあらず、然る後貧なり」ということになるが、「人を人たらしめている部分を除くと、残るのは獣性しかない」と言うから、人としてはどうやら生きられそうな気はしているのである。(02.09仏法僧)

参考文献:「武士道」新渡戸稲造著 奈良本達也訳 三笠書房版