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ROUSSEAU, JEAN JACQUES, Discourse sur l'origine et les fondements de l'inégalité parmi les hommes, Amsterdam, Chez Marc Michel Rey., 1755, pp.lxx+1(Avertissement,Question)+262+1(Errata,Avis
pour le Relieur), 8vo.
ルソー『人間不平等起源論』1755年刊、初版初刷。
著者略歴:Rousseu,Jean-Jacçues ジャン=ジャック・ルソー(1712-1778)。ジュネーヴに生まれる。父イザックは市民資格を有する時計師、ダンス教師にもなった。母シュザンヌは、ジャックの出産直後に死亡。世話は伯母に任せられた。父も女性的性格で、育った環境は女性的であった。父と共に小説・歴史を読むという家庭教育を受ける。父が喧嘩が原因で出奔した後、徒弟修業等を経験する。1728年市の閉門に遅れたのを機にジュネーヴを逃亡し、放浪生活を送る。シャンベリーのヴァランス夫人の庇護を受け、夫人の勧めで、カトリックに改宗。後、愛人(33-38年)となる。この間、自己教育により、読書と音楽にいそしむ。40年マブリ家の家庭教師となり、コンディアックを知る。42年『音楽新記譜法』を携えて、音楽で身を立てるべくパリに出る。ディトロ等百科全書派の文人とも交友を結ぶ。ヴェネチア駐在フランス大使の秘書となり、政治の世界を知る(43-44年)。45年パリに戻ったルソーは、安宿のメイドであるテレーズを愛人とする。46-55年に、テレーズに生ませた5人の子供を捨てる。このことは終生の負い目となった。46年デュパン夫人とその義子フランクユ(財務省収税局長)の共通の秘書となり生活の安定を得る。このあたりまでが、彼の生涯の「準備期」とされる時代であろう。
50年『学問芸術論』が、懸賞論文に当選、一躍時代の寵児となる。寄生的文化人の立場を恥じ、論文の思想を実践するべく、一枚幾らの「写譜」生活を選択する。「彼にとって、文筆は、金もうけという動機でけがされてはならぬ天職なのだ」(桑原、1962、p.154)。53年には創作オペラ『村の占者』が大成功するが、栄誉の国王謁見を拒否した。56年パリ郊外モンモランシに移住、「レルミタージュ(隠者の庵の意)」やモン=ルイ等で隠棲生活を送る。『新エロイーズ』(61年刊行)や『社会契約論』、『エミール』(共に62年)が構想、執筆された充実した時期である。天才の爆発的な「開花期」であろう。その間、ドウドト夫人との老いらくの恋、ルソーの「全生涯ではじめての、たったひとつの恋」(ルソー、1965、p.248)があったが、失恋に終わる(57年)。
恋愛小説『新エロイーズ』は、18世紀最大のベスト・セラーとなったが、62年『エミール』により高等法院から逮捕令が出される。直ちにスイスへ逃亡する。ジュネーヴでも逮捕状が出る。逃亡期には、『コルシカ憲法草案』や『ポーランド統治論』等の重要な著作はあるが、公開を前提にしたものではなく、出版されたものはほとんどない。滞在先のモチエで村人の「投石事件」(ルソーの被害妄想ともいわれる)に遭い、サン=ピエール島に移る。一月ほどの滞在にもかかわらず、人生での至福な時間の思い出として残った(65年)。ベルン市当局から退去命令が出、各地をさまよう。『告白』は、終の棲家と考えた島を出たところで終わっている。
66年苦境にあるルソーに救いの手が差し伸べられた。折から滞仏中の哲学者ヒュームの帰国に際して、一緒に英国へ渡る。大歓迎を受けたが、被害妄想が激化し、ヒュームと対立して「ヒューム事件」と呼ばれる醜聞を起こす。翌年帰仏、各地を転々。68年テレーズと正式に結婚する。70年当局の黙認をえて、パリに居住。写譜で生活しながら、散歩と植物採取を楽しむ。晩年は、弁駁と自伝の著作の執筆に励んだ(第三期)。『告白』、『ルソー、ジャン=ジャックを裁く―対話』、『孤独な散歩者の夢想』(いずれも、82年死後出版)である。78年滞在先のエルムノンヴィルにあるジラルダン公爵邸で急死、同邸内のポプラ島に埋葬される。ルイ十五世が没し、十六世が即位した年の翌々年である。
以上、社会思想家としてのルソーについて主として書いたから、最後に文学者桑原武夫(1962、p.178)の言葉を付け加える。「ロマン主義の父として、告発小説の開祖として、自然美の発見者として、彼が文学の世界に及ぼした影響の革命性は、政治の世界への影響に決しておとるものではない」。
かつて、貴族、聖職者、法官等の特権階級を会員とする閉鎖的な学問研究の場であるアカデミーが存在した。18世紀初頭には、イタリア中心に欧州全体で500越え、フランスでも20を数えたという。とある法官貴族の遺産によって1740年に設立されたディジョン(ブルゴニュー州の首府)のアカデミーは、自然学・医学・モラル(精神)学の三部門から構成されていた。各部門は順に懸賞論文を募集した。49年モラル学部門の第三回目懸賞論文の課題は、「学問芸術の復興は、習俗の純化に寄与したか」であった。これに見事当選し、ルソーは思想家としてのデビューを果たした。それが、「学問・芸術論」(第一論文といわれる)である。
「学問・芸術論」は、文芸復興による学問・芸術の繁栄は、かえって人間の徳を堕落させたと論じた。課題に対して否定的な結論を提出したものである。論述には、文学的な誇張により反対概念や強烈なイメージで読者に印象を与えるレトリックを用いた。「彼の詩人的な表現、独自の文学的な誇張法を、いわば非常に素朴に荒っぽく用いて、しかも成功したのである」(平岡、1978、p.22)。幸い論文は評判を呼び、ルソーも愛読した『メルキュール・ド・フランス』をはじめとして多くの雑誌に書評され、読者も欧州全体に広がった。当然、批判も多く出されて、その文書の数は68にも及んだという。
批判に対して数十回にわたる長い論争を続けるなかで、ルソーは多分に直観に頼って形成した自らの思想を精査・点検し、再考することを余儀なくされた。徳の堕落と精神の腐敗の問題について、次第に学問・芸術部分への関心が薄まり、それらの原因である不平等に思考を集中するようになった。「学問・芸術論」の論争期、56年までには、ルソーはその基本思想の概要を形成した。悪は人間性に内在するものではなく、社会によるものであり、一般意志と社会契約にその解決を求めるものである。この時期に『人間不平等起源論』が書かれたのである。
執筆の直接契機となったのは、またもディジョンのアカデミーの懸賞論文である。今回は、モラル学部門の第四回目の懸賞課題(53年)「人びとのあいだにおける不平等の起源はなにか、そしてそれは自然法によって是認されるかどうか」に答えるものである。第二論文といわれる「人間不平等起源論」は、受賞のためにことさら印象的なレトリックを多用することもなく、自己の思想を率直に、いわば自分を納得させるように、受賞をも度外視して書かれた。「ルソーが真に彼独自の形式と修辞法を発見するのは、[中略]『人間不平等起源論』からであると思われる」(平岡、1978、p.22)。案の定、落選である。ルソーの論文は、あまりに長文で最後まで読まれなかったと審査の議事録に記録されている。三十分以内読了可能という応募規定に反していたのである。十二人の応募者のうち、タルベール師の論文が入選とされた。タルベールは、前回の懸賞論文では、ルソーの次席となっていることから、ルソー批判の含み味があるのであろう。前回、ルソー論文を報奨したことで、ディジョン・アカデミーは非難を受けた。ルソーの評判を挙げる結果となったことを悔やんで、危険な思想家に再度栄誉を与えるつもりはなかった。応募論文の原文は不明で単行本テキストとの異動は解らないが、「献辞」、「原註」等を追加して55年4月にオランダで出版された。
本書の基本思想となる着想を得た「天啓の瞬間」が後の書簡に書かれているので、下に引く。49年、当時ヴァンセンヌに監禁されていたディトロに会いに行く道中、ある木の下で、『メルキュール・ド・フランス』誌を読み出した。ディジョンのアカデミーの課題が目にとまる。「私の最初の著作を書くきっかけとなったものです。もし、突然の霊感らしいもののこの世に存在したためしがあるとすれば、これを読んだとき私の心のなかで起こった動きこそがそれです。突如として私の精神は、おびただしい光に照らされ、目のくらむ思いでした。いきいきした無数の考えが、同時に、力強く、混沌として湧きあがってきて、私は名状しがたい興奮と混乱に陥ってしまいました」人間は生まれつき善良であること、ただ社会制度のためにのみ悪人になるということを悟ったのである。つづけて、「あの木の下で十五分のあいだに天啓のようにひらめいた無数の偉大な心理のうちで、記憶にとどめえた限りのものは、私の三つの主要な著作、つまりあの最初の論文と不平等論と教育論のなかに、ごく薄められた形でちりばめられています。この三作は分けられないもので、あわせて一つの全体をつくっているのです」(1762年1月12日付書簡:『ルソー全集 第二巻』、1981、p.472-473)とし、『学問芸術論』、『人間不平等起源論』および『エミール』は、一体のものであることも書いている。
ルソー(の著書)をこの経済学書を扱うサイトで、取り上げることには我ながら違和感がある。しかし、『百科全書』の編集者ディトロは、その第5巻(55年)「経済」(Economie)項目の執筆をルソーに依頼しているのである。ケネー、ミラボー、チュルゴー、フォルボネ、コンドルセ等の経済学者(他の項目を執筆)を差し置いてである。もっとも、ディトロはその出来栄えに満足しなかったのか、『百科全書』11巻に再度「政治経済」(Œconomie
politique)という項目を設定して、ブランジェ(Boulanger)に執筆させている(桑原、1970、p.157-158)。付け加えると、ルソーはその他にも、専門家として音楽関係の項目も書いている。「経済」の項目は、単行本『政治経済論』Discours sur I'aeconomie politiqueとして、58年ジュネーヴで刊行された。
さらには、ルソーが『学問・芸術論』の刊行時、デュパン夫人とその義子フランクイユ(財務省収税局長)の下で、収税局長の出納係という経済の実務に携わっていた(ルソー、1965、p.133)ことを付け加えてもよかろう。そして、なによりも不平等は、経済学の主要なテーマの一つなのである。ちなみに、フレーデンは『ルソーの経済哲学』(2003、p.1)において、「われわれがジャン=ジャック・ルソーから継承している知的風景のなかでもっとも美しい場所の一つが、奇妙なことに長いあいだ人跡未踏のままであった。[中略]その場所とは、ルソーの経済哲学の領域」であると書いている(注1)。
本書は、まずジュネーヴ市民へ捧げる「献辞」ではじまり、「序」が続き、本文に入って「前文」(タイトルはついていない)、自然状態の「第一部」、社会状態の「第二部」および「(原)注」より構成されている。順に内容を見てゆく。
(献辞)
本書は、懸賞論文とは無関係なジュネーヴ共和国(市民総会)に献じられている。18世紀初頭から、ジュネーヴでは課税問題を巡って、政府と市民の間に幾多の騒乱が続いていた。1738年にベルン市等の調停により一応の和解が成立した。ルソーは「献辞」で、この調停を支持し、遵守するように求めた。政府側にはその主張を論駁して、共和国精神を高揚させるよう求め、市民側には過激派を批判して、軽挙妄動を諌めた。ルソーは、政府側からも市民側からも歓迎されると考えていた(訳書中山解説、2008)。
懸賞論文を書いてから、54年6月ルソーはテレーズとともにジュネーヴへ旅行する。市民の歓迎を受け、プロテスタントに改宗して(16歳で改宗したカソリックから「国教」へ回帰)ジュネーヴ市民へ復帰できた。「献辞」では、自分のことを「同胞市民」と署名している。元になる応募論文の執筆時(53-54年4月)はともかく、「献辞」が付けられた単行本刊行時(55年)にルソーがジュネーヴ市民であったのは間違いない(注2)。パリに戻って、『不平等起源論』の校正をしながら「献辞」が市民と政府を満足させないのではないか危惧した。事実ジュネーヴの本書に対する反響は、芳しいものではなかった。ルソーは希望していた再訪を断念する。
(序)
続く「序(Préface)」において、本論の荒筋が述べられている。人間の不平等の起源を研究するためには、困難ではあるが人類の原初的状態を知らねばならないこと。自然法について学者の定義が一致しないことが述べられている。本書において初めて、自然状態と社会状態という以後のルソー思想の展開の基盤となる思想が現れた。
原初的状態については、「人間の実際の本性において原初的に存在していたものと、人為によって生まれたものを区別するのは容易な業ではない。そしてもはや存在していない状態、おそらく存在したことのなかった状態、きっと今後も決して存在することのない状態を見分けるのも、容易なことではないわけである」(ルソー、2008、p.36:以下訳書引用はページ゙のみ表示)と書かれている。「人間の実際の本性」から「人為によって生まれた」と思われるものを順次分離していけば、最後に「原初的に存在していたもの」が残り、原初的状態の人間を把握できると多くの自然法学者は考えた。そのような方法は困難だとして、ルソーは採らない。彼の方法は、自己の心に沈潜して直接に「自然が創造した人間のほんらいの姿はどのようなものだったか」(p.33)を探究することである。
論文を執筆するために、テレーズ他四人の女性を連れて、パリ郊外のサン=ジェルマン・アン・レーの森に、一週間ばかり滞在した。「一日中、森に分け入って、そこに原初時代の面影を求め」(ルソー、1965、p.174)ただけではない。虚飾のパリ社交界に順応すべく形成された人為的で社会的な自己の外見の底を探り、内面の真実の自己を見つめた。本当の自分の姿を求めることによって、人間本来の状態を知ろうとした。自然人(l'homme naturel)は、人類学の標本ではない。幼年期を回想することにより得られた『エミール』に描かれたごとく、根源的で真実な人間の姿である。この内省的方法(思考実験といってもいい)については、ルソーはビュッフォンの引用に付けた「注二」で触れている。人間が自身を知るために、「内的な感覚」を使うことの重要性を説く。この方法について吉澤(1979、p.50)は、「むしろ『不平等起源論』はルソーの人生記録という意味あいが濃い」とまで書いている。
以上の内省的な方法が第一の方法であるとすれば、第二の方法は当時の自然誌を利用する方法である。狼等の野獣に育てられた野生児の記録および、大航海時代以来の旅行者や海外布教に携わった神父らの手になる未開人に関する民族誌が蓄積されていた。ルソーはこれらの書物を利用した。斯学の泰斗レヴィ=ストロースはルソーを「文化人類学を創始した」とし、『人間不平等起源論』を「最初の人類学原論」として称揚している。「ルソーは、世界のすみずみに住んでいる人々の研究を主張する一方、同時に、ほとんどその関心を彼の最も近くにいると思われるこの特殊な人間、すなわち彼自身に向けていた」(レヴィ=ストロース、1969、p.58)。第一部において、自然(原初)状態と自然人というものを、不充分ながらも論理面と事実面から証明しようとしている。
原初状態に関するルソー上記引用の後段についても、説明を加える。原初状態は、「もはや存在していない状態、おそらく存在したことのなかった状態、きっと今後も決して存在することのない状態」とされている。歴史上に実在した事実ではなく、将来に実現することもない、観念的な仮説であるとする。それだからこそ、「人間の現在の状態を正しく判断するには、こうした状態についての正しい見方が必用なのだ」(p.36)。それは、理想的な範型といわれるが、現実を抽象したウェーバーの「理想型」ではない。「彼の理論は、現実をただ捨象して生まれたというよりも、現実を一つの理想的な方向に変形して創造された、もう一つの高次の現実を対象としている」(平岡、1978、p.34)のである。価値判断の基準であり、社会と人間を区分するための完全な理想なのである。戸部(主要概念解説:ルソー、2001、p.310)は、プラトン『国家』の如く、天上に捧げられたイデアに比している。
原初状態が歴史上にも将来にも存在することがないとのこの一節は、方法論な考慮だけから書かれたのではない。フランスの政治的、社会的あるいは経済的不平等を論ずることは、当時のアンシャン・レジームを批判することに直結する。厳しい検閲下にあって、発禁・逮捕を免れるためには、巧妙な「仕掛け」(言い訳)が必要とされたのである。とりわけ、宗教界に対する考慮が必要であっただろう。実際、後に『エミール』の出版によって、カトリックのフランスのみならず、プロテスタントのジュネーヴからもルソーに対する逮捕状が出されたのである。
不平等を考えるためには、原初的な社会にまで遡って考察を進める必要があった。歴史を遡及することは、聖書の「創世記」が教えるキリスト教の公式教義に反することを説くことになるかもしれない。当時の啓蒙哲学者が、宗教に触れる際に一定の配慮をしたように、ルソーも予防線を張る必要があった。「だからすべての事実から離れることから始めよう。事実では問題の核心にふれることはできないからだ。この主題について研究できるのは歴史的な真理ではない。仮定と条件に基づいて推理できるだけである。真の起源を明らかにするのではなく、事態の本性を解明することがふさわしいのである」(p.53)と「前文」に書かれている。ここで、「事実」とか「歴史的な真理」とは、聖書に記載されたことをいっていると思う。
聖書では神はアダムとイブという男女をエデンの園に置き、言語能力も与えている。後に見る様に、ルソーの原初状態では、人類は家族を形成せず、言語も持たないのである。神はまた、衣服や牧羊・農工という技術を授けていた。「聖書を読んでみれば、最初の人間が神から直接に知識の光と掟を与えられたのであり、自然状態(注3)のうちに存在していたのではないことは明らかである」(p.52)。それでも、「宗教とても、人間とその周囲の存在物の本性だけに基づいて、人間が[神の干渉なしに]そのままにおかれたならどうなっていたかについて推測することを禁じてはいないのである」(p.53)。ルソーは大方の啓蒙哲学者のように無神論者ではなく、有神論者であったが、「ルソーの歴史哲学は神の摂理の支配からほとんど完全に独立し、その意味で、『不平等論』は有神論者ルソーの書いた最も無神論的な著作」(川合、2002、p.29)なのである。
続いて「序」のなかで、原初状態の人間行動を律する「理性に先立つ二つの原理」という良く知られた議論が述べられている。まず引いてみる。「人間の魂の原初的でもっとも素朴な働きについて考察してみると、理性に先立つ二つの原理を見分けることができるということである。一つの原理は、わたくしたちにみずからの幸福と自己保存への強い関心をもたせるものである。もう一つの原理は、感情をもったあらゆる存在、とくに同類である他の人間たちが死んだり、苦しんだりするのをみることに、自然な反感を覚えることである/わたくしたちの精神は、この二つの原理を調和させ,組み合わせることができるのであり、そこから自然法(ドロワ・ナチュレル)のすべての規則を導きだせる。ここに必ずしも社会性(ソシアビリテ)の原理を導入する必要はないのである」(p.41-42)。
人間は本来、原初的な状態でも、自己の幸福を追求し、自己保存を求める本能がある。それだけではなく、他人の苦しみに対する憐憫の情も持っている。前者は「自己愛」(amour
de soi)(p.107)という自然な感情で、社会関係から生まれる「利己愛」(amour-propre、利己心あるいは自尊心とも)(p.102)とは、まったく別のものである。後者「憐憫」(pitié)(p.102)は、「惻隠の情」(commisération)(p.105)ともいわれ、ホッブスにもないルソー独特の概念である。この原理は、「特定の状況においては人間の利己愛(アムール・プロープル)の激しさを和らげるために、あるいは利己愛が発生する前の段階では、自己保存の欲求を和らげるために、人間に与えられた原理である。すなわち人間は、自分の同胞が苦しんでいるのを目にすることに、生まれつきの嫌悪を感じるということである」(p.102)。それは、「馬たちが生き物を足で踏むことを嫌う」(p.102)ように動物にもある。
以上の原理を組み合わせることで、「自然法のすべての規則を導きだせる」とルソーは考えるのである。ここでは、直接的には、上記二原理から自然法の原理が導出される説明は書かれていないように私には思えるのだが。それはともかく、同じ箇所で「社会性の原理」すなわち人間の「自然の社交性(sociabilité
naturelle)」とされるものを否定したことは、『不平等論』の重大な特徴である。グロティウスやプーエフェンドルフ、百科全書派の思想家に至るまで、自然法思想の基礎には社会性原理があった。理性原理に先立つ原初状態の人間から「社会性の原理を導入する必要はない」として排除しても、それは可能なのであろうか。社交性を排除された自然人は、社会はもちろん宗教さえ持たない、完全に孤立した存在である。この場合憐憫は社交性の機能を持たない。「憐憫は道徳的感情であっても社交的な感情ではない」(川合、2002、p.95)ので、人間を相互に親しませるような作用は持っていないのである。
社会形成における生物学的契機=社交性を否定するなら、代わる契機は非生物学的なものにならざるを得ない。そのことは、社会は人為的な社会契約によってのみ成立するという主張に結実する。「ルソーにおいては、一切の社会の基礎は契約に還元されている」。自然状態での人間を孤立した存在としたのは、社会形成の基礎として社会契約を導出するためである。「社会契約は、自然な自生的社会の単なる外皮ではなく、社会の土台そのものである」(川合、2002、p.112)(注4)。しかし、それは「理性に先立つ二つの原理」の世界から、理性の発達によって歴史が始まり、人間固有の原理によって社会形成に向かう段階の世界であるから、後に「第二部」の説明の所で詳説することとする。
(前文)
本文のはじめには、題名のない短い文章が付され、「前文」とか「前書き」とか称されている。不平等を語るに際してのルソーの基本的な見方が述べられている。まず、第一に不平等には二種類あることが取り上げられる。一つは、「自然の不平等または身体的不平等」と呼ばれるものであり、いま一つは「社会的または政治的不平等」と呼ばれるものである。
自然の不平等は、自然状態でも存在するが、環境による淘汰で拡大するとは考えにくいし、自然人(とりあえず原初的状態の人間とする)は孤立して人間関係を結ぶこともないため、不平等は無視できる。自然の不平等は社会状態の下で、固定化され増大される。しかしながら、「自然の不平等と政治的な不平等の間に、何らかの本質的な絆があるのかどうかを問うこと[中略]身体や精神の力、知恵や徳が、同じ人のうちでいつも権力や富と比例しているかを問うこと」(p.50)は、意味のないことだと書かれている。アンシャン・レジーム下での社会的不平等にとりわけ敏感であったルソーではあるが、個人の自然的不平等に比例する社会的不平等は是認し、一律の平等な分配は求めていない。このルソーの平等感は「比例的平等主義」とも呼ばれている(注5)。
「前文」に書かれている他のことについては、「序論」のところでも触れたので、書き残したことを一つだけ書き加える。上述のように、多くの自然法学者は、現在の人間の本性から、人為的なものをひとつひとつ取り除けば、自然人にたどり着けると考えた。しかし、結局のところ誰もが、「社会のなかでみいだした考え方を、自然状態に満ち込んだのだった。野生人(オム・ソヴァージュ)について語りながら、社会のなかの人間を描いていたのだ」(p.52)。ルソーによれば、ホッブスをはじめとする多くの学者は、社会状態での人間の心性を自然状態の人間に持ち込んだのである。人間の心性の余りにも多くの部分を固定的なものと見なし、自然状態でも社会状態でも同一不変だとみなした誤りを犯したのである。
(第一部)
先に、第一部は自然状態、第二部は社会状態を扱うと書いたが、正確には第二部前半でも自然状態が扱われている。政治社会が形成されるまでの変化する自然状態の歴史的な記述部分がそれである。第二部の「第二の自然状態」に対して、第一部のものは「純粋な自然状態(le
pur état de nature)」(p.115)と呼ばれる。自然状態という概念はホッブスの『市民論』に始まるとされる。ルソーの「純粋な自然状態」は、第二部(「第二の自然状態」)における「自然状態の第一段階」すなわち「原初的状態」とほぼ同じと考えてよいようだ。
既述のように、この自然状態は実在したものとは考えられてはいない(だからそこに「回帰」することは不可能である)。ルソーによって生み出された虚構ではあるが、彼の筆力で現実を髣髴させるリアリティを具え、「研究者によって、ルソーの自然状態は結局、虚構ではあるが同時に実在性を帯びた両義的概念として把握されている」(川合、2002、p.44)。
自然人は、「樫の木の下で満腹になって、最初に見つけた小川で渇きを満たし、食事[のための木の実]を与えてくれた樫の木の下に寝床を見つけている」(p.59)。それまでの自然法学者の考えた自然状態は陰惨で不幸な状態であり、自然人は愚昧な野蛮人であるというのが、一般的であった。ルソーの考えは、それらと対照的である。たしかに、野獣よりも恐るべき敵として、「生まれつきの病弱、幼少期、老衰、あらゆる種類の病気があり、人間はこの敵から身を守るすべを知らない」(p.64)のであるが、これらの多くが社会で暮らすことにより深刻となったものであり、自然状態では重大なものではないとする。
第一部前半では、自然人の身体的側面を記述するが、後半は「形而上学的および道徳的(モラル)な側面」(p.72)からの自然人の描写である。そこでまず取り上げられるのは、人間と動物の相違である。自由と自己改善能力(自己完成能力とも:perfectibilité)がそれである。動物は自然がすべてを決定するが、人間は自然の定めた規則から離れることが出来る。動物は本能に従って行動するが、人間は自由な意思により行為を選択する。人間と動物との固有の相違は、知性の有無にあるのではなく、人間が自由な行為者であることにある。それ以上に重要なのが、「人間にはみずからを改善していく能力がそなわっているということである」(p.74-75)。人間にだけ備わっている自己改善能力は、知識を獲得し技術を開発する能力であり、文明の基である。しかしそれはまた、第二部にみられるように人間が自己の存在を変化させる潜在能力でもあり、功罪ともに併せ持つ。「この特異な、そして無制限な能力が、人間のすべての不幸の源泉であること、この能力が時の経過とともに、平和で無辜なままに過ごしていた原初の状態から人間をひきずりだすものであることを認めざるをえないのは、なんとも悲しいことではないか。この能力こそが人間のうちに知識の光と誤謬とを、悪徳と美徳とを、数世紀の時の流れのうちに孵化させて、ついに人間を自己と自然を支配する暴君にまでしてしまったのである」(p.75)。
この後、ルソーは言語の起源と発達に関する考察を長々と挿入する。『言語起源論』(1781年死後出版)で詳しく展開される問題であるが、ここでは省略する。次に道徳の問題に移る。「自然状態のうちに生きていた人々は、互いにいかなる意味でも道徳的な関係を結んでいないし、義務も知られていないのだから、善人でも悪人でもなく、悪徳も美徳も知られなかったと考えられる」(p.98)。他人との関係を待たず、社会も法もない世界では、善悪の区別も存在しない。人間が社会を形成し、文明化することによって人間は悪人になったのである。自然状態の人間はもともと善なる心性を持っていたと考える。
そしてその後、序で触れた「憐憫」をここでも再度取り上げている。ホッブスの自然状態「万人に対する万人の闘争」説を批判する箇所である。異性に対する愛情ももたず、生み捨てて自分の子供も見分けがつかない(p.85)ルソーの自然人が憐憫の感情を持つことは、奇妙に思える。そこには、ホッブスの「闘争(戦争)状態」理論を批判するための「戦略的意味」があるという(注6)。憐憫の情を持つゆえに、万人は互いに殺し合うことなく平和に共存できる。重複をいとわず、引用すると、「ホッブスが知らなかった別の原理がある。それは、特定の状況においては人間の利己愛(アムール・プロープル)の激しさを和らげる」(p.102)憐憫の原理である。ルソーの「自然状態とは、わたくしたちの自己保存の営みが、他者の自己保存の営みを害することのもっとも少ない状態であり、この状態こそが、本来もっとも、平和的で、人類にもっとも適した状態」(p.100)なのである。
自然人(野生人)は、住居も家族も持たず、言語も有しない。森の中を孤独に彷徨し、他人と交際することもないから、人間関係はなく、隷属状態が発生する余地はない。その生活は、衣・食・住とも一様であり、行動も似たようなものである。自然的不平等(それも小さいものである)以上の不平等の拡大はありえない。「野生人は、隷属とか支配とか言われても、何のことか理解することもできないだろう」(p.117)。ある人間を隷属させるためには、その人間を他人なしでは生きられぬようにする必要がある。自然状態ではこのような状況は起きないから、人間はあらゆる軛から自由である。「所有するものが何もない人々のあいだで、他人を自分に依存させる<鎖>をどのようにして作りだすことができるだろうか」(p.118)。
(第二部)
第二部は次のもっとも良く知られた一文からはじまる。もっとも引用される箇所かも知れない。「ある広さの土地に囲いを作って、これはわたしのものだと宣言することを思いつき、それを信じてしまうほど素朴な人びとをみいだした最初の人こそ、市民社会を創設した人なのである」(強調原文:p.123)。
確かに農業が開始されるには、土地の所有が必用なのである。ルソー自ら述べている。「畑に実ったものが人間や動物に好ましいものであれば、畑に最初に来た者が根こそぎにしてもっていってしまうではないか。そして労働して育てたものが自分にとって必要であればあるほど、[最初に来た者に奪われてしまうので]栽培のための労働の代価を手にできないのは確実なのに、辛い労働に自分の人生を費やすることを決意する人などいるだろうか。要するにこのような状況を考えると、土地が人間のあいだで分配されていないかぎり、[中略]人間が土地を耕すようになるとは考えられないのである」(p.81-82)。
修辞的なインパクトを与えるためなのか、この冒頭部分は唐突な感を受ける。必ずしも、以下の行文と上手く繋がっていないように思える。ともかく、第二部の主要部分の内容を順に紹介してゆく。
第一部に描かれた「純粋な自然状態」では、時間は流れても歴史はない。技術の発明も発明者の死と共に失われ、教育もなかった。「それぞれの世代は前の世代が始めたところからやり直すのであり、無数の世紀の後にも、原初の粗野な状態のままにとどまっていた。種はすでに老いていたが、人間はいつまでも子供のままだった」(p.115)のである。それは、現実の世界にも歴史上も存在しない社会、社会の始点というよりも現実を批判するための極北の世界であった。
第二部は社会の起源とその発展の歴史を描いたものといえる。「さまざまな出来事と知識がゆっくりと継続していく様子を、ただ一つの視点に集中しながら、ごく自然な順序にしたがって発展させてみよう」(p.124)という。ここで「ただ一つの視点」とは所有権思想が形成される視点である。その発展段階については、解釈する学者により三段階または四段階に区分される(注7)。次に、戸部の解説(2001、p.324-330)に寄り掛って各段階(三段階)を書いてみる。先に書いたようにこれらの段階もまた「自然状態」なのである。
(1)自然状態の第一の段階、すなわち原初的状態
第一部の「純粋な自然状態」に「非常に近い」とされている。むしろ私には、その違いがよく理解できない。この段階では、個人という意識もないため、所有という観念は一切なかった。
第2節以降、静止した均衡社会が動き始め、歴史が始まり第二段階へ向かう。「生まれつつある人間の状態」(p.125)である。
(2)自然状態の第二の段階、すなわち「世界の青春期」
「ある種の財産」(私有財産:p.131)が発生し、家族と固有言語が形成される。技術進歩により人類は定住をはじめる。森を彷徨し、散在していた人々は一定の場所に集住し群れを形成する。「いつも同じ隣人と暮らしていると、複数の家族のあいだにある種の結びつきが発生するものである」(p.135)。共通の風土と生活様式を持つ者たちの、習俗を同じくする共同体である。ただし、「国家」は未だ形成されず、「部族」集団をなしている段階である。したがって、法律や権力機構はない。「復讐への恐怖が、法による歯止めと同じ役割をはたした」(p.138)。
人びとは互いに評価しあうようになり、自尊心が生まれ(他方では軽蔑が生まれる)、己に対する尊敬を要求するようになる。歌や踊りの巧者、美人、強者、雄弁家が尊敬される。「これが不平等が発生するための、同時に悪徳が生まれるための第一歩となったのである」(p.136)。
社会が始まる端緒の状態、「人間の能力のこの発達時期は、原始的な鈍感な状態と狂おしい利己愛が働く状態のちょうど中間にあり、もっとも幸福で、もっとも永続的な時期だったに違いない」(p.139)。そして忌まわしい偶然が起きなければ、人間はこの状態を離れなかった。未開民族の多くが、まだこの状態に留まっていることから考えても、人類はむしろこの状態にずっと留まるように作られていたのである。ルソーは、第二段階を人間にとって、「もっとも幸福」な時期としている。
(3)自然状態の最終段階、すなわち「戦争状態」
「一人の人間が他人の援助を必要とするようになった瞬間から、また一人で二人分の食料を確保しておくのは有益であることに気づいた瞬間から、平等は姿を消し、私有財産が導入され、労働が必要になった。[中略]やがて隷属と窮乏が芽生え、作物とともに成長していくようになる/人間の発明のうちで、この巨大な革命を作りだした二つの技術が、冶金術と農業である」(p.140)。
ここで農業とは、つとに原理的には知られていて、「鋭い石や尖った棒を使って」「小屋の周囲に葉野菜や根菜」の栽培を営む原始農業のことではない。「大規模に小麦を栽培する」(p.142)営みのことである。そのためには播種とは「将来において多量の収穫を手にするために、今の時点で穀物を[地に蒔いて]捨てる」(p.143)ことを理解出来ていなければならない。栽培の前に、開墾がなされねばならないし、農地には灌漑設備も必要である。この大規模農業を営むためには、道具としての鉄が必須である。冶金業が同時に存在せねばならないのである。
されば、冶金業に従事する人に食料を供給する農業者が必要になる。「鉄の製造に従事する人の数が増えると、全員の食料を確保するために必要な人数も減ってしまうが、食べる口が減ったわけではない。そしてある人々は鉄と交換に食料を入手する必要があったが、別の人々は食料を増産するために鉄を利用する秘密をみいだしたのである。こうして一方では土地の耕作と農業が発生し、他方では金属を加工する技術と、金属を利用するさまざまな方法が誕生したのである」(p.143)。分業の発生と生産性の向上が描かれている。生産性の向上には分業の他に、併せて(鉄の利用による)技術革新の効果も含まれていると言っていいのではないか。
農工分業は各人の才能が同等であれば、そして双方の需給が一致しておれば、平等社会の均衡状態のままにあったに違いない。しかし、より強力なもの、巧みな者は同じ労働で大儲けをし、そうでない者は暮らしに事欠くことにもなった。自然の不平等は、農業により発生した所有権思想の発達とともにしだいに拡大し、「状況の相違によって発生した人間のあいだの違いは、その労働の成果においてはさらに明確で、永続的なものとなった。これが同じ比率で、個人の運命に影響し始めたのである」(p.145)。これ以降は、自然状態は一気呵成に変貌を遂げる。
人間のあらゆる能力は発揮され、利己愛が利害に目覚め、精神は可能な最高の段階に到達した。多くの自由で独立した人間が他人に隷属した。富める者は、自分の奴隷を利用して新たな奴隷を手に入れる。土地はすべて私有され、他人の土地を奪うことによってしか、新たに獲得はできなくなる。最も強力な者たちと、土地を最初に占有した者たちに紛争が生じ、争いは殺戮なしに終わらない。「生まれつつある社会は、きわめて恐るべき戦争状態になったのである」(p.150)。ホッブスの言う「万人の万人に対する闘争」状態にほかならない。これでは、文明国の現状と同じではないかとも思える。しかしながら、「未だ法も、統治体制も存在していないという意味において、従ってまた、法律によって確立された正義の規則がまだ人間の行動原理を規定することがないという意味において、この状態は依然として自然状態であり続けるのである」(強調原文:戸部、p.330)。
このような悲惨な状態では、勤勉によって富を築いた者も所有権を確固として保持できなかった。富の略奪を狙う輩を防ぐ術が必要とされた。必要に迫られた富者は名案を思い付く。「それは自分たちを攻撃する人々の力そのものを利用するということだった。敵たちをみずからの保護者にすること」(p.152)である。すべての人が武装して相互に攻撃し合うことの恐怖を説いた。野心家による弱者の抑圧を防止し、貧者・富者を問わず安全が確保されるには、団結する他ない。「正義と平和の規則を定めようではないか。すべての者がこの規則にしたがうことを義務づけ、誰も特別扱いせず、強い者にも弱い者にも平等に自分の義務にしたがわせるのだ。[中略]一言で言えば、われわれの力を自分たちに向けるのではなく、至高の権力へとまとめあげるのだ」(p.153)。自由を守るためには、規則に従うという義務を受け容れること、すなわち自由の一部を放棄する必要がある。「あたかも腕に傷を負った人が、自分の身体の残りの部分を守るために、腕を切断することに同意するかのように。/社会と法の起源はこうだったか、あるいはこのようなものだったに違いない。これは弱い者たちには新たな軛を加え、富める者には新たな力を与えるものだった」(p.154)。人間は、戦争状態を回避し自らの滅亡を招かぬ為に社会契約を締結した。そして、自然状態を抜け出し、政治社会を設立したのである。
ルソーは、その後、政治社会の起源に関する先行理論を批判する。そして真の社会契約の内容については、簡単にしか触れていない(『社会契約論』1761において詳述される)。それは、第一に契約の締結当事者、首長と人民の双方にその遵守を義務づける。国家のすべての成員は例外なくこの基本法を守らなければならない。第二に、この基本法には、為政者の選出法とその権限を規定する。為政者は、「みずからに委ねられた権力を、それを委託したもの[人民]の意向にしたがって行使することを義務づけられ、[中略]そしていかなる場合にも自分の利益よりも公共の利益を優先することを義務づけられるのである」(p.170-171)。為政者は国家の官吏にすぎない。第三は、基本法の撤回可能性である。基本法に基づいて設立された国家体制に弊害が生じる場合がある。その場合でも、為政者の利益のために、その体制の維持が図られることもあるかもしれない。「国家の本質を構成するものは為政者ではなく法であったはず」(p.171)だから、「契約の当事者は、他の当事者が契約条件に違反していることを確認した場合や、契約条件がみずからに適切なものでなくなった場合には、いつでも契約を破棄する権利を所有しているのである」(p.172)。これらの特徴は近代的人民主権論といっていいものである。
現実の統治形態としてルソーは、君主制、貴族政および民主政というモンテスキュー等の伝統的な三区分法を取っている。「これらの形態のうちでどれが人間にとってもっとも望ましいものであったかは、時間の経過とともに明らかとなった。[中略]要するに一方には幸福と徳があり、他方には富と征服があったのである」(p.174)。ここで、前者の一方は民主政を示しているものと考えられ、民主政の優位を考えていたこと間違いない(注8)。
このようにして成立した政治社会もまた、自然状態同様に、必然的に堕落の途を巡る。堕落の段階も同様に三段階である。「第一の時期は、法が定められ、所有権が確立された時期である。第二は、為政者の地位が定められた時期である。第三の最後の段階は、合法的な権力が恣意的な権力に変貌した時期である」(p.176)。第三段階は、不平等の最終段階であり、ルソーが現実に生きた専制的なフランス絶対王政下の社会でもあった。
最終段階は、不平等の到達点、究極の場所である。「こうして円環が閉じられ、わたしたちが考察を始めた最初のところに戻るのである。この場所ではすべての個人がふたたび平等になる」(p.184)。君主以外のすべての人民は奴隷として平等である。人民は何も所有せず、君主の意志の他にいかなる法もない。君主の情念のみが規則である。「残されたのは最強者の法のみであり、これは新しい自然状態である」(p.184)。最終段階「以後は、新しい革命が政治を完全に崩壊させるか、[恣意的でない:引用者]合法的な政治体制にふたたび近づけるかのどちらかの道が遺されるだけである」(p.176)。
本文の最後にまとめの部分がある。そのなかでも、もっとも要約的な箇所を次に写す。「自然状態においては不平等はほとんど存在していなかったこと、人間の精神の発達と人間の能力の開発とから、不平等が力を増し、拡大してきたこと、最後に、所有権と法の確立によって、不平等が安定したもの、合法的なものとなったことである」(p.190)。
1755年にオランダで出版。発行部数は調べられなかったが、1,700部がパリで販売されたとあるから、初版は2,000部くらいか。当時としては、大部数と思う。多くの海賊版が出ている。「初版」を装った海賊版が何種類かあり、本当の初版初刷を見わける14のポイントがDuforによって示されている。これらの諸点中、3点についてはCancel(ページ差し替え)である。私蔵本でも、該当ページは本の背に近い所で、紙が継ぎ足されたようにみえる。しかし、原装のままではなく製本し直されているので、これがCancelなのかどうか私には良く解らない。他の11点については、初版初刷の特徴と一致していることが確認できた。購入した本屋の説明文にも、Duforのポイントを満たしていると表示されていた。その他に別の書誌学者によって追加の2点が指摘されているが、これにも合致している。
ただ、種々の古書店カタログを見ると、ホッテントット脱走の口絵(Frontispiece)は、その名の通り「標題紙に向かい合った挿絵」(カーター『西洋書誌学入門』)であるから、その場所にある。私蔵本では該当のp.259(口絵にもそう印刷されている)の前に置かれて製本されている。
二色刷りの標題紙で、銅版画の絵も良いことから、経済学プロパーの本ではないが、かねてから購入したいと思っていた。比較的安価で状態の良い本に巡り合えたので、購入した。ドイツの古書店からの購入。
(注1) フレーデンの本は、「経済哲学に限定した解釈学的な試論である」(p.11)といいながら、ルソーの著作中の経済哲学よりもむしろ経済分析の道具に関心を寄せているように私には思えた。自然人が共同で狩りをするところを、ゲーム理論的に解釈する箇所などである。他に、印象的だったのは、ルソーは経済論において、生存権を重視していたこと。および、ルソーは不平等それ自身としてよりも、経済交渉において貧者を弱者の立場に置くことを重視した――と論じた部分であった。
(注2) 後に『エミール』の出版で、市民資格を剥奪される。なお、中山解説では、ジュネーヴ市民の署名について、「この署名は正確には偽りだったのであり、ルソーはジュネーヴに戻って、市民の地位を回復する必要があったのである。この書物を献呈したのはそのためである」(強調引用者:p.383)とされている。桑原(1962)の本にも、「『不平等起源論』に「ジュネーヴ共和国への献辞」をつけるという布石をしたうえで、ジュネーヴに旅行する。これは彼にとって、いわば凱旋旅行というべき意味をもったものであった」(p.155)との記載がある。しかしながら、少なくとも、本の出版時、そしてその内容が周知された時は、市民権を得ていたとしてよい。正確な経緯は、ジュネーヴに向かう途中シャンベリーで、共和国宛て「献辞」を作成、「1754年6月12日」と記入。ジュネーヴには6月末に着いた(ルソー、2001、戸部作成「年譜」による)らしい。献呈すべき書物はまだ存在しなかった。原稿が出版業者に渡ったのは9月である。その辺の事情が混乱(私だけかもしれない)の原因であろう。
(注3) 文脈から見て後記「純粋な自然状態」のこと。
(注4) 第二部で、「自然状態の第二段階」で人類は集住することになっている。ここでは、自然状態であるから法律は当然存在しない。社会契約という基本法も存在しないはずである。この段階で人は何によって集まるのであろうか。このあたりは、私にはよく解らない。川合(2002、p.112)は、「『不平等論』には、人間の自然本性は非社会的であるという断定はどこにも存在しない」と一見矛盾するような記述もある。また、中山(訳解説:2008,p.341)は「憐憫」(中山訳では「憐み」)に社交性に代替する機能を認めているようである。
(注5) 川合(2002)による。ガルヴァーノ・デッラ・ヴォルペ『ルソーとマルクス』記載とのこと(この本は未見)。
(注6) 中山解説による。但し、中山はもう一つの「憐憫」の戦略的意義として「注2」に書いたように、社会性を否定した自然人の、社会形成の契機をあげている。
(注7) 例えば、中山(訳解説、2008)の区分は次の四段階。1.生まれつつある人間、2.言語と家族の起源、3.私有財産と利己愛の誕生、4.文明の成立。
(注8) 『社会契約論』第八章においては、君主制は富裕な国民(大国)にのみ適し、貴族政は中くらいの国家に適し、民主制は貧しい小国家に適するとしている。三政体を並列においているように見え、人民主権論にもとるように思える。しかし、ルソーは「共和制」という概念で、一般意志に支配される市民の自由と権利を保障する合法的政府を意味させる。この条件に適う政体は、貴族政、王政でも共和制と称せるとする(平岡、p.33)。
(参考文献)
- 川合清隆 『ルソーの啓蒙哲学』 名古屋大学出版会、2002年
- 桑瀬章二郎編 『ルソーを学ぶ人のために』 世界思想社、2010年
- 桑原武夫編 『ルソー』 岩波新書、1962年
- 桑原武夫編 『フランス百科全書の研究』 岩波書店、1970年
- 中里良二 『ルソー』 清水書院、1969年
- 平岡昇 「ルソーの思想と作品」(『世界の名著 ルソー』 中央公論社 1978年 所収)
- B・フレーデン 鈴木信雄他訳 『ルソーの経済哲学』 日本経済評論社、2003年
- 吉澤昇他 『ルソー 著作と思想』有斐閣1979年
- ルソー 桑原武夫訳 『告白 (中)』 岩波文庫、1965年
- ルソー 桑原武夫訳 『告白 (下)』 岩波文庫、1966年
- ルソー 佐々木康之訳 「マルゼルブ租税院長官への四通の手紙」(『ルソー全集 第二巻』 白水社、1981年 所収)
- ジャン=ジャック・ルソー 戸部松実 翻訳・訳注・解説 『不平等論 その起源と根拠』 図書刊行会、2001年
- ルソー 中山元訳 『人間不平等起源論』 光文社、2008年
- レヴィ=ストロース 塙嘉彦訳 「人類学の創始者ルソー」(山口昌男編 『未開と文明 現代人の思想 15』所収、平凡社、1969 所収)
翻訳の引用は、中山訳によった。


標題紙(拡大可能)

「口絵」

(初版初刷判定ポイントの一つ:下から3行目のアクサンギューの手書き)
(2015/11/20記)

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