MELON, JEAN FRANÇOI,
Essai politique sur le Commerce, No place, 1736, pp.237+(2) ,24mo.Bound with :Instruction sur les lettres de change, et sur les billets negociables, Blois :Chez Philbert-Joseph Masoson, 1734, pp.(3)+126

 ムロン『商業についての政治的試論』、1734年刊初版。
 著者略歴:ジャン・フランソワ・ムロンMelon, Jean François(1675-1738)。ムロン、仏語でメロンのことである。カーネギ・メロン大学(メロン財閥)などがあるから珍しくもない姓であろう。フランス中部コレーズ県チュール(Tulle)の生まれ。法服貴族の出自である。同地で学び、ボルドーで議会付きの法務官となった。1708年ボルドー近くのダックス(J・C・ボルダの生地である)の徴税監督官に就く。ムロンの興味は文学、経済問題に広がった。学問研究施設たるアカデミーは、閉鎖的ではあったが18世紀初頭に、フランスでも20を数えたという。1712年ボルドー・アカデミーが、フランスで3番目に創設された。ムロンはこの創設会員であり、終身書記に任命された。ここで、モンテスキューと出合い、終生の知己となる。
 1715年ルイ十四世の崩御に伴い、オルレアン公(フイッリップ二世)が幼帝の摂政に就く。摂政府は、帯剣貴族(軍務を担う伝統的貴族、法服貴族の対立概念)層を国政に参加させるべく、大臣制を廃止し、多元的会議制(ポリシノディ)を導入する。執行機関である、七つの国務会議(外務、陸軍、海軍、財政、宗教、内務、商務)からなるものである。摂政は、その財政会議の責任者にラ・フォルス公を任じた。同公はボルドー・アカデミーのパトロンであった機縁から、ムロンを個人秘書として招聘する。政治や後の「システム」論を考える経験となったであろう。多元的会議制は、帯剣貴族の国政運営能力の不足から、三年を待たず廃止された。
 その後、外務大臣のアベ・デュボアに仕え、1717年イギリスへ外交使節として派遣される。英国でマンデヴィル『蜂の寓話』論争を目撃し、奢侈と経済について考察を深めた。1718年ジョン・ローの第一秘書(経理担当秘書とも)となる。ローの「システム」が崩壊するまでローに仕え、彼を支えた。後、オルレアン公に出仕、重用されるが公の死(1723)により致仕、最後はブルボン公の秘書となった。
 晩年に著作活動に入るが、著作は2作のみである。本書の他には、『ガスベニーダ・ムフムード、オリエントの歴史』(Mahmoud the Gasvenide. Oriental History.、1729)という摂政期の人物の寓意小説を著わしている。スウィフトの『ガリバー旅行記』(1726)のようなものか。

 フランス啓蒙思想家サン=ピエールの功利主義の流れに掉さしながら、イギリスのジョサイア・チャイルド、マンデヴィル、ペティ、ローの経済思想を取り込み、本書を著した。英仏思想の交流の上に生まれたものである。後の、ケネー、テュルゴー、フォルボネ等に影響を与えた。本国のみならず、英訳(1738)、独訳(1740)、スェーデン語訳(1751)、デンマーク語訳(1759)、伊訳(1778)と多くの言語に翻訳・出版される。伊のジェノヴェージやガリアーニにまでその影響が及んでいるという。
 「経済科学がフランスで生まれたのは、ムロンによってである」(Labriolle-Rutherford)(注1)とフランス「経済学」の始祖とするむきもあるが、読んでみると、カンティロンの本ほど体系的ではない。ヴォルテールは、ムロンは経済学をサロンに持ち込んだと評したそうである。サロンでの談話風な叙述をいったものであろう。少なくとも、フランスで最初の体系的に経済問題を取り扱った本であるとはいえる。この本によって、フランス経済学史上に知られた「貨幣論争」および「奢侈論争」が開始されることになる。論争の内容は省略する。興味のある向きは、米田の著作(2005)を参照されたい。
 先述のようにムロンは、ローの第一秘書であった。一方、『商業試論』の著者カンティロンは、ジェームズ・ブリッジス(チャンドス卿)の紹介でジョン・ローと知り合いであった。ローを介して二人は互いに知人であった。本書『政治的試論』(1734)と『商業試論』(1755)という「二人の著作は、たまたま大いに時を隔てて世に出ることになっただけで[中略]本来は同じ時空で同じ現実をみつめていた」(津田内匠、1993.p.7)のである。のみならず、『政治的試論』の増補された第二版(1736)諸章には、『商業試論』の内容を踏まえた議論が見られるのである。『商業試論』が執筆されたのは、1728~30年または、1730~32の間だとされるから、ムロンが『商業試論』の原稿を見た可能性はある。津田は「二つの目を相互に交差させながら、彼らの著作を読むべき」(前掲)であるとする。
 (ここで、少し先走って、本書のロー(システム)に関する記述を見ておく。第23章「公信用」に収められた所である)
 初版では、「ローのシステム」はもとより、ジョン・ローの名前さえ出てこない。十数年を経たとはいえ、ローの巻き起こした混乱の傷跡が生々しく、公然と語ることが憚られたのであろう。ローのシステムは、台湾のバラモンの娘パニマの物語に託して、寓話として語られる。ここで、台湾(原文:Formose)が出てくるのは、フォルモサ=美麗島の名前がファンタジーの舞台に相応しいと考えられたのか、それとも遠隔の地で現実でないことを強調しようとしたのか。後者の例では、セレンディピティの語源となった物語が、セレンデップ=セイロンが舞台となっているようなものか。私には学がないのでよくわからない。バラモンも特権階級の意であろう。余談はさておき、パルマは魔術で富をもたらしたが、「彼女は輝かしい成功に酔いしれ、みずからが抱くあらゆる幻想に激しく身を委ねてしまったのだ。これはもはや恐るべき軽はずみというほかはない。それが彼女を全国民にとって憎むべき存在にしてしまったのだから」(ムロン、2015、p.189:以下訳書からの引用は頁のみを表示)と書かれている。
 初版での反応を見てか、第二版では、「寓話を用いずに話そう、少なくとも正確に話をして、単純な事実を明らかにしておこう[中略]われわれは、システムを目の当たりにした人々理解してもらえるように、注意深く、その事実を述べよう」(p.189-190)として、訳書にして6ページにわたり彼の見た事件の経過を追記している。そしてローについては、「彼の偉大な魂はたじろくことはなかったし、彼の機知縦横な才気は彼にいつも新たな策を授けたが、その策は、輝かしい成功を得てからというもの[は?:引用者]彼がもはや考慮に入れなかった国民性からみて、しばしば大胆にすぎ、あまりに節度を欠いていた」(p.194)と評価する。行き過ぎには批判的であるが、ローを弁護したといってよいだろう。一方、カンティロンは、ローによって多大な利益を得ながら、ロー・システムの崩壊は必然的であったとして、一貫して彼に批判的であった。それが『商業試論』の隠れたテーマとされる。
 
 さて、以下具体的に本書内容に入ることとし、まず、その構成から見る。
 各章の標題を掲げよう。*を付したものは、第二版で増補された章である。
 第1章 諸原理、第2章 小麦、第3章 住民の増加、第4章 植民地、第5章 奴隷制、第6章 独占会社、第7章 軍事的政府、第8章 産業活動、第9章 奢侈、*第10章 輸入と輸出、*第11章 交易の自由、第12章 貨幣の法定価値、第13章 貨幣の釣り合い、第14章 フィッリップ端麗王に対する反乱、第15章 聖ルイ王とシャルル七世の貨幣、第16章 貨幣の法定価値の引き上げ、第17章 物産の高価、第18章 反論に対する回答、*第19章 貨幣に関する様々な考察、第20章 為替、*第21章 打歩、*第22章 交易バランス、第23章 公信用、*第24章 政治算術、*第25章 システム、第26章 結論 である。 第1章で諸国家発展の為に、立法者の目的とすべき諸原理をあげ、第2章で第1目的の小麦、第3~第9章で第2目的の奢侈による人口増大を扱い(初版での説明不足を補うべく、第二版で第11章、第12勝を付加)、第12章~第23章で第3目的の貨幣・信用を取り上げる(途中21,22章で同様に補足)、第24章~第26章は総論部分(第24、25章は補足部分)となろうか。

 (諸原理)
 本書は「第一章 諸原理」冒頭の、世界が三島からなるモデルから始まる。面積と人口が同じで、それぞれ、①小麦、②羊毛、③酒類、のみを生産する島である。後に(p.68)生産物を「絶対的な必要品」、「二次的な必要品」、「奢侈(品)」に分類しており、それらに対応する区分であろう(注2)。さらにいえば、ムロンは第二章で、「フランスはとくに小麦の生産地であり」(p.11)と強調していることから、小麦生産の島はフランスになぞらえているように思える。
 ムロンにおいては、モデルといっても数値例を用いたものではない。少し遅れるが、カンティロン(『商業試論』、1755年)は、「カンティロンの経済表」と呼ばれるもので経済循環の数値モデルを示している。ムロン・モデルは、やや抽象的に言葉で、主として絶対的必要品を生産する島の優位を立証すべく以下の叙述を行う。
 「社会の構成部分の間には非常に緊密な結びつきがあり、ある部分に打撃を与えれば、他の部分にその影響が及ばないでは済まないであろう」(p.6)。ムロンにとっては、社会とは財の交換が複合、継続する体系である。島モデルは、その最も単純な縮図である。これらの島の間では、交易が行われる。「交易とは余分品と必要品との交換である」(p.6)。「それぞれの島は十分な量の自らの物産を確保しつつ、残りを他の島の物資と交換する。必要な物と交換される物は等しいから、したがって交易のバランスも等しくなるであろう」(p.3)。まずは、均衡の世界である。しかし、ある島が他島から輸入する必要品を自島で生産したり、自島固有の生産物を増産したりすれば、バランスは崩れる。自由放任すれば絶えず崩壊しがちな、貿易均衡を回復し、さらには他島に優位に立つためには、立法者(為政者)の措置が必要とされるのである。
 立法者( Légistlateur)の第一の目的は、必需品であり交易の基礎である小麦生産の確保である。小麦が欠乏すれば、すべてが失われる。第二目的は、島民人口の増加である。農業と製造業の発展により人口は増加し、人口増加は他島(=植民地)征服を可能とする。第三は貨幣とその代理物(信用)の保持である。商業、ひいては農業・製造業の発展のためには貨幣の不足せぬようにせねばならない。
 こうして、章題の「諸原理」に到達する。「交易全体において可能なあらゆる結合は、確かな諸原理に還元することができる」。①小麦の生産量、②人口、③貨幣(信用を含む)量、が「釣り合いの状態にあるかどうか」(p.6-7)である。
 以下の章で、立法者により実施されるべき、この三つの政策的課題を詳説することにより本書は構成されることになる。しかし、各章の詳細に入る前に、政策主体である立法者とその時代背景について見ておく。
 (立法者)
 「社会は、もっぱら、最大多数の人々(la plus grande Généralité)が最大の便宜を手に入れる程度に比例して野蛮な習俗から遠ざかるのである」(p.16)とするように、ムロンは最大多数の幸福が立法者の目的であるように書いている。功利主義的な主張であるが、当然ベンサムのそれのごとき明確なものではない。しかし、次の記述を併せ見ると、素朴ながら「最大多数の最大幸福」のごとき考えがあるように私には思える。「しかし、このこと(人間の数を増やすこと:引用者)はつねに、聖書の次のような非難を招かないように、人間を幸福にするという立派な動機に基づいていなければならない。「あなたがたは人間の数を増やしたとしても、彼らの幸福を増したわけではなかった」という非難である。立法者の栄光を算術的に表現するものは、彼が幸福にした人間の数で」ある(p.210:下線引用者)。
 少なくとも、国民の幸福が経済政策の目的であるとしたことは先進的で、「金銀の鉱山に富んでいる国が最も豊かであると信じている人々の誤り」(p.8)を指摘し、ブリオニズムからは、つとに脱しているのである。
 人々は放置しておいても、自らの幸福を求める。「軍人が勇敢であるのはもっぱら野心のせいであり、貿易商人が働くのはもっぱら貪欲のせいであるが、彼らがそうであるのは、大抵の場合、享楽的に人生を過ごすためである」(p.65)。「利点を伴わずに栄誉だけでは大勢の人々にとっては十分な刺激とはならない」(p.69)のであって、安楽な暮らしという「自分の分け前を増やし労苦を減じることが出来る希望」(p.69)が人間を動かす。
 しかしながら、幸福を求める国民の行動を放置すれば、国民全体の最大幸福がもたらされるものではない。予定調和は実現しない。「贅沢な人間は、羨望の眼差しにさらされほど、社会の義務を果たそうと一生懸命になる」(p.67)と、富者についてはスミスの「内なる人」=公平な観察者を思わせる記述もあることにはある。しかし、立法者による賢明な介入・規制が経済社会の最大幸福実現には必要なのである。「立法者がなすべきことは、もっぱらその(人間の:引用者)情念を社会の利益になるように導くことである」(p.65)。
 「立法者は誰も特別扱いにせず、いつも最大多数の幸福を目指している」(p.73)というように立法者は、国民の利益をのみを考える完全に公正中立の立場にいる。現実に可能かどうかは別にして、政治の力を利用した恣意的政策で、国民の利益を損なったローのやり方に対する反省の上に立つものであろう。ムロンの立法者は、ジェームズ・スチュアートの「ステイツマン」の原型となるもの(津田内匠、1993)であるという。
 カンティロンは『商業試論』において、商品の流通と交換と生産とを担う「企業者」を経済学史上最初に造形し、その役割に重きを置いた。カンティロンが民間主導型の経済発展を考えたとすれば、ムロンは官主導型の経済発展を構想したのである。カンティロンがローの批判から、官よりも民間の力を信じたとすれば、ムロンは官の力の行使に一層の厳格性を要求したということであろうか。

 (商業の精神)
 立法者が要請される時代背景についても説明が必要であろう。領土拡大のため度々対外戦争を行ったルイ14世は、治世後半を費やしたスペイ継承戦争(1701-14年)に事実上敗北し、ユトレヒト条約を締結した。ヨーロッパにおけるフランスの優位は終わった。「もはやみずからの国境を広げることを期待してはならない。すべての国がこの危険な前進を止めるために同盟を結ぶであろう」(p.55)。そして、「最終的に平和の精神が、わがヨーロッパの蒙を啓いた。常に適正なバランスが働いて、一国が征服によって他国に恐れられるほどその力を高めることはなくなるであろう」(p.54)。その結果、「一国はもはやその内政の賢明さによってしか強大になることはできないのである」(p.55)。
 勢力均衡により領土拡大が不可能となった時代においては、国家の存続は、「商業の精神」(l'esprit de commerce)に基づいた内政のよろしきに頼らざるを得ない。「商業の精神」とは、「保存の精神(l'esprit de cnsevation)」と「治世の精神(l'esprit de police)」とに不可分で、「征服の精神(l'esprit de conquête)」に相反するものであるとされている(p.50,52)。平和な時代が商業の精神を必要とするに至るが、逆に商業の精神が平和を招来するとも書いて、次の例をあげる。スペイン継承戦争中、敵国との交易は禁止された。しかし、必要性が戦時通行証によって、蘭・仏間の通商を復活させ、またそれを通じて全ヨーロッパの通商を復活させた。「交易を続けることによって、必要な戦争などあるものかどうか疑わせればよい」(p.84)。交易による相互利益が戦争の抑止力となるとの考えである。
 ムロンは、国内産業振興のために貿易差額主義(重商主義)は否定しないが、その極端な形での一国繁栄主義、近隣窮乏化政策は否定する。「しかしフランスは、このような(ペティの英国が世界交易を支配する記述:引用者)つまらない常軌を逸した野心を持つどころか、常に,各商業国に割り当てられた限度内に甘んじることを望んでいる。[中略]このような相互の交易は等しくあらゆる国民の幸福に貢献するだろう」(p.215)。商業の世界でも世界制覇を目指すのではなく、互恵的協力関係の構築を求める。

 (小麦)
 本題に戻る。第1章で、「小麦は交易の基礎である。というのは、小麦はなくてはならない生活の支えだからである」(p.4)としたムロンは、第2章の標題を、「小麦」としている。しかし、その内容は、農業を論じたものではない。農業については、「政治算術」の章(第24章)において、ペティがイングランドとオランダに関して書いたことに関説して、次のように少し触れられている程度である。それらの国は産業活動を活発にするため土地耕作を犠牲にした。フランスでは、農業が産業の第一番の対象でなければならないと(注3)。
 この章では小麦には違いないが、農業ではなく、商業それも商業の自由について論じているのである。収穫状況は、同じ年でも地方によって異なる。立法者は各地方の住民数と穀物収穫量の正確な調査を実施し、豊作の地方から不作の地方へ穀物を移送させることによって、穀価を平準化する必要がある。それは、非力な当局より、利にさとい商人に任せる方が容易に実現できるであろう。
 そして、ムロンは小麦の確保よりも、豊富によるその低価を危惧する。それは、「立法の第一の目的であるパンの保証は、フランスでは、小麦の島がそうであるようにきわめて容易である。過度の豊富による価格の低落を防ぐことの方がずっと難しく、また同じくらい重要である」(p.11-12)から。それが重要性な理由は、これも「政治算術」の章に書かれている。「穀物の低価格は貧しいものも金持ちにも同じく有害である。穀物の低価格のせいで、農業者は税金や借地料を支払うことができなくなる。貧しいものはパンを買うのに必要なものを持たない、なぜなら金持ちがパンを買うのに必要なものしか持たず、労働者に支払うのに必要なものを持たないからである」(p.200)。
 物産の著しい豊富が有害であることは、広く認められており、著しい豊富が発生しているなら、その国の交易政策に欠陥があると推定される。当時フランスでは、輸出許可を得るための複雑な手続と税により利益が出ず、外国への穀物輸出は阻害されていた。低穀価の対策として、ムロンは余剰穀物の輸出自由化を主張する。
 「最も重要かつ最もよく知られた準則は、商業はただ自由と保護だけを求める、というものである。[中略]自由と保護のどちらを選ぶかという選択において、保護を除く方が自由を除く場合よりも害は少ないであろう。というのは、自由をもってすれば、商業の力だけで保護の代わりになりうるからである」(p.17)との考えである。

 (住民の増加)
 立法者の第二目的は、商業の基本原理に基づいて、市民を増やす問題である。ここでいう、市民あるいは住民は就業人口や労働人口のことである。ヨーロッパの平和均衡の下では、人は兵士になることはない。市民は「土地を耕したり、製造品を作ったり、あるいは船乗りになる」(p.21)ほかない。それぞれ、農・工・商あるいは、第1次、第2次、第3次産業の労働者を代表しているのであろう。
 先述のごとく、ムロンは生産物を「絶対的な必要品」、「二次的な必要品」、「(極上の)奢侈(品)」に分類している。農業=小麦(パン)生産は、必需品産業であり基礎産業であるが、工業は農業と同様に重要な産業である。人は技芸(arts)と勤労(industrie)により工業(industrie)を発達させた。ムロンは、工業(産業活動)と題した第8章で、その起源を述べる。「技芸の進歩に従って、人間はまず手を使って、次に道具を使って大地を耕した。人間が道具から得た手助けは最初のうちはささやかなものであったが、経験が次第にこの手助けを大きなものにした。こうした産業活動(industrie)の進歩には際限がない。産業活動は常に増大する、そして常に新たな欲求が生じ、[そのたびに]新たな産業活動がこれに応じうると思われる」(p.56)。そうして、一旦技術を習得すれば、需要が変化しても、「立法者がわざわざ関与しなくても、ある流行で役立った同じ熟練技は容易に他の流行に向かう」(p.57)のである。
 商業については、直接には章題が立てられていないが、「第10章 輸入と輸出」と「第11章 交易の自由」がその重要性を論じている。
 就業人口を増やすには、雇用を増加させねばならない。余剰労働者の雇用確保を植民地需要や奢侈需要に求め、住民の増加を立法者の役割とする。雇用問題を奢侈論や植民地論と結合したところにムロンの創意がある。住民の増大を扱う第3章以下を評して、津田内匠(1993、p.9)は、「ここでも国益とそれに従う「自由」の観点が貫かれている。これらの章は『政治的試論』中、最も才気あふれ」た箇所であるとする。

 (奢侈論)
 マンデヴィルやサン=ピエールの影響の下に、ムロンは奢侈を正面から取り上げた。そのことは、フランス思想史上でも画期的であった。経済学としては、奢侈を消費と結びつけた。同時代のカンティロンは、奢侈にはほとんど触れていないのである。ムロン奢侈論の影響は、ヒュームやジェイムズ・スチュアートに及んだ。
 「奢侈とは統治の安定がもたらす並外れた豪奢」(p.65)であるとの、文意が判然としない説明がある。奢侈は時代的にも、空間的(農村、首都間等)にも相対的なものであるともいう。しかし、なによりも、奢侈とは人間の欲望をして、商業社会の生産活動発展ための主動因であると捉えたものである。ムロンは、奢侈には二面性があるとした。一面は需要となり、就労人口を増加させるもの(生産面)であり、もう一面は贅沢をするために労働意欲→消費意欲をかき立てるものとしてである(消費面)。
 前者(生産面)については、「立法者は奢侈を植民地のようなものだと考えることができる。国家が、[中略]必要なだけの人手を持っているとき、余った人々が奢侈の仕事に用いられるのは有益である。というのは、彼らにはこのような仕事に就くか、もしくは無為しか残されていないからで」(p.66)ある。しかも、市民を植民地に送るより、支配地にととめる方がずっと有利である。
 贅沢をする人のお金が使われずに「彼の金庫のなかに保管されていれば、それは社会にとって死んでいることになろう」(p.74)。しかし、彼が庭師に支払えば、彼の家族は衣服を得ることが出来る。もし、「そのお金は物乞いに施されたとしたら、彼らの無為とその軽蔑すべき不品行を維持することにしか役立たな」(p.74)かった。
 ムロンの人間観は、無為は犯罪や悪徳の温床であり、勤労とそれをもたらす「奢侈はいわば怠惰と無為の破壊者である」(p.67)とするもの。ローマ帝国崩壊の原因は、「パンとサーカス」を与えて民衆を無為の中に放置したことにある(p.62)。「慈悲深い人間は施しを与え、政治家は仕事を与える。/無為を国家的な犯罪、あるいは致命的な犯罪と見」(p.60-61)なす。奢侈は国民を柔弱するとは考えない。
 後者(消費面)については、先に引いたところを、再度あげる。「軍人が勇敢であるのはもっぱら野心のせいであり、貿易商人が働くのはもっぱら貪欲のせいであるが、彼らがそうであるのは、大抵の場合、享楽的に人生を過ごすためである。こうして奢侈は彼らには労働の新たな動機となる」(p.65)。安楽な消費生活を求めることが、勤勉を動機づける。
 この引用では、奢侈が労働を刺激する主体の例として、軍人と貿易商人をあげている。その直後には、(私掠船の)船長の例も取り上げられる。ムロンが奢侈の消費的機能の主体と考えるのは、軍人、貿易商人、船長等の資産家のみであって労働者ではない。労働者は、生産的機能でのみ捉えられていた。「一国の奢侈はおよそ千人にかぎられる。そのほかに2000万人の人々がいる」(p.67)というように、奢侈主体の消費者は千人で、その他の2,000万人が生産活動のみを担う労働者なのである(注4)。しかし、ここでの資産家・富者は勤労する者であるから、貴族等の働かない有閑階級は含まれていない。いわゆるブルジョア、富裕な商工業階級を意味しているのではないかと思われる。貴族等は批判的に「怠惰な人々、つまり身分上、働かずに消費する人々を容認するような治世の欠陥がありうる」(下線引用者:p.203)と書かれている。消費はすれども、ムロンのいう(勤労の動機たる)「奢侈」とは結びついていない。ムロンの階級別の生産的機能と消費的機能を表にすれば次の如くか。

   生産的機能  消費的機能
 有閑階級(富者) ×  △(非奢侈)
 ブルジョア(富者)
 労働者 ×

 
 人間は絶対的な必需品の欲望が満たされたときに、二次的必要品を欲する。欲望には自然の順位があり、転倒した欲求が先行して、歪んだ産業構造になる心配はない(このあたり、記者はグラスラン『富および租税に関する分析試論』(1767)の欲求表を思い起こす)。商業社会の発展と共に消費水準が上がり、産業構造が高度化していく。「国家の役目は奢侈を国家の利益に変えることである」(p.74)が、「様々な種類の必要に対し、[異なる]諸段階がうまく割り当てられており、立法者はそれに立脚することができる」(p.72)のである。
 奢侈と関連して、国家の役目=立法者の役割として最重要なものとされているのが、国内バランスである。「第22章 交易バランス」において、「首都と地方の間に常になくてはならないのが国内バランスであり、これこそ最も重要なバランスである」(p.177)とされている。首都には、まず王室=政府支出がある。のみならず、貴族や官吏が多数居住した。貴族は封建領主としての地代収入や功臣として褒賞年金、重臣としての俸給を受領した。官吏は俸給を得る。彼らはそれら収入を首都で消費したのである。首都は富の集積する中心であった。
 首都の消費階級は、「リヨンの金糸の織物、ブルゴニューやシャンパーニュの葡萄酒、ノルマンディやメーヌの鶏、ベルゴールのヤマウズラとトリュフ」(p.178)などの奢侈品に支出する。それらの消費需要が地方住民のタイユ税、塩税、10分の1税支払いの源泉となり、首都に税金として還流する。「もし租税の額と土地生産物の売れ行きとがバランスを欠くことになれば、そうした彼らの収入も長続きしないであろう」(p.178)。立法者は、「人間のバランス」(職業別人口構成)に配慮すると同時に、「公正な課税と売れ行きが釣合を保つことによって、農業者が彼のつらい骨折りの成果を安心して享受できるようにしなければならない」(p.178)のである。
 この第22章は第二版で増補されたものであり、富裕階級の消費を出発点とする首都と地方の貨幣・経済循環の構図はカンティロンに学んだものであろう。カンティロンは、『商業試論』第Ⅱ部で貨幣の流通に関説して、地主を中心とした経済循環の構図(「カンティロンの経済表」)を描いている。

  (貨幣・信用論)
 立法者の第三目的たる貨幣・信用論である。貨幣・信用の発展はローのシステムが目指し、そして失敗したことでもある。この問題にムロンは最大のページ数を費やし論じている。しかし、その内容はフランスのアンリ3世から「ロー・システム」の破綻に至るまでの、貨幣史を長々と述べたもので、読んでいて退屈なものである。ムロン自身の積極的な貨幣・信用論は「第23章公信用」に、ほぼととまる。このことが、金融論は就業人口論や奢侈論に比べて内容が劣ると評価されるところであろう。
 ムロンの時代の経済著作家には、貨幣流通量の不足が共通認識としてあったという。米田昇平(2005、p.69)によると、ムロンが考える貨幣不足を補填する手段は、銀食器の溶解、貿易バランス、augmentation、信用創造の四つである。Augmentationとは、貨幣の名目価値の増価(訳書では「ひき上げ」)のことであり、貨幣の貴金属含有量を変えずにその法定価値を高めるか、法定価値を変えずに貨幣の貴金属含有量を減らすことである。歴史的には後者の手段が、(密かに)流通貨幣を改鋳(貶質)することにより多用された。
 ムロンが第12章から19章に亘り(章数でみると本の約1/3を占める)長々と述べるフランスの貨幣史は、ほとんどが増価(augmentation)の歴史なのである。そこでは、政治による恣意的濫発は除いて、増価は基本的に肯定されているのである。フランスでは、信用制度が未発達なため、時々の政治上・財政上の要求に従って増価政策により歳入を確保した。そしてそれが、非常時の緊急手段から通常の年々の政策となってしまったのである。
 なぜ、ムロンはこれほどまでに、貨幣の増価史を長々と取り上げたかの理由については、大田一廣(1988)の説明が素人には解りよい。ムロンが目指す、公信用の発展のためには、公信用を含む「貨幣創造の可能性」を明確に示しておかねばならない。そのためには、当時の通念であった、金属貨幣に内在する貴金属が自然的価値を形成するという「内在的価値説」を否定しなければならない。貨幣流通の根拠をその内在価値にありとする貨幣金属主義(metalism)を排し、貨幣創造を可能とする新たな貨幣概念の展開が必要とされる。特にローによる信用創造が大パニックで終わった直後の時代にあって、「重金主義的偏見」の風潮の中で金属主義を否定するのは難問であったに違いない。ムロンの説は大田が「貨幣・代表約定(convention représentative)説」と呼ぶものである(下の訳文から言えば「協約代理説」というべきか)。ムロンのいうところを引く。
 「金銀はそれら必要品の担保にすぎず、これらの物産がそれを産する島に豊富に存在する程度に応じてしか、それらの物産の代わり[担保]にはならない[代わり[担保]となるにすぎない?:引用者]。一方、これらの金属は任意の代理物をもって代えることができるし、実際そうなのである」(p.8-9)。「金銀銅の金属としての用途は、貨幣としてそれらがわれわれにもたらす用途ほど有益ではないからである。なぜなら、金銀銅は、それらを交換の担保にするという一般的協約によって、商業の対象となるものすべての等価物となったからである」(p.141)。「貨幣と信用の唯一の違いは、貨幣が一般的な協約に基づくのに対して、信用は限定されていることである。しかし信用は、それに確固たる基礎が与えられれば、一般的となりうる。ここには古代には知られていなかったヨーロッパの政治の進歩がある」(p.142)。
 貨幣の流通は、一般的協約(convention générale)に基づくものであり、「人為的制度」(institution arbitraire:訳では人為が設けたもの)であると考える。そのことを証するために、フランス貨幣史における増価の歴史を辿ったと大田はいう。増価貨幣政策の歴史は、貨幣の貶質による実質価値と名目価値の乖離の歴史でもあった。しかしながら、歴史を振り返ると、第18章のまとめで(p.139-140)いうがごとく、

 一、法定価値[通貨]は、重量と純分以外の内在価値を持たない。
ニ.法定価値を八十倍(シャルルマニューの時代に比して:引用者)以上に高めても、商業にも財政にも悪影響を及ぼすことはなかったのだから、法定価値は商業にも財政にも無関係である。

 という事実がある。増価政策は経済実態に悪影響を与えなかったと見るのである。貨幣の実質価値と名目価値の乖離・分離、およびそれにもかかわらず経済への悪影響がなかった事実は歴史が証明している。そこに、一般的協約に基づいて、貨幣創造や公信用による貨幣の増加の可能性が開けているのである。それを証するのに、歴史的記述にこれだけの紙数を要した。それほど、貨幣金属説の通念が強固であったということであろうか。
 実質価値と名目価値の乖離は歴史的には増価が主流であったとはいえ、減価の事実もあった。貨幣の貴金属含有量を変えずにその法定価値を下げるような例である。「[貨幣法定価値の]引き下げ(les diminitions)は債権者に有利であり、引き上げは(les augmentation)は債務者に有利である。国家に関する他の事情がすべて等しいとすれば、有利を受けるべきは債務者である」(p.104)。貨幣の増価に苦情をいう人は、裕福な債権者であって、債務を負った民衆ではなかった。債務者に有利に計らうのが、準則(maxime)だという。「常に債務者を有利に扱うべし、とする法の準則―それはむしろ国家の準則である」(p.138)。ここで、注意すべきは、国家は常に債務者であったことである。増価は国家にも有利であった。
 貨幣増価の歴史は、国家を含む債務者に有利なこともあって、フランスの現実経済には積極的・肯定的な影響を及ぼして来たとムロンは考えている。「貨幣の法定価値は、豊富に、すなわち人々が労働と物産の販売によって、国家のすべての負担を削減も遅滞もなく弁済するために国王が必要とする税を容易に支払うことができるほど豊富に存在しなければならない」(p.128)。なるほど「法定価値の増大あるいは引き上げは、土地の賃料やあらゆる種類の商品に同じ価値の増大あるいは引き上げをもたらすはずであったし、実際そうであった」(p.126)。増価による貨幣の増発はインフレを招くことは承知している。しかし、貨幣の不足は、税収入の歳入欠陥をもたらす。税不足はそれを起点とする経済の循環構造を滞留させる。「ついには支払いが不能となるのを知るよりは、いくぶん高い買い物をすることで自分への支払いが確実になる方が、彼(年金受給者=消費階級:引用者)にはずっと有利である」(p.128)。ムロンはインフレ主義者なのである。すなわち、「通貨の増加は債務者としての国王と民衆に常に有利である」(p.129)。  

 (公信用)
 「富は、土地生産物、製造業の勤労、そして交換の担保に存する。最初の二つは動かしようがないが、三番目はいつも任意である。なぜそれを不足したままにしておくのだろうか」(p.182)。この一節を、大胆に読み込むと、国家の富は資本と労働と貨幣にあり、前二者は短期的に所与であるが、貨幣は増大可能である、とでもなろうか。その貨幣量の増加手段を、過去に多用された貨幣増価によるのではではなく、公信用に求める。フランスでは公信用が未発達なため、これまでは貨幣増価に頼らざるを得なかったのである。ムロンの公信用(crédit public)は、公債等の国家信用のみならず、普通私信用に分類される銀行信用を包摂したものである。
 王国の規模がフランスの2/3しかない(農業生産量のことか:記者)、大英帝国が国家債務の活発な流通を通じて強大な力を得たという。「国家の債務は右手から左手へ渡る債務であり、国家が必要な食料を持ち、それをふんだんに与えることができるならば、債務によって国家が弱体化することはないであろう」(p.183)。「大規模な生産が行われていて、国家を破滅する革命が起こることなど心配する必要がない国は、信用と流通がその釣り合いを保っているときは、平時であれ戦時であれ、豊かで強力である」(p.182)。最近では、フランスでも、「銀行は非常に慎重かつ賢明なやり方で始まり、いうなれば、衰弱した国家に生命を与えた」(p.188)。ロー・システム(先述部分も参照)により、「あらゆる期待を上回る大きな成功がもたらされた」(p.190)。
 しかしながら、ローの政策は輝かしい成功を収めたが、時に大胆すぎ、節度を欠いた。銀行券と貨幣の釣り合いが崩れたのである。成功と失敗に学んだ摂政オルレアン公は新たな信用を計画したが、その死によって目論見は頓挫したとする。
 貨幣の過剰は貨幣の不足よりも危険である。政治がロー・システムの運用に介入したため、失敗に終わった。公信用は簡単な手段だけに、安易に濫用される危険がある。「政治体はしばしば人体にたとえられてきた。血液が人体を活気づけ、貨幣が政治体を活気づける。もし、血液が不足するか、運動を停止すれば、体は衰弱して仮死状態に陥る。もし、血液が過剰であるか、その運動が過度であれば、猛烈な熱が彼を死にいたらしめる。貨幣や、何らかの交換の担保が過剰な場合もまた、この担保の不足する場合よりもなおいっそう有害であろう」(p.213)。不足の場合は公信用が役目を果たすが、しばしば行き過ぎる。
 ムロンは、過剰信用の危惧はあるが、基本的にローの政策を擁護していると見てよいだろう。それでは、信用が濫発されないためにはどうすればよいか。信用と貨幣の釣り合いをどうとるか。そのことについては、詳しい説明はない。「当時、人々の行動が立脚していた原理、つまり銀行券の新たな価値によって、流通と商業を促進し物産の価値を高めるという原理」(p.143)の詳細は不明なままである。

 (システム)
 事実用の最終章が「システムについて」である。システムについて、「お互いに関係し合う数々の命題―その帰結は真実や世評を確かなものにする―の集まりをシステムと呼ぶ」(p.216)と定義している。例として、「プトレマイオスのシステム」や「コペルニクスのシステム」をあげる。そして、「摂政期の銀行の大規模なオペレーションに対し、この名称が与えられた」(前掲)とする。これでみると、システムは「体系」、ローのそれを考えると「組織」(確か、ロー・システムには反システムなるものがあった)とでも訳すべきものかと思える。
 「国家は良き法を持ってはじめて維持できる。もし国家が悪しき法を持てば、あるいはなくてはならない法を持たなければ、その国は弱体化し、自壊することになる。[中略]われわれは系統的秩序の重要性を理解し始めたところである」(前掲)として、外交のシステム、商業のシステム、財政のシステム等、及びそれらの下位システムからなる「一般システム」(p.217)を提唱している。外交、商業、財政などの多元システムから構成される系統的秩序を持つ統治体系を構想したのである。「それは、カンティロンのロー(システム:引用者)批判も超えて、新たな総合の「システム」を示そうとした試みではなかったか」(津田内匠、1993、p.7)と、される。しかし、財政システムの下位システムと思われる徴税システム(?)とシナの例により政治への意見具申について少し触れられている程度で、ここでもその詳細は書かれていない。

  最後に最終章「結論」から、まとめとなる記述を写す。「われわれの主題に限定して言えば、立法者は飢饉や過度の小麦の豊富に対して民衆を常に安心させることができる。彼は同じく、次のような方法で住民の数を増やすことができる。植民地への植民を勧めることで不都合にも母国の人口を減らすことがないようにすること、その報酬が確実な勤労を刺激するところの自由によってあらゆる種類の交易を促進すること、貧しい隣国の人々に未耕地を割り当てるかあるいは楽な仕事を提供して彼らを招き寄せることがそれである。最後に、徴税がもはや軍隊による強制執行に拠らずには行うことができないとすれば、それは通貨[の量]が税に釣り合っていないからである[中略]立法者の真の栄誉は人々の幸福にある」(p.235-236)。

 米国の古書店より購入。Carpenterによると、初版(1734年)には3つの異版がある。私蔵本は、その2番目”The title at head of table of contents has been replaced by an ornament.”とされるもののようである。目次は巻末についている。初版は、CiNiiによると、一橋大学図書館のメンガー文庫に一本、および同大学フランクリン文庫と小樽商大図書館に各一本が所蔵されている。フランクリン文庫・小樽商大所蔵本の説明文に私蔵本は合致する。Instruction sur les lettres de change, et sur les billets negociables という本と合綴されている。

(注1)太田一廣、1988、p.42による。
(注2)この第一章では、酒類は「二次的な必要品」に分類されている(p.5)。
(注3) 「これらの二国の富はもっぱら土地を放棄したお陰であるように見える。土地の耕作を産業活動と商業の堅実な基礎であると考えるわれわれからすれば、われわれが基本的富を築くのは土地の耕作によってである」(p.207)。そして、「農業者を最もよく元気づけるのは、新たな税を課されることもなく、無事に収穫が行われ、首尾よく売りさばけることへの期待である。さらに、ときには農業者への援助が必要となる」(p.208-209)と。
(注4) 千人は、いかにも少なすぎる。原文を確認したが、初版、第二版とも千人と書かれている。100万人の誤りとも思える。ちなみに、革命前のアンシャン・レジームの人口構成は、僧侶140万人、貴族40万人、ブルジョア100万人、非農業勤労者200万人、農民2,300万人とされている(桑原武夫編 『世界の歴史10 フランス革命とナポレオン』 中公文庫、p.12 による)


(参考文献)
  1. 大田一廣 「J・-F・ムロンの経済思想」(小林昇編 『資本主義世界の経済政策思想』 昭和堂、1988年 所収)
  2. 津田内匠 「J・-F・ムロンの「システム」論(1)」 一橋大学社会科学古典資料センター年報、13、6-10、1993-03-31
  3. 津田内匠 「J・-F・ムロンの「システム」論(2)」 一橋大学社会科学古典資料センター年報、14、12-15、1994-03-31
  4. 津田内匠 「J・-F・ムロンの「システム」論(3)」 一橋大学社会科学古典資料センター年報、16、6-10、1996-03-29年
  5. 津田内匠 「J・-F・ムロンの「システム」論(4)」 一橋大学社会科学古典資料センター年報、18、2-6、1998-03-31
  6. ムロン 米田昇平・後藤浩子訳 『商業についての政治的試論』 京都大学学術出版会、2015
  7. 米田昇平 「J・F・ムロンの商業社会論 ―啓蒙の経済学」(田中秀夫編 『野蛮と啓蒙 ―経済思想史からの接近』 京都大学学術出版会、2004年 所収)
  8. 米田昇平 『欲望と秩序 ―18世紀フランス経済学の展開』 昭和堂、2005年
  9. 米田昇平 『経済学の起源 -フランス 欲望の経済思想』 京都大学学術出版会、2016年
  10. Carpenter, Kenneth E. "THE ECONOMIC BESTSELLERS BEFORE 1850" A Catalogue of an Exhibition Prepared for the History of Economics Society meeting, May 21–24, 1975, at Baker Library




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(2016/12/27記)



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