DEFOE, Daniel,
A Plane of the English Commerce, being a Compleate Prospect of the Trade
of Nation, as well the Home Trade as the Foreign, London, Charles Rivington, 1728, pp.xvi+(8)+368, 8vo.
ダニエル・デフォー『イギリス経済の構図』(『イギリス通商案』とも)1728年刊初版。
著者略歴:デフォーDefoe, Daniel(1660-1731)。550冊近い著作(半数説あり)(注1)を持つ「生まれながらの記者であると同時に又奮闘家であった」(漱石・『文学評論』)。晩年59歳の時最初の長編小説『ロビンソン・クルーソー』に手を染め、以後『モル・フランダース』、『ロクサーナ』等次々に名作小説を発表することにより、「英国近代小説の祖」として知られる。しかし、ここでは漱石の「記者」の意味を「ジャーナリスト」と解したい。週刊誌等7誌を編集発行したばかりでなく、25年間にわたり数々の新聞・雑誌に寄稿し、「ジャーナリストの父」とも呼ばれるからである。日本でいえば、徳富蘇峰と石橋湛山を併せたくらいの大きさか。本書も広義の「ジャーナリズム」の作品と分類して良いだろう。「奮闘家」の面では、自ら好んで危地に飛び込む性向があった。
コックニーという言葉がこの頃あったかどうか、「生粋のロンドン子」である。ロンドンのシテイに接する下町セント・ジャイルズ教区に獣脂蝋燭製造業のジェームズ・フォー(James Foe)の子供として生まれる。兄姉はいたようである。フランス貴族風?なデフォーという名前に変更したのはダニエルである。デフォーの一家は非国教徒である。彼らは、公的な世界からは排除されていたため、商業活動に従事する者が多かった。父親から敬虔な宗教教育を受けたと思われるデフォーは、14歳の時(1674年)ロンドン北郊ニューイントン・グリーン(Newington Green)のモートン非国教徒専門学校(Morton's dissenting Academy)に入学し、5年間を過ごした。非国教徒はオックスブリッジに入学できないためにモートン(Charles Morton:1627-98)により設立された学校である。モートンは、後に渡米してハーバート大学の副総長となる自然科学者、数学者である。当時オックスブリッジの大学教育は、アダム・スミスの述懐でよく知られているように衰退堕落していた。古典教育に安住して、近代的自然科学、技術あるいは簿記・商業学のような実業教育には無関心であった。むしろ、非国教徒たることは教育に関してはデフォーに幸いしたというべきか。デフォーは後に、ラテン語を知らず無学だと揶揄されたが、科学技術に対する信頼と知識および平易にして達意な文体などはこの学校で学んだものである。もう一つ、デフォーの青年期を特徴づけるものは、彼を取り巻く厳格な非国教徒的(新教的)雰囲気である。メソジスト創始者ウェスレー兄弟の両親となる二人は、その結婚以前からデフォーの知己であった。ウィリアム・ペン親子(クエーカーの安住の地としてペンシルバニアを開いた)とも親交があった。デフォーの父は息子を司祭にするつもりであった。非国教徒の出自と教育は、デフォーに大きな影響を及ぼした。彼の書いた評論は説教を想起させると言われる。
1680年頃(?)メリヤス商から始めて、卸売にも手を拡げた。80年代半ばには、自らイタリア、スペイン等ヨーロッパ各地にまで出張し、商売は繁盛した。ワイン・煙草輸入商、船舶共有業、個人保険業をも営み、後には羊毛、チーズ、塩の販売にまで手を染めた。1684年(23歳)樽職人の娘メアリー・タフリー(Mary Tuffley)と結婚。8人の子をなす。
1685年国王チャールズ二世が死ぬと、嫡子がいなかったためカソリックの王弟ジェームズ二世が即位する。後継者にも擬せられたチャールズ二世の庶子モンマス公は、亡命先オランダから上陸、反乱を起こす。信仰の危機を感じるプロテスタントは、これに味方した。「モンマス公の反乱」である。デフォーも商売上の出張先から反乱に参加する。血の気の多い人である。反乱そのものは1ケ月ほどで鎮圧され、デフォーも逃走した。1688年11月には、議会有力者の招請を入れてオランダからウィリアム三世がトーベイ(Torbay)に上陸(侵攻)した。デフォーはウィリアムのロンドン入りを前に出迎えに馳せ参じ、義勇近衛連隊の士官にも加わった。
これらの国事に没頭しすぎたのか、あるいは気が多くて過剰に商売の手を広げ過ぎたのか(沈没船からの財宝回収、ジャコウネコの飼育等も手掛ける)、1692年17,000£の負債を残して破産する。現在の1億円相当だという。債務者監獄に収監された。しかし、再起し、1694年にはエセックスのティルベリー(Tilbury)で新興の煉瓦、瓦製造業として成功する。従業員は100人の多きに上った。この頃宮廷とのコネによるか、1695-99年ガラス税会計官という「小役人」に任命されている。
1688年に最初の著書を公刊し、1690年代後半には著作活動が活発化する。1697年には、最初の経済書『企業論』(An Essay upon Project)が上梓される。銀行業、道路の建設・維持、保険・年金業、精神病院及び学校等の公共的事業及び破産法についての提言からなる書である。創造的アントレプレナーを擁護した本でもある。
その後、風紀改善運動、常備軍論争、スペイン継承戦争についてパンフレット等を書いたが、著者の名を知らしめたは風刺詩『生粋のイギリス人』(The true-born Englishman, A Story,1701)である。外国人とされた国王ウィリアムを弁護した書である。この本の成功で勢いづいたのか、1702年『非国教徒撲滅捷径』(The Shortest Way with the Dissenters)を匿名出版する。ウィリアム三世の急死によりアン女王が即位、トーリー党の優勢の下、非国教徒弾圧の危機が迫った。デフォーは、弾圧側の立場を装って誇張して書くことで、その理不尽を暴こうとしたものである。しかし真意は理解されず、国教徒・非国教徒両陣営の憤激を買い、デフォーは追われる身となり、姿を隠した。逮捕後、三日間のさらし台と投獄の刑および罰金の判決を受けた。さらし台に立つ横には、彼の著作が売られ、「さらし台賛歌」(A Hymn to the pillory,1703)まで用意されていた。見物人は彼が恐れた汚物を投げる代わりに投花したという。しかしながら、6ケ月の入獄で、レンガ工場は傾き、3,500£の負債を残し再度の破産となる。『イギリス商人大鑑』(The Complete English Merchant)などを書いて商売の心得を説いているわりには、商売そのものには、余り得意でなかった印象を受ける。デフォーは、何度も破産し、生涯に十三度、貧富の間を浮沈したと自ら言う。生涯債鬼とは縁が切れなかった。この事態により彼のジャーナリズム入りは決定的となった。
投獄釈放に助力を得たことにより、パトロンというべき後のトーリー党主ロバート・ハーリーとの縁ができた。清教徒として育ち、元々熱心なホィッグ党員であったデフォーは、ハーリーのブレインとして諜報活動に従事することになる。ゴルドフィン・ハーリー内閣のための政治・経済情勢の情報収集と世論誘導の仕事であった。地方へ旅行することが多かったが、最大の功績は、1707年政府特使としてイングランド・スコットランド合併の裏面で果たした活動であろう。スコットランドに潜入して、合併反対の気運が強かった当地の世論を、文書活動・討論を通じて、賛成に導いたのである。1709年、『英・蘇合併史』(The History of Union of Great Britain)において合併の経緯を書く。
表向きの彼の顔はジャーナリストである。漱石によると、当時、男たちは妻子と家で食事を共にすることなく、コーヒーハウス・酒亭に集って、政談に花を咲かせた時代であった。1704年『レヴュー』(The Review)を創刊。当初週刊、途中からほとんど週3回発行。1713年までの9年間(1500号)を、一人で書いた。シュンペーターは、これを「一人舞台」(one man show:訳書では「個展」)と称した(1956、p.785)(注2)。スコットランド滞在中も記事を送り続けている。発行部数は多くて千部であるが、コーヒーハウス等で回し読みされたから、実際の読者は50倍にもなろうとされる。主として経済問題を扱い、その記事が平易、明解であったため大衆に支持された。「特に注目すべき事実は、デフォーの経済思想のなかでその主要な要素の殆どのものが、この『レヴィユー誌』の九年間の中に殆ど―たとえ萌芽的な形であろうとも―出尽し、既に出揃ってしまっている点である」(天川、1966、p.72:強調原文)。
厭戦気分の広がるスペイン継承戦争を終結すべく、デフォーは、スイフトと共に論陣を張った。英国は、1713年「ユトレヒト平和条約」を締結した。しかし、その付帯条約「ユトレヒト英仏自由通商条約」は内容が明らかになるに及び、貿易商・産業資本家からの反対が巻き起こった。英仏自由貿易は、東インド貿易と共に、重商主義者・保護貿易主義者が最も英国に不利とする部門である。自由通商条約擁護を求める政府首班(この時期首相制は確立していない)ハーリーの要請により、『レヴィユー』を同年5月(―14年7月)週3回発行の貿易専門誌『マーケーター・通商回復』(Mercator, or Commerce Retrieved)に切り替えた。自由貿易推進派(注3)の雑誌である。これに対し、反対派はヘンリー・マーチンを主筆として『ブリティシュ・マーチャント誌・通商維持』(The British Merchant, or Commerce Preserv'd)を週2回発行したことは良く知られるところである。前者はラテン語の誌名で「国際性」を標榜し、17世紀後半以降英仏間に設定された高額関税、貿易禁止措置を廃止、「通商回復」を図る副題を持つ。後者の誌名は、「生粋のイギリス商人」を表し、現行の「通商維持」を意図した副題を持つ。
この頃にも、ホイッグ派の告訴により文書誹毀罪などで3度の逮捕を受けるも、ハーリーの助けを受ける。そのハーリーは1714年政変により大蔵卿を解任され、後大逆罪でロンドン塔に幽閉される。デフォーも失脚する。同年アン女王が死去、ジョージ一世が即位するとホィッグ党が政権を握る。元々ホイッグ派の彼は、ハーリー政権下でトーリー的な論調を展開し、ホイッグ派から、変節漢、裏切者と嘲られた。又もや記事の件で逮捕されたが、裏取引があったのか早々に釈放される。以後、従前どおりトーリー系の新聞・雑誌に拠りながら論調を骨抜きにして、政権に協力するという複雑怪奇な仕事をすることになる。二股膏薬といわれても仕方がないだろう。しかし、一党論・無政党論者であるデフォー自身は「私はいかなる政党にも属せず」と言い、「政治についてはデフォーは主義の人であり、政党の人ではなかった」(トレヴェリアン)との弁護もある。何ごとにも「中庸」の人である彼は、左右両陣営からの攻撃を受けやすかった。
同じ頃もう一つの不幸が襲った。1715年自伝的著作の中で、激しい卒中の発作に見舞われ憔悴状態にあり、死期が近いのを覚悟したと書いている。しかし、七点八起ならぬ十二転十三起を自称するデフォーは、逆境に強い。そのままでは、『ロビンソン・クルーソー』も生まれず、その生涯も、暗鬱と敗北のうちに終わったかも知れなかった。「しかし、事実はその逆で、いよいよ彼は、著作家としてもっとも注目すべき、かの10年の時期にはいろうとしていたのである」(サザランド、1971、p.15)。
1719年59歳で、最初の小説『ロビンソン・クルーソー漂流記、第一部』、『続編』を出版。「驚異の年」1722年には『モル・フランダース』、『ペスト』、『ジャック大佐』を、1724年には『ロクサーナ』を出版する。漂流体験者、女掏摸、盗賊、娼婦等社会のはみ出し者を主人公とした、あるいは尋常でない状況(『ペスト』)を扱ったこれら小説は、商売の経験を通じて世間の表裏を知り尽くしたデフォーにして初めて可能であったのであろう。作品は主人公による一人称の物語形式である。今回私が読んだものは、『ロビンソン』と『ペスト』だけだが、いずれも今ならノン・フイクションあるいはニュー・ジャーナリズムとして分類される作物ではないか。『ロビンソン』もスコットランド出身水夫の実談が基になっているそうである。ジャーナリストとしての経験が生かされているというべきか。1720年夏にはローによるミシシッピー・バブルの結末を見るため、パリを訪問しているのも興味深い。
最晩年には、小説から再転して『大ブリテン島旅行記』(The Tour thro’ the Whole Island of Great Britain,1724-27)や『イギリス商人大鑑』(1726-27)、本書『イギリス経済の構図』(1728)等の経済・商業著作に回帰。死後、残された遺稿をもとに『イギリス紳士大鑑』(The Complete English gentleman、1890)が出版された。
『ロビンソン』などは、どこの家庭にでもあるといわれたほどのベストセラーであったが、稿料はごく安かったようである。最後は、昔振り出した手形の債務で債権者に追われ、ロンドン市内の宿屋で看取られることなく孤独に死んだとされる。宗教・商業問題に対しては同時代の余人の及ばぬ洞察を示した。不撓不屈、独立不羈、勇気と忍耐及び聡明な実践的知恵は、彼の生涯を貫くものでもあったように思える。彼の小説の主人公のように。
デフォーが経済論者として認識され評価されるようになったのは1930年代から、J・R・ムーア(Moore)がDaniel Defoe and Modern Economic Theory 1934を公刊してからとされている。。但し日本では、早くも大熊信行『マルクスのロビンソン物語』(1929)がある。しかしこの本は、『資本論』の冒頭(第一巻第一編第一章第四節)でマルクスが採り上げた「ロビンソン物語」をもとに、大熊の「配分原理」を述べたもので、デフォーの著作との直接的関連は薄い。この本については、小生は今回初めて目を通した。それでも、大塚久雄の啓蒙書である『国民経済』(1965)、『社会科学の方法』(1966)あるいは『社会科学における人間』(1977)を通じて、デフォーに経済書の著作があるのは学生時代からなんとなく承知していた。大抵の人の、経済論者デフォーについての認識は、そんなところではないか。
本書は、デフォーが幾多の雑誌・パンフレット等に発表した経済に関する諸論点をほぼ網羅しながら、議論を簡潔に整理し小著にまとめたものである。経済書としての主著とされる。デフォーは時事評論家ではあっても、経済学者ではないので、理論化や体系化を図るつもりはなかった。しかし、「事情通」として当時の経済の実体には精通していた上、非凡な洞察力を有していた。本書では、トレード(商工業)と貿易の実体を描きながら、自ずと歴史的分析や優れた洞察が発揮されている。そして平易・簡明な文章で大衆に語りかけながら、イギリス資本主義の将来と向かうべき方向を指し示したのである。
小林昇は、「今日われわれの持っている、経済史に関する多くの研究文献も、デフォウの描いた特定の時点に関するかぎり、この手ごろな『イギリスの経済事情』(本書のこと:記者)一冊よりも詳らかであるとはいえないであろう。」(小林、1976、p.88)とする。重商主義のさ中にあって、その内容は半世紀余も時代に先んじていたともされる(山下・天川訳書「解説」)。
内容は三編よりなる。第一編は、トレード(商工業)の用語・仕組を説明しつつ、国内外での取引が巨大であること。国産品・輸入品を併せた国内消費も巨大であることを述べる。第二編では当時問題視されていたイギリスの輸出貿易、製造業の衰退論について、その事実はなくむしろ拡大しているとする。第三編では、イギリス人の国民性を生かしたアフリカ等への植民と通商およびアメリカ植民地との通商改善により新市場を開拓し、もってイギリス製品の需要を増大させる提案している。辞書によれば、Planには@計画、案とA図面、詳細図の意味がある。邦題の『イギリス経済の構図』(山下・天川訳)は、第一・二編の「現状分析」に、『イギリス通商案』(泉谷訳)は第三編の「政策」に重きを置いたものか。
本題に入る前に、デフォーの生きた時代の状況を寸描してみよう。彼の生まれた年は、王制復古の年であり、上記の略伝で判るように自身の運命も政治的激動のなかで翻弄された。社会的には、幼少時にペストの流行(1665)と翌年のロンドン大火があり、新世紀に入っても、度重なる凶作が継起し、あまつさえ南海泡沫会社による金融恐慌(1720)があった。戦争も継起し(注4)、対オランダ戦争(第1次1652-54、第2次1664-67)、アウスグブルグ同盟戦争(1689-97)、スペイン王位継承戦(1702-14)と彼の生涯の半分は英国が戦争状態であったことになる。経済的には沈滞の時代とされるが、産業革命の基盤は着々準備されていた。以下主として山下の本に依りながら、その内実の説明を付加する。
16世紀中葉のマニュファクチャー開始期には、イギリス国内で商品交換の場として各地に市場町が成立し、大塚史学のいう局地的商業圏が族生した。しかし、デフォーの生きた時代である18世紀初頭を境にして、市場町は漸次衰退を示し始める。1760年頃までには、時人をして「田舎町にはほとんどいかなるマーケットも存在しない」といわれる程の状態となっていた。デフォーの『大ブリテン島旅行記』で「全国のみならず世界における最大の大市(フェア)」とされたケンブリッジシア州のストゥアブリッジ大市(Stourbridge
fair)も例外ではなかった。それは、局地的市場圏が次第に統合されて、一個の大きな市場となり、ついには全国を一丸とした市場に編成されていく過程なのであろう。取引形態は、定期市的なものから、shopおよび
storeという恒常的な形態へと移行して行く。
その中で、当時デフォーが人口150万人とする(実際は60万人程度か)ロンドンは、全国商品の最大の消費地であった。しかし、それにとどまらず、全国の生産物の流通の結節点でもあった。イングランド全域から商品が流れ込み、再びロンドンから全国の津々浦々に商品が分散配給される。“distributing point”となるのである。現在日本でいえば、食品における築地市場のようなものであろう。それまで貿易の輸出港としての性格が強かったロンドンは、国内各種生産物の集散地としての機能を強めていく。
こうした流通圏の拡大・発達そしてそれを支える社会的分業の進展は、商品流通を仲介する商人層を勃興させた。トレィズマン(Tradesman)と呼ばれる人々である。国内取引に従事する商人であり、国外取引に従事するマーチャントとは区別された。これらトレィズマンのなかでも特にファクター(Factor)とよばれる仲介業者(ミドルマン)の抬頭が目覚ましかった。彼らファクターは没落しつつある一部製造業者に対して信用供与による支配、販売の独占を行った面では世論の批判も受けたが、新興の業者に対する販売先確保、市況予測援助、信用供与の面で積極的な役割を果たし、製造業発展のために資した。産業革命前夜のこうした仲介業者による新たな流通の組織化形態を「正統的配給組織」と呼ぶ。
以上のような商人の抬頭は、社会階級における中間層の広範な成立の過程でもあった。本書全体の中で中間層の果たす役割は大きいので、もう少し敷衍してみる。『イギリス商人大鑑』(The Complete English Tradesman)からデフォーが中間層について、書いたところを抜いてみる。この本は邦訳がない。幸い、山下の本(第3章)に詳しい紹介がなされているので、そこからの(翻訳)孫引きになる。このため、原書の引用頁は表示しない。
「中産の身分middle station of lifeとわれわれがよび、また賢明な人びとの間でそうよばれているところの、人びとを全く安全にし、心地よきものとするものにして、栄えているトレィズマンの身分以上により適切なものをほかには知らない。」
「トレィズマンは[その状態から]下に落ちるのに決して高かすぎることがないと同様、上がるのに低すぎるということもない。そしてまた、トレィズマンが勤勉と熱心によって回復し得ぬほどに、低くみじめな状態というのもありえない」
「どのような[国の]人といえども、この国の破産したトレィズマンほどに、より頻繁に、もっとも深い破滅の渕から[再び]たち直っているものはない。よその国のトレィズマンは、この国の人ほどに、それほどたやすく[ひとたび]消尽した財産をもと通りに回復することができずにいるということは、大いに注目すべきことである。そのことの理由は、この国のトレィズマンが他の国々におけるよりも、より勤勉であり、より不屈であるからというのではない。…そうではなくて[それはまさしく]この国において行われている取引の大きな流れgreat Flux of Businessにもとづくものと思われる。その流れは、ヨーロッパないし全世界の他のいかなる国におけるよりも、イングランドにおいて、たしかにより大きいといえるのである」
同じような趣旨の記述は『ロビンソン・クルーソー』(平井正穂訳)の冒頭にも父の訓戒として書かれている。「お前の身分は中くらいの身分で、いわば下層社会の上の部にいるというわけである。自分の長年の経験によるとこのくらいいい身分はないし、人間の幸福にもいちばんぴったり合っている。身分の卑しい連中のみじめさや苦しさ、血のにじむような辛酸を嘗める必要もない。身分の高い連中につきものの驕りや贅沢や野心や妬みに悩まされる必要もない。こういう中くらいの立場がどんなに幸福なものか、ほかの連中がどれほど羨ましがっているということを考えてればわかりそうなものだ」と。
以下、本書の内容に入る。記載順にやや詳しく見てゆく。本書著述の目的については、序文で、「わが国の通商がいかなるものでどれほどの規模のものか、どのようにして現在の規模にまで達したか、そのまま維持し持続させるにはどうすべきか、(そしてこの試みの真の目的であり、またそうさるべきなのだが)どうすればさらに改善し拡大できるかについてのべるものである。」(デフォー、2010、p.4:以下、泉谷訳本からの引用は頁数のみ表示)としている。
(第一編)
デフォーは、Trade(泉谷訳は「商い」、山下・天川訳は「商工業」と訳す)は、売買(Dealing)と労働(Labouring)あるいは売買と製造(Manufacturing)からなるとしている(p.13、p.14)。トレードなる語に商業のみならず、工業も含めることは、当時の重商主義者一般に通有の使い方である。しかし、彼にとって、トレードとは主として商品売買、商業を意味した。「商いは世界中で普遍的な富の源である。アフリカやブラジルの金、メキシコやペルーの銀は、商いがなければ鉱山とかギニアやチリの川の砂のなかで、静かに眠っていただろう。」(p.21)との記載にもそれは、伺われる。トレードの無い金銀財宝は、ロビンソン・クルーソーの持つ貨幣と同じなのであろう。「商いは、製造業を促進し、発明を促し、人びとに仕事を与え、労働を増やし、賃金を支払う。」(p.24)のである。
次に本書全体の内容を簡潔にまとめたような文章がある。「商売(Business)が始まってから今日までずっと、国家の繁栄は、商いが支援されるか衰退させられるかにまさに対応して、上下したのは明らかなのである。/商いが盛んになると製品が増える。需要の多少によって、生産量が左右され、そして貧しい人々の賃金、食料の値段、地代と土地の価格は、前述したように上がったり下がったりする。/そしてまさしく国の力や強さもここに関係する。土地の価格が上下すると、租税もそれに比例して上下するからだ。」、「要するに、商いは人間を必要とし、人間は商いを必要とするわけだ」(p.25)。
商いの盛んな国では、「労働が利益を生み、利益が労働の力を高める。」(p.35)のである。しかし、商業がなく技術進歩の恩恵を受けなかった頃のロシアでは、「大きな厚板を切り取る方法はただ一つ、大木を倒してから多数の人手や斧で丸太の面を削いで、最後に真ん中を一枚の大きな厚板に仕上げるやり方だったそうだ」(p.36)。ちなみに、このやり方は、ロビンソン・クルーソーが南海の孤島で材木を切り出す時のデフォー描写と同じである。結果的にロシア人は、製材用鋸を使うスェーデン人の10分の1の賃金しか得られなかった。
このようにして、「商いが富と力の源であると分かれば、賢明な君主や国家が、臣民の商業なり商いの拡大や自国の産物の増加を切望し、気にかけているのも、不思議ではない。彼らは、国民が従事し、臣民がつくる商品の販売を、それもとくに、自国のお金を海外に流失させないような商品の販売を増やしたいと心から願っている。逆に、商品の交換ではなくお金を持ち出して代金を払うような、他国民の労働による他国の産物の輸入を禁止したいと切望する」(p.48-49)。この文を見れば、デフォーは、重商主義それも重金主義者のような印象を受けるが、ただの重商主義者でないことは、これに続くデフォー経済論の白眉とも云うべき「高賃金論」で明らかとなる。18世紀には、フランスのデリジスムに典型的に見られるように、輸出増進のためには、輸出価格を廉価にする必要があり、従って賃金も抑制すべしとするのが重商主義者一般の考えであった。これはケネー等のページで書いた通り所である。
しかし、デフォーはいう「一部の人々は、自国の製品の値段を下げれば国全体の利益になる、と主張しているが、まったく誤った原則である」、「まず最初に、職工あるいは製造人である貧困層の賃金を下げて製品の値段を下げれば、製品の価値と質が落ちるので、それはできないと主張したい」(p.52)。そうして、「物の高い安いは、高く売れるか安く売れる、かによるのではなく、売値が商品の質と釣り合っているかによる」(p.53)。他の本(Tradesman:山下、1968よりの孫引き)で説く所は、「高価dearと高値high-priced、もしくは低価cheapと安価low-pricedとの間には大きな違いがある。商品はhigh-pricedであってしかもdearも出ないことがあり、同様にlow-pricedでもcheapでないことがある。[この故に]すべての商品の価は、その質の良し悪しによって計らねばならない」。
「したがってわたしはまた主張するが、わが国の製品は最良であるがゆえに世界でもっとも安く、わが国の貧困層(一般勤労者層の意味:記者)は最高の仕事をするがゆえに、ヨーロッパのどこの貧困層よりも安く働いている」(p.54)。フランス人の労働時間は長いが、イギリス人は同じ仕事をもっと短時間で片づける(p.37)。『マーケーター』の記載では、「一日働くということと、一日の仕事をするということには大変な違いがあるということを知っておいてもらいたい。」とある。賃金面では、イングランドの高賃金が、一般勤労層(労働者・小製造業者)の生活を向上させ、彼らを健康にし、その体力が仕事を支え、労働能率を高めることを強調する。イギリス労働者は「機械の前後往復運動にずっと強い筋力を与えるので、よそでつくられた同種同名の商品よりも、堅固でしっかりしており目方もはるかにある」(p.39)。彼らの作る製品は、表面上の高価格にかかわらず高品質であるので、見かけ倒しの外国製品を圧倒する。そして、十分な食事と高い賃金に支えられ「他国よりも高賃金に見合った仕事をする」(p.40)。
以上、高賃金は第一に、品質を向上させ、耐久力のある製品を生む。品質と価格を比べて見ると、世界一安い商品であり、その結果需要が増大する。第二に、高賃金は低賃金労働に比べて、労働生産性がずっと増大する―ことを論じた。のみならず、それに加えて、第三に高賃金は一般勤労者を豊かにし、豊かな国内市場を生み出すのである。第一・第二点がイギリスの高度な生産力水準の表象であり、特に海外市場を念頭に置いた市場競争力の問題として把握されているのに対し、第三点は国内市場と結びつけて、消費増大を通じた経済発展の観点から論じる。
高賃金は、豊かな一般勤労者階層を形成し、膨大な大衆的消費を生み出す。デフォーが強調するのは一般勤労者階級の消費である。「イギリスの商いに従事する中流層が裕福であるように、その下で労働し製造に携わる人々は、世界における他のどんな国の同じ階級の人びとよりも、はるかに裕福だということである」(p.79)。大衆的消費階層は、「中流層」と「貧困層」からなる。彼のいう「中流層」は、「製造人(manufacturer)と小売商人(shop-keepers)」であり、「貧困層」は「貧民(poor
People)、日雇い職人(journey-men)、骨身を惜しまない労働者( working and Pains-taking people)」(p.80-81)であると考えてよいだろう。要は、地主階級や大商人ではない、人びとである。中流層の「労働あるいは商いの勤勉の成果である利益と、考えられないほど多くの人数があって初めて、わが国の産物とわが国に輸入された外国産物の国内消費が桁外れに大きくなり、またわが国の商いが後でのべるように驚異的な規模にまで高められた」(p.80)し、貧困層も含めた大衆的消費階層全体として、「要するに、この人たちはわが国の商業全体の生命であり、しかもすべてその人数の多さにもとづくのである。…高い収入で彼らは生計を立て、その人数が多いから国全体が支えられる。賃金のおかげで彼らは豊かな生活ができ、その贅沢な、気前の良い、物惜しみしない生活様式のおかげで、外国の産物だけでなく自国の産物をも含む国内消費がたいへん高められている」(p.81)。論敵『ブリティシュ・マーチャント』によれば、当時イギリスの賃金は、フランスの2倍とされた。
トレードが繁栄するところでは、中流・貧困層の暮らし向きが良くなり、賃金・収入が増え消費は増大する。しかし、議論はここに留まることはない。当然消費のうちでも食料の消費が一番増加する。食料需要増加により食料価格が高騰する。「食料が最高値のところでは地代がこのうえなく騰貴している。/また、というのもクライマックスはここで終わらないからだが、地代が騰貴しているところでは統治者への租税や納付金がそれだけ多くなり、より多くの租税が徴収されているところでは歳入が増えるので、そこの君主とか統治者がその分だけ富裕になり、国が富裕になるとそれに比例して強国になる」(p.46-47:強調原文)。デフォーは、高賃金→食料需要増→穀物価格高騰→地代上昇(土地価格上昇)→租税歳入増加→国力増加、との経済発展の構図を描く。生産階級であり消費階級でもある一般勤労階層の所得増大による単純な発展構図に留まらず、不生産階級である地主階級を含めた一回り大きい構図に拡大しているのである。当時は地主負担になる地租収入は、関税収入(チャイルド、ダヴナント等のトーリー自由貿易論者が重視した)と並んで「議会的重商主義政策Parliamentary
Mercantilism遂行のための有力な資金源とされ…地主層の介在により、この国での産業資本の展開はいっそう促進された」(山下、1968、p.230)。国富の基礎である土地が、トレードの発展により一層の産業発展につながるのである。
「まさにそれゆえに、この(高い:記者)賃金こそ、あらゆる運動の最初のバネなのである。」(山下・天川訳、p.104)[So, that these
are originally the first Spring of all the Motion:原書、p.103]とデフォーはいう。天川の言葉を借りると、「デフォーの「高賃金論」は「厖大な消費」を媒介として「国内市場」に連なり、製品の高品質を媒介として「自由貿易」に結びついて彼の一貫した経済思想大系を完成する」(1966、p.128)。「従って高賃金論こそは彼の経済思想大系の中心的要(カナメ)的地位にあり、起点である」(同、p.124)。
経済の規模の大きさは貿易とも密接に関連する。ここで付け加えるべきは、デフォーの英蘭貿易対比論あるいは産業構造対比論である。オランダの貿易は、イギリスを凌いでいる。しかしその内容が異なる。大塚久雄(1969)が本書を引いて、「貿易国家の二つの型」として「内部成長型」と「中継貿易型」と呼んだものである。「イギリスの商いにおいてたいへん重要であり、私が知る限り世界のどこにも比類のない事柄につき、少し熟考してみる価値がある。すなわち、イギリスの取引資源(Fund of our Trade:元本と訳すべきか:記者)は完全に国内で調達され、わが国の商業がすべて自国のものに発しているというのは、一種特有のものである。他の国ではそうでない。オランダ人の商いはぜんぜんオランダに固有のものではなく、たんに売り買いし、持って行って持って来るだけであり、最初に輸入するものを再輸出するだけで、自国のものはほとんどあるいはまったく何も輸出しない。…/オランダ人は売るために買い、イギリス人は売るために植え、堀り、羊毛を刈り、織る。我が国の製品は自国製であるだけでなく、そのほとんどの原料も自国産である」(p.63)。
オランダは、「世界の輸送業者、貿易の仲介人、ヨーロッパの仲買人であり周旋人として理解されなければならない」(p.145:強調原文)。売るために買い、発送するために積み込む。対してイギリスは、ほとんどの原料を自国で調達する。自国で産しないか不足する原料を輸入もするが、それらを加工して製品輸出する。もちろん、自国の消費のための輸入量も大きい。
「これらすべての説明、ならびにこれからのべるかもしれないもっと多くの説明を要約すれば、おそらく次のようにまとめられるだろう。/1.わが国の産物と製品(わが植民地の産品もわが国のものとして考える)だけから成る、イギリスの輸出品の規模は、世界中のどんな国の規模よりも大きい。/2.外国からの輸入品、ならびに加工したイギリスの産物、すなわち毛織物その他の製品のわが国における消費も、同様に他のいかなる国の国内消費よりも果てしなく大きい」(p.171)。こうして、イギリス国内では、農業と工業およびそれらを仲介する商業が均衡して成長し、社会的分業を深化させながら、スミスのいう「事物の正常な道程」に従い、国民的生産力と購買力を内発的、自立的に経済を発展させていく。
これまでにみたイギリスの繁栄の構図は、その陰画というべき小説『ペスト』に描かれた状況と対比すればより鮮明である。参考までに、これも書き加える。ペストが流行すると、疎開による都市人口流失が起こり、感染不安から物流は止まる。消費需要は生存に必要な最小限に落ち込む。それらが、製造業、運送業等に与える影響が箇条書きで記載されている(デフォー、1973、p.156)。「技術者であろうと、単なる職人であろうと、とにもかくにも自分で働いて日々のパンを稼いでいる人間が、このロンドンと言う市内にどんなに多いかということを知っている読者諸氏の一考を煩わしたいことがある。それは、もしこういう都市において、突然、今いったような勤労者が全部仕事から放り出され、一切の仕事そのものがなくなり、賃金も全然手に入らなくなったとしたら、その際の惨憺たる状態はどんなものであるか、ということである」(同、p.157-158)。「あらゆる商売がとまり、雇用は停止された。仕事がなくなるとともに、貧乏人の台所からはパンも姿を消していった」(同、p.156)。
(第二編)
貿易と製造業の衰退、特に毛織物工業が衰退しているとのイギリス国民の不満に対し、その衰退を否定するものである。当時毛織物の500万ポンドが輸出され、200万ポンドが国内消費(p.129)されているとするほど、その輸出比重は大きかった。しかしながら、輸出額全体における毛織物の占率は漸減しつつあった(1663-9年74%、1699-1701年47.4%、1750年45.9%)(注5)。それでも18世紀初頭、毛織物輸出の絶対額は増加していた。輸出商品の構成の変化による輸出単価の減少のために、販売量の増加ほど輸出額が増加しない状況であったようである。デフォーは毛織物製造業の未来に対する悲観を排した。
デフォーは、羊毛を神、天あるいは自然の賜物と呼び、イギリス国民に特別に与えられたものであるとの考えていた。「天は羊毛―すなわちあらゆる彼らの経済活動の生命であり、魂であり、そして起源でもあるところの羊毛を彼らに与え給うた。神は世界におけるすべての国民を排除して、彼らのみにこれを賦与されたのである。」(山下・天川訳、p.143による:泉谷訳ではp.116)。従って、羊毛を原料とするイギリス毛織物工業については絶大の自信、あるいは過信をもっていた。天川(1966、p.402)はそれを、「羊毛万能論」と呼んでいる。彼の死後半世紀の後、産業革命を担い、ロストフが「離陸」の主導部門とした綿工業の隆盛は、想像もできなかったのである。
諸外国が自国産の毛織物製造を奨励し、イギリスからの輸入を制限する事実はある。すべての国々には、貧困層を仕事につかせ、就職を奨励するために外国製品を輸入禁止できる権限を持ち、また持つべきである。「しかし、イギリスの毛織物は、世界中のいかなる製品に比べてもいちばん普及している品なので、それがある地方では衰えて別の地方では栄え、こちらでは繁栄してあちらでは衰え、国の習慣が変わるに従って需要が変わるけれども、貿易の総体はたぶん同じだろうということしか予想できない」(p.191)。あたかも。地球上で、一地域で海進が進み海洋化するが、他の地域では陸地化現象が起こっており、総体としての海・陸面積は不変であるのと同じだという。同様に毛織物の国内消費も、需要される製品には変化があるが、減ってはいない。
かつては、国内の羊毛を使い切れなかったが、現下はスコットランド産やアイルランド産の羊毛まで使って毛織物を生産している。国産羊毛の生産は増えたにもかかわらず、消費分には十分供給できていない。これは、とりもなおさず、製造が増大したということである。
それでも、不況感があるのは、需要との均衡を越えて余りに急速に生産を増大させたためである。「製造業者の無知と富によりあまりに規模が拡大し、大きすぎるのだ。また生産量が消費にたいして多すぎるか、少なくとも市場に比して多すぎる」(p.193)。ヨーロッパ全体の需要よりも多い量を、製造業者が性急に拡大生産した。海外需要の一時的急増に過剰対応して生産(能力)を急増させたが、その後需要は本来の水準に状態に戻っただけのことである。「世界中で消費し切れないくらい多くの商品を製造して貿易を推し進めようとすれば、貿易は間違いなく衰退するにちがいない。だが、それを貿易の衰退と呼ぶのは正しくない」(p.195)。洪水により水路の水が横溢したが、水の勢いが弱まって再び元の水路に収まった喩をあげている。要するに、「製造業者は貿易上の好機を自分で泡沫のようなものにし、市場を商品であふれさたのであり、それが最近の南海泡沫事件のようにわが身にはね返り、また万事が架空の価値から内在的価値へと戻るのである」(p.200-201:一部改訳、下線記者)とする。過剰生産分が消費されるのには時間が必要なのである。デフォーは、景気の一時的後退(調整)と長期的趨勢を区別していた。最後の引用は南海泡沫事件と価値(架空の価値と内在的価値(注6))に触れている点で興味深い。
(第三編)
第二編で見せた毛織物製品(工業)及びイギリス商品に対する「ゆるぎない」楽観論にかかわらず、やはり沈滞の不安感は拭えなかったのであろう、デフォーは第三編で通商拡大策を打ち出している。その際頼りにするのは、「イギリス人は創案よりも改善に優れ、自分で案や構想を立てるよりも、他国民が定めた構想や計画を推進することにすぐれている」(p.226:一部改訳)とされる、イギリスの国民性である。
彼は、貿易と植民にイギリスの将来を託した。具体的には、北アメリカ植民地との通商関係改善によって、該地製品で輸入品の代替を行うこと、及びアフリカを中心とする植民の改善と新植民地の発見により毛織物製品他の商品販路を開拓することである。「製造業は貧困層を、対外通商は製造業を、植民地建設は通商を支えるのだ。/植民地建設により、国内では増大する多数の貧困層の問題を解決できる」(p.271)。「植民地の増加は人間を増やし、人間は製品の消費を、製品は貿易を、貿易は海運を、海運は船乗りを増やし、全体でイギリスの国富、国力、繁栄を増大させる」(p.274)。
奴隷も商品と扱って疑わないデフォーの態度とともに、植民地開拓なんぞは、今日の観点からは許されないことであろう。そもそも、植民地獲得自体が過去の歴史的段階の産物であり、現代では政策として不可能である。それでも、デフォーに情状酌量(?)の余地があるとすれば、先発のスペイン・ポルトガルとの植民政策の違いではないか。スペイン人は、金銀鉱山があり、豊穣な地域をアメリカに発見した。「これに反して、イギリス人はそういう人たちの約100年後に入植し、いわば発見の残り物というべき北方の寒くて不毛の地方を取得し、金銀も、鉱山とか鉱物も、目ぼしい産物もなかったとはいえ、いかに改善の天分豊かなイギリス人が滓(カス)から金をもたらしたことか」(p.229)。ニューイングランドとバージニアについても、「例のコロンブスは、ヌエバエスパーニアだけでなく北部沿岸もすべて発見したが、領有して入植する価値がないとして、ふたたび見捨てた」(p.230)土地である。イギリス人は、見捨てられた土地を営々辛苦して経営したのである。スペインによるポトシ銀山の領有やペルー制服に見られるような「収奪」のやり方ではなく、イギリス植民者自身の「労働」による開墾、植民を誇っているようでもある。もっとも、(東)インドの植民地経営はどうなどだと突っ込みを入れたくなるが。
また、植民地の原住民について、こういう一節もある。「ただわたしは、彼らがキリスト教徒になるかならないは別として、やがてキリスト教徒のような生活ができるように、われわれの実践と彼らの風習や習慣の統合について話してしているのだ」(p.255)。スペイン・ポルトガルとは違ってキリスト教布教優先よりも(熱心な清教徒であるデフォーにして)、原住民の生活程度を向上させて、イギリス製品を需要させることを重視しているのである。
天川の本の巻頭には本書の標題紙写真が掲げられている。「大阪府立図書館天王寺分館」所蔵本と書かれている。大原社会問題研究所の旧蔵本であろう。現在は府立図書館本館貴重庫に収蔵されている。CiNiiで検索すると、この本を含めて6冊の所蔵が確認できる。かなりの稀覯本と思う。スウェーデンの古書店からの購入。古い本の割には状態は良い。
(注1)無署名や仮名の著作が多く、本人自作が確定できぬため、未だ全集が編まれていないという。
(注2)正確には、シュンペーターは『マーケーター』にこの表現を用いている。しかし、『マーケーター』は、129号(1714年3月)までは、極右トーリーのアーサー・ムーアーの影響の下にあり、以後デフォーの独壇場となる。『マーケーター』について、この表現は必ずしも妥当しない。シュンペーターは『レヴュー』と『マーケーター』を混同したものか。
(注3)全面自由貿易論ではない。低率関税と貿易禁止の撤廃を求めるもので、限定された保護主義ともすべきものである。
(注4)戦争は、経済発展にとって支障するのではなく、促進したとされる。当時、戦争は兵力ではなく、資金力で帰趨が決定した。戦争は、「最も長い剣」(the longest Sword)よりも、「最も大きい財布」(the longest Purse)で勝つべきものであった(天川、1966、p.25)。
(注5)天川(1966、p.18)による。
(注6)見つけられた範囲で、「内在的価値(intrinsick Value)」が書かれているのは、原文で3箇所(原書p.156,187,266)ある。この箇所以外の、もう一例を掲げる(訳文は一部修正)。「国民の労働が次の問題である。この労働は、国民が精を出す仕事に応じて評価されるようになっており、原料の内在価値に加えられるべきものである」(p.118)。
(参考文献)
- 天川潤次郎 『デフォー研究』 未来社、1966年
- 大熊信行 『マルクスのロビンソン物語』 論創社、2003年
- 大塚久雄 『大塚久雄著作集 第六巻』 岩波書店、1969年
- 大塚久雄 『社会科学における人間』 岩波書店、1977年
- 小林昇 「重商主義における市場の形成 ―デフォウ『イギリスの経済事情』について―」(小林昇経済学史著作集V イギリス重商主義研究(1)未来社、1976年 所収)
- ジェームズ・サザランド 織田稔訳 『デフォー』 研究社、1971年(H26.2.22)
- 塩谷清人 『ダニエル・デフォーの世界』 世界思想社、2011年
- シュンペーター 東畑精一訳『経済分析の歴史 2』 岩波書店、1956年米
- デフォー 平井正穂訳 『ペスト』 中央公論社、1973年
- ダニエル・デフォー 山下幸夫・天川潤次郎訳 『イギリス経済の構図』。東京大学出版会 1980年
- デフォー 平井正穂訳 『ロビンソン・クルーソー』(『集英社ギャラリー[世界の文学]2イギリスT』 1991年 所収)
- ダニエル・デフォー 泉谷治訳 『イギリス通商案 ―植民地拡充の政策』 法政大学出版局、2010年
- 夏目漱石 『文学評論』(『漱石全集 第十九巻』 岩波書店、1957年)
- 林直樹 『デフォーとイングランド啓蒙』 京都大学学術出版会、 2012年
- 山下幸夫 『近代イギリスの経済思想』 岩波書店、1968年
本書訳本については、10.が絶版になっているので、12.で読んだために、引用は主として12.によった。後、読み比べてみると経済学的には10.の方が良いようである。


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(2014.3.17 記)

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