SRAFFA, PIERO, Production of Comodities by means of Comodities, Cambridge, Cambridge University Press, 1960, pp.xii+99, tall 8vo. スラッファ『商品による商品の生産』1960年刊、初版。 著者略歴:ピエロ・スラッファ Sraffa, Piero (1898-1983)。著名な商法学者父アンジェロとユダヤ系の名家の出である母イルマとの間に、イタリアのトリノに生まれる。一人息子である。父の転勤により初等・中等教育は各地で受ける。トリノの高校時代の篤学イタリア語教師の紹介により、生涯の友となるアントニオ・グラムシを知る(1919年)。1916年トリノ大学法学部に入る。在学中に法律家としての訓練を終えていたというから、父同様に法曹職を目指していたのかもしれない。しかし、卒業論文は「戦中・戦後のイタリアの貨幣膨張」である。指導教授は有名な財政学者で、後共和国大統領となるルイジ・エナウディである。当時は、経済学も法学部で教えられていたのであろう。在学中、1917年3月から20年3月まで、工兵(士官というべきか)として軍籍にあった(イタリアの第一次大戦参戦は1915年、18年終結)。卒業は20年11月である。いつ勉強する時間があったと思うくらいだが、スラッファが親交を結ぶようになるヴィトゲンシュタイン(イタリア軍の捕虜となる)も、兵士として塹壕のなかで『論理哲学論考』に結実する思索を巡らしたそうだから、偉い人はそんなものかも知れない。 卒業後、銀行の地方支店で、短期間金融の実務経験を積んだ。1921年渡英してロンドンのLSEで22年まで学ぶ。この時、知人の紹介を得てケインズとも面会している。帰国後、22年4月にはミラノで労働局の仕事に就く。しかし実際に勤務したのはわずか半年ほどであった。辞職後まもなく、ケインズの依頼を受けて、彼の編集する『マンチェスター・ガーディアン 商業補遺』(同新聞紙の付録)の『ヨーロッパの再建』No.11(22年12月発行)に「今日のイタリアの銀行制度」を執筆する。この記事がムッソリーニのファシスト政権の忌避に触れ、スラッファは圧迫を受けた。知らせを受けたケインズは事態が沈静化するまで滞英するよう勧め、彼も英国に向かった。しかし、この時は、ヴィザを得ていながら入国許可が下りずに引き返す。 その後、イタリアのいくつかの大学で経済学の教職に就く。ペルージア大学在職中の1925年マーシャル批判のイタリア語論文「生産量と生産費の関係について」を発表する。この論文は『エコノミック・ジャーナル』の編集者エッジワース(語学に堪能)とケインズに評価され、その要旨が「競争条件のもとにおける収穫法則」として同誌1926年号に掲載された。これら論文は新古典派の前提条件に反省を迫り、ジョーン・ロビンソンの不完全競争論等を生み出す契機となる。 1926年ケンブリジ大学の改組の機会を捉えたケインズにより、キングス・カレッジのlecturerとして招聘される。当初は数年の滞在予定であったらしい。講義が嫌いで、講師の職は数年で辞するが、マーシャル図書館のlibrarianやトリニティ・カレッジのfellowとして、終生ケンブリッジに留まった。ケンブリッジでの大きな仕事は、これもケインズの委嘱を受けて『リカード全集』10巻(1951-55、補遺11巻のみ73年)を編集したことである。完璧主義者スラッファは、編集途中で多くの書簡や文書を新発見し、リカード研究に一時代を画した。そして、第二に、本書『商品』(1960)の上梓である。この小さな本が、その後の経済学に与えた影響は、今もなおスラッファに関する研究書が陸続として出版されているのを見てもわかる。 「1ケ月に1ページ以上書くのは道徳的に間違っている」(センに対する言葉、片桐、2007、による)とするほど極端に寡作の人であったスラッファの業績として上げられるのは1.1925年および26年のマーシャル批判、不完全競争論の提唱論文、2.『リカード全集』の編集、3.『商品』(彼の唯一の著書)だけである。しかし、その一つ一つが珠玉の業績であり、経済学に強い影響を与えたことは歴然としている。のみならず、ケインズがマーシャルを評して、様々な着想を「講義や談話の中で友人や学生に腹蔵なく分け与えた」ことは、著作をみていただけではその偉大さが了解できない人物(『人物評伝』)としたが、スラッファも同様であろう。ケインズサークルでの活動しかり、ウィトゲンシュタインとの交流しかりである。 私が読んだ範囲では確認できなかったのだが、彼はオクスブリッジのフェローの(かっての)伝統的資格に忠実に、終生独身を保ったように思える。父親が死んでから母を引き取り、死ぬまで同居したと書かれているのもそう思わせる。83年ケンブリッジにて没。これほどの鋭い知性の持ち主も、挽年は認知症のため、人の見わけも付かなかった。 20世紀の知の巨人であるウィトゲンシュタインやグラムシとの交流はよく知られているため割愛して、最後に、このサイトの主題である本をめぐる話題について書く。彼の死後、残された遺産は150万ポンドで、その価値の半分は彼が収集した稀覯書である。蔵書は、トリニティ・カレッジに遺贈された。それら6723冊は、708ページの浩瀚なCatalogue of the library of Piero Sraffa(2014)として出版された。小生もこのカタログを時々開いては楽しんでいる。しかし、蔵書にはこれら以外にも、稀覯本が含まれていたらしい。晩年の認知症をいいことに、いくつもの貴重な本を抜き取られたようだ。アダム・スミスの書入れのある『国富論』初版(今なら3000万円以上の価値か)も所蔵していたが、盗られたのか、カタログには第5版しか載っていない。古書収集は、『リカード全集』編集の副産物らしい。その収集資金は日本国債への投機によるものだと書かれている。日本は日露戦争時の外債を1980年代まで払い続けた律義な国である(第一次大戦後のドイツ、ロシアのデフォルトを見よ)。第二次大戦中、暴落した日本国債に全財産を注ぎ込んで一財産築いたのである(水田、1988を参照)。 本書は、全文が100ページほどの小さい本である(ただし版型はtall 8vo.とされ、縦長の八折版である)。「第一部 単一生産物産業と流動資本」では、一産業一生産物の単一生産物体系で、流動資本のみで形成される。「第二部 多生産物産業と固定資本」では、一産業が複数生産物を生産する「結合生産」物体系で、生産要素に、固定資本ついで土地が導入される。「第三部 生産方法の切り換え」では、一産業に複数の生産方法が存在し、それらの切り換えの効果が論じられる。各部の構成からも分かるように、モデルが簡単なものから次第に複雑なものに発展してゆく。それは、以下にみるように各部の内部でも同様である。本書には、「非数理的な読者にも容易にフォローできるよう」(スラッファ、1962、序文p.4:以下訳書からの引用はページ数のみ表記する)行列式は用いていない(第八章に行列は出てくる)。したがって表面的な記載に難しいところはない。しかし、途中の計算過程が省略され結論のみが書かれている箇所にみられるように、内容が極端に圧縮されて記述されているため、読んだだけでは理解できない部分が多々ある。難解な書とされる所以である。 新古典派のように、生産者や消費者としての経済人は現れない。商品の体系としての再生産構造が論じられることから、方法論的非個人主義あるいは全体論(ホーリズム)とも呼ばれる。前もって結論を述べてしまえば、この本が明らかにしたのは、商品の価格は、生産体系(技術)及び剰余生産物(純生産物)の分配の二つにより決定されるのであり、限界理論(新古典派)が想定するように需給関係で決定されるものではないことである。再生産構造の中から、古典派のいう自然価格(長期価格)、マルクスのいう生産価格が決定されることが明確となった。 この本の中心命題とされるのは、第一部の第一章から第三章とのことであるが、それに加えるに標準商品を扱った第四・五章を併せて主として論じることにする。第二部の結合生産は数学的な取り扱いが困難になり扱いにくい(小生の理解力も追いつかない)面があるし、第三部はこの本が最初に関心がもたれた「リスイッチング論争」や「資本論争」には関係するものの、別に扱う方が望ましい(できれば別に書いてみたい)と思うので、簡略に済ませたい。 (前提) 第一部は、前提として、1.固定資本の使用と地代の存在は無視される(注1)、2.一つの生産過程(産業)は、一商品のみを生産するとされる。3.生産期間は、一年とする(注2)。 以下に出てくる価格は、古典派のいう長期的な均衡を表す自然価格であり、マルクスのいう生産価格である。需給状況によって短期的に変動する市場価格は関係しない。 (生存のための生産) まずは、第一章において、最も単純なモデルを扱う。ちょうどそれ自身を維持するものだけを生産する社会である。スラッファは、「生存のための生産」と呼ぶ。その中でも、穀物生産のみの単一生産社会が最も簡単な社会であろうが、スラッファは生産物(商品)の相互依存体系を考えるから、2生産物の社会から始める。 280クォーターの小麦+12トンの鉄 → 400クォーターの小麦 120クォーターの小麦+ 8トンの鉄 → 20 トンの鉄 上記の表示は、1行目でいえば、280クォーターの小麦と12トンの鉄を投入して、400クォーターの小麦を生産することを意味している。クォーターは、穀物の計量単位であり、ブッシェル・石等に同じ。 小麦と・鉄の2生産物を生産する社会であり、1行目は小麦産業の生産を、2行目は鉄産業のそれを表している。労働者賃金は、小麦産業でいえば生産に投入された280クォーターの小麦のうち種もみ以外のもの、鉄産業でいえば120クォーターの小麦全部と考えても良い。あるいは、両産業の小麦と鉄の投入物の一部が実物賃金として支払われていると考えてもよい。 この例では、両産業併せて(社会全体で)400(280+120)クォーターの小麦と20(12+8)トンの鉄が生産に投入され、同量の小麦と鉄が産出されている。剰余生産物がない「生存のための生産」である。毎年の生産の継続(消費のためにではない)のためには、(小麦産業で生産された400クォーターのうちの)120クォーターの小麦と(鉄産業で生産された20トンの鉄のうちの)12トンの鉄とが交換されねばならない。ここで、毎年といったのは、仮定により、上記表示は1年間の生産状況を表現しているためである。 次に産業の数を増やしていくこととする。例えば3番目の産業として豚生産の産業等である。一般的にはa、b、c…kの商品を生産するk個の産業があるとして、aの年々の生産量をAとし、産出量Aを生産するのに必要なa、b…kの投入量をAa、Ba…Kaとし、産出量Bを生産するのに必要なa、b…kの投入量をAb、Bb…Kb 等々とすると、生産体系は Aa+Ba+・・・+Ka → A Ab+Bb+・・・+Kb → B ・・・・・・・ Ak+Bk+・・・+Kk → K と表せる。 そこで、各商品価格をPa 、 Pb… Pkとすると、剰余がなく投入価額は産出価額に等しいから、次の方程式体系に書くことができる。 AaPa+BaPb+・・・+KaPk = APa AbPa+BbPb+・・・+KbPk = BPb ・・・・・・・ (式1) AkPa+BkPb+・・・+KkPk = KPk ここで、自己補填体系であるから、Aa+Ab+…+Ak=A、Ba+Bb+…+Bk=B 等が成り立つ。 この方程式体系では、Aa、Ba…Ka等の投入量やA、B…K等の産出量は技術体系で決まる既知数であり、未知数は、Pa、 Pb… Pkの諸価格k個である。一方、方程式の数は形式的にはk個であるが、その中一つは他の方程式の和としてあらわされるので独立した方程式ではなく(注3)、実際の数は、k-1個である。ただ、k個の商品の中の一つをニュメレール(価値尺度あるいは貨幣)とすると、未知数はk-1個となり、方程式と未知数の数は一致するので、方程式は一義的に解ける。これら諸価格は、「市場における生産物の交換に採用されるのであり、交換によって決まるのではない」(菱山、1993、p.174:強調原文)。 (剰余を含む生産) 第二章では、経済が補填に必要な最低限以上の生産を行い、社会に剰余が生れるケースを扱う。剰余が生じると、生産手段以外の贅沢品の生産も可能となる。スラッファの例示では、 280クォーターの小麦+12トンの鉄 → 575クォーターの小麦 120クォーターの小麦+ 8トンの鉄 → 20 トンの鉄 今や、小麦産業の産出量が400から575クォーターに増大する。他の数字は不変である。社会に小麦175クォーターの余剰が発生した。鉄産業には物理的な余剰は発生していないが、経済的には両産業は、同一利潤率を得る必要がある、あるいはそれを実現する価格体系が成立せねばならない。そうでない場合は、資本が有利な小麦産業に移動して利潤率の均等を実現させる。現在は競争といえば、ある産業内の企業間競争を思い浮かべるが、古典派は競争を産業間の利潤をめぐるものと捉えた。スラッファは、リカードの伝統に従っているといえよう。 具体的には、この場合の生産体系を方程式にして (280Pa + 12Pb)(1+r) = 575Pa (120Pa + 8Pb)(1+r) = 20Pb (式2) を解くと、小麦価格(Pa)を1とすると、鉄価格は15、利潤率は25%である。 勿論、両産業が剰余を生む生産体系(社会)も考えられる。かくて一般的には、剰余を含む生産体系は次の方程式体系で表せる。rは一般利潤率。 (AaPa+BaPb+・・・+KaPk )(1+r) = APa (AbPa+BbPb+・・・+KbPk )(1+r) = BPb ・・・・・・・ (式3) (AkPa+BkPb+・・・+KkPk )(1+r) = KPk この方程式体系では、未知数は、1商品をニュメレールとしてk-1個の価格と利潤率rの計k個である。方程式の両辺に同じ数字は表れず、すべての式が独立しているから、その数はk個である。よって、未知数の数と式の数が一致しており、方程式は一義的に解ける。あるいは、剰余が存在する事は、各方程式が独立となり、それは価格以外にもう一つ未知数rが存在する余地を可能とする、といえるかも知れない。 さて、私などはつい、「生存のための生産」は単純再生産であり、「剰余を含む生産」は拡大再生産と考えてしまうが、後者も毎年継続することが想定されているから、資本の蓄積はなく資本家の利潤はすべて資本家によって消費されてしまうということになるのだろう。さすれば、二つながら単純再生産と分類できる(注4)。 (基礎的生産物と非基礎的生産物) 以後の説明のために、一つ寄り道をして、基礎的生産物の話を書かねばならない。「ある商品が(直接的であるか間接的であるかを問わず)すべての商品にはいるかどうか、これがその判定基準である。そのような商品を基礎的生産物と呼び、そうでない商品を非基礎的生産物とよぼう」(p.12:強調原文)。非基礎商品(贅沢品に代表される)には、その商品以外の諸価格と利潤率の決定力がない。 特に断りがない限り、一般的に、以下の生産方程式体系には、非基礎商品の生産式は排除されている。 (生存賃金から剰余賃金へ) これまでの生産体系(の方程式)では、賃金は労働者の生活資料として投入物の中に入込んでいるものとみなされた。単純には商品の一つ(小麦)に代表させ、農業では種もみ以外の、他産業では投入される小麦の全部と考えてみてよいだろうし、生活必需品のバスケットとして、投入される各商品の一部から構成されると考えてもよい。いずれにしても、賃金は前払いされた流動資本(投入物、生産手段)のなかに含まれ、年末(生産期間の期末)に生じる利潤の計算対象となっている。 いまや、剰余が生産されるようになると、労働者は賃金として、その剰余の一部を受け取るようになるかも知れない。一番好ましいのは、賃金を二部分から構成されるものとし、一部は生存賃金として流動資本からなり、もう一部は剰余の分け前部分からなるとすることだろう。しかし、取り扱いを容易にするためかスラッファは、「けれども、この書物では、伝統的な賃金概念をみだりに変更することを差しひかえて、賃金の全体を変数として取り扱う慣例的な手法に従おう」(p.14-15)と、賃金全額を剰余(の一部)として取り扱う。 スラッファは「伝統的な」賃金概念に従うといいながら、「「前払いされた」賃金という、古典派経済学者の着想を放棄する」(p.15-16)ともいうので、伝統的な概念とは古典派のものではないようである。 ともあれ、一般的な生産方程式は、i産業で雇用される労働量をLi、賃金率をwとすれば、 (AaPa+BaPb+・・・+KaPk )(1+r)+Law = APa (AbPa+BbPb+・・・+KbPk )(1+r)+Lbw = BPb ・・・・・・・ (式4) (AkPa+BkPb+・・・+KkPk )(1+r)+Lkw = KPk と書ける。 この結果、以前の方程式体系と異なるのは、Liwの項が分離されたこと、および「賃金が期末に支払われるという仮定のために、その性質が「資本」から「剰余」に変更されることである」(マインウェアリング、1987、p.59)。今や、賃金は、期首に支払われて利潤計算の対象となる資本ではなく、資本と競って剰余を分け合うものとなる。賃金を剰余とすることによって、自ずと利潤と賃金の背反性が明確になる。賃金を流動資本とするリカードは、賃金(率)が上昇すれば、利潤率も減少すると数値例で示しているが、あくまで商品価値が不変である前提を設ける等説明が晦渋である(リカード、1972、第一章、第三節:第三版)、賃金を剰余とすれば利潤との背反関係は簡明である。但し、賃金が剰余であって可変「資本」ではないことは、高須賀(1985、p.160)にいわせれば、賃金~利潤の背反関係は「ボーナス闘争型の階級対立」である。それは、資本家にとってはコスト、労働者にとっては生活の元手である賃金をめぐる対立ではない。ついでながら、リカードが賃金~利潤率関係を問題としたのは、地代と地主に対抗するためであって、資本家に対してはない。 賃金を剰余とすることは、賃金~利潤関係を明確にできるが、デメリットもある。スラッファは自身のいうところでは、賃金財を「非基礎消費の生産物の牢のなかに追い込む」(p.15)危険がある。労働者の生存資料としてのみ使用される消費財は、生産されても、消費されるだけで、生産に投入されることはない。贅沢品同様に非基礎財となる。本来、基礎的生産物であるべき労働者の必需品が、商品全体の価格決定に影響を及ぼさないことになるのである。 しかし、その他にも、次のような大きな問題が発生する。例によって、賃金を剰余とする方程式体系の未知数と式の数を数える。未知数は各商品価格のk-1個(1商品を価格尺度―価値尺度という用語は曖昧なためなるべく避ける―とする)、それに利潤率rと賃金率wの2個の計k+1個である。それに対し、方程式の数はk個しかない。方程式が一つ足りないのである。これをスラッファは、自由度1の体系と呼ぶ(物理学でいう自由度とは意味が異なるようである)。ともあれ、スラッファは、自由度1の体系をもとに考察を進める。 そこで、自由度1の開かれた体系を閉じるためには、外部から何か一つの変数を決定する必要がある。スラッファは、利潤率rを独立変数として体系の外から与える。「一コの比率としての利潤率は、いかなる価格からも独立した意味をもつ。そして、価格が確定される前に「与えられる」とみて差し支えなかろう。だから、それは、生産体系の外部から、とくに貨幣利子率の水準によって、決定されることが可能である」(p.57)と。もちろん、賃率金wを独立変数とすることも可能であろう。労働力は商品でなく、その価格である賃金は経済体系の内部で生産体系自体よって決定されるのではなく、体系外部で歴史・社会的に決定されると見ることもできるからである。 かくて、利潤率が与えられれば、すべての商品の価格(と賃金率)は決定できる。以上は、未知数と方程式の数合わせという、一般均衡論でいえばワルラス的な段階である。スラッファは、それに止まらない。一般均衡論では、ワルラス以後の研究において、その後の均衡解の存在や安定等に対する研究が続いたのを承知していたであろう。商品の価格が経済的な意味のある非負(正またはゼロ)であることを証明している。それも、ホーキンス・サイモンの条件のように数学を使うのではなく、言葉の論理によってである。 W=1の時、すなわち剰余がすべて賃金に分配される時には、価格が労働費用に等しいから商品価格は正である(この部分の説明は省略)。Wが1から0まで、連続的に変化するとすれば、Piも連続的に変化するであろう。どの商品価格Piも、負となるにはゼロを通らねばならない。上記の方程式体系(式4)を見てほしい。しかし、賃金と利潤が正であるかぎり、どの商品価格も、投入される商品価格の少なくとも1つが負にならない限りゼロとはならない。こうして、いかなる商品価格も他の商品価格より先に負とならないから、負になることはない。以上証明終わり。 (不変の価値尺度) 上記の生産方程式体系では、分配(賃金率や利潤率)の変化によって価格体系は変化する。産業により労働と生産手段(利潤の対象)の構成が異なるので、価格変化は一様ではない。例えば賃金率が下落した場合、労働量との積だけ賃金支払額は減少する。労働集約的な産業では減少賃金額で確保された余剰資金が大きく、もし、価格が不変だとすれば、利潤は、一定利潤率を確保するのに必要(比較的少額の資本額に比例)以上の額となる傾向がある。産業間で一般利潤率(賃金低下により上昇するだろう(注5)が)を同一に保つためには、当該商品価格は下落しなければならない。資本集約的な産業では、逆に減少賃金額が少なく、利潤は、(配当の元となる資本が大きいため)確保せねばばらない一定の水準を下回る傾向がある。商品価格は上昇しなければならない。 そこで、ある商品を価格尺度(ニュメレール)として選択すると、ある特定の価格変動が価格尺度商品の価格変化によるものか、測定中の商品の価格変化によるものかは分離できない。正確な価格変動を知るには、「それ以外の生産物の価格運動を孤立化させて、あたかも真空のなかにあるかのように観察することを可能ならしめる標準」(p.29-30)が必要とされる。それが「不変の価値尺度」である。 不変の価値尺度であるためには、その商品は、1.労働集約的産業と資本集約的産業の中間的な(分配変化による価格変動のない)一定の資本~労働比率、著者のいう「分水線を示す割合」の産業商品であること、だけでなく、2.その商品の生産に使用する生産手段としての商品、そのまた生産手段の商品等々無限に(すなわちすべての基礎的商品が)同一比率を保持する必要がある。なぜなら、資本を構成する生産手段の価格が変化すれば、1.の比率も変わるから、それら生産手段も価格変化のない同一比率を持つ必要があるからである。 リカードは、死の直前まで「不変の価値尺度」問題について考えを廻らしていた。最後の手紙(ジェームス・ミル宛)及び未定稿となった最後の論文『絶対価値と交換価値』(1823:スラッファが発見)がそれである。「リカードが関心をもった価値の問題は、生産物の分割の影響をうけないような価値の尺度を、どうして発見するかということであった。というのは、もしも賃金の上昇または低下が単独で社会的生産物の大きさに変化をもたらすとすれば、利潤にたいする影響を正確に決定することは困難であるだろうからである」(スラッファ、1972,編者序文、p.lxvi)。この点についてもう少し、説明を加える。リカードの最大の関心は、階級間の所得分配の行方であった。経済発展→人口増加による耕作の進展で地代が上昇し地主の所得が増大する一方、穀物価格上昇→賃金率上昇によって資本家の利潤が減少するのではないかと危惧した。リカードは新興階級たる資本家の味方である。今、地代を捨象して、利潤と賃金の関係を明確にしたいとする。仮に、賃金が変動すると考えると、それは価格体系を変化させるであろう。短期的には労働量・実物生産物は不変だと仮定しても、価格で表示した国民生産物は変化する。分配の対象となる純生産物(国民所得)も同様である。菱山(1990、p.46)の表現では「パイ(国民所得)の変化と同時に、パイ自体の大きさが変化する」。分配の変化と同時に分配の対象まで変化するのでは、正確な関係をつかめない。分配の変化に対して「不変な」価値尺度が必要とされるわけである。キャナンが「不変の価値の標準の妄想」(スラッファ、1972、p.lvi)と称したと知りながら、『リカード全集』を編んだスラッファは不変の価値尺度をリカード体系の中心的命題と捉えた。そして、『商品』において、不可能と思われた不変の価値尺度を「標準商品」として構成し、その中心に据えるのである(もっとも、中心ではないとの意見もある)。 (標準商品) 不変の価値尺度が満たすべき上記の二条件は、生産手段(不変資本)と労働という異質なものの比率についてであった(注6)。この比率は、生産手段にたいする純生産物の価額(価格表示額)比率という同質のものの比率に置き代えることができる。なぜなら、尺度商品は、賃金の変動にかかわらず、生産手段の各価格と生産物である商品価格は不変で(投入・産出量は前提により不変)、全生産手段の価額と(総)生産物の価額比率も不変である。そして、(総)生産物の価額から生産手段の価額を控除したものが純生産物である。従って、尺度商品は、賃金の変動にかかわらず、生産手段の価額と純生産物の価額の比率も一定不変であるからである。 第二の条件からは、当該比率不変はすべての生産手段(商品)の一切に保持される必要がある。このことは、普通にはありえず、個々の産業状況によって産業ごとに異なる。但し、一つの例外がある。賃金がゼロとなり、純生産物全体が利潤となる場合である。(式4)のwlの項がなくなり、各産業の純生産物は生産手段の価額をr倍した価額に統一される。その時の利潤率は、極大利潤率としてRで表す。 実際には賃金がゼロであることはないから、現実に、条件を満たす不変の価値尺度を充たす商品を見出すことは困難である。しかし、「合成商品」という仮想の商品ならそれが可能であることが示される。スラッファは、この合成商品を、生産体系の縮小という手段によって可能とするのである。この方法は「全くのスラッファの独創である」(片桐、p.140)。 具体的な、合成商品作成の例を見てみる。スラッファの本では、物的な体系として表されているが、ここでは価格・利潤・賃金を入れた方程式体系で示す。P1は1トンの鉄、P2は1トンの石炭、P3は1クォーターの小麦の、価格である。便宜のために、各産業で使用される労働量は、全労働量を1単位として、その部分で示される。そうすると、鉄、石炭、小麦の3産業からなる生産方程式は、次のようになるとしよう。これが、出発点となる現実の体系である。 (90P1+120P2+ 60P3)(1+r)+3/16w =180P1 (50P1+125P2+150P3)(1+r)+5/16w =450P2 (式5) (40P1+ 40P2+200P3)(1+r)+8/16w =480P3 ― ― ― ― 総計 180 285 410 1 この連立方程式体系(式5)の第2式(石炭産業)に3/5、第3式(小麦産業)に3/4を乗ずる。そうすれば、次のような「縮小体系」が現れる。 (90P1+120P2+ 60P3)(1+r)+3/16w =180P1 (30P1+ 75P2+ 90P3)(1+r)+3/16w =270P2 (式6) (30P1+ 30P2+150P3)(1+r)+6/16w =360P3 ― ― ― ― 総計 150 225 300 12/16 ここでは、生産手段に入る、鉄・石炭・小麦の比率は(150:225:300)であり、生産される同比率は、(180:270:360)である。従って、純生産物の同比率は(30:45:60)となる。これらは、いずれも、(2:3:4)の比率である。いま、仮に、(1トンの鉄:1と1/2の石炭:2クォーターの小麦)を合成商品の1単位とすると、150単位の合成商品が、30単位の純生産物と、180単位の総生産物の合成商品を生産することになる。ここでは、剰余は物的に表され、諸商品価格とは独立で無関係である。その剰余率は20%で上記で定義した極大利潤率Rに等しい。 マインウェアリング(1987、p.86)は、木と鉄の2産業からなる体系において、合成商品はそれらの一定比率からなる斧であるとし、斧が斧を造る一商品経済に例えている。合成商品は合成商品を生産し、その生産手段も合成商品から生産されるということを無限に繰返す。もって不変の価値尺度たりうるのである。 留意すべきは、現実の体系と縮小体系との方程式体系の相違は、複数産業の生産方程式に乗数を乗じただけである。連立方程式の任意の式の両辺にある数を乗じても、体系は同値であり、解は変わらない。それは、連立方程式の解法の加減法で、式に乗数をかけて係数をそろえる点でも明らかである。ただし、生産方程式にある数を乗じることは、産業工程の操業度が変化する事(マインウェアリング、1987、p.88)であると考えると、いろいろな問題が出てくるだろう(後述)。 これで、尺度となる合成商品は見付けられた。これを標準合成商品、略して標準商品と呼ぶ。さらに、後の便宜のために、もう一工夫、手が加えられる。(式6)の方程式体系では、全体の労働量が12/16すなわち3/4となるが、現実の体系でしたように、全体労働量を1とする。そのためには、すべての式に4/3を乗じる、すなわち1/3だけ体系を拡大する。 (120P1+160P2+ 80P3)(1+r)+4/16w =240P1 (40P1+ 100P2+ 120P3)(1+r)+4/16w =360P2 (式7) (40P1+ 40P2+ 200P3)(1+r)+8/16w =480P3 ― ― ― ― 総計 200 300 400 1 この時の、純生産物(鉄40トン、石炭60トン、小麦80クォーター)を標準商品の単位1として採用し、標準純生産物または標準国民所得と呼ぶ。標準商品を生産する体系が標準体系である(スラッファは上記「縮小体系」も標準体系と呼んでいる)。当然、この剰余率Rも20%である。 スラッファは、現実の体系から変形される(総労働量を1とする)標準体系が一つしか存在しないことを証明する(第五章)。その証明は、行列式を使えば簡単に証明できる(片桐、p.261-264参照)。しかし、彼は標準体系を作るための乗数がすべて正となる組み合わせは、k個の方程式体系から求められるRのk個の解のうち、最低の値に対応するものであることによって証明するという複雑な手続きを取る。 (賃金~利潤率関係) ともあれ、標準体系においては、利潤率と賃金の間に簡単な線形の関係が成り立つ。 標準体系では、諸商品の価格とは無関係に、生産手段・純生産物・総生産物の関係が標準商品の物量比率で示せた。いま、賃金もまた標準商品で計量して表示するなら、利潤は純生産物から総賃金を控除した残余の量であるから、 利潤率=(標準純生産物―総賃金)/生産手段総量=標準純生産物/生産手段総量×(1-総賃金/標準純生産物) (式8) すなわち、 r = R(1-w) (式9) と表せる。 本来、w(賃金率)は、1労働単位の賃金支払い額であるが、先に、総労働量を1とし、標準純生産物も単位1と定義したため、総賃金/標準純生産物=賃金率×労働総量/標準生産物=賃金率、と表せるためである。 価格抜きの(価格変動とは無関係に)、物的数量比率として、w~r 、賃金~利潤率の関係が表示できたわけである。例えば、剰余率が20%であれば、標準純生産物の半分がwに分配されると、rは10%となる。 ![]() スラッファの分析で「remarkable(非凡な)」(菱山、1990、p.205)とされるのは、上記賃金~利潤率関係が、標準体系だけでなく、賃金が標準生産物を価値尺度として計測されれば、現実の体系でも、当てはまることを明らかにしたことである。「現実の体系は標準体系と同じ基礎方程式からなっている。ただ異なった割合において構成されているに過ぎない。だから、ひとたび賃金が与えられると、利潤率は両体系に対して、そのいずれかの割合に関係なく、決定される。標準比率ような特定の割合は、体系に明晰さを付与し、かくされたものを眼に見えるようにするかもしれないけれど、その数学的な性質を変更することはできない」(p.38)からである。 解りにくいので、少し補足してみる。現実体系の連立方程式体系(式5)に、さらに賃金~利潤関係式(式9)を加えて連立させることにする。方程式は一つ増えるが、未知数Rも一つ増えるので、新体系も依然方程式が一つ不足する自由度1の体系である。賃金を外部から外挿するとし、賃金が(式8)で見たように、標準生産物の割合として測られ与えられると、利潤率は標準商品の物的割合として決定される。その利潤率が現実体系のrとなり、(式5)により体系の諸価格が決定される。現実体系では、rは集計的な価格比率となる。(式9)は現実体系と連立可能なのである。ただし、そこでは賃金は標準生産物で表現される必要があった。「かくて、賃金と利潤率との間の直線的な関係は、ただ賃金が標準生産物のタームで表現されさえすれば、どんなばあいにも妥当するであろう。標準体系において商品の数量間の比率として求められた、同じ利潤率が、現実の体系においても集計的な価値(価格の事:引用者)の比率から出てくるだろう」(p.38:強調原文)。 さらに進んで、スラッファは、「このような命題は可逆的である。そしてもし、wとrとが問題の比例性の原則((式9)の事:引用者)にしたがうべきだということを、経済体系の一条件とすれば、まさにそのことによって、賃金と商品価格とが標準純生産物であらわされることになり、そのばあいに、その構成を定義する必要は出てこないのである」(p.54)という。 そして、Rは標準体系を作成せずとも、現実の体系から求めることができる。現実体系で、w=0として、rを求めれば、それがRとなる(注7)。また、wは標準商品中の労働分配割合であって標準商品そのものではない。 標準純生産物の構成という余分な手続きを経ることなく、(式9)が求められることは理解できる。しかしながら、可逆的に(式9)が満足される限り、標準生産物を定義することなくこの式を現実体系に使える(と言っているように思える)という点は、トートロジーのようで、私にはよく理解できない。 さらにいえば、多くのスラフィアンとは異なり、標準商品を重視しない学者もいる。例えばマインウェアリング(1987、第6章)である。確かに、標準商品を使えば、賃金~利潤率関係は右下がりの直線で表されエレガントになる。現実の賃金バスケットで計測すれば、賃金~利潤は原点に対して凸や凹の曲線となるだろう。それでも、価格や分配の分析は行える。なぜ、単純とエレガントさを特段に重視しなければならないかは、明らかでない。「「標準商品」それ自体は、それなしでは得られなかったであろう結果の中で重要な結果を何も生み出さなかった、という見解も私はもっている」(同、p.7)。スラッファ自身も「標準商品」を「中心的な命題」ではなく、「特定の論点」と見ていたとする。確かに、(式9)を使って、それ以後議論が展開されているわけではない。また現実体系の賃金~利潤率関係は、単純な関数で表現できなくとも、ともかく関数関係として導けるであろう。 (第二部第三部) スラッファの中心的命題が記述された第一部を書いてきたが、最後にその後の第二部・第三部に何が書かれているか一瞥する。 第二部は、「多生産物と固定資本」と題されている。第一部は流動資本のみが使用される体系であった。そこに固定資本を導入するために、第二部で、スラッファは結合生産を持ち出す。結合生産とは、一産業一生産物ではなく、一産業多生産物の生産方式である。普通は結合生産といえば、マトンとウール、小麦と麦藁を想像する。スラッファは固定資本である機械設備が流動資本と同時に投入され、主たる生産物と同時に一期古くなった生産設備が結合生産されるとして扱う。トレンズの創案であるとする(注8)。こうして、原価償却等を考えずとも、固定資本を方程式体系に組み込める。例えば下記の式のごとくである。g産業における、初年度の機械とその価格をM0、Pm0 とし、1年経過後のそれらをM1、Pm1とすると、 (M0Pm0+ AgPa+BgPb+・・・+KgPk )(1+r) + Lgw = G(g)Pg+ M1Pm1 となる。 しかしながら、一般的には、結合生産を含む生産体系から標準体系を構成しようとすると、負の乗数となり、負の産業が生じる等の困難があり、体系が複雑化する難点がある。 第二部の最後に土地が扱われる。土地の生産力の相違は、地代が異なる複数の生産方程式の並存として表される。例えばn番目の土地の生産方程式は、Λは土地を、ρ地代を表すとして、農業の生産方程式は、 (AcnPa+BcnPb+・・・+KcnPk )(1+r) + Lgw + Λnρn= C(n)Pg で示せる。 スラッファは、土地を「生産物中の「非基礎財」の立場を占めるといってよい。これらの自然資源は生産に用いられるが、それ自身は生産されない[中略]なぜなら、それらは生産過程の一方の側だけにしかあらわれないからである」」(p.74)と書いている。私には、地代は、賃金同様、利潤支払いの対象となる生産要素ではなく、純生産物の分配の対象となっている―とした方が解りやすいのだが。 あるいは、土地が結合生産を論じた部の中にあるのだから、土地も結合生産物として扱えるとも思うのだが、それでは(土地の地力が衰えぬとして)右辺と左辺に同じ項が出てきて、無意味となるためであろうか。 第三部標題は、「生産方法の切り換え」である。これまで、生産方法は一定のものとされてきたが、ここでは複数の生産方法が併存し、利潤率の変化によってそれら生産方法が切り換えられる場合を論じる。利潤率の変化により、生産方法が複数回変化するとした。利潤率によって、一旦、廃棄された生産方法が再び採用されるモデルである。これは、利潤率の低落が資本労働比率を高めるとの新古典派経済学の常識に反する現象の発見であった。 この本の副題は、「経済理論批判序説」である。ここでいう経済理論は「価値ならびに分配の限界理論の議論」(序文p.3)のことであり、いわゆる新古典派、狭くとらえればマーシャルに代表される理論であろう。本書には、ワルラスの一般均衡論体系にみられるような需要関数は出てこない。前述の方法論的非個人主義でのべたように、需要あるいは消費者の視点はない。ケネーの再生産論あるいはマルクスの再生産表式にみられるように、経済は再生産構造の体系として描かれる。 本書が最初に注目を浴びたのは、米英同名二都市に立地する大学間で戦わされた「ケンブリッジ対ケンブリッジ論争」においてである。元来、本書において、必ずしも、第一・二部の展開から論理的必然性のない第三部が書かれたことは、1950年代に資本の測定にかかる論争として開始した同論争において、ジョーン・ロビンソンを擁護するために書かれたともいわれる(片桐、p.78参照)。その論争後半、「リスイッチング論争」におけるシナリオとしても、本書は注目された。 また、スラッファは、マルクスの経済体系に対して二つの貢献をなしたという(ロンカッリア、p.165-166)。一つは、マルクス経済学に対抗して勃興した限界主義経済学を批判することによって。今一つは、マルクス経済学の価値から生産価格への転化、いわゆる「転形問題」の解決に資することによってである。後者を見てみよう。マルクスは、産業資本家間の競争によって、一般利潤率が成立し、そこでは産業全体として、総生産価格と総価値、および総利潤と総剰余価値の均等が二重に成立すると考えた。そして、その半面では、個々の産業(商品)では、利潤率の均等を求める過程から価格競争が生じ、剰余価値の再分配がなされ、価値と生産価格は一致しないとも考えていた。それでも、価値により価格は規制され、剰余価値は利潤の源泉であるとした。しかし、「転形論争」を通じて、この価値の二重一致は一般的には成立しないことが明らかとなった。スラッファの理論は生産価格を、その体系により厳密に示したと見られたのである。もっとも、その後次第にマルクス陣営からの『商品』に対する近親憎悪は深まったという。 スラッファはスラッフィアンと呼ばれる、多くの信奉者、研究者を生んで、戦後の経済学の動向にも多くの影響を与えた。 終わりに、本書全体について、素人の読後感を書いてみる。 1.スラッファ体系が自由度一の体系である点についてある。それ自身閉じられておらず、自足していないものをモデルとしてよいのだろうか。このような、体系がモデルとするに相応しいのだろうかという疑問は、この本を学生時代に読んだ時から私にはある。この点に触れた本は見当たらず、釈然としない。少なくとも、ワルラスの一般均衡論は閉じられている。賃金を剰余の配分とみなすことと引き換えに、この問題が出てきた。とかく、著者の「分配されるべき剰余が出てくると、その体系は自己矛盾をはらむことになる」(p.6)という記述を問題にし、その矛盾の解釈が行われる(片桐、菱山等)が、私には、剰余の発生ではなく、賃金を剰余とすることの方が大きな矛盾を導入したのではないか思われる。 2.スラッファの再生産体系は、生産された商品は、すべて需要される前提である。それは、剰余の無い「生存のための生産」では、明らかであるが、「剰余を含む生産」(式3)でも、剰余はすべて資本家に消費されて(と思う)売れ残ることはない。そうでなければ、全般的需要不足で、再生産が実現されない。あるいは、不況産業は利潤が実現できず、一般利潤率が成立しないことになる。スラッファの体系は、私には、いわゆる「セイの法則」の世界のように思える。 しかし、そう考えては、いけないらしい、ロンカッリア(1977、p.24)によれば、「均衡価格と生産量を同時に決定するという限界主義者の試みは捨て去られる。[価格決定と生産量決定]の二つの問題は分解され、活動水準は与件の一部とみなされ、前者に注意が集中されることになる」。スラッファが行ったのは、「活動水準の捨象」(同、p.29)である。「彼の分析は、いかなる意味でも、「セイの法則(ないしは「販路の法則」)をその仮定として含むものではない」(同、viii)。1927年以降ケンブリッジに在籍し、ケインズ理論の発展過程に立ち会ったスラッファが、「セイの法則」をもし受け容れていたとするならば、奇妙なことであろうという(同、p.171)。スラッファの体系はケインズ理論と両立可能である。というのは、「所与の生産水準に対応する雇用労働力がその経済で利用可能な労働力に等しくなることを保証するものは、何もない」(同、p.37)のであるから。 菱山(1993、p.145)が、スラッファの体系は各商品の投入量、産出量、雇用労働量の「いずれをとっても、それらが未知数ではなく既知数なのである」というのも、同じ意味であろう。 3.上記に関連して、スラッファ体系に関し、もう一点、釈然としない所がある。スラッファは序文で、「そこでの議論が一切の産業における収益不変という暗黙の仮定に立っていると想定しようとするかもしれない。[中略]だが、実際には、そのような仮定は立てられていない。産出高の変化も、また(とにかく第一部と第二部においては)各種の生産手段が一つの産業によって使用される割合の変化も、考えられていない」(序文p.1)としている所である。規模における収穫不変、生産水準が変動しても投入、産出の係数が一定であるとは仮定していないというのである。 しかし、標準体系を求めるために、各産業の生産方程式に係数を乗じて拡大、縮小を行う際、方程式の係数が不変としているのは、明らかに規模に関する収穫不変を仮定しているのではないか。マインウェアリング(p.7)はいう、「スラッファは、『PC』(本書の事:引用者)の序文の中で収穫不変の仮定が技術選択を含まない箇所の分析にとって必要でない、と断固として主張している。この主張に対するスラッファの説明が説得力をもっているとは私には思えない。収穫不変が『PC』全体で仮定されていることは、きわめて明らかなことである」と。 それとも、ここでもまた生産高の変化、従って収穫不変の考えは想定外であり、捨象されているとみるべきなのだろうか。再度の登場となるが、ロンカッリア(p.25)はそのように解釈しているようである、「著書の最初のページで実に3度にわたってスラッファが明瞭に述べているように、その理論を構築するに当たり、彼は「何らの生産の規模の変化も、また生産手段が使用される変化も考慮していない」」という記述からは、そのように見える。 あるいは、標準体系は仮想のもので、最終的に捨て去られるべきものであるから、標準体系を形成する操作上の問題は考慮しなくてよいとのことであろうか。収益不変を「作業仮説」としても良いことは著者が「序文」で認めている。 4.リカードが求めた「不変の価値尺度」には、二つの役割が期待されていた。一つには、生産方法が変化した時の価格変化に適用するものであり、今一つは分配が変化した時の価格変化にも適用できるものである。「リカードゥは、彼の測定単位に過剰な役割を負わせようとしていたことになる[中略]スラッファは、それらのうち第二の問題は測定単位つまり比較の標準としてある合成商品を採用すれば解決可能であることを、その著作で証明したのである」(ロンカッリア、1977、p.76)。スラッファの目的は「生産方法が不変に止まるという仮定に立って、賃金の変化が利潤率ならびに個々の商品の価格に与える効果を観察すること」(p.19)にあった。標準体系が技術一定(投入係数変化なし)であることを、考えればそれは明らかである。しかし、リカードの関心は、階級間の所得分配の、長期的な動向すなわち技術革新が起こる世界、にあったのではないか。 スラッファが扱ったのは一時的なもので、「通時的な再生産過程を少しも問題にしなかった」(菱山、1993、p.21:強調原文)点に、同じスラフィアンでも不満がないわけではない。山下博(1962)は、技術が変化する長期の価格変化、動態面が軽視されているとする。 記録をみると1990年代初めに、7500円で、都丸書店から購入している。当時は年2回発行される目録を心待ちにし、欲しい本を見つけると何を置いても直ぐに電話を入れたものである。現在目録の発行はなく洋書在庫は別の店で管理されている。ネットの発達で便利になったが、日本で洋古書を扱う店が減ってゆくのも、淋しいものである。 現在初版の値段を見てみると3~10万円くらいが附けられている。値段の幅があるのは、古書業界で評価の定まった定番の本にまでなっていないということであろう。 (注1)ここで、急いで付け加えると、スラッファは、「資本」という言葉は価格と独立に、計測される含意を持つので、使用しないとしている(p.13-14)。しかし、標題には明らかに使用している。
(2019/1/30記) |