サイバー老人ホーム-青葉台熟年物語

30.南アルプス

 7月26日から3泊4日で南アルプスに行ってきた。前夜大阪をたって、途中塩尻で2時間ほど時間調整をし、甲府に7時半頃に着くと土砂降りの雨である。
 昔から梅雨明け10日といって、梅雨明け後の10日間が最も天気が安定していて、登山には最適となっていたが、ここ数年はこの常識が当てはまらないようである。それでもバスで広河原に向かう途中で雨は小降りになり、夜叉神峠を越えたときには雨は完全に上がって、最高の登山日和になった。同行者は甲府で乗った3人で、内一人は夜叉神峠で降りてしまい、京都からきた若者と二人だけになってしまった。もっとも途中夜叉神峠から3人の女性パーティが乗ってきたが、この3人は北沢峠から千丈岳を目指すらしい。

 したがって、北岳を目指すのは京都の若者の二人だけである。といっても山に興味のない人にはただそれだけのことであるが、南アルプスの主峰北岳というのは、日本で二番目の高峰であり、隣り合う間ノ岳(あいのだけ)は60センチの差で、奥穂高岳についで、第4位ということになる。
 でありながら、塩尻で大糸線方面に向かった登山者(?)の数に比べれば、二人とはいささかさびしい限りである。なぜこれだけの高峰でありながら、登山者が少ないのかといえば、それは並みの「登山客」を寄せ付けない厳しさがあるからである。そう言う私もこの山に登るのは42年ぶりである。したがって、前回登ったのは、41年前の昭和34年以来ということになる。

 もっともその時は、新宿を夜行でたって、早朝の韮崎からバスで武田神社まで行き、そこから甲斐駒ケ岳を目指し、第一日目は七丈小屋で泊まり、翌日甲斐駒ケ岳から早川尾根を通って、広河原に至ったのである。今ではバスで2時間で到着する広河原も、当時は二日がかりでなければ到着しなかったのである。(42年前に北岳山頂に立つ)

 第二日目を広河原の無人小屋に泊まり、翌日白根御池を通って日本3大急坂といわれる草滑りの急坂を登り、小太郎尾根に辿り着き、さらに北岳の頂上をきわめ、今は無くなった北岳山腹の石室に泊まったのである。翌日は間ノ岳、農鳥岳に登り、延々7時間に及ぶ大門沢の大下りを下って、奈良田に死ぬ思いで辿り着いたのである。

 一口に言えばこれだけのことであるが、草滑りの急坂というのは標高差500メートルをほとんど直登する登りであり、重い荷物を背負っての苦しさは何にも例えがたい苦しさであったのである。勿論、草滑り以外でも甲斐駒ケ岳の黒戸尾根の登りもきつく、今ではあまり登りには利用しないコースになっているらしい。

 このときの苦しさが忘れられず、もう一度南アルプスに登る意欲が起きないうちに、42年の歳月が経ってしまったのである。あたかも抜いて無くなった筈の虫歯が痛むように、そのときの苦しさが体の中から抜けきらなかったのである。

 今回はその時の苦渋を考えて、草滑りを避けて、北岳の左側の大樺沢から八本歯のコルを目指したのである。途中小太郎尾根に向かう二股の分岐までは快調であったが、ここで追いついてきた京都の若者と別れてからが大変であった。
 このコースは当時も有ったと思うが、尾根路からは岩場のコースになっており、今では太い材木を使っての梯子がかけられているが、当時はこうしたものも無く、いわゆるベテラン向きの難コースであったために、草滑りを選んだのかもしれない。

 ところがこのコースも草滑りに劣らず急坂をほぼ直登しており、沢を詰めて稜線に至る最後の40分の表示を見たときは愕然としたのである。殆ど這いつくばる様にして八本歯のコルに立ったときは、42年前の小太郎尾根に辿り着いた時と同じで完全にバテてしまったのである。

 その日は北岳頂上を目指さず、途中から北岳山荘に向かうトラバース道を質量ともに豊富なお花畑を楽しみながら、いくらかルンルン気分で北岳山荘の幕営地に到着したのであるが、途中猿の群れが足早に八本歯の尾根路を私など意にも介せず渡って行く姿に出会うおまけもあったのである。(八本歯を行く猿の群れ)

 ところがその夜、テントの中で、何度も寒さのために眠れなくなったのである。勿論3000メートルの高所だけではなく、極度の体力の消耗から、体温そのものがあがってこなかったのではないかと思っている。何故なら、翌日は400メートルほど標高差があるにしても熊ノ平では十分に暖かさを感じての就寝であったからである。

 翌朝は4時には起床し、携帯食料と水だけを持って、北岳山頂を目指したのである。出だしは昨日の疲れもあり、快調とはいえなかったが、途中で何度か携帯食料と水を補給するうちに調子が上がり、予定の時間に北岳山頂に42年ぶりに立つことができたのである。

 この日山頂には浜松北高校男女十数人の生徒諸君のはじけるような笑顔が咲き乱れ、360度の展望とともに、42年振りの感激とあわせて無上の喜びを感じ、思わず胸の熱くなる思いだったのである。やはりこの苦しさに耐えたものだけが味わえる感激であったのである。

 今回は、この後、北岳から間ノ岳に向かい、そこから未体験の赤石山系に入り、2泊目を熊ノ平で幕営し、3日目の塩見岳に至るコースである。熊ノ平小屋はログハウス風のしっとりした山小屋で、小屋前のテラスで農鳥岳を眺めながら食事の準備をさせてもらい、忘れがたい人々の出会いがあった。(中白根山から振り返る北岳)

 3日目は朝から霧と雨にたたられ、北俣岳から塩見岳への長い登りは想像以上にきつく、その上、塩見岳では横殴りの雨に変わり、疲労も限界になり、やむなく塩見小屋に緊急避難する羽目になったのである。

 完全自力登山とはならなかったが、もしかしたら1日目の天候がもう少し悪かった場合は、遭難するか引き返すかの選択をするほどの極限状態であり、いつまでも孤高の登山者を粋がるのもいい加減にして、そろそろ体力とスタミナの限界を自覚しなければならない歳になったということかもしれない。
 それにしても肉体的な疲労は限界であっても、心は疲労しないものである。むしろ心が浮き立つほどの充実感を感じるのは叡山の千日回峰行の一端に通ずるものなのかもしれない。(00.8仏法僧)