CANTILLON, R., Essai sur la nature du commerce en général. Traduit de l'anglois., A Londres, Chez Fletcher Gyles, dans Holborn, 1755, pp.28 (only the title page and the first 28 pages of text ), 8vo. CANTILLON, R. , Essai sur la nature du commerce en général. Traduit de l'anglois., A Londres, Chez Fletcher Gyles, dans Holborn, 1756, ppxxxi+427, 8vo. カンティロン『商業試論』、1755年刊初版(標題紙と本文28頁のみ)、及び1756年版。 著者略歴:リチャード・カンティロン(カンティヨンとも)Richard Cantillon(?—1734)。アイルランド、ケリー郡(マンスター州)、バリーロナンBalyronanの(南西部海岸近く)生まれ。生年は不詳で1680~90年の間とされる。先祖はケリーとリムリック(いずれも生地近く)に土地を所有する地主であったが、クロムウェルのアイルランド征服により借地農に転落。カトリックのカンティロン一族はスチュアート朝の大義の為に戦う者が多かった。スチュアート朝を支持するジャコバイトにとって、大陸は支援元であり逃亡地でもあった。同名の伯父(?)リチャードは、ジェームズ二世のために戦って負傷し、スチュアート一族の亡命と共にフランスに逃亡。シュヴァリエ(勳爵士)に叙せられる。パリでは、ジェームズ三世を称する「老僭王」の銀行家となったものの、支払い不能に陥ったまま死亡する(1717)。そこに登場し、ジャコバイトのために借金を返済したのが、自らも銀行家となったばかりの、わがリチャードである。 彼はそれ以前から伯父の銀行の下で働いており、1708年にはフランス国籍を取得している。銀行業務に力量を付けてきたカンティロンは、仕事を通じて、イギリスの海外軍主計長官ジェームズ・ブリッジス(チャンドス卿)の知る所となり、スペイン継承戦争中のバルセロナに派遣された(1711-13)こともある。ヨーロッパの七つの都市に住居を構えたといわれるが、活動の中心はパリであった。パリでは、ブリッジスの縁でボーリングブラック(英国の政治家・著述家、当時仏に亡命中)を知り(1715)、彼を通じてモンテスキューやヴォルテールとも交流したとされる。この頃、論稿「英仏両国民の交易と奢侈にかんする考察」を書いたようだが、未発見である。 カンティロンは、またブリッジスの紹介で1718年にジョン・ローと会う。このことが、彼の生涯を大きく変えることになる。金融の天才とも詐欺師ともされるローと「ロー・システム」については、彼の著作を取りあげる予定なので、その詳細については割愛する。ここでは、「一般銀行」と「西方会社」(ミシッシピ会社ともいわれる、後に「インド会社」となる)との設立により、18世紀前半フランスに投機バブルを引き起こしたとだけ言っておく。カンティロンは、ローとは付かず離れずの関係を保ち、慎重に立ち回り利益のみを手にした。ジェヴォンズの言を借りれば「数日のうちに数百万の財産をなし、しかも彼はローを信用せず、用心深くもオランダに退き、そこからまたロンドンへ移った」(ジェヴォンズ、1943、P.269:一部訳を改めた)のである。カンティロンはまた、ロンドンを舞台にした「南海会社」のバブルでも巨万の富を手に入れた。 1720年4月破局を察知した彼はフランスを脱出した。1722年にはロンドンで、同郷人と結婚。しかし、バブルの崩壊は彼をトラブルに巻き込むことになった。「ロー・システム」を検証していたパリの査証(ヴィザ)委員会は、彼に巨額の課税を決定したが、なぜか上手く逃れて納税はしていない。また顧客からの多くの訴訟を抱えた。彼は、裁判のため1729年から32年にかけてパリに立ち戻り、逮捕されることはあっても、いずれの訴訟にも勝訴したようである。 しかし、1734年にロンドンのアルビマール街の邸宅が放火され、彼の灰となった焼死体が発見された。焼け跡には、金の延べ棒も宝石も貨幣も見つからなかった。そして、同時に百編もあったとされる彼の草稿も燃え尽きたとされる。犯人は逃亡した長年勤務の料理人とされた。ついに、彼の命運も尽きたのであろうか。ただし、研究家マーフィ(A. Murphy)の説によると、この事件も司直の追及をかわすため自ら仕組んだもので、死体も別人である可能性があるという。まるで、推理小説のようである。 ジェヴォンズが発見し、ヒッグスにより再刻され流布した本書は、「『国富論』以前に経済学原理が表明されたもののなかではもっとも体系的でもっとも輝かしいものであると同時にもっとも独創的である。」(ブローグ, 1966, p.29)とされる。マーフィのごとく『経済表』および『国富論』とならんで18世紀の三大経済学書だと評価することに躊躇うにしても、「もしも『試論』の存在がなかったとすれば、『経済表』や『国富論』もまた、そのいま在る姿をもたなかったといえよう」(小林, 2001, p.74)という点には首肯できるのではないか。ジェヴォンズは、カンティロンを重農主義の先駆者としたし、反面本書が古い重商主義の性格を持つことは度々指摘される所である。確かに、本書を一読して気づくのは、地主階級の経済的役割の重視とブリオニズム(重金主義)の傾向である。 本書が執筆されたのは、1728~30年あるいは、1730~32の間だとされる(注1)。執筆の動機は裁判において、自己を弁護するための法廷資料作成の必要からであるともされている。推定執筆時期は、上述「略歴」に書いた裁判時期と重なる。ロー・システムの崩壊には必然性があり、自己の業務に過失がないことを示そうとしたわけだ。本書の最終章で「南海会社の崩壊の時」(邦訳, p.208:訳書は津田訳による。以下訳書引用については頁数のみを表示)にのみ触れているのは、ローに対する遠慮から、あからさまにロー・システムを批判できなかったからか。「『試論』の各部と全体は著者の卓抜で精緻な数々の考察で綿密に構成されているが、同時にその文脈からは、すべての議論がひそかにロー批判に向けられていることが読みとれるのである。『試論』の隠された真のテーマは文中に一度もその名のでないローの「システム」に対する批判であっただろう」(津田, 1992, p.245)。 なお、本書には元々政治算術的に推算された統計を含む「付録」があり、本文中にも度々参照するようにとの記述があるが、この付録は出版時にはすでに失われていたようである。 まず全体の構成を見ておく。全三部よりなり、第Ⅰ部は内在価値論と地主社会論(企業者論を含む)、第Ⅱ部は市場価格論、貨幣流通論(貿易論と金利論を含む)であり、第Ⅲ部は、貿易論、為替論、複本位制論、貨幣の名目価値論及び銀行論とでもなろうか。 本書の冒頭は誰もが引く次の文章で始まる、「土地はそこから富が引き出される源泉、あるいは素材である。人間の労働はその富を生み出す形式である」(p.3)。そして人間社会、村・町・都市及び、農夫・職人の稼ぎや人数について述べた後、第10章で内在価値論に入る。「すなわち、物の価格あるいは内在価値はその生産に入り込む土地と労働の量の大きさであり、それに地味あるいは土地の生産物と労働の質とが考慮に入れられたものである」(p.20)。生産に用いられた土地と労働の量で生産物の内在価値が決まる。著者の例では、懐中時計のゼンマイ価格は、材料価値は問題にならず、製作の労働量で決まるし、飼料の秣や材木の価値は土地の量(と品質)で決まる。このようにしてカンティロンは土地と労働よりなる二元的な価値論を説いた。 しかし直ぐに、労働を土地に還元して、価値の源泉と尺度を一元化してしまう。というのは、「労働する者はどうしても土地の生産物で生きてゆかねばならないので、ひとは労働の価値と土地の生産物の価値との間に、ある関係を見出すだろう」(p.22)。労働の量を労働者が生活を維持するために必要な土地生産物の価値に還元でき、さらにその土地生産物の価値は土地の量に還元できる。結果、労働量と土地の量の合計を土地の量で一元化した内在価値として表せる。「ある物の内在価値はその生産に用いられる土地の量とその土地に加わる労働の量によって計ることができるのであるが、これを再び言い換えれば、その労働に従事した人々に割り当てられる生産物を産出するのに必要な土地の量によって測ることができるのである」( p.28)(注2)。 具体的に労働価値の換算の仕方も書いている。ハレーの生命表によると出生した子供の半数は17歳までに死ぬことになるので子供の養育費、そしてその他も考えて最低の奴隷の労働でも、奴隷自身の要する土地生産物の二倍が家族分も含めて必要である。自由な農夫の労働の価値でも本人扶養に必要な土地生産物の二倍という数字は変わらないとする。 そして、「物の内在価値は決して変動しない」(p.21)として、これを市場価格とは区別しているのである。カンティロンは、ウィリアム・ペティを「土地と労働との等式による、この平価の関係を政治算術上の最重要課題と考え」(p.29)た研究者とした。このペティが、マルクスのいうように「労働価値説」の始祖であるならば、カンティロンはいわば、「土地価値説」(鈴木, 1991, p.214)の立場といえようか。そこでは一ケ年何アルパン(面積単位)の土地は、リカードの労働価値説における労働日と同じ役割を演じたのである(シュンペーター, 1956, p.459)。 第12章以降は、主として地主社会論あるいは社会階級論である。一国内を考える時は、カンティロンの体系は孤島にも比せられる封鎖経済であり、土地生産物の生産と分配のシステムとして述べられる(この点も後に重農主義へ影響)。この国では、土地生産物の1/3が地主のものとなり、2/3を借地農が受け取る。借地農の受領分の一半(全体の1/3)が費用部分で、彼らと補助者の給与と生産に必要な物(馬の扶養等)に充てられる。残る一半(全体の1/3)は借地農の企業の利潤である。ここで、借地農(fermiers英語でfamers、戸田訳では農夫)に注しておくと、地主から土地を借りて、農業労働者(laboureurs)を雇って農業を営む、農業経営者のことである。さて、カンティロンには純生産物の概念がない(津田解説)ともされるが、地主は余剰農業生産物を取得する。そして、「地主は土地生産物の三分の一を自由に処分できるのであるから、彼は消費にかんして起りうる変化の主役である」(p.43:下線は引用者)。その日暮らしの農民や職人には余裕がなく(注3)、裕福な借地農、親方職人等がいたとしても、貴族・地主の消費・生活様式を真似るだけである。地主が消費の主導者であり、消費を通じて生産構造ひいては社会構造まで支配する。地主が自ら封建領主として、監督者と農夫・職人を使い、農業を営み必要品を自家生産するなら、土地利用は地主の意のままであろう。しかし、市場(商品)経済へ移行し、地主が監督人を借地農・親方職人に代え、彼らに生産を任せたとしても土地利用、そして住民の暮らしはそのままである。地主の市場を通じた消費様式が変わらないからである。 以上の議論では、一国は、君主・地主、企業者、および給与を受ける者の三つの階級(住人)からなるとされていた。企業者(entrepreneur,アントレプルヌールは英語読み)という言葉が経済学上に明確に現れた最初の例である(ヘベート・リンクによる)。「当時は公共事業などで政府と請負契約を結んでリスクを背負って事業にあたる者の意味で使われていた」(米田, 2005, p.191)言葉の転用である。 そして上記の地主社会論のなかで、借地農からはじまって企業者論が述べられる(第13章)。借地農は一定額の地代支払いを地主に約束するが、販売時の農産物価格は予見できず、不確かなままに経営を行う。企業者とは、自らの勘定でリスクを負担し行動する者である。「ヨーロッパでは企業者たちが自ら危険を冒して、物産と商品の流通と交換と生産とを行う」(第13章標題)。カンティロンの企業者には、製造業者、職人、商人はもちろん、画家、弁護士、医者も、含まれる。「企業者はいわば一定していない給与の収得者のようなものであり[中略]彼らが自分の企業を経営する資本をもって自立していようと、あるいはなんらの資本もなく自分自身の労働によるだけの企業者であろうと同じであって、彼らは不確かな生計の人々とみなされてよいのである。乞食も盗賊もこの階級の企業者である」(p.37-38)。 「小さな店の商人やあらゆる種類の小売商人たちは企業者である。かれらは一定の価格で買い入れたものを、彼らの店や公共の広場で一定でない価格で転売する。一国のこの種の企業者たちを励まし支えているものはなにかといえば、それは、彼らの顧客である消費者たちが自分で買い置きしておくよりは多少高くついても、必要なものをいつでも少しずつ手に入れられる方を好むということであり、また大多数の消費者は製造業者から直接に買い入れて蓄えておくほどの資力をもっていないということである」(p.36)と、とりわけ商人の活動を描いたこの箇所などは精彩があり、著者が『商業試論』と題した所以ではないかと思ったりする。 このように、一国において自立自存の者は地主だけであり、他はすべて従属者であるとしながらも、「一国における交換と流通のすべてが、この企業者たちの仲介で行われるのである」(p.40)といつのまにか企業者に重きが置かれているのである。 なお、この企業者にかんしては、アダム・スミスをはじめ古典派経済学者の資本家像と異なっている点について議論がある。古典派は、所有と経営を一体化した資本家を考えたのに対し、カンティロンは資本と分離した企業家を持ち出した。これを、封建社会から資本制社会への過渡期であった当時、労働と資本の分離が進んでいない、独立生産者あるいは小商品生産者社会の反映だという見方がある。渡辺輝雄(注4)は、カンティロンの企業家を、「一方の極を労働者とし、もう一方の極を資本家とする二重の性格をもつ一連の商品生産者」(渡辺, 2000, p.230)として捉え、「しかし、カンティロンの理論における矛盾は、単なる理論の矛盾ではなく、過渡期における事実の矛盾の歴史的観察者の頭脳への反映としての矛盾であった」(渡辺, 2000, p.232)とする。資本家と労働者が未分離の時代の所産だと考えるのである。しかしながら、製造業の世界はいざ知らず、カンティロンが企業者の最初の例としてあげた借地農=農業においては、すでに資本制農業が成立しており、資本家ならぬ地主から分離した農業経営者が成立していたと思うのだが、どうだろうか。カンティロンの故国英国では、16世紀中葉から18世紀末迄の時期に、封建的土地所有の解体によって生じた独立自営農民の両極分解を通じて、資本主義的農業経営(=近代的大土地所有)が成立した。フランスは、英・独に比べ「小農民的所有の国」とされるが、アンシャン・レジ-ム末期には農民の階層分化により大借地農が出現していたという(大塚他編『西洋経済史講座Ⅳ』)。 第Ⅱ部は市場価格論から始まる。市場価格は需要と供給によって決まる。「そして一般的には、こうして決まる価格は内在価値からそう大きくは離れない」(p.79)とする。ここでいう内在価値はアダム・スミスの自然価格に相当するものであろう。カンティロンの価格論・市場機能論は古典派の先駆となるもので、エポックを画すものだとされている。価格と価値の不一致を自らの利潤機会とし、均衡を実現するのは企業者であると想定される。しかし、農業部門については利潤を追求する借地農が土地資源の再配分を行うプロセスは諸章に散見されるが、製造業については利潤最大化を目指す企業者の市場過程はどこにも明記されていない(米田)そうである。 次いで、カンティロンは貨幣の流通に関説して次のような構図を描く。ここに登場する「借地農」は田舎の居住者であり、「地主」と「都市の企業者」は都市の住人である。カンティロンは先述のように、借地農は三種類の地代を生み出すとする。土地の生産物は、三つの等しい部分に分たれるという方が良いのかも知れない。A.地主に支払う本来の地代、B.借地農自身の生活費と農業労働者への給与等の支出に充てられるもの、そしてC.借地農の利潤に相当するものであるである。BとC(土地生産物価値全体の2/3)の3/4(全体の1/2)は、農村での食料・衣類等に自家消費され、残りの1/4(全体の1/6)は、鉄、塩、砂糖等「一般に田舎で消費される都市のあらゆる商品」を購入のため、貨幣で都市の企業者に支払われる。現金で地主に支払われたAの部分(全体の1/3)は、地主が現金で都市企業者の商品の購入に充てる。この中には、もちろん地主のパン等食料品も含まれる(穀物等の地主への現物給付はない)。借地農が地主と都市企業家に支払うのに必要な貨幣は、自家消費以外の土地生産物を都市の企業者に販売することによって入手する。こうして、田舎での貨幣の流通には最低土地生産物の半分の貨幣量が必要だとする。 また当時は、南米から欧州への貴金属の大量流入という二世紀来の出来事で、貨幣の増大が物価を高騰させることは、広く認識されていた。ロックはすでに、貨幣量と商品量の割合が市場価格を決めるとして、貨幣数量説を取っていた。しかし、「彼はこの騰貴がいかにして起るかということについては研究していなかったのである。この研究のたいへんな難しさは貨幣の増加がいかなる経路で、またいかなる割合で物の価格を高くするかということを知ることにある」(p.106)。カンティロンはまた、貨幣価値を決定するのに、貨幣の流通速度が貨幣量と同等に重要であると認識した最初の人である。「我々が確立した原理によれば、交換の際に流通している貨幣の量が、その流通の遅速も考慮に入れれば、一国のすべての物の価値を安定させ、かつ決定するのである」(p.187)との記述は、ほとんど貨幣数量説の数式を思わせる。 カンティロンの貨幣数量説は、ハイエクのいう「連続的影響説」として良く知られている。ハイエクは、妻ヘラ(前妻の方である)が本書を独訳した際に序文を付けている。それにいう「カンティロンを他の貨幣理論の創設者と区別する業績の中には、ロックの素朴な数量理論の批判があげられるだろう、それに代えて貨幣数量の増加が連続的に諸財の価格に影響を与える過程の詳細な説明が与えられた。この説明は、壮大な第Ⅱ部第6章に見られ、ジェヴォンズによって正当にもこの本の最も素晴らしい所とされた」(Hayek, 1931)貨幣増加の原因は、国内鉱山の採掘や国際収支の順調によるものである。後者の場合では、「国内の大多数の商人や企業者を裕福にし、かつ大量の職人や労働者に仕事を与えるだろう。[中略]これらの勤勉な住民の消費はしだいに増え、土地と労働の価格もしだいに高くなるだろう。」(p.109)。貨幣の増加は、関係者の購買力を増加させ、消費を通じて雇用を増やし、土地と労働の価格を上昇させるのである。 しかし、カンティロンの貨幣数量説については、ハイエクと異なる評価もある。「連続的影響説」に対するに、「カンティロン効果」の重視の立場といえようか(ブローグ、米田等)。「カンティロン効果」とは、貨幣量の増加は物価水準の上昇をもたらすだけではなく、物価構造も変化させることを強調するものである(ブローグ, 1966, p.29)。「ある国に二倍の貨幣量が導入されれば、物産と商品の価格が常に二倍になるというわけではない。河床をうねって流れる川も、その水量を倍にすれば倍の速さで流れるというわけではないだろう。/貨幣量の増加がその国にもたらす物価の騰貴の割合は、この貨幣が消費と流通とに与える動きしだいであろう[中略]消費は貨幣を手に入れる人々の考えしだいで、ある種の物産や商品の方に多く向けられたり少なく向けられたりするだろう」(p.115)。貨幣の流通経路の違いにより諸商品の価格上昇率に偏差が生じる。イングランドにおいて、穀物輸入が認められていることもあり、小麦が1/4倍しか上がらないのに、肉の価格は3倍に上がる例があげられている。 後者の立場に立つ米田によると、そもそもカンティロンは労働と土地の完全雇用(少なくとも土地については明白)、を前提にしているから、経済の拡大は考慮されていないとする。あるいは一国の封鎖経済の取扱では静態的な経済が想定されているとまでいって良いかとも思う(注7)。そういう前提から、カンティロンは「貨幣量の増加はその(流通経路:引用者)違いに応じて諸財の相対価格の変化をもたらしつつ一般物価水準を高めていくことを明らかにしょうとしたにすぎない」し、厳密にいえば「連続的影響説」は彼の体系では充分展開できる余地がないと考える(米田, 2005, p.200)のであろう。 貨幣数量説は、正貨の国際収支自動均衡メカニズムの議論へと続いてゆく。この開放経済体系では、一国を扱った閉鎖経済モデルとは異なり、動態的である。普通20年後のヒューム説とされるものが、「殆んどなんの誤りもなく<彼の著書のなかに>記述されているのである」(シュンペーター, 1956, p.463)。土地と労働の価格は、どの国でも貨幣で評価される。それらの価格は貨幣数量説によって、貨幣が最も豊富な国において高くなる。それゆえ貨幣が豊富な国は貨幣が不足している国から、狭い土地の生産物と交換に広い土地の生産物を受け取り、少人数の労働生産物に対し多人数の労働生産物を受け取る。「時には一アルパンの土地の生産物と交換に二アルパンの土地の生産物を受け取り、一人分の労働に対して二人分の労働を受け取るのである」(p.122)。しかし、貨幣の豊富な国の優位は長くは継続しない。割高となった自国商品の輸出が減少し、割安となる貨幣不足国の商品輸入が増加して、国際収支が逆調となる。こうして正貨が国外流失することによって、貨幣数量説の教える通り一般物価水準が低下するから、優位性は低下する(注8)。 しかしながら、こうした自動調整メカニズムが働く結果、世界に均衡がもたらされるわけではない。豊かな国は、有利な産業部門を失い始め、労働者・職人が新興国に移る。その上、豊富な貨幣は奢侈に耽る富裕な人々を生み出し、海外から贅沢品を買い入れる。奢侈の風潮は容易に改まず、「こうしてこの国はしだいに貧しくなり、巨大な国家から劣弱な国家へと必ず転落するだろう。/諸国家の相対的富はそれぞれの国が主として保有する貨幣の量にあると私は何時も考えているのだが、一国の富が最高潮に達すれば、その場合その国は通常の成り行きからして、またもとの貧窮に陥らざるをえなくなるだろう」(p.119)国家の盛衰は循環するとの史観である。それと共にこの一節には、金銀を重視するブリオニズムが現れている。普通ブリオニズムといえば重商主義の初期段階とされるが、カンティロンのそれは、正金の自動調整機構まで考慮したものである。 ある国の豊かさを最高段階に高めるには、それほどの年月を要しない。そして、その国を貧窮に陥れるには、さらに少ない年月で足りる(p.120)。「商業によって興隆する国はその後必ず衰頽する。この衰頽を防ぐために用いられる法規はあるが、ほとんど役に立たない」(p.154)としながらも、長期的な国家の発展と衰頽の循環の中で、国家の比較優位をできる限り持続する必要がある。「ある国が貿易によって勢力を拡張し、豊富な貨幣が土地と労働の価格を上げ過ぎると、製品の過度な価格高騰を予防し、かつ奢侈の不都合を防ぐために、君主または立法府は貨幣をひき揚げ、それを不測の事態に備えて保管し、強制や欺瞞の手段以外のあらゆる手をつくして貨幣の流通を遅くするように努力すべきであろう」(p.119)と貨幣政策の必要を説く。また、第Ⅲ部では、製品輸出や海運業の育成により「有利な貿易差額の維持することに常に懸命であるべきである」とする。カンティロンのディリシズム(保護・介入主義、津田の用語。マーカンティリズムに同じ)であろう。 第Ⅱ部の最後の二章が利子論である。著者は先に、三つの地代論において、借地農が受け取る第三の地代を「企業の利潤」とした。この利潤に相当する部分は製造業にも当然発生する(注9)。カンティロンは帽子製造業の親方が経営のために資本を持っていれば、「第三の地代の部分を自分のものとして持っている借地農の利潤と同種の利潤をも見出すはずである」(p.131)という。この部分は、先には「借地農」(「親方職人」も同様であろう)が、生活のための支出に充てるとされているから、「労働または監督」に対する賃金のように扱われていた(注10)。しかし、この章では、第三の地代を資本利潤として捉え、そこから資本利子が発生するとしている。借地農が彼の企業経営に充分な資本を持っていれば、総ての経費を控除した後、生産物の1/3の第三の地代を入手する。しかし、やり手の農夫がいるとして、「資本というものを全くもっていないのだが、その彼がだれか自分に土地か、あるいは土地を買うための貨幣を貸してくれるという人を見つけることができるとするならば、彼は第三の地代全部(を)[中略]この貸し手に与えることができるだろう」(p.130)とするのである。そしてさらには、借り手が節約し資本を蓄えることができるなら、借入金を減らし第三の地代全部を入手できるとして、資本蓄積の可能性も言及している。 第Ⅲ部は冒頭に貿易論、為替論等よりなると書いたが要するに政策論である。第Ⅱ部までで、理論的部分はほぼ終わっており、この駄文も冗長になりすぎたので、第Ⅲ部の内容については、省略させていただく(注11)。 本書の草稿は1730年頃、もともと英語で書かれ、著者自身が友人のため仏訳したとされる――本書出版前に、英語草稿からの引用がポスルスウェイト(Postlethwayt)『一般商業辞典』(1749年刊)にあることから、英語草稿があったことは確実である。仏訳手稿は重農主義者の大ミラボー(フランス革命のミラボー伯の父)が、著者死亡直後から16年間保管していた。ミラボーは手稿に自分の注釈を付けた著作を予定していた。この手稿は出版直前に正当な持主の元に戻されたとするが、以後の出版に至る経緯は不明である。 初版及び再刷本の標題紙には、英語からの翻訳の体裁で、ロンドン・ホルボーンのフレッチャー・ガイルズ書肆の発行と書いてある。該書肆は有名な本屋であったが、1737年以降同書肆からの本の発行はなく、主人は1741年に死亡している。この存在しない書店から本書初版、再刷本を含めて、1750年代に計4点の出版物の発行が現在確認されている。ヒッグスは、初版本の巻末に、パリのバルロア(Barrois)書店のカタログが付されたものがあり、その中に本書の名が記されていることから、バルロアが本当の出版社であるとする。また津田は、通商監督官を務め経済学者でもあったグルネが、この出版に関与しているのは間違いないという(訳書解説)。なお、再刷の発行された1756年には、モヴィヨン(Eleazar Mauvillon)の編集になる『政治論集』叢書の第三巻にも本書が収録され出版されている。 私蔵初版本は、29頁以降の本文が切り取られて、"stash " book となっている。いつの時代に改造されたか不明であるが、大変な稀覯本と知らずになされたのであろう。このことについては ブログ でも触れている。米国の古書店から購入。1756年版本はドイツの古書店からの購入。薄いマーブル紙だけの表紙で、背の部分も紙で題名を記して貼り付けてあるだけの簡単な装丁である。本書初版は、私の見るところ、一般経済学古典の初版中では『国富論』(1,000万円くらい)についで、高価(600万円くらい)だと思う。ちなみにスチュアート『経済学原理』は、100~150万くらいである。本書再刷本も60万円位の値で出ているものもあった。 (注1)本書中に発見できる最も新しい年号は、1730年( p.179)である。 (参考文献)
(2011/5/23記。2016/5/25初版本部分の記述を追加。2022/5/22書名表示の訂正とHP内の形式統一のための改訂)
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