サイバー老人ホーム

323.あと一つ・・・・・

 昔から生活の三要素は衣食住だと聞かされ、これを確保するために昼夜頑張ってきた様な気がする。

 一番初めに意識したのは、食であった。当然戦時下の食糧不足の事であり、見るもの、手に触れるもので食べられるものは全て口に入れてきた。美味い物とか云う前に、とにかく腹を満たすためである。従って、様々な木の実がみのる秋が一番好きだった。

 食に付いて、ある程度満腹感を感じられるようになったのは昭和三十年代に入ってからではなかったろうか。その頃、社会人になったばかり、入社したての頃は会社の寮の食事も丼の盛渡しと云って、一膳だけであった。賄いのおばちゃんの機嫌を損ねると盛りが少なくなると聞き、常に気を使っていた。ただ、夜中の十二時を過ぎると残った飯は食べてもよいと云う事になっていて、わざわざその時間まで起きていて食べたものである。

 その後、間もなく御櫃(おひつ)という飯入れから自分で好きなだけよそってよいようになり、次第に豊かな食生活に変って行った。

 次に必要性を痛感したのは衣であった。衣の中でも、取り分け靴の必要性は痛感していた。私が小学校(当時は国民学校)に上がる時は下駄だった。これは私の家ばかりでなく、大方の生徒は同じである。それも、入学式とか、何か特別の日に限り上等の下駄だったが、普段は藁草履であった。

 今では信じられないだろうが、当時、靴というのは配給で、それも一年にせいぜい2・3回、それも全校に行き渡るのではなくほんの数名に当たる程度の抽選だった。

 この頃、折角当った籤で靴を買いに行ったらないと云われ、今のNHKに「私たちの言葉」というラジオ番組があり、「でたらめな靴の抽選券はしないでくれ」と投票した事がある。勿論採用されなかったが、子供心にもそれほど残念だった。下駄は、高校まで履き続け、終り頃になってようやく運動靴が潤沢になった。おかげで、外反母趾など関係なく甲高段広の丈夫な足になった。

 会社に入ってからも、靴は誂えであり、今の様によりどりみどりではなかった。従って、靴と云えば街の片隅で靴職人の親父が足形をした鉄の台の上で終日ハンマーでたたいて作っていた。買ったときに、長持ちすると云うので靴底に鉄の鋲を打ちつけてもらい、ジャラジャラと音を立てて歩いていた。従って、靴については今以ってかなりの関心を持っている。

 ただ、私が入社したころ、新入社員はその年の大晦日までに上下の背広、今でいうスーツを新調すると云う習慣が出来ていた。勿論誂えであり、この当時は、今の様な既製服ショップ等は無かった。一着一万円を超えていたのではなかろうか。当時手取り月四千円程度の中で如何にしてこの代金をため込むかというのは重要な課題でもあり、それを着て最初の帰省をする事が楽しみだった。

 最も遅くになって関心が深まったのは住である。ただ、若い時に関心がなかったわけではなく、関心を持ったとしても手も足も出なかったのである。

 昭和三十年代の初め、私が入社した頃、会社の寮があった東横線元住吉の寮の近く(約徒歩15分)の土地が一坪四千円と聞かされた。呑まず食わずで金だけを貯めていれば、毎月一坪ずつ買えるなどと友達と話し合った事があった。

 それ以降、昭和の終わりまで猛烈な土地ブームとなり、夢のまた夢のかなたに飛んで行ってしまった。住について、痛切にその必要性を感じたのは結婚してからであった。最初に入ったのは民間住宅の離れ(六畳一間)で、小田急線の生田駅から徒歩十分足らずであった。

 この時の家賃が八千円だった。今もあるかどうかわからないが、契約は二年間で、契約更改には敷金・礼金・手数料だったかのいずれかを払う事になっていた。

 ところが、契約替えの一年前に市営住宅が当選し、隣の「よみうりランド」に引っ越した。この時の嬉しさは言葉では言い表せない程で、2DKだったが今いる部屋の隣にもう一つ部屋があることが信じられなかった。

 尤も、生田にいた頃、新聞の折り込み広告を見て休日に小田急線相模大野まで出かけ、営業マンの勧誘を断れなくて、まだ宅地予定地みたいな土地を買ってきてカミさんに大目玉を食った。ところがこの土地が功を奏して、七・八年後に田園都市線長津田に分譲マンションを購入できた。即ち、この間に屑の様な土地でも十倍以上に跳ね上がっていたのである。

 その後、五十代に入って関西に移り、今の住宅に落ち着いた。当時、東京都心から電車で一時間余りのマンションと、大阪都心から三十分余りの土地付き住宅とがほぼ同じだった事になる。唯、その間にも新規建売住宅の抽選会には何度も参加し、その度に苦渋を飲まされた。

 ところで、間もなく喜寿を迎える年齢になって、こうした生活の三要素にも一向に関心が向かなくなった。有り余るものに囲まれているから・・・・、とんでもない、時々娘たちにも云われるが、我が家ほど何もない家は余りないのではなかろうかと自分でも思っている。

 先ず、衣に付いては、カミさんと、私では多少差もあるようだが、私は昔からあまり関心がなかった。この事は「孤老雑言」のどこかのでも述べたと思うが、いわゆる水前寺清子さん心境である。即ち「ボロは着てても心は錦」である。今では下着程度の物は新調するとしても、新調しても着て行くところがない。

 次が食である。かつては出掛けたら鵜の目、鷹の目で食べ物屋を漁っていたが、今ではまず出歩くことが無くなった。

 その理由は当然身体上の理由と云う事になるが、それよりも出歩いても食べ物を漁る気持ちが無くなった。最大の理由は、生活習慣病であり、再度同じ病が再発したら、もう一度立ち上がる気持ちはないと考えているからである。

 その為に、カロリーの制限、高脂血症や、高血糖に影響のある食品は極力避けて、一日千五百キロカロリー以内にとどめ、しかもゆっくりとよく噛むと云う、まるで生活習慣病の優等生並みの食生活をしている。おまけに、アルコール類は、ウイークデーは月水金は禁酒として、呑む場合も、全て一単位だけ、即ちビールなら一缶、酒なら一合ということで、これをちびり、ちびりとやっている内に、食に対する欲望が無くなった。

 但し、住に付いては微かに触手が動いたこともある。それも、身体上の都合であるが、動かす前に諦めた。当然、先立つ物の都合もあるが、それ以上に便利さと、生活環境を考えた場合、今の住いを超える場所はないと思ったからである。

 駅まで十分足らずで、目の前には武庫川が流れ、向かいには裏六甲の山麓が眺められ、四季を通じ季節の変化を間近に感じられ、外に出ると至る所で声を懸けてくれる仲間がいて、日々晴耕雨読を楽しめるとしたら、こんな結構な所は他にはないだろうと決め込んでいる。

 問題は、坂道だが、これとて地を舐める様な坂道ではないので、死ぬまで自動車運転が出来る様に、健康管理を徹底して、「もういいよ」といわれるまでこの街に住むことにした。

 多少気があるのは、人並みに省エネであるが、エコ給湯、エコキッチンまではしたが、残る太陽光発電は、その効果が表れるまで私に寿命が続きそうもないのであきらめた。

 ところが最近になって気がかりなことが出てきた。それは、この街の人口が徐々に減っていて、それにつれて空き家が目に付くようになった。そういう時代であると云えばそれまでだが、折り込み広告を見ると、土地付きで七ケタの中古住宅が出てきた。持ち家について、あれほど狂奔したのは一体何だったのだろうとしみじみ思いだされる。

 エンゲル係数というのがある。エンゲル係数とは、家計の中に占める食費の割合の事で、今から百五十年以上も前に、ドイツの統計学者エルンスト・エンゲルが発表したものだと云う事はどこかで聞いたような気がする。四年前の統計であるが、日本は25.4%で、イギリスよりも高く、スペインより低いと云うことらしい。

 ただ、最近の消費支出には、衣食住だけではなく、娯楽費や、教育費、遊興等にかかる費用が多くなった。我が家ではこうした支出も殆ど無いので、必然的に家計のほとんどがエンゲル係数なのかもしれない。

 然らば、今この歳になって、最後にどうしても手に入れたいもの、又はやってみたいもの何かと考えてみた。ところがいくら考えてみても浮かばない。勿論、自分の知的能力や、体力的に不可能なものはいくら欲しいと云っても始まらない。

 それでも何かないかと考えてみたら、今、興味を持つのは骨董である。それみろ有るじゃないかと云われそうだが、興味があるのは同年の中島誠之助さんの鑑定結果と、その骨董の説明まででそれ以上先に進もうなどとは毛頭思わない。
結局、良寛の五合庵という所が今の私には最も合っていると云うことかもしれない。(12.06.01仏法僧)