サイバー老人ホームー青葉台熟年物語

135.美女濫造

 最近、テレビや電車の車内で見かける若い女性に美人が多くなったと感じている。ただ、美人は美人だが少し気になる事がある。誰を見ても同じ顔なのである。日本人はもともと単一民族、「我等皆兄弟」で顔が同じであっても不思議ではないといわれそうであるがそれだけでもないようである。

 我々の若い頃では出身地により顔にも特色があり、いわゆる「郷土顔」と言うのが有った。上野駅に立って見ていると何所の地方の出身かなどということは一目でわかった。顔と言うものは、長いのも短いのも様々であって、それが個性と言うものである。それがどちらを向いても同じ顔と言うのは妙に落ち着かないものである。

 昔から、日本人の美人の定義は源氏物語絵巻の下膨れ型おかめ顔から北川歌麿の見返り美人、明治に下がって竹久夢二描くと瓜実顔と美人は全て面長だったと思っている。

 この傾向は近年に入っても同じで、戦後の代表的美人の山本富士子さんや、岸恵子さんなども同じ系統であり、成熟したしっとりとした美人というのは面長で、卵型であると勝手に定義づけている。
 ところが、今でもこの美人の系統を保っているのは僅かに宝塚歌劇のスター達だけくらいで、最近の美女達は判で押したように丸顔なのである。

 丸と言うのはどちらから見ても丸であり、このことが同じ顔に見える要件かと言えばそれだけではない。最近の美人達はこれに鼻筋通って目元ぱっちりのいわゆる「丸ぽちゃ」美人なのである。

 昔から、鼻ぺちゃといえば日本人の特徴と考えていたが、最近の若者は男女を問わず皆鼻筋が通っていて羨ましい限りである。我々の子供の頃は鼻など言うものは空気が通れば上等で、それでも二本棒をぶら下げているのが随所にいた。
 出産ともなれば何を差し置いて鼻筋を見たもので「まあ、鼻筋が通って」などというのは最高の誉め言葉だったが、何所をとっても誉めようがなく、仕方なく「まあ、小ぢんまりした鼻で」と言って生涯恨まれたと言う悲劇的な笑い話もあったほどである。

 この丸ぽちゃ美人達、一つにはあの化粧方法にあるのではないかと思っている。そもそも、顔の造作なんて物は多少大小の違いがあってもそれほど違いがあるわけではない。時々電車の中で熱心に化粧をしている女性を見かけるが、取分け目の化粧には興味をもって眺めている。

 目は口ほどにものを言うというが、日本人の目というのはどちらかと言えば上目蓋が厚く、これに細めで切れ長の目と言うのが涼やかな目と言う事で日本人の特色であり美人の要件ではなかったかと思っている。

 ところが、今の若い美人達、アイシャドウなるもので陰影をつけ、ここでやおらペンチのようなものを取り出すのである。いわゆる睫毛を跳ね上げるための道具で、これをビューラーというらしい。これで生物学的には全く相容れられない方法で睫毛を跳ね上げるといわゆるぱっちり眼の出来上がりである。

 更に、顔の表情を作るのに眉毛と言うのは重要な意味をもっているのであるが、これが判で押したように例の「昆虫顔」の眉毛を画き入れ、同じような前髪タラリのヘアースタイルにするとどの顔を見ても同じに見えるのは何も不思議な事ではないのかもしれない。

 いずれにせよ美人が多いというのは良い事なのかもしれないが、何所を向いても同じような顔で、あの吊り上ったような眉毛の下からやけにパッチリした目で見られると何となく落ち着かなくなるものである。

 ところで何故最近の美人達が丸顔になったのかと言うのは良く分からない。ただ言えるのは総じて小顔になったようで、これが一つの流行でもあるらしいが、流行り廃りで顔が小さくなったり大きくなるものではない。

 取分け昔のような「しこめ」が良いということでもないが、人間というもの、不完全さの中に完全が有るから良いのであって、全てが完全となるとどれが良いのか分からなくなる。最近の「丸ぽちゃ」美人が単なる外見だけの変化であれば良いが、小顔になったついでに頭の中身までが小ぶりになったという事では問題である。

 昔から、「心の美人」を言う言葉があるが、これは外見の美醜の問題ではなく、心の美しい人は美人であるという事は成り立つが、外見の美しい人は全て心も美しいという事は成り立たないと思っている。最近はマスコミの影響か、世の美人達の行動を見るにつけ、余りにも中身がなく行儀が悪くなったような気がしてならない。

 勿論これには人間の屑のような男が絡むことが多いが、この手の男と付き合えばどう言う結果になるかは子供でも分かっているわけで、それを承知で求めるということはいささか外見だけの美人濫造ではないかと思っている。(03.10仏法僧)