WALLACE, R.
, A Dissertation on the Numbers of Mankind in antient and modern Times: In which The superior Populousness of Antiquity is maintained. With An Appendix, Containing Additional Observations on the same Subject, And Some Remarks on Mr. Hume's Political Discourse, Of the Populousness of antient Nations., Edinburgh, Printed for G. Hamilton and J. Balfour, 1753, pp.iv+331, 8vo

 ウォーレス『古代と近代の人類の数にかんする論稿』。1753年刊初版。
 著者略歴:Wallace, Robert(1697-1771)。スコットランドの中心部パースシャー 、キンカーディンKincardine教区の生まれ。父は当地の牧師であった。地元スターリングのグラマースクールでの古典語学習を経て、14歳でエディンバラ大学に進学する。後に著名となる知識人のサークル「ラケニアンクラブ」の創設会員となる。卒業後は聖職者となるべく、1722年スコットランド教会で説教の資格を取得し、1723年モファットの牧師となり、同地に10年間居住する。一方、学生時代から好んだ数学を牧師の仕事の合間にも研究を続け、病気がちのエディンバラ大学の数学教授グレゴリーの助手としても働いている。1736年ポーティアス暴動という民衆リンチ事件が起り、議会は関係者を処罰する法律を制定し、この法律を教会の説教壇から牧師が読み上げるべく定めた。これを反道徳的と拒否したウォーレスは、当時のエディンバラの教会の牧師職を追われる。その後、牧師の未亡人と遺児に対する「牧師寡婦基金」の設立に尽力する。年金数理の面のみならず、設立運動に中心的な役割を果たした。立法府との交渉に奔走し、1744年立法化に成功する。同年スコットランド宮廷司祭に任命される。
 ウォーレスはまた、1735年の「哲学協会」の創設にも関わっているが、この協会で1746年に報告されたものが本書の元となった。本書はヒュームとの間のいわゆる「人口論争」の書とされている。ウォーレスとヒュームは重縁というべきか、後にもブラウン(Brown, John: 1715-66)も加え三つ巴で、名誉革命体制の評価を巡って議論の応酬をすることになる。これが、経済学的にみて重要なウォーレスのもう一つ書である『グレイト・ブリテンの現在の政治的状況の諸特徴』(1758)である。名誉革命当時、イギリス(プロイセンと同盟)は、外にフランス・オーストリアとの七年戦争を戦い、内にはジャコバイトの反乱を抱えていた。ウォーレスは体制擁護派である。内外の敵からの名誉革命体制防衛という喫緊な政治的課題から、主要経済問題を考察する。ことに公債累積と紙券信用の問題が直面する経済的危機とされていた。ウォーレスのこの著書は、当時としては例外的とされるほど経済学的な論議に優れていた。そして、彼は、ヒュームとは反対に、銀行、紙券信用、公債という貨幣的手段を商品経済の拡大、産業の発展に有意義と是認している。ヒュームの論文「公信用について」や「貿易の差額について」(『政治論集』所収)が批判されているのである。この『諸特徴』には国富の本質についての原理的分析もあり「時論的考察を原理的分析によって裏づける方法を、そこにうかがうことができる」(坂本、1995、p.323)。

 まず本書成立の前史ともいうべきことから書いておこう。本書とヒュームの論文「古代諸国民の人口稠密について」(『政治論集』1752所収)とを併せて「ウォーレス、ヒュームの人口論争」として取り上げられることが多い。この「論争」は、果たして論争であるかは疑問ではある(注1)。しかし、古代人口を主題としたウォーレスおよびヒュームの書が広く「新旧論争」の文脈のなかで成立したことは、確かであろう。「新旧論争」とは、シャルル・ペローのルイ十四世への頌歌ともいうべき『ルイ大王の世紀』(1687)にはじまる、古代人と近代人のいずれが優秀かという論争である。17世紀末に近代派ぺローは、4巻物の『新旧対比』を出して、古代派ニコラス・ボアローと争った。もう一つの論争の山場は、18世紀初頭のホメロス翻訳を巡る古代派ダシエ夫人対近代派ウダール・ド・ラ・モットのものである。啓蒙時代の最中にある当時を文明興隆の絶頂にあるという見方と、古典古代の世界を理想とし当代はそこからの堕落であるとの見方の対立である(注2)。論争の決着は玉虫色であるとされる。その後論争は、主題を文学や思想から絵画や音楽へと拡げ、場所もフランスからヨーロッパ各地に及び、一世紀にわたって継続した。
 このような思潮のなかで、モンテスキューの『ペルシャ人の手紙』(1721)(注3)が出版された。モンテスキューは、古代優位の立場から、古代人口を論じている。これが嚆矢となり、ウォーレスやヒュームの古代人口論に影響を与えた。この本は、異邦人の旅行記を装っている。ペルシャ人の書いた手紙の形式で当時のフランス社会を批判した書簡体小説である。そこには「この種の事柄でできるだけ正確な計算にもとづいてわたしが発見したことは、地球上には古代にそこにいた人間の十分の一もいないということだ。それについて驚くべきことは、地球は日々に人口を減少していて、これにつづくとすると、いまから十世紀後には地表から人の影が消えうせることだ。」(モンテスキュー、1960、p.104)とある。モンテスキューによると、十七から十八世紀にかけて起った人口減少は、飢饉や戦争そして、ペストや新世界から持ち込まれた花柳病の猖獗によるもののみではない。自然的原因とは別個に、精神的原因がある。「習俗上」の理由があるのである。
 キリスト教と回教がローマ世界を分割した。これらの宗教はローマ人の宗教ほど人類繁栄に好都合ではない。前者では、離婚禁止と司祭・修道僧の存在が、後者では一夫多妻制が人口増加の妨げである。古典古代の世界では奴隷の存在も人間の増殖に資した。そして、当代の植民政策は本国の人口を減らし、植民地の風土は入植者を滅ぼす傾向を招いた。かえって、スイスやオランダのような最も地味に乏しいが「政治の温和」な国の人口(密度の意味であろう)が最も多いのであると書いている。
 次にヒューム論文「古代諸国民の人口稠密について」をみる。ヒュームがモンテスキューを意識していたことは、「もっとはるかに優れた才能と判断力をもつ著作家でも、この主題に利用しうる最善の計算によれば、現在地球にはユリウス・カエサルの時代の人類の50分の1もいないとあえて断言している。」(ヒューム、2010、p.159)と記すところで明らかである(注3)。しかしながら、「古代には現在主張されているほど人口が多かったというのは、確かであろうか?」と疑問を呈して、ヒュームは人口問題について「原因」に関する研究と「事実」に関する研究を取り混ぜて行う。古代と近代の人口稠密問題に何らかの結論を与えるには、両時代の社会的原因(moral causes)によって事実を判断するために、これら二つの時代の「家内」状況と「政治」状況を比較する必要がある。「家内」状況の差異は主として、奴隷制の有無であり、「政治」状況のそれは財産の平等と市民的自由である。家内奴隷制は人口増殖にとって不利である。この問題に関する限り近代の方が優れていると判断する。財産平等は生殖力に有利であり、政治的自由は党争を生み(古代には流血の惨事を度々ひき起こした)人口にとってマイナスであるとする。衒学的とも思えるギリシャ・ローマの古典を参照して、ヒュームは、これらの証明に力を注いでいる。ここで古代とは、ギリシャ・ローマまでの時代ことであるが、資料の制約からであろう、ほぼギリシャ・ローマ世界に限定されている。結論と思われる所を引いておこう。「このようにして全体を比較してみると、なぜ世界の人口は古代の方が近代より多かったはずなのか、に正当な理由を与えることは、不可能だと思われる。古代人のあいだのあの財産の平等、自由、および彼らの諸国家の小さな分割は、なるほど、人類の増殖に有利であった。しかし、彼らの戦争はいっそう血なまぐさく破壊的であったし、彼らの統治はいっそう党争が盛んで不安定で、商工業はより貧弱で不活発であり、全般的な治安行政はいっそう弛んでいて不規則であった。こうした短所は、前述の長所を十分に相殺し、むしろ、この主題に関して一般の有力な見解とは、正反対の見解を有利にすると思われる」(ヒューム、2010、p.210)と。

 さてこれからようやく、本書自体の内容に入る。ウォーレスは、ヒュームとは結論が反し、モンテスキューに同じ古代人口優位派である。人類は生殖力のみに任せておけば、人口増大は急速であろう。ウォーレスは1組の夫婦から出発して、33と1/3年毎に倍加する人口数の表を作っている(本書、p.4)。しかし、実際には人口は時とともに増加しないで、不規則な増加を示している。その原因には飢饉、疫病等の自然的原因と人間の愛情、制度等に依存する精神的原因がある。前者は技術、勤勉、社会制度により大部分防止可能なものであり、後者ほど大きな影響を与えない。これらの原因の作用の強弱により異なる時代の世界の人口数は変動した。古代のある時機に現在の住民よりはるかに多数が地球上に居住していたことはありうるし、絶えざる人口増加により、現在人口が過去のいずれの時代よりも大きいと想像する根拠はない。
 より特殊な研究に進むために、著者は五つの準則を置く。(1)狩猟、漁労、牧畜、自然の恵みで生活する野蛮未開の民は、同一面積に住む農業技術を持つ民ほど多数になれない。未耕作地は耕作地ほど住民を養えぬからである。食料の豊富に比例して住民数は決まる。(2)未開野蛮の時代は地球上に人が多くなく、国家、気候、土壌は人類増殖にとって総て等しく有利ではない。最善の文化、訓練、制度といえども、居住民に大きな差異が生ずる。(3)気候や土壌の質の他に、総ての国家の人口は、土地分割に関する政治的行動原理および制度に大きく依存する。古代の如く、土地が平等に均分されならば、土地の生産力が低く商工業が未発達でも、人びとは富裕であり、人口は多いであろう。(4)総ての国家の人口数は、結婚の数と多産性、及び結婚に対する奨励に、最も直接的に依存する。この点の援助に応じて人びとの数は増えるし、政策に宜しきを得なければ、人口増殖が阻害される。善良な道徳および質素な趣味と習慣の浸透に応じて、すなわち人びとがより倹約で道徳的であるかに応じて、国の人口は増える。(5)人類は大地の恵みと動物性の食物のみによって扶養でき、そして食料供給は農業、漁労、狩猟によってのみ可能であるから、可能な限り地球の人口を増加させるには、これらの技術、特に農業と漁業を発達させねばならない。こうして、農業・漁業およびその生産に必需な関連する技術に、より多くの人が従事するにつれて、世界の人口は増えると一般にいえる。必要技術の範囲の区分は難しいが、装飾と優雅にかかる技術は除外される。そして、装飾に関する技術、あるいは有用に関する技術がもっぱら優勢になるかどうかに従い、世界の住民数もおおよそ、より少なくなったり、より多くなったりするだろう。装飾の仕事に従事する人は、食糧増産に役立たず、食糧生産者に扶養されている。これらの人が直接食料生産に従事すれば、自分たち自身の必要分以上の食料を供給でき、全体としてより多くの人数を扶養できる。全地球がすべて耕し尽くされるまでは、世界の最大可能人口を実現するため、人類は直接に食料生産に従事すべきである。しかしながら、耕地が可能なまで開拓されれば、装飾技術にも余地が生じるであろう。食料生産のようなより必要な労働に従事する人は、彼ら自身の数よりも多くこれを購入できるに相違ないからである(本書、p.15-21)。
 この地球は、必要技術が最も多く学ばれる時に、最も多くの人口となる。多くの人の理解とは逆に、ウォーレスは、商工業は人類の数を増加させないで、かえって減少させる、商工業は、特殊な通商国家(食料輸入国)を富裕にし、多くの人々を一所に誘引することはあるけれども、全体としては有害であると考える。商工業は、奢侈をはびこらせ、多数の有用な人々が農業に従事することを阻害するからである(本書、p.21-22)。
 「要するに、私は次のように理解せざるを得ない。古代の純朴が残っており、人が農業と役立つ技術に従事し続け、必要なというよりも、より優雅な技術に転職しない間は、国民の人口はより多くなろう。そして贅沢がはびこると、増加がより緩慢になり、終には彼らの数は減少し始める。/これらの一般的観測は、異なる時代異なる国で、いかに人類が増加するかを示すであろう。そして、これを特定の国家の歴史に用いることによって、異なる時代における人口の大小について、よりよい意見を築くことができるだろう。同様に、古代歴史家の実際計算によって、ある程度知られた国の住民数決定に取り組めるかもしれない。しかし、この種の計算は不確かだと考えられ、最初の種類の結論がより堅実で強固である」(本書、p.31-2)。そうして、ヨーロッパの辺境やアジア・アフリカはよく知られていないが、歴史の舞台であった地中海周辺世界では、古代と近代が良く解っているので、より正確な判断が下せるとし、「より古代の時代に比べて、後世にはより少ない住民しかいなかった。現在も、より少ない状態である。これらの国ではローマ帝国建国以前が、続くどの時代よりも人口が多かったと表現できるであろう」(本書、p.32-3)と考える。
 以下の頁で、ギリシャ語やラテン語の文の引用を交えて、古代人口の実際の推定が長々書かれているのであるが、重要とも思われない。一足飛びに本文末尾に書かれた「結論」部分に移る。著者が聖職者の故か、多少抹香臭いというか説教臭がするが、ウォーレスが記すところは次のとおり。
 人は、慎ましく、簡素で、寡欲であること、そして労働への忍耐を涵養せよと哲学者が助言し、神は告げた。それは、これらの諸徳が、強固で永続的で自律的な幸福の入手を期待できる唯一の手段であることを示している。諸徳は内心の平和と心の平穏とをもたらす。しかし、これら諸徳は個人を幸福にするだけではない。さらには、前代の先祖から受け継いだ、地球の民を増やし、社会を繁栄させる最も確実な方法でもある。古代の人口を増やしたのは、質素な趣味、高潔、労働の忍耐そして少欲である。これら諸徳の衰退と退廃的で贅沢な趣味が入り込んだことが、近代人口が減少する大きな原因となっている。「人びとを繁栄させるのは、私民における贅沢の流布ではなく趣味の質素にあると結論してよいであろう。そして、著名な著者が全才能を使って示したこと、私益はすなわち公益―は決しありえない」(本書、p.159)。ウォーレスは、『蜂の寓話』のマンデヴィルを批判しているのである。
 なお本書は、本文の後に178頁に及ぶ「付録」を付している。標題紙にも掲げられているように、そこにはヒューム『政治論集』の古代人口論に対する評論が含まれている。

 これまで、ウォーレスのこの書は、主に人口論的な評価がなされて来た、いや現在でもそうかも知れない。人口論史上の巨人マルサスを基準に「マルサス以前をあつかう人口論史が、あたかもマルサスの先駆者を発見することを目的ごときの感じを」(永井、1962、p.72)まま与えがちである。そこにマルサス理論の要素がどれだけ含まれているかの評価である。ウォーレスには土地とその肥沃度の限界、人口の持続的増加傾向の他、上記の如く人口の幾何級数的増加についても書かれているのである。
 しかし、永井の本にはウォーレスに対する、これらの人口学的評価ではなく、いわば経済学的評価が強調されている。いわく「祖国スコットランドの近代化過程にたいする直接の関心を通じて、このような政策体系にたいする強烈な理論的関心をウォーレスはいだいたのであり、スコットランドの発展はいかなる方向にもとめられるべきであるかということが、彼に筆をとらせた直接の動機である」(永井、1962、p.8)。スコットランドの開発に関して書かれているのは、本文末尾の「結論」に至るわずか10頁(p.149-159)ほどの分量であるが、これが本書執筆動機だというのである。ほとんどが荒蕪地の北部(ハイランド)には漁業を、中部(ローランド)には製造業との社会分業で農業を発展させようとするのが彼の目論見である。当時のスコットランドの貧困は地主層の農業蔑視にその原因があり、農業蔑視は農村における奢侈の現れであった。「ウォーレスは、そのスコットランド経済開発計画からは想像しがたいのであるが、古代人口の近代人口にたいする優越を論証することにより、近代における政策的誤謬を立証しようとしたのである」(永井、1962、p.31)。近代の都市を中心とする奢侈が、農村人口を減らして農産物価格を上昇させる。それが農民・労働者を困窮させ、人口を減少させる。このことを古代・近代人口比較で実証しようとしたという訳である(注5)。
 さりながら、当時一般には「ヒューム=ウォーレス論争」は、あくまで人口比較の問題を扱ったものと考えられたのではないか、J.ステュアートは『経済の原理』(1767)のなかで、これについて「私が本章で意図することは、その問題に決着をつけることでもなければ、その問題に決着をつけることでもなければ、それについての意見を述べることでさえもなく、ましてや両人の提出した議論と争うことでもない。私は異なる観点から問題を考察しようというのである。すなわち、ある時期に地球上にどれだけの人間が存在していたかを研究するのではなく、増殖の自然的で合理的な原因を検討しようというのである。」(ステュアート、1998、p.17,下線引用者)と書かれているからである。小林昇の以下の記述が状況の説明として、私には解りやすい。ウォーレスの論文は人口法則の社会的基盤を論ずる部分と古代人口推定部分の組み合わせである。ヒュームは、後者を考証的に反駁することにより、前者を批判した。しかし、ウォーレスの反批判は再び古代人口推定に重きを置いたので、「社会の原理をめぐるこのふたりの間の対立は、のちの人びとからはたんなる人口論争として捉えられ、その理論的な深さとひろがりを充分に認識されないこととなった。」(小林、1962、p.38)と。
 ともあれ、ウォーレスの古代の方が近代より人口が多いとする主張は、今日から見ると奇矯とも思える説であるが、センサス資料が整備利用できるようになったのは、十九世紀初頭以降であるから、「十七・十八世紀の著作家たちは、統計的事実を全く知らないで、人口についての理論化を行った。…彼らが依拠せねばならなかったものは、ことごとく信頼しえない徴候や漠然たる印象にほかならなかった。」(シュンペーター、1956、p.526)のである。

 米国の古書店からの購入。標題紙の一部は変色している。装丁も弱っていて、外観はもうひとつの本である。
 
(注1)諸書に記されている(小林昇、1961等)「ウォーレス、ヒュームの人口論争」に触れておく。両書出版の経緯を見てみると、実態は論争といえるかどうか。確かにあとから上梓されたウォーレスの著には、付録においてヒュームの議論に対する批判がなされてはいる。しかし、ヒュームの側からいえば、単に両書の結論が正反対であっただけである(もっとも、『政治論集』の後の版では、ウォーレスの批判に対する「注」をつけたが、それとてもふれた程度で内容はない)。本書の起源をみるに、著者がエディンバラの哲学協会で1745年に発表した人口論の講演にあるが、当時ヒュームはイングランドに居住しこの講演を聞いていないと考えられる。ヒュームは1752年に、ウォーレスから該講演草稿を手入れした完成稿を見せられる。しかし同時に、ヒュームの方もウォーレスに「古代人口稠密論」の草稿を見せているのである。ヒュームの論文は、この時既に完成段階にあり、ウォーレスの論稿からは、些細な歴史的事例(二つの住民数計算例)を取り入れたに過ぎない。ヒュームの論文はウォーレスのそれから独立して書かれた著作であり、むしろ執筆動機はモンテスキューやフォシウスの書物からの影響にありとされる。そして、この人口論がヒュームの経済的研究の嚆矢とされる点では意義あるものであると思われる。
(注2)もっと平たくいえば、近代派の言葉「現在はただ現在のことを考えればいい。学校では青少年にローマの歴史家のものを何年もかかって読ませるが、そんな暇があったら現代のことを教えた方がずっといい。」(アザール、1973、p.61)が、論争の内容を表しているのではないか。
(注3)112書簡〜122書簡が人口を論じている。
(注4)モンテスキューが、『ペルシャ人の手紙』で示した数字は上記のとおり1/10である。1758年版は、1/15であるので、この間違いか。
(注5)ここまでは理解できるが、さらに進んで、「ヒューム=ウォーレス論争は、たんなる人口論争としてその勝敗をみるのではなく、スコットランド近代化をめぐる論争とみられるべきであり、したがってそれは、ウォーレスの問題意識にそくしていえば、文明化論争とよばれてさしつかえないものである。」(永井、1962、p.28)と書かれているのは、私にはもうひとつよく解らない。ヒュームの論文(幸いに翻訳あり)を見ても、近代化を扱ったものとは思えないからである。


(参考文献)
  1. ポール・アザール 野沢協訳 『ヨーロッパ精神の危機 1680-1715』 法政大学出版局、 1973年
  2. 小林昇 『経済学の形成時代』 未来社、1962年
  3. 坂本達哉 『ヒュームの文明社会 ―勤労・知識・自由― 』 創文社、1995年 
  4. シュンペーター 東畑精一訳 『経済分析の歴史 2』 岩波書店、1956年
  5. J.ステュアート 小林昇監訳 『経済の原理 ―第1・第2編― 』 名古屋大学出版会、 1998年
  6. 高橋誠一郎 『古版西洋経済書解題』 慶応出版社、1943年
  7. 田中敏弘 『イギリス経済思想史研究 ― マンデヴィル・ヒューム・スミスとイギリス重商主義―』御茶の水書房、 1984年
  8. 永井義雄 『イギリス急進主義の研究』 御茶の水書房、 1962年 
  9. 永井義雄 『自由と調和を求めて 』 ミネルヴァ書房、 2000年
  10. デイヴィッド・ヒューム 田中秀夫訳 『政治論集』  京都大学学術出版会、 2010年
  11. モンテスキュー 「ペルシャ人の手紙」(世界文学大系16 筑摩書房、1960年所収)
  12. Chambers, R, Biographical Dictionary of Eminent Scotsmen、Glasgow, Edinburgh, and London ,Blackie and Son , 1856 (但し、ウェブサイト Significant Scots より入手)




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(H23.8.2記.)



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