QUESNAY, F., Tableau oeconomique avec ses explications. (Mirabeau, Victor de Riquetti, marquis de. L'ami des hommes, ou, Traité de la population. Nouvelle ed., Avignon, Publisher unknown, 1758-1760, 6vols., 12mo.) ケネー 「経済表」(ミラボー 『人民の友』第6部所収) 著者略歴: フランソワ・ケネー François Quesnay(1694-1774)。肖像画では、猿猴に似たと評されるこの人物は、パリの西約40㎞のメーレ(Méré)村に女8人、男4人、合計12人の、四男(第八子)として生まれた。その内生存したのはケネーを含め4人。ケネー家は当地で代々農を業としており、父ニコラ(Nicolas)の職業については、農家とするものと高等法院の弁護士とする説がある。 早く父を失い、教育も受けられずに独学力行、外科医になることを志した。当時の外科医のギルドの下では、資格を得るためには一定期間の徒弟修業が必要であった。1710年16歳の時、一外科医に弟子入りした。さらに、サン・コーム外科医学校とパリ大学医学部とに席を置いて薬学・解剖学等を勉強し、パリ市立病院で働く。この間にも数学や哲学を研究した。1717年食料品商の娘ジャン・カトリーヌ・ドーファン(Jeanne Catherine Dauphin)と結婚、同年外科医の親方資格を得た。瀉血、包帯術の他に手術、助産を免許される。翌年、マント市に開業する。外科医としての令名はとみに上がり、マント市の私立病院の外科部長に就任した。特に彼の名声を広めたのは、1730年、一外科医の身で、医学界の最高権威パリ大学医学部シルヴァ(Silva)博士と瀉血についての学術論争に勝利したことである。パリの芸術院(Société des arts)会員にも挙げられる。 おりしも、外科医学院の設立を企てたド・ラ・ペイローニ(de la Payronie)は、その紀要編纂要員としてケネーの学力に目を付けた。常任秘書役として招こうとしたのである。この目論見はすぐには実現しなかったが、ケネーがパリに出る機会となった。1734年ヴィルロア侯爵(Due de Villeroi)の侍医として侯爵邸に入り、リヨンの陸軍監督官に任命される。侯爵に随行するのが仕事であるが、時間に余裕があり研究には適した環境であった。 1737年ペイローニは、ケネーに国王付常任外科医の地位を与えた。この職は、外科医学院の教授資格が付与されていた。翌年には、外科医学講座に対する勅命教授の免状をも与えた。ケネーは、これらの資格を得て、外科医学院の常任秘書となることができたのである。1743年「王立外科医学院の紀要」を編纂し、自らの序言を巻頭に掲げた。常任秘書時代のもう一つの活動として、社会的蔑視を受けていた外科医学界の地位向上活動がある。当時外科医は理髪師と同様と見なされていた。国王の常医であるマロエ(Maloet)が、「そもそも外科学は医学の一部をなすものであるか」という論文を発表するなど、大学医学部と外科医学院の軋轢が強まっていた。ケネーは法律論文を含む論争的な著作をなし、外科医権利擁護に尽力した。1743年ペイローニは外科医の理髪師からの分離独立を宣言、1750年に至って外科医学院は大学医学部と同格と裁定され、外科医側の勝利に終わった。 *ここで、余談。今に理髪店のサインポールが、外科を兼ねていた時代に由来するものであることは 、良く知られている。赤は動脈、青は静脈を表すとか。小生は、「経済表」のジグザグ線を見ると、このサインポールを思い浮かべる。ケネーはなぜ経済取引を斜線で表現したのであろうか。例えば、垂線と水平線の組合せでも同じことが表現できるはずである。見慣れた看板が無意識化に影響したのではないかと(写真は WONDERS & MARVELS ホームページのA History of the Barber's Poleより)。 彼の令名と実力は宮中にも達し、1749年(55歳)には寵妃ポンパドール夫人付の侍医となり、居をヴェルサイユ宮殿のグラン・コマンの建物の中の「中二階」に定めた。虚弱であった夫人の命を二度に亘り救い(夫人からは四千リーヴルの年金が遺贈される)、やがて国王の侍医となる。天然痘から皇太子の命を救ったことによって、貴族に列せられ、「思考力の偉大さの故に」なる銘文をつけた三色菫の紋章が下賜された。王は彼を「思想家」と呼んだ。ルイ15世自身の危急を救ったこともある。その際賜わった恩賜金で土地を購い、長男に農場経営をさせた。 やがて(1750年頃)、彼の住まいは、当時の急進思想家を含む進歩派知識人が集い、会食するサロンと化した。いわゆる「中二階の会合」と称される。出入りした知識人には、ディドロー、ダランベール、エルヴェシウス、やビュフォンのごとき哲学者、ミラボー侯爵(大ミラボー)、メルシェ・ド・ラ・リヴィエール、チュルゴー、ニコラス・ボードー、デュポン・ド・ヌムール、そしておそらくグルネー、コンディヤック、アダム・スミスなどの経済学者がこの会合に加わった。経済学者と邂逅することによって、ケネーが経済学に興味を抱いたのか、はたまた経済学へのケネーの興味が、経済学者を参集させるようになったのか。これら参集した経済学者の集団に、自然法哲学を基礎とした経済思想が共有されるようになる。自らをエコノミストÉconomistと称し、後世にフィジオクラートPhysiocratesと呼ばれた人々である。フィジオクラートは、『農商財政雑誌』と『市民日誌』を論文発表の舞台とした。ただ、純粋な学問的な関心からではなく、権勢者のポンパドール夫人に昵懇となるための手立てとしてケネーに近づく輩も多く、フィジオクラシーの「流星のごとき盛衰は」ポンパドール夫人の権勢の浮沈と連動している(シュンペーター、1956、p.474-478)感がある。 ケネー自身は『人間の友』(1756)について著者ミラボーとの討論から始まり、「大百科全書」に「小作人論」(1756)、「穀物論」(1757)を発表した。60歳を超えて、経済学者として歩み出したのである。これら二著作は『経済表』の素描というべきものである。そして、『経済表』が1758あるいは1759年にヴェルサイユ宮殿の中で極めて少数部だけ印刷されたのである。1760年ケネーも手を入れたとされるミラボー『租税理論』が国王の不興を買い、著者は投獄される。筆禍に警戒したのか、60年から65年までの5年間経済的著作の刊行はない。ケネーの経済学者としての活動期間は、1756~1767年の11年間とされるから、この5年の意味は大きい。他の主要経済著作は「一般準則」(正式名称は、「農業王国の経済統治の一般準則とそれら準則に関する注」(1767)と「第二経済問題」(1767)である。 宮中での幾多の陰謀を目撃しながらそれに加担することなく、寵妃の愛顧を他人のために利用しても自分の為に利用することはなかったとされる誠実な人柄も、晩年には宮中での居場所を失い、国王崩御の際にも召されることがなかった。侍医連の中でも疎まれていたようである。経済学説も人気を失った。最晩年の学問的情熱は数学特に幾何学に注がれ、死の前年に幾何学の明証に関する著作を匿名で公刊している。 まず、『経済表』とは、何か?これが、なかなか複雑なのである。いわゆる『経済表』で、われわれが思い浮かべるのは、教科書でお馴染みのジグザグの「表」である。しかし、『経済表』は、一枚ものの「経済表」(「」で表す)と付属文書よりなる。付属文書は、ケネーがヴェルサイユで自ら印刷した『経済表』にも付いている。しかし、今日文庫本等で『経済表』とされているものには、その他に「経済表」の理解を助けるために、ケネー(及びミラボーら)が他の雑誌等に発表した文書も併せて収められている。『経済表』の編者によって、付属文書は異なったもので構成されている。 その上、一枚ものの「経済表」にしてからが、「原表」(大表、基本表とも:Tableu fondamental)・「略表」(Tableau abrégés)および「範式」(Formule)と3種類ある(他に、「略範式」として区別する場合もある。「範式」については、厳密には「一枚もの」といえないかもしれない)。「表」とも「式」ともされるが、シュンペーターによれば、英語ではTable というよりPictureの方が妥当であるという(1956、p.498)。これらの表の詳細は後に譲る。各表のイメージは、後掲の各「図」を一瞥下さい。 ケネーが最初に作成した「原表」についてから始める。「原表」には,ふつう第1、第2、第3版があるとされている。 第1版は、印刷されたものは今日まで未発見。小池基之によると印刷されなかったとも。鉛筆書きの草稿のみが、パリの国立文書館で1889年にバウワーにより、発見されている。構成は、「表」+「国民の年収入の配分の諸変化に関する注意」からなる。 第2版も、バウワーにより同所で同時に発見されている。印刷されており、第2版の「校正刷」とされる。構成は、「表」(前半表またはA表と称す)+「経済表の説明」(12p.)+「表」(後半表、B表)+「シュリー公の王国経済要諦」(4p.)の綴りよりなる。これが、イギリス経済学会によって復刻され広く普及する。岩波文庫の旧版(戸田・増井訳)で見られる。 第3版は、旧東独の経済学者ユルゲン・クチンスキー教授の夫人マルゲリーテ・クチンスキーにより、1962年デュポン・ドゥ・ヌムールの蔵書を収蔵する米国・エリシュリアン=ミルズ歴史博物館(Eleutherian-Mills Historical Library)で発見された(グスタフ・シェルが1905年に第3版を入手しているので、厳密には再発見)。構成は「表」+「経済表の説明」+「シュリー公の王国経済要諦」(改訂版)よりなる。我が国の日大経済学部図書館にも1本が所蔵されているという(注1)。 そして、現在では上記第2版とされているもののうち、前半表と「経済表の説明」は、第3版の校正刷りであり、後半表と「シュリー公の王国経済要諦」が本来の第2版であるとされる(小池、平田他による)。岩波文庫新版(2013年刊)でも、前半表(小池等が第3版校正刷とする)を「第2版」としており、後半表は載せていない。 1758年か翌年にルイ15世の面前、あるいは国王自身によっても刷られたといわれる『経済表』は、上記の各版に該当し、極めて少部数の「私家版」であった。世間に流布しなかった。ケネー家にも残されなかったのは、当時ケネーも協力して書いたミラボーの『租税理論』が、徴税請負人の忌避に触れて、著者が収監されたことと関係があるともされている。『経済表』が、一般に知られるようになるのは、1760年に、当時人気を博した『人間の友』の第6部続編として、「説明付経済表」が掲載されてからである。ケネーの指導によりミラボーが執筆したものである。それが、ここにあげた私蔵の「経済表」(それとも『経済表』)である。 以後ケネーは、1760年代前半には、自身の名目で経済論稿を発表していない。1763年ミラボーは、『農業哲学』の第6章末尾に、「原表」理解のための「統括表」を載せた。「表に示された分配の結果の概要」と題されたもので、「略表」の一つである。同書には合計27もの「略表」が掲載されているという(小池、1986、p.27脚注)。ついで、ミラボーは1767年『農業哲学』を通俗化した『農業哲学要綱』を刊行する。その第4章「支出の分配」に「経済表の略範式」と題されたものが掲げられている。同年、ケネー自身も『フィジオクラシー』に「経済表の分析」(初出は1766年『農業・商業および財政雑誌』所載)の改定版を発表した。ここに「経済表の範式」が現れるのである。ミラボーの「経済表の略範式」とケネーの「経済表の範式」は、全く同一のものである。 「略表」に原前払を加え、数本の線を引けば、「範式」になるであろう(この辺は表の解釈とも関連するので簡単には云えないが、「略表」は「範式」のプロトタイプと考えても良いと思う)。以上から時系列的に、「経済表」は、「原表」から、『農業哲学』の「略表」、『農業哲学要綱』の「略範式」を経て、「範式」に発展したとも考えられる。渡辺輝雄(1961、p.350)は、「われわれは、むしろ「範式」こそが「経済表」の完成形態であり、「原表」はその未完成形態であるということを知るにいたるであろう。」とするし、越村信三郎(1947、p.10)も、「より完成された形式をもつところの「範式」」は、「原表より範式への転化過程」(第三章標題)の結果であると捉えている。平田清明も同様の意見である。多分、これまでの『経済表』研究が「範式」中心に進んで来たこととも関係するのであろう。ちなみに、マルクスが論じたのは、「範式」ないし「略表」であって、「原表」にまで及んでいない。 他方、小池は、『経済表』は、元来、現状批判を意図して書かれたものであり、「範式」は現状批判が後退し、再生産過程の理論的分析に重点が移行しているとして、経済表の研究は、「原表」(特に第3版)によるべきだとする。また、「経済表の分析」の初出段階に「範式」はなく、分析はいわゆる「範式」を前提としてなされていない。「フィジオクラシー」に収録段階でも、「範式」は「要約」のなかに収められているのは、それが分析の結果を表にしたもので、中心的なものではないことも、「範式」を重視しない理由である(小池、1986、p.27)とする。小生の読んだ中では、坂田太郎や岡田純一も「原表」の独自の意義を認めている。 フランスは、17世紀前半1630年代から18世紀の1720年代まで、長期にわたる経済沈滞の時期にあった。人口は減少し、農業生産は低下し、それにより穀物価格の低落傾向と穀価の乱高下を招来した。その最終期にジョン・ローによる仇花の好景気はあったが、短期間で収束し、かえってその反動の金融恐慌(1724-1725)を招いた。その後1728年頃から、経済はゆるやかに上昇局面に入る(好景気は、1770年代まで継続する)。景気転換をもたらしたのは、農業および農村工業の繁栄である。しかしながら、不況の時期に深化した経済危機に、政治的な混迷や対外戦争の敗退も加わり、人々の危機意識は高まった。反面、知的活動は活発となり、モンデスキュー『法の精神』(1748)や百科全書派による『百科全書』(1751-1772)が刊行される。ケネーの『経済表』が現れるのは、この時期である。 ケネーが『経済表』を著作するに至る時代の状況についてもう少し詳細に、併せてそれについてのケネーの思想を見てみる。コルベール主義、農業経営、財政、政治体制と4つの項目に分けてみた。 (コルベール主義) まずは前世期の負の遺産ともいうべきコルベール主義についてである。新興特権ブルジョアジーである毛織物商人出身の財務総監コルベール(1619-1683)が、財政再建のために採った重商主義政策のことである。デリジスムとも称される。全ヨーロッパを競争相手として、貨幣獲得競争を目指す。海外市場を確保・拡大するための、自国産業の保護・育成策である。国内では、巨細な産業規制を通じて、産業を特権的問屋制機構によるギルド的規制の下に編成した。海外市場開拓のためには、東インド会社をはじめとする勅許会社を設立した。具体的には、工業原料を確保し、生産者の如何にかかわらず商品の品質を一定に保持し、もって英・蘭との競争に打ち克とうとするものである。それは、原料を輸入に依存する輸出産業の保護・振興策であった。 価格競争面では、輸出商品価格を低廉にするため低賃金の、さらには労働者生活費を抑制するため低穀価の、諸措置が取られた。「ダンピング型輸出貿易」と称される所以である。不況期の穀価低下傾向のなかでの、更なる穀価の抑制策である。低穀価は、農業の再生産を妨げて圧迫させるだけでなく、農村工業の発達を妨げた。中・小生産者の健全な自生・自発的発展を妨害し、結果的に国内市場を狭隘化する。この面でも、コルベール主義は植民地貿易を独占する特権商人を頂点とし、それと結びついた地方のマニュファクチャーの問屋制独占機構を形成・強化したのである。一方農民層は少数の商工者と、大部分の(マニュファクチャーに低賃金労働力を提供する)労働者に分解して行った。 これらの諸施策にかかわらず、コルベールの大臣在任中、工業生産に見るべき増加はなかったとされている。それには、1685年のナントの勅令廃止により、プロテスタントである有能な工業者が、多数国外へ逃亡した影響もあろう。そして、ケネーがコルベール(1661年財務総監に就任)期を「1660年に始まる王国の衰退」(『経済表』、p.188)と表現しているように、「前世紀の大臣」は、その後の時代にも大きな影響を遺した。 コルベール自身がそうであるように、この時期は社会の支配階層が、売官制による商業ブルジョアジーの成り上がりである法官貴族層から、新興の政商である特権商人層へ権力移行した時節でもある。ケネーは「人間論」(p.279)のなかで、前期的金融業者(フィナンシエ)・徴税請負人(フェルミエー・ジェネロー)・特権商人(ネゴシアン)等の集団が「衰退期」以降急速に強力なコウル(身分諸集団)を形成したと言っている(平田、1971、p.67による)。これらの集団は、独占利潤求めて国政を壟断し、内に重商主義を国是とし、外に植民地争奪戦により国際緊張を煽る。国民の真の利益とは背離していた。これらコウルの利害が、人為的政策と相まって、事物をあるべき「自然秩序の道程」(=自然の支配:フィジオクラシー)の軌道から逸脱させていた。 例えば、現にイギリスと戦われている「七年戦争」(1756-1763)である。この戦争は、商業戦争でもある。ケネーは、この闘争を、オランダ型貿易国家(中継貿易型)とイギリス型貿易国家(国産品販売型)との戦争として捉える。コルベールティスムは自然に反して、フランスを本来のものではない、オランダ型貿易国家の類型に無理矢理に押し込んだ。むしろ、敵国イギリス(ただし、戦勝後ホイッグの支配する「カルタゴ的」国家に変質する前の)を範とせよとするのである。そこでは、耕作者が極めて富裕で、保護されており、貿易商人より重きをなしているのである。 コルベールティスムによって、「製造業や、手間賃を外国より安くするために、小麦の価格が引き下げられたのである。」(「穀物論」、p.46)。「よしんば小麦の廉価によって都市の住民、製造業の労働者並びに工匠に便宜を与えることとなったとしても、やはり国家の真実の富の源泉たる農村を荒廃させることになるのである。その上かかるこころみは不成功に終わる」(「小作人論」、p.29:強調原文)。アンシャン・レジ-ムの下では、巨大な特権的穀物商人が市場を支配し、穀物倉庫を設立し穀物投機を行っていた。穀物取引は拘束され、穀物輸出は禁じられていた。こうして、低穀価が保持されていた。「小麦の価格を規制するのは単に豊作や不作ではない。小麦の価格を左右するのは、主としてこの農産物の取引における自由か拘束かである。」(「小作人論」、p.32)。 農業の衰退の原因は資本不足にある。そして農業に投資と資本蓄積を妨げている原因は、なによりも自由な販売を妨げている独占的な穀物取引による低穀価であり、副次的には資本に課税する税制(後述)である。農業は、長期投資を必要とするから、商業のように信用で資金調達できない。前払(資本)の回収と収入(利益)確保なしには農業の発展は見込めない。「されば小作人は自分自身富裕でなくてはならない」(「小作人論」、p.31:強調原文)。危機を克服するために、ケネーの考えた処方箋は、資本蓄積を可能とする高穀価を保証すること、そのために独占を排し、流通市場を整備ですることであった。そして、「我が国穀物の外国に対する販売の自由は、王国内で農業を復興させるための緊急不可欠なる手段である」(「小作人論」、p.33)。 国内外に自由主義的経済政策を採った場合、再生産構造の作動に支障はないか、そして穀価と国富の動向はどうなるか、を思索する中で、『経済表』が生まれたとも云える。その過程で発想された「良価」(bon prix)は「純生産」と共にケネーにとって重要な概念である。「良価」とは、農業の再生産を可能とする穀物価格である。具体的には、基礎(基本)価格(prix fundamental:「経費」+「タイユ」+「借地料」(注2)にフェルミエ(=農業者)の適度な利潤が付加されたものである。それは国内外における自由競争が普遍化した場合に、自然状態で成立する価格である(1セチエ当たり18リーヴルの小麦価格に相当)。互いに通じ合う湖や海の水準と同様に、「それは、相互貿易の永続的な交通によって確立され、絶えることなく維持されるものである」(「人間論」、p.272)。ケネーは、穀物取引が自由なイギリスの穀価と、穀物が禁輸されているフランスの穀価とを比べている。イギリスでは、フランスと比較して、「売手の平均価格」と「買手の平均価格」との差額がほとんどなく、「売手の平均価格」が「基礎価格の平均」をかなり上回っている(「人間論」、p.263-268)。穀物の自由貿易下では、商人の投機的取引による利潤が少なく、農業者の取り分が多いことがわかる。 経済を支配しているコルベールティスム(独占的規制体制)がもたらした破壊的低穀価は、農業資本を不足させ、農業部門を沈滞させた。市場規制の桎梏を打破し、自由な穀物輸出制度を導入することは、フェルミエに再生産を補償する「良価」を成立させる。それは、農業資本への投下を呼び、大農経営拡大を槓桿として、自生的に展開する国内産業発展を促進する起爆剤となる。ケネーが望んだのは、コルベールティスムの仲介商業色(外国原料による輸出用織物工業)の濃い「奢侈品製造業」国家とは逆の、自国の「土地生産物」輸出を中心として付随的に加工品を輸入する「相互貿易」国家であった。さらには、農業の発展による完全な自給自足(アウタルキー)体制が国家の究極的目標とされ、「経済表」はそのミクロ・コスモスを表現したものだとされる。しかしながら、「外国貿易というものは、国内商業が十分発達しておらず、自国生産物を有利に売りさばけないような諸国民にとっては、仕方のないものであり」(「商業について H氏とN氏の対話」、ケネー、1952b、p.236:強調原文)必要悪とみなしていた。最高段階に発展した国家でも、再生産体制を維持するには、恒常的良価が必要であり、それを実現するために対外貿易が必要である。「この小宇宙には窓がある。その窓は、…外国貿易である」(菱山、1961、p.118)。 (農業経営) アンシャン・レジーム下の農民保有地には、法的には二重の所有権があった。上級所有権である領主権(seigneurie)と下級所有権たる農民保有権(用益所有権:tenure)である。後者は法律用語で下級ゲヴェーレ(慣習法に基づく財産処分権)とも言われる。領主への貢納(サンス)の多くは定額で金納されていたため、貨幣価値の下落により、18世紀には、農民にはほとんど負担と感じられなかった。農民は自分が真の所有者であると思い、保有地を処分したり、担保に入れたりした。これが「事実上の」とか「いわゆる」とかを冠して「農民的土地所有(propriété paysanne)」と呼ばれるものである。 このような土地所有権の定着は、土地所有者と土地耕作者の分離を可能にし、大土地所有の集積を促進した。領主が自己の直営地を貸付地とする他、農民保有地の買収・併合によって寄生地主化する。併せて、ブルジョアジーも、金融取引及び直接に土地買収により、新たに地主となり(領主化)寄生地主となった(注3)。こうして、集積された土地は、地主によって直接経営されることは少なく、ほとんどが(あるいは細分化されて)貸付けられ、地代が徴収された。領主と農民の封建的隷属関係は、農地の賃貸借関係に変質してゆく。 こうした土地所有の動向の下で、農業経営は大別して、次の三つの形態に分類できる。第一、旧型の領主直営の大経営農業。第二、小フェルミエ(小作農)やメテイエ(分益小作農)の小規模経営農業。事実上の「農民的土地所有」の土地だけでは不足し、特権階級の所有する分散農地を賃借して付加し、経営規模を確保した。第三、「富裕なフェルミエ」経営と言われる大農(法)経営。自己所有地に、賃借地を積極的に附加して農地を拡大し、農機具・家畜に資本投資し、土地を喪失した農民を日雇・常雇労働者として雇用し、大規模に農業を営む。 当時のフランスでは、中南部や西部では農民的土地所有が多く、零細小農経営や封建制の遺風の濃厚な分益小作制が支配的であった。先進地域とされる北部フランス(注4)では、農民的土地所有の比重が小さく、反面特権的大土地所有による、あるいは土地所有農民の借地拡大による、大農場経営が展開された。 ケネーが「小作人論」、「穀物論」(『百科全書』所収論文)において、農業改革政策として強調するのは、農法の大農法化政策である。ケネーの言う大農法とは、馬耕による三圃式農業であり、小農法は牛耕による二圃式農業を意味する。前者は定額小作制(フェルマージュ)によるフェルミエに、後者は定率(分益)小作制(イヤージュ)によるメテイエに等置された。「ふつう、土地は馬を使う小作人<<fermier>>か、牛を使う分益小作人<<métayer>>によって耕される」(「小作人論」、p.160)。 *ここで、急いで付け加えねばならないのは、しばしば「富める」との形容詞を付した「小作人」(フェルミエfermier:借地農とも訳される)は、英語のfarmerであり、農地を賃借し資本を投下して、資本主義的といって悪ければ企業家的に農業を営む「農業企業家」のことである。ケネー自身の説明では、「茲では富める小作人は、みずから土地を耕す労働者とは看做されていないのであって、彼は己が頭脳と富によって企業を経営し管理する企業家だとされている」(「穀物論」、p.87)。日本語の「小作人」とイメージが異なる。ケネーの先達であるカンティロンや、ジョン・ローが「農業者」とするのも、同断である。そしてまた、彼らもケネーと同じように、貧農が賃労働者化するのを、是認あるいは黙認していた。ケネーの大農法経営は穀物生産だけでなく、畜産とも結合されている。家畜は、「穀物の耕作と同様に重要な対象」(「小作人論」、p.35)である。馬は「馬力」があるだけではない。牛と比べて飼料面で牧草に頼る必要が少ないため、牧草地に商品化可能な家畜である肉牛と綿羊を飼うことができる(その糞は肥料ともなる)。この点でも、大農法は有利である。 土地所有形態ではなく、経営形態に着目するのがケネーの特徴である「自分の腕で小麦を耕作しようとする農夫<<paysan>>は、自己の労働によっては償われないであろう」(「小作人論」、p.30)。「群小の小作人によって零細に耕作される土地は、比較的多くの人と支出を要するのに、利潤は大いに限られているのである。…かかる仕事に人間と支出を乱費すべきではない。…されば農業の利益は実に、富める小作人によって最良の状態に経営された大規模な小作地の結合から生ずるものである」(「穀物論」、p.86)。 といって、経営規模は大きければよし、としたのではない。ケネーが収支計算のモデルとした大農法経営の規模は、四頭立の馬が牽く犂一台により耕耘される120アルパンの広さの三圃式農業地である(この経営創設資金は、1万ないし1万2千ルーヴル。: 「小作人論」、p.3,p.24)。これは、貴族地主の広大な農地経営や、耕作者的性格を希薄にした「過大借地農」とは区別されたものである。「ケネーとしては、entrepreneurが本来の機能を発揮しうる最小限の規模を、モデルとして設定したのである」(平田、1971、p.99:下線引用者)。 (財政) ルイ十五世時代の財政問題はなんといっても、対外戦争の戦費調達と、戦後にも残された累積負債であった。対外戦争の継起した十四世時代とはことなり、宰相フルーリーの時代は、平和外交を第一とし、英国とも平和を保った。財政も負債を除いた収支ベースでは均衡を回復した。しかし、フルーリーも晩年には指導力の衰えを見せ、オーストリア継承戦争突入を回避することも、開戦後は戦争指導をすることもできなかった。王親政時代になっても7年戦争参戦などで軍事費は増大し、王室費もポンパドゥール夫人の下で削減することはできなかった。財政改善のための歳入増大策は、間接税の増税とタイユ徴収強化及び十分の一税復活である。臨時の増収策としては、売官と年金債発行があった。 こうした結果、この時代の財政制度には次の特徴が見られた。
すでに、初期論文段階においても、租税思想の発展が見られる。「小作人論」(1756)では、租税の恣意的な徴収を批判している。「穀物論」(1757)では、さらに国家の高圧的な租税の割り当てを批判し、担税能力に応じた租税額を唱えている。小作料収入=地主収入の半額を土地税とすることである。「耕作者を一方的な課税から守り、破壊的課税によって国家収入を壊滅せず、なおかつ土地の耕作を助長し、王国の力を再興せんがための」(p.101)制度である。これらは、現行税体系のマイナーな手直しの域を出ない。 ところが「租税論」(1757執筆)においては、租税体系転換が打ち出される。間接税に対する批判が展開されるのである。批判点の第一は、徴税請負人による徴税コストの問題である。請負制の下で、多くが請負人の利得となり、国民の納税負担の割には実質国庫収入が少ない。請負制を廃止すれば「たとえば十分の一税は、それが今日提供するところの三倍を彼[国家:引用者]にもたらし、その臣民の負担を半減するであろう」(「租税論」、p.398)。批判の第二点は、間接税が経済にもたらす悪影響について、理論面からの批判である。間接税の賦課は課税商品の価格を上昇させる。これは、買い手の消費を抑制するか、販売確保のために売価(ケネーの言う「売上価格」)そして経費を削減させることになる。いずれにせよ、この価格は経済の順調な発展を保証する「良価」(bon prix)ではない。前者を「高価」と呼び不自然な価格としている。後者は再生産を妨げる「廉価」となろう。ここに、財政学の中心問題である租税転嫁論の先駆(平田清明、1971、p.184)を見ることもできるであろう。 「租税論」では、さらに進んで「租税を賦課すべきは耕作人の生産的富に対してではないのである。なぜならかくすれば、国民の年々の富の生産に必要な資力を破壊するであろう」。「国民が利益を得て租税として納付するのは、土地の収入であって、土地を耕作する借地農[フェルミエ]の利潤ではないのである。…何とならば租税は地主の負担に帰するけれども」、「収入に対して賦課せられ、耕作を対象としない租税は、破壊的でない。」(p.376-377)としている。ここでは、フィッシャーの言うストックとフローが、資本と収入として明確に分離されて認識されている。その上で、租税が生産的資本に課せられないことが最も重要であると主張されているのである。フェルミエの利潤に租税を課しても、究極的に地主に転化されるとも考える。地主の収入に課される税金が望ましいのである。 以上の思想は後に、『経済表』の研究を経て、「土地単一税」に結実する。すなわち、間接税を廃止し、直接税(土地税)を中心とした合理的にして抜本的に改革された税制である。再生産の基本である「前払」=資本を毀損することなく、自由に処分しうる富である「収入」=社会的剰余、純生産物にのみ課税する。地主階級が唯一の納税者であるべきとする点で「すこぶる急進的な意味をもっている。…不労所得税のひびきをさえもつであろう」(菱山、1961、p.54)。 ケネーは、「第二経済問題」において、経済表(範式)を使ったモデル計算により間接税と直接税の経済効果を説明している。生産階級が年前払20億を使用して、再生産額60億、収入30億を生む経済(第一表)から始める。まず、地主階級の収入に2/7課税し8億の直接税を徴収するとする。地主の支出は22億に減少する。しかし、公収入となった8億は全額が、地主の支出割合どおり生産階級と非生産階級に各50%支出されているから、再生産体系に変化はない(第二表)。「直接取得される租税の徴収は、支出と配分の秩序を少しも変えるものではない。また、耕作者も収入を支払い、自らの回収を確保するために必要な貨幣額を受け取るのである。したがって再生産額は同一のままであるにちがいない。」(『経済表』、p.133)。次に、直接税税率を1/10とし3億を直接税から徴収し、残る5億を間接税で賄うとする。ただし、間接税の半額が徴税費用、徴税請負人等に蚕食され、実税収は半額になると仮定される。その結果は、再生産額は60億から54億5400万円に、収入は30億から24億5400万円に減少する(第三表)。しかも総額8億の租税額の国庫実歳入は、4億2100万であり、経済に与える損出は9億を超える。税収の減収を補うために、さらに「間接的な負荷を増徴したところで、主権者や国民の収入の衰徴を早めるだけのことでしかないだろう」(『経済表』、p.146)。 「一般準則」(maximes generals)の第V準則にはこう書かれている。「租税は、人間の賃金や諸財に課されないで、土地が生む純生産物に対して直接課せられること。もし賃金や諸財に課せられるならば、租税は徴税費を増加させ、商業を害し、国民の富の一部を年々破壊するであろう。租税はまた、土地を耕作するフェルミエの富から徴収されないこと。なぜなら王国において農業の前払は、全市民階級の租税と収入と生活資料の生産にとって大切に保存すべき恒産とみなさなければならないからである。」(『経済表』、p.146)。生産資本の保全を第一とし、間接税を否定し、地主負担の土地単一税を提唱する。 そして、ジョン・ローの時代の経験にも学んだのであろう。「国家は借入金を避けること」(第XXX準則)とファイナンシェを警戒し、臨時費用の捻出に際しても、金融資本家からの借入に頼らないことを唱えた。第XXIX準則には「一国家の非常の必要に応じるための資力は国民の繁栄からのみ期待し、ファイナンシェの信用貸しからは期待しないこと。なぜなら、貨幣財産は国王も祖国をも知らぬ闇の富だからである。」と記されている。 単一税は資本を保持し、再生産を発展させるための歳入面での財政政策であった。歳出面から見た経済発展のための財政政策は、積極財政政策である。歳出は削減し、節約すればよいというものではない。再生産を発展させ、富を増加させる支出が肝要である。「政府は節約に専念するよりも、王国の繁栄に必要な事業に専念すること。なぜなら、多大な支出も富の増加のためであれば、過度でなくなりうるからである。」(第XXVII準則)。「支出の削減つまり「節約」épargneではなくて、支出の良き使用bon employ des dépensesこそが、前払いの増加すなわち資本の蓄積のために決定的な要件である!これがケネーの『経済表』の根本的な着想なのである。」(菱山、1961、p.47:強調原文)。 貨幣が流通から逸脱して退蔵されることを常に警戒したケネーはここでも「租税徴収や政府支出の財政活動が貨幣財産集積の一要因となることのないこと。」(第XXVIII準則)と念押しをしている。 この機会に、金融についてのケネーの思想も付け加えて説明する。ケネーにとって、貨幣を保蔵ないし退蔵することは、経済を沈滞化させることである。富を貨幣形態で保蔵することは、流通からの引き上げであり産業に利用される機会を奪うため、経済に不生産的ないし再生産縮小の効果を与える。貨幣の私蔵欲は、経済発展に対する大きな軛なのである。「鋳貨は、他の諸種の富によって支払われる富である。それは諸国民のうちにあっては、販売と購買との媒介的担保である。いまもし鋳貨が流通の外で保持され、富を受け取る代わりに富を渡すことをしないのであれば、この場合、もはや鋳貨は一国内での富の永続化に貢献しないのである。こうした場合には、鋳貨が蓄積されればされるほど…それだけこの貨幣蓄積は国民を貧困にするのだ」(第VIII準則に対する注:『経済表』、p.173)。なにがし、「貨幣保蔵の社会的危険性」を説いたケインズ文章を思わせる。 (政治体制) イギリスは、大ピット内閣の指導のよろしきを得て、7年戦争を優勢に終わらせた。欧州の覇権は既に英国に移った。フランスでは、依然ネゴシアン、フィナンシエ、フェルミエー・ジェネロー等の利益集団が国政を支配していた。「産軍複合体」というべきか、軍事指導者は、なお先王「太陽王」時代の栄光の幻影に囚われており、常備軍の維持・拡大のみを考えていた。絶対王政期の常備軍は、いわば王の私設軍である。一部徴兵制による民兵組織があったとはいえ、主力は傭兵に等しい。士官の成り手は、没落貴族という有力な供給源があったが、兵は不足し志願の建前とは裏腹に、誘拐同前に掻き集められた。軍人は、常備軍兵役が経済と人口に及ぼす影響は考慮しなかった。「民軍は三十年来、農村において二百万以上の男女人口を減少せしめたのである。もし、この破壊的制度が存続するならば、それは一世紀を経ずして農村を荒廃させるであろう」(「人間論」、p.244)。彼らは、戦闘力の基礎である国力が疲弊することを度外視しているように思われた。ケネーにとって、防衛問題の核心は、一国の「力と叡智とにより、換言すればその富と政治的折衝」にあるものである。「国民の収入を超過する軍隊は、敵の軍隊よりも一層有害である」(「人間論」、P.242)。陸上部隊は増強する必要がない。むしろイギリスに対抗して制海権を確保すべく、海軍力の整備を主張する。穀物輸出を保護し、農業生産力の維持拡大を中心とする経済の再生産構造を発展させるためにもそれは、必要なのである。7年戦争の行方を洞察し、「ヨーロッパの戦争の体系」と強国概念のパラダイム・シフトを鋭敏に察知していたのである。 ケネーの国家論は、「経済表」の完成という理論的支柱を得て財政改革案と同時に成立したとされる(以下主として平田清明による)。ケネーには、独自の自然状態からの社会形成についての思想がある。それは、ホッブス等の社会契約説とは異なる。「相互に扶けあうためのいかなる協力も予想することのない、強者が弱者に対して暴力をほしいままにするような独立的な純自然状態においては、人間の自然権の享有というものは、非常に限られている筈である。かれらが社会に入り、かれらの相互の利益のために協約を結ぶようになれば、かれらは自らの自然権を増大する」(「自然権」、p.67)。社会はその生産力の発展に応じて、無協約社会から、黙示的協約社会、明示的協約社会へと進化する。そして、農業社会の形成を契機として、「主権」=「国家」が成立する。主権成立により、身体と所有権の安全が確保され、十全な自由と独立の状態が維持される。 こうして成立する主権の存在形態には、普通、恣意的専制君主政体、貴族政体(アリストクラシイ)、民主政体及びそれらの混合物がある。ケネーにとって、そのいずれもが理想的形態ではない。「この権力は、貴族政治的であるべきでないし、また大地主に委ねられるべきでない。蓋し大地主は連合により、法よりも優れた力を形成し、国民を奴隷化せしめ、彼らの野心的かつ圧政的な紛争により損害、混乱、不正、最も凶悪な暴力と最も放縦な無秩序を惹起し得るからである。/この権力は、君主政治的、貴族政治的であってはならない。蓋しかかる権力は、相互に制御し、異なる党派の同盟者に対し復讐と圧政をおこない、彼らの力を増すために国民の富を奪い、国民を不幸、残忍及び貧困のどん底に陥れる、国内的な野蛮な戦争を続ける傾向を有する、権力の衝突しか惹起しないからである。/この権力は民主主義的であってはならない。何故ならば、下層民を支配する無知と偏見、彼らが陥りがちな放縦な感情や一時的な憤怒は、国家を動揺と反乱と恐るべき災禍に曝すからである」(ケネー、1940、p.154-155)。ここで、ケネーが「君主政治的、貴族政治的」としたは、現実のフランスの国情が、「民主主義的」としたのは、イギリスの現実の政治が念頭にあったのであろう。 それでは、彼の理想とする政体は何か。「適法的専制君主制」(デスポティスム・レガルdespotisme légal)である。「専制君主は支配者または神を意味する。この称号は、それゆえ、法によって規定された絶対的権力を行使する君主や、恣意的権力を簒奪した君主まで拡張することができる。…したがって、適法的な専制君主despotisme légitimeと恣意的かつ非適法的な専制君主despotisme arbitraires et illégitimeとが存在しうる」(ケネー、1940、p.9: 一部改訳)。その適法的専制君主制の権力は「その決定とその行動において唯一かつ公平であり、それのみが執行権、並びにすべての市民を法の遵守の中に包含し、すべての者に対するすべての者の権利、強者に対する弱者の権利を保障し、王国の内外の敵の不正な企図、潜奪及び圧迫を防止し抑制する権限を有」し、「個人的利益を一般的な秩序及び幸福へ一致せしめるため」「それを専制的に自己のために確保すべく国民自身の力や権利よりも優れた権力の段階に到達することのみに努めるであろう」(ケネー、1940、p.155-156)。 唯一の権力者である君主に権力が集中され、決定・執行権を独占する。そして、「すべての市民を法の遵守の中に包含」させることにより、ケネーは法の下での「すべての市民の平等を主張した」(平田、1971)とされる。ここで、遵守される法とは広く自然法のことであり、自然法則にして社会法則でもあり、道徳的な規範であることも意味する。一方、法の下の平等の法とは、実定法のことであるようだ。小生などには、理解の及ばないところがあるが、幕末の「一君万民」思想を思い出させる。 ともあれ、専制的君主制を「適法的」とし、「恣意的かつ非適法的」としないための方策として、後見的権限を有する諮問会議の設置がある。これは、国王が選任した、12人~15人の貴族及び司法官から構成される。国王は観念上は絶対者であるが、実質的には空虚な国家の一機関となる。知的エリート官僚は、自然法を成文化するのを事とする。これが、ケネーが望んだ理想的国家像であった。共和制は商業・貿易国民にふさわしく、君主制は土地によって生活する国民にふさわしい。土地によって生活する農業国に最適の政体は君主制であるとしながら、それが「恣意的」専制になるのを警戒しているのである(小池、1986、p.168-169)。 ブローグは、『ケインズ以前の100大経済学者』のケネーの項で、彼の議論は「ほんの数年研究したぐらいではなにが書かれているか理解することはできないであろう。」とし、スミス、マルクス、シュンペーターらが「賞賛したのは、ケネーの議論の細部ではなく、数々の議論をつなぎあわせているヴィジョンであった。」(1989、p.213-214)としている。とすれば、素人が議論の細部に入って行くのは無謀と言うものであろう。しかしながら、「経済表」の普通の解説では、「経済表」そのもののコピーは載せても、その内容にまで立ち入って書かれた本は少ない。何となく物足りなさも感じる。及ばずながら、エンゲルスが「スフインクスの謎」としたものに、普通の読書人(であるかは怪しいが)として理解した範囲で説明を試みる。「略表」については省略、「原表」と「範式」を取り上げる。「原表」は、第三版を対象とする。まず、「経済表」理解のため、「経済表」の基礎となる用語あるいは基礎概念について書いておく。 第一に、「経済表」は三階級、三部門より構成されている。1.地主階級=消費階級、2.生産階級=農業者、3.不生産階級=商工業者である。1.の地主階級には、狭義の地主の他、主権者及び十分の一税徴収者(教会)を含む。地主階級は、その消費により経済の起動者に位置づけられている。 農業のみが生産的であり、商工業が不生産的であるとすることは、フィジオクラートの大きな特徴である。ケネーの「穀物論」に既に説かれている。「農業労働は、経費を償い、耕作の手間賃を支払い、耕作者に利得をえさせ、おまけに土地の収入を生むのである。」「工業製品の生産においては、富の増加は見られない。なぜなら、工業製品における価値の増加は、ただ労働者が消費する生活資料の価格だけ、増加するにすぎないからである」。商人も同様である(「穀物論」、p.108-109)。フィジオクラートが、農業者のみが剰余生産物を生むとしたのはなぜだろうか。原始産業である農業においては、労働者の生産する穀物が、彼の毎年消費する穀物より多いことが明白に感じられるのに反し、工業生産では流通の錯綜により労働者消費以上に生産するのを洞察するが困難であるからだと書かれたものもある(越村、1947、p.26-27)。ケネーは小麦収穫倍率を5倍(注5)しているから、それほど農業の生産力が高いとは思われないけれど、農業は投入と産出が共に同じ穀物で解り易かったということであろうか。 *ここで補足説明をする。上の引用では、農業労働や工業労働による価値の増加で生産性が論じられている。一方、「収入と租税をもたらす純生産物が得られるのは、人間労働によってよりも家畜によってである。というのは、人間労働だけでもたらされるのは、かろうじて人間の生活資料の経費だからである。」(『経済表』、p.178)と書かれた箇所もあり、ケネーは単純に労働が価値の源泉だと考えていたわけでもないようである。「収入とは土地ならびに人間のもたらす生産物のことである。人間の労働なくんば、土地はいかなる価値も有することはない。」としながら、続けて「大国家の本源的財貨は人間、土地、及び家畜である」(「穀物論」、p.88)としている。第二に、「収入」及び「前払」の意義である。収入は、社会的な純生産物あるいは剰余価値である。賃金部分は費用として年前払に含まれているので、収入に入らない。「小作人」の利潤も、「経済表」では考慮されていない。すべて、社会的な剰余=収入は、あげて地代として「小作人」から「地主」に支払われるものとなる。支払時期は、生産期間の始め、あるいは終わりであるとしてよいだろう。自由経済体制の下では、流通業者の独占利潤が無くなり、小作人の利潤も競争により無視できるようになり、すべて地代の増大という結果になると想定されているのかも知れない。分配論においてリカードが利潤と賃金の社会的対抗を見たのに対し、ケネーは純生産物(地代)と賃金との対抗を見た(菱山)ともいえるであろう。 次に、「前払」とは投下資本のことである。ケネーは前払を、「土地前払」、「原前払」、「年前払」に分けている。「土地前払」は耕地の開墾・改良などのために地主階級によってなされるもので、「経済表」では考慮外の前払である。「原前払」は、会計上の創設資本に該当するものであるとの説明がなされているが、結局「原前払」は固定資本、「年前払」は流動資本と理解してよいことは、ほぼ諸家の見解が一致している。「前払」の定式化により資本を認識し、資本の投下とその回収という期間分析により、「収入」発生過程を把握した。そして、それを反復・継続する再生産過程として捉えたケネーの功績は大きい。 「経済表」では、(農業部門の)一定の「年前払」は、同額の「収入」を生むとされている。「[経済]表では、農業がイギリスでのように、100%を生産すると想定されているが、いまもし、これらの条件を欠くとすれば、それは架空のこととなるだろう。」(『経済表』、p.20)。これは、農業経営が英国並みの大農法経営(良耕)に達している前提である。そして、再生産が継続するということは、穀物価格が「良価」で取引されているという前提でもある(よって、「経済表」はフランスの現実の叙述ではない)。「原前払」は、「年前払」の5倍であり、10年で償却されるとされているから、「原前払」の年々の償却額(ケネーの表現では「原前払の利子」)は、「年前払」の半額になると仮定されている。 第三に、特に「原表」に関してであるが、農産物と工業製品への支出割合の問題がある。ケネーの表現では、生産的支出と非生産的支出の割合である。すべての階級の支出は、農産物と工業製品に同一割合(50%づつ)で消費すると仮定される。地主階級が、農産物と工業製品に50%づつ支出するという仮定は理解できるであろう。しかし、農業者や商工業者の支出も同様と仮定されているのである。地主のものは消費的支出、農業者・商工者のものは生産的支出である。後者は、本来、生産係数あるいは投入係数という技術的な制約を受けて支出割合が決まるはずである。しかるに、ケネーはカンティロンに従ってか、地主の風習を模倣して、他の階級も同様の消費割合を取ると仮定する。あるいは、「原表」の単純再生産を表現するには、このように仮定をする他はなかったためかもしれない。 以上の準備を経て、いよいよ「原表」の説明に入る。図1を参照下さい。 「経済表」なる標題の下に5行を使って「考察すべき対象」が12項目掲げられている。うち8項目が支出に関するもので、支出の解明に重点が置かれていることが判る。次段は左に「生産的支出/農業などに関するもの」、右に「不生産的支出/工業などに関するもの」、中央に「収入の支出/租税は徴収ずみ、生産的支出と不生産的支出とに分割される」と書かれている。左欄が生産階級=農業の生産物に対する支出であり、右欄が非生産階級=商工業製品に対する支出であり、中央欄が収入=純生産を示すものである。その下の段には、左に生産階級の年前払600ℓ、右に不生産階級年前払300 ℓ、中央に地主階級の年収入600 ℓが書かれている。生産階級の年前払の下に「600 ℓの収入を生産するための年前払は600 ℓ」とあるのは、純生産と同額の年前払が必要という注釈であろう。不生産階級にも注釈がついている。生産階級には「生産物」,非生産階級には「加工品」と書かれているのは、生産階級だけが価値を生む「生産」を行い、非生産階級は価値を生まない単なる「加工」を行っているとの含意であろう。なお、「原表」で使われる数字がℓ(リーヴル)で示され、「範式」のそれが百万ℓで示されるのと比べて小さいので、「範式」は社会全体生産過程を描き、「原表」は個別資本の運動を示すとされることもあるが、ここでは単純に「原表」の1単位は百万(ℓ)であると考えておく。
すべては、地主階級の収入600 ℓ(以下ℓを省略)から始まる。収入年額が年前払600と横線で結ばれているのは、前年から持ち越された年前払が同額の当年の収入を純生産することを表しているのであろう。地主階級は600 を生産階級と不生産階級に折半して支出する。600から発する左斜線が地主の生産階級に対する支出300 を、右斜線が地主の不生産階級に対する支出300を表す。生産階級は、地主階級から受け取った300を支出する。「半額は、この同じ階級が提供する生産物の消費というかたちをとるのであり、他の半分はフェルミエが不生産階級から購う衣装、什器、道具などの維持のかたちをとるのである」(『経済表』、p.24)。300 の半分150で不生産階級の加工品を購入し、残る150を自階級内で消費する。他方、不生産階級も、地主から受領した300の半額を生産階級の生産物購入に支出し、「他の半額は前払の維持とその修復のために、この不生産階級自身に」(『経済表』、p.24-25)支出される。次には、生産階級は、不生産階級から受領した150 の半分75を不生産階級に支出し…等々。以後、生産階級と不生産階級の相互の支出がジグザグ線として表現されている。ちょうどケインズの乗数理論の波及効果のように、支出が支出を呼ぶ形であり、その結果も同様に等比級数の和となる。「原表」では、自階級内消費は表示されていない。 左欄の生産的支出の合計は、生産物の合計でもあり、300+150+75+…=600である。最初の300は地主階級からの支出であり、150以降は不生産的階級からの需要である。この左欄は、「生産的支出」とも「生産物」とも読めるし、「年前払」(の回収)とも読める。年前払と区別するために、同じ額であるのにかかわらずわざわざ中央に、横線で「純再生産する」と結ばれて、特記されているのかも知れない。 合計600の純生産物(年収入)を、発生させるために同額600の年前払と原前払(の償却として)300が用意されており、これらの前払を使用しての再生産過程は、 年前払の回収600+原前払の利子の回収300+年収入600=再生産額1500 となる。これが下欄に書かれた「再生産額で合計」の意味である。 右欄の不生産支出も同様に、300+150+75+…=600である。最初の300は地主階級からの支出であり、150以降は生産的階級からの需要である。600は、加工品の合計加工額でもある。 ジグザグ線は、支出(消費)であるから貨幣の支出を示す。貨幣は下方へ流れる。生産品と加工品は逆の動きをするであろう。ここで、年間の部門間取引を貨幣で考えてみる。生産階級は地主階級から300を受け取り、不生産階級とは各300の支払と受領であり、総計300の純受け取りである。不生産階級も、地主階級から300を受け取り、生産階級とは各300の支払と受領であり、総計300の純受け取りである。年末には、生産階級は地主階級に地代として600の貨幣を支払うことが出来れば再生産は完結して、来年以降も生産が継続するであろう。しかるに、生産階級には300の貨幣しか残らない。300の貨幣が不足する。一方、不生産階級には300の余分な貨幣が残留する。 また、不生産階級は、生産をせず加工のみを行う。加工は価値を増殖しないから同額の農産物を必要とする。ケネーの数字では、年間600の加工品を加工する必要があり、600の農産物が必要である。しかるに、生産階級から購入する農産物は、計300である。300の農産物が不足する。不生産階級の年前払が農産物の「在庫」投資であったすれば、加工は可能であるが、次期へ持ち越す年前払分がなくなる。これでは、次年度以降の再生産は不可能である。 これらを、解決するためには、「原表」には顕示されていない取引を導入する方法がある。越村(注6)も同様な発想であるが、ここでは、よりケネーの設例に近い岡田の説く所に従って説明する。但し、岡田は二通りの書き方をしているし、一部不明な点もあるので、あくまで私の理解による。なお、両氏とも、後記するようにケネー自身の「略表」の記述に基づく「範式」の解釈からヒントを得たように思われる。 不生産階級の300の年前払を貨幣とし、この貨幣で生産階級の「原前払の利子」相当の農産物を購入する取引が裏面にあるとするのである。この取引にて、生産階級は300の不足する貨幣を得ることになり、地主に地代を支払うことが可能となる。不生産階級も、農産物が300入手でき600の加工が可能となる。不生産階級は元々300の貨幣が手元に残るが、これが次年度の前払となるのである。但し、この岡田の説明では、生産階級の原前払の償却分が生産階級の手元に残らぬように思われるので、長期的には(10年経過すると)生産が継続できるのかとの疑問が私には残る。 その他には、坂田太郎の解釈がある。生産階級内需要は生産階級が非生産階級に支出する額と同額の300(150+75+…)であり、非生産階級の階級内需要も300あることを考慮すれば、総再生産額は、原前払の利子を除いて1800あるとの考えが基礎にある。年末に、貨幣は生産階級の「他の成員」(他の階級と生産物を取引する農業者に原料農産物を供給する農業者の意味であろう)の手元に300残留し、非生産階級の「他の成員」にも300手元に残る。農業者が年末に600の農産物を両階級の他の成員に売却することにより、貨幣の回収・循環が可能となるとするのである。この説に対する正直な感想は、もう一つ十分に理解できないというところである。 いずれにしても、原表の再生産体系の反復・継続を可能とするには、恣意的とも思われる表記載数字の変更や「表外の取引」の導入が必要なようである。このあたりを詳細に検討してもあまり生産的とも思われないので、これ以上詳細に立ち入らない。 これらの欠陥が原表にあるにもかかわらず、原表が独自の価値を持つとされるのは、原表には理論的発展の余地があるからであろう。「原表第三版」でこそ、単純再生産であるが、すでにその「経済表の説明」で動学化の示唆がある。「これらの支出を行う人が、生活資料の奢侈と装飾の奢侈のうち、いずれかにより多く、あるいはそのいずれかにより少なくかかわるかに応じて、これらの支出は、一方ないし他方のいずれかの側で、より多くあるいはより少なくなりうる。ここにとりあげられているのは、再生産的支出が年々同額の収入を再現する一般的状態である。だが、不生産的支出と生産的支支出のうち、いずれか一方が他方に勝るに応じて、どのような変化が収入の年再生産に起こることになるのか、これは容易に判断されるとことである。」(『経済表』、P.23-24)。生産部門のみが価値(富)を生むとされていることから、直感的にもこの変化は推測できるであろう。そして、早くも、フィジオクラートは本書『人民の友』において原表の動学化ともいえる試みをしている(詳細は後記)。 *現代では、菱山泉が地主階級の支出額を a、生産部門への支出割合を r とし、生産部門と非生産部門の部門間の需給一致式から動学的発展理論として経済表を再構成している。幾何学図表を使って、 r の変化による経時的な各部門の売上額(支出額)、すなわち経済規模の発展経路を図示している。生産部門の売上高を x 軸に採り、非生産部門の売上高を y 軸に採った2次元座標を考える。座標上の1点を始発点P0に取る。P0座標は、始発時における地主階級の生産部門と非生産部門に対する支出を表し、かつそれが支出割合 r を決定する。r は時間を通じて一定であるとする。P0が、45度線上の生産規模にある r =1/2の経済は翌期P1以降も同一座標点に留まる。45度線より下の領域の点Q0(r >1/2)から出発した経済は一定の率で、Q1、Q2…と(原点とQ0の延長線上で)拡大を続け、45度線より上の領域の点(r <1/2)から出発した経済R0は一定の率でR1、R2…と(原点とR0の線分上で)縮小を続けることが示されるのである。中間形態の「略表」は表(図2)のみをあげることとして、次に「範式」(図3)の説明に入る。以下、主として越村と坂田の本を参考としながら、自分の納得できた線に沿って説明をする。 範式においては部門間の取引が概括的に示されている。「原表」では明示されていなかった、「原前払の利子」相当分が取引に明示されて左端に書かれているのも特徴である。上部に横線で区別された金額が生産階級の年前払20億と不生産階級の前払10億(「範式」では不生産階級の前払には、原・年前払の区分は書かれていない)とを記し、中央に地主階級の収入20億が書かれている。下の横線で区分された下部は生産階級の生産総額50億と不生産階級の加工総額20億を示すものと思われる。
生産期間における取引(交換・貢納)前後の各階級の保有生産物・加工品の状態を表にすれば次(図5)のとおりとなろう(前払の保有を除く)。
取引後の状態を見る。生産階級は年前払20億、原前払10億を費消したが、それに充当できる同額が農産物20億、工業品10億として、手元に残り、次年度の前払として繰り越せる。地主階級は、農産物・工業品を各10億得るが、それらを消費して終わる。そして、不生産階級は、10億の前払を費消したが、手元に農産物20億が残る。ケネーはこれに注記して、「その半分は次年度前払のためにこの階級によって保存される」と書いている。このところは上手く理解できない。越村は、年前払に限定しても、原料と賃金分が必要だとして、不生産階級の前払は20億であるべきと考えた。20億が不生産階級の手元に残り次年に繰り越すとするのである。 以上実物ベースで考えれば、再生産過程の継続は可能である。しかし、ケネーのジグザグ線との関係も不明であるし、地主階級の経済の起動力としての姿が現れていないように思える。そこで、次に貨幣を導入する。 生産階級が前払の他に20億の貨幣を、不生産階級が前払を10億の貨幣の形態で所有するとする。再生産過程の部門間取引は次のように描かれる。 各取引で、該当すると思われる範式のジグザグ線を下表(図6)に番号で示して置く。
生産階級の生産物のうち、20億分は販売されず、年前払に充当され、次年の前払となる。こうして、生産期間1年の間に、各階級を考えると、
ここで、読者は気づかれたと思うが、「図6」の⑤の当てはめについては適当とは思えない。ただ、「範式」他の取引を当てはめて、唯一の残った線であるので、このように表示した。⑤の取引内容の意義を生かそうとすると、範式のジグザグ線は下表(図7)のように描き直すべきなのかもしれない。「図6」の⑤の線の始発点が一段下に移動した形である。生産階級は地主階級から得た貨幣10億で、工業品を購入し原前払の利子に充当するのである。この表は坂田の解説(1956、p.73)を参考に描いた(注7)。
*ここで、坂田の解説文によりかかりながら、少し補足を加えておく。第一に、範式に30億の貨幣が前提とされていることは、範式を説明した「経済表の分析」にある「生産階級は、この階級が販売した三〇億の生産物引き換えに取得するこの三〇億[の貨幣]のうち…」(『経済表』、p.75)等の記述でも明らかである。上の「修正範式」は、「経済表の分析」等に記載されたケネーの考えを生かして、「範式」に最小限の修正を加えたものである。ケネーの表わそうとした再生産過程を、ケネーの記載から自由に、より合理的に表現するなら、例えばバウワー表(表8)といわれるジグザグ線の引き方がある。 ここでは、地主階級が生産階級から購入した農産物代価の貨幣が、生産階級が工業品を購入するのに使用され、さらにこの貨幣は不生産階級が農産物を購入するのに使用される。こうして、不生産階級の前払(農産物)の補填がなされ、再生産は可能となる。ただし、この表では不生産階級の前払も現物であり、貨幣は20億存在する前提である。 なお、私蔵本の『人民の友』第6部続編(Suite de la XI. Partie)部分は、「説明付経済表」となっている。『人民の友』は、第1部から第3部を1765年に、第4部を1758年に発行し、そしてこの第6部分が付加されたのは、1760年である。売れ行きは好調で40版を重ねたと言われている。 第6部続編には、経済表(原表)が6表収められている。一番目の表は、原表第三版に同じ(下部の説明のところが少し異なる)。二番目の表も。租税等を収入に含んでいるが単純再生産の表である。続編の後半部分が、経済均衡が攪乱された状況での「経済表」が考察の対象となっている。単純再生産ではない不均衡の経済表、経済表の動学化へのステップが試みられているのである。「不均衡表」は4つある。不均衡の第一表(三番目の表)は、私的な乱費により均衡が攪乱される場合である。具体的には、地主階級の装飾への奢侈によって、生産階級と不生産階級途への支出額が各々収入の半額から変更され、生産階級にその1/6少ない額が、不生産階級にその1/6多い額が支出される場合である。再生産額、収入=純生産額とも減少する。以下3例は公的な乱費によるケースである。不均衡の第二表は、租税その他の収奪による前払を通じた再生産の減少例である。生産階級の前払減少による影響が示される。不均衡の第三表は、生産物の販売課税等による耕作の衰退の場合である。純生産物が前払の100%とされたのが、ここでは前払の20%に減少する。良価が実現できない場合の再生産過程の衰退である。第四は、過重な租税負担による悪影響の例である。純生産額の半分しか地主収入として残されず、他の一半は租税と租税徴収費用に充てられる。第一段階で、生産階級には地主収入の半額(純生産額の1/4)しか使われず、純生産額の残りは不生産階級に支出される。ここから出発する波及効果が示される。以上はいずれも縮小再生産額の事例であるが、例えば不均衡の第一表の消費割合を生産階級に多く消費するように配分すれば、当然拡大再生産となる。 以上ミラボーの手になるものであり、ケネーの自身の著作ではないが、一番目の表は「原表第三版」と同一であり、既述のようにこの本が「経済表」を世に紹介したので、ケネーの「経済表」とさせてもらった。 オランダの古書店より購入。きれいな革装の小型6巻本である。 (注1)日大経済学部のHPから図書館目録を探してみたが、見つけられなかった。現在も所蔵されていると思うのであるが。
(2013.12.25記) |