サイバー老人ホーム-青葉台熟年年物語

129.悪 汁

 第一生命が毎年募集している「サラリーマン川柳」と言うのがある。昨年で16回になると言う人気イベントで、毎年沢山の秀作が生れている。ちなみに、昨年の第一位は『タバコより体に悪い妻の愚痴』と言うことで、最近は喫煙者の肩身は狭くなる一方で、世の中すべてが禁煙一色ともなると妻と言えども愚痴が出ると言うものである。

 ただ、愛煙家にしてみれば、つい昨日まで「タバコは動くアクセサリー」などとおだてられ、せめてもの味方と思っていた妻までが、敵のように扱われるとなるとタバコの害以上に体に悪いのかも知れない。

 このイベント、サラリーマン川柳と言うことだから、当然サラリーマンの悲哀を取り上げたものが多いが、中には『本物のビール買ったら妻激怒』等と身につまされるものも有る。
 定年になる少し前、居酒屋で飲んでいたところ、若い同僚が来て「いいなあ、本物のビールを飲めて」といわれたことが有る。その時は「何だ、たかがビールぐらい」と思ったが、最近は我が家でも専ら「本物でないビール」である。尤も、これには生活習慣病からの微かな反省が含めていると思っている。

 また『髪型は息子ベッカム父ジダン』と言うのがあったが、私の場合はさしずめ「理髪店もう一度行きたい禿げ頭」であり、今となったら無用の長物になった調髪料が恨めしい。

 最近はまさにサラリーマン受難の時代で誰でも一度は『止めてやる三億円当れば云ってやる』ぐらいに思っているのかもしれない。尤も、三億円とはでかくでたもので、これは「絶対に辞めないぞ」といっているようなもの。どうせやるなら机をドンと叩いて「止めてやらあ」と大見得を切って会社を後にするなんてのはサラリーマンの究極の夢かもしれない。結局、「辞めてやらあ大見得切った夢を見た」で終わりそうである。

 このイベントを通した第一位は『デジカメは餌は何だと孫に聞く』だそうである。最近、使っている本人が分かっているのかどうか分からないが、あらゆるところにカタカナ語が氾濫している。この理由としてはカタカナ語のほうがナウい感じがするということも有るようだが、もう一つは巧い訳語が見つからない語彙の不足もあるようである。
 その点、中国人は実に巧みで、別に泥臭いということもない。ともあれ、我々老年代にとってはこのカタカナ語いささか厄介で「シニアとは「死にや!」って事かとひがむ爺」であるが、さすがに私はそこまでは考えていない。

 ところで、6月6日の読売新聞「編集手帳」に麻生路郎さんという川柳作家の事が載っていた。麻生路郎さんは、昭和40年に76歳で亡くなられた川柳作家ということだが、勿論、麻生路郎さんも存じ上げないし、川柳というものに付いても知識はない。

 私は今までに俳句や川柳などには造詣もなく、興味も示さなかったが、この記事を読んで川柳と言うものに俄然興味が沸いてきた。
 この記事に麻生路郎さんの著書「川柳とは何か」に触れて、その中に「人間へ締め木をあてて絞ると、いろんな悪汁が流れ出て、そのあとには朗らかな脱俗した人間が残る」と書かれていた。けだし名言と思っている。

 早速インターネット古本屋で麻生路郎さんの著書「川柳とは何か」を検索してみたが、残念ながら未だに手に入らないが、是非手に入れて読んでみたい本になった。

 ところで、この雑言に素敵なエッセイをご投稿いただいた「りぼんさん」も川柳をたしなまれていて、今までに何回も新聞などに入選されているようである。この方、リュウマチによる進行性の重度の障害をお持ちで、しかもお一人で暮らしているということだが、深刻さや暗さは微塵ほどもない。

 りぼんさん曰く「川柳はユーモア、ペーソスがあり、時には世相を皮肉り、難しいきまりごとも無く、五・七・五 のリズムにのせるだけです」ということだが、この難しい世の中、物事をユーモアやペーソスをもって眺めるということは至難の業だと思っている。

 多分、りぼんさんは麻生路郎さんの言われる「悪汁」を出し尽くされ「朗らかな脱俗した」お人ではないかと勝手に想像している。勿論、りぼんさんの場合、病魔と言う我々凡人には計り知れない締め木を当てられたことになるが、それ以上にりぼんさんが長年慣れ親しんできた川柳を作り続けるということで、悪汁をことごとく搾り出し、あのような洒脱な文章を書かれ、あっけらかんとした生き方をされているのではないかとこれも勝手に思っている。

 あとにはりぼんさん自らが言われる「あんたは強いという後遺症」が残ったということであるが、ただ、この「強い」ということは何事にもおもねない、道理に生きていくことではなかろうか。
 夏目漱石の草枕ではないが、情に棹差せば流されてとかくこの世は住み難いものである。今の世の中、おもねたり、道理を引っ込める生き方が利口な生き方とされているが、それだけにりぼんさんの生き方に一服の良薬のような爽やかさを感じるのである。

 ところで我が「雑言」、文字通り「悪汁」であるが、近頃いささか「悪汁」の出が悪くなったようだが、だからといって「悪汁」が絞りつくされれたというような高尚なものではない。単なる、才能の限界と言うことであるが、願わくば我が「悪汁」の絞り尽くされるまで続けられればと思っている。

 ところで、「編集手帳」に麻生路郎さんの最晩年の一句が紹介されていた。
  『お父さんはネ覚束なくも生きている』
 私が覚束なくなった時、果たしてこの句のように生きられるのかどうか全く自信はない。(03.08仏法僧)

参照:第一生命『サラリーマン川柳』http://event.dai-ichi-life.co.jp/senryu/index2.html