SCHUMPETER, J. A. ,Theorie der Wirtschaftlichen Entwicklung., Leipzig, Verlag von Dunker & Humblot, 1912, vi+548, 8vo. シュンペーター『経済発展の理論』、1912年刊初版。 著者略伝:シュンペーターSchumpeter, J. A.(1883-1950)。オーストリア=ハンガリー帝国の地方都市トリーシュ(現チェコ領、チェスチェ)に織物製造業者を父として生まれる。父は彼が4歳の時に亡くなり、母親の手で育てられる。10歳の時母親が、ヴィーン駐屯のオーストリア軍を統率していた陸軍中将ジギスムンド・フォン・ケラーと再婚する。二人の年齢差が30歳以上あったようだから、再婚は息子の将来のことを慮ってのことであろう(後離婚)。 こうして、もっぱら貴族子弟の通う、マリア=テレジアの名を冠した名門ギムナジュウム、テレジアニウムで古典教育を受ける。中産階級の家柄の出でありながら、ヴィーンのこの学校で、極めて貴族的な雰囲気の中に成長した。このことは、本物の貴族以上に貴族的に振舞うことを身につけさせたと思えるが、どうだろうか。 ヴィーン大学法学部に1901年入学、主に経済学を学んだ。当時経済学は法学部で教えられていた。大学はメンガーが退いた後で、ヴィザーやフィリポウィッチのゼミナールにも参加したが、ボェーム=バヴェルクのゼミに参加したことが大きい。ここには、ミーゼスや気鋭のマルクス主義理論家オットー・バウエル、ヒルファーディング等がいて、毎回熱烈な議論が沸騰した。但し、法学の勉強も疎かにしなかったことは、後のカイロでの仕事でもわかる。法学博士(ローマ法と教会法)の学位を受ける。 大学卒業後、英国に渡り、1907年英国人と初めての結婚をする。新婚のまま、国際混合裁判所の弁護士としてエジプトのカイロに赴任する。ここで、参考書もないまま『理論経済学の本質と主要内容』を書き上げるのである。 この本で名声を得たことにより、チェルノヴィッツ大学に招かれる(1909年)。その後、ボェーム=バヴェルクの引きもあり、グラーツ大学に移るも、念願したヴィーン大学には戻れなかった。この時代に「自らも二度とは達しえなかったような叙述の直載さと論証の力強さ示した」(スミッシーズ)本書や『経済学史』(1914年)を著した。 学者の真に創造的な仕事は20代の「神聖な多産の十年」で成しとげられるとの信条とおり、彼自身の主要な業績も31歳までの6年間なされているのである。この信条の然らしむるところか、学者生活を清算して、今や実際に資本主義を動かす仕事に転ずべき時であると決意したのだろうか、政治・実業の世界に打って出る(師のボェーム=バヴェルクをはじめ、実践的な問題に参与するのはオーストリア理論経済学者の伝統である)。 最初はかってのゼミ仲間の縁で、第一次大戦後のオーストリア連立内閣の大蔵大臣に就いた。この内閣はマルクス主義社会主義者とカトリック保守党の連立である。戦後の疲弊した経済の下で、見込みのない経済・財政の再建に苦闘するが、社会主義者の裏切りにより、生贄とされて汚名を着たまま辞任することになる。 続いて、小さいが伝統あるビーダーマン銀行の頭取になるも、恐慌の渦中で倒産。シュンペーターは、債務が免責される法的手続きを取らず、後々までも返済を続けることになる。ここに至ってか、失意の中で、彼は学問の世界に復帰する決心をする。 1925年ボン大学の教授に就任。シュナイダーのいうように、シュンペーターのおかげで、ボンはやがて「全世界の経済学者のメッカ」となったのである。この時期ヴィーン娘アンイー・ライジンガーと2度目の結婚をする。かれの人生の絶頂期であったろう。しかしこの幸せは長く続かなかった。新妻が産褥で亡くなり、あまつさえ最愛の母を同年失うのである(本書第二版1926年は、母親に捧げられている)。以後は諦念とペシミズムが彼の人生を覆うのである。彼は終生(再々婚の後も)亡き妻の残した日記の当日の部分を書き写すのを日課としたという。 1932年に、故国を後にして、ハーヴァード大学教授に就任。経済学部の黄金時代を築く。以後は研究と教育に身を捧げた。この時期にも、多くの論文の他、『景気循環論』、『資本主義・社会主義・民主主義』及び『経済分析の歴史』(未完)という大部の著書を生みだしたが、若き頃の著書を成熟・拡大させたものとの見方もできる。 シュンペーターについて、書かれたものが必ずふれるのは、第一にその博覧強記ぶりである。経済学の分野では、どんな主題の講義でもやりかねない勢いだったし、「講義をさせれば、古代エトルリアの芸術についても、中世の法制史についても、ロマネスク建築についても、少なくとも素人の域は脱していた。異常の頭脳の持ち主」(都留、1964年、p.203)であった。 第二にはその教育熱心。院生たると学部学生たるを問わず、また優秀な学生たると凡庸な学生たるを問わず、学生の指導(私的な相談を含めて)には、研究時間を犠牲にしてまで、不必要と思われるくらい惜しみなく時間を割いた。これが、かれの命を縮めたとされる程である。――ついでながら、彼は妻との年齢差(12歳上、 21歳下)で想像できるが、上下を問わず年の離れた人とは上手く行ったが、同年輩の同僚との人間関係はなぜか、まずかったそうである。 この教育熱心は、私には、鴎外の記したボン時代の学生ストライキ(と思う)の件と上手く結びつかないのだが、学業評価も大甘だったと書かれているものもあるから、彼も苦い経験から学んだのであろうか。しかし、弟子たちの師への敬愛がシュンペーターの後世の名を一段と大きくしたとも思われ、もって瞑すべきか。 成人の後も、ちょっと数えてみるだけでも、ヴィーン、ロンドン、カイロ、チェルノヴィッツ、グラーツ、ニューヨーク、ボン、ケンブリッジ(米)と3大陸8ケ所に居を移し、天賦の才能を持ちながら、刻苦勉励の人生を送った人あった。彼が執筆を予定していた小説(!)の原稿(案)の一節にこうある。「そして現代人にとっては、自分の仕事がすべてである。-多くの場合に感ぜられるのはただこのことのみである。…目的もなく、希望もなく、ただ、ひたすらに有効な仕事に打込むこと。…/家族もなく、/真の友人もなく、/その優しい心情に包まれ抱かれるべき女性もなく」と。(以上主としてハリス、1955年による) さて、これからが本題である。 シュンペーターといえば、イノベーション(新機軸、革新)を思い浮かべる人が多いであろう。イノベーション論を本格的に展開したのが、この本書である。但し、この本では新結合(neuer Kombination )という言葉が用いられており、イノベーションは後の『景気循環論』の用語である(初出は1927年の論文)。なお、先行の『本質』では新創造(Neuschöpfungen;シュンペーター、1983年、下p.195)が使われている。 処女作『本質』は、ワルラスを中心としてウィーザー、ボェーム=バヴェルク、クラークの理論をも取り入れて、一般均衡理論をほとんど数式を使うことなく、文章で表現した著作である。シュナイダーは、「研究計画発表の書にして信仰告白の書」(私には一般均衡理論へのオマージュの書と思えた)としている。 本書日本語版の序文でも触れているように、著者は『本質』を書いている途中であるいは研究中に、静態理論である一般均衡理論に決定的に欠如しているものに気づいたにちがいない。『本質』第三部第四章におかれた「利子の動学的理論に対する序説」において、すでに利子現象を中心とした発展の理論の輪郭が述べられている。 著者は最初本書を『本質』の第二巻ないし続編とすることも考えたが、前著とは独立した著作として刊行すると書いている(原著第一版の序文)。 「資本主義制度はその他の経済制度とちがって、たゆまない経済的変化を通じて生きのびていく。静止的な封建主義経済は、封建主義経済でありえようし、静止的な社会主義経済も社会主義経済でありえようが、静止的な資本主義というのは(二辺からなる三角形というがごとく)名辞矛盾の一例にすぎない」(都留、1964年、p.212)と資本主義をダイナミックにとらえる著者にとって、そのエンジン(動輪というべきか)は、イノベーションであり、エンジンのスターターは、企業者なのである。 シュンペーターの理論の基本は、「企業者―新結合の遂行―経済発展」の線にある。その上に立って、信用と資本(第三章)、企業者利潤(第四章)、資本利子(第五章)および景気循環(第六章)等の資本主義経済固有の諸現象を一貫して説明する。 ここで、著者のいう「企業者」は、困難な状況を打開してブレイク・スルーをもたらし、新結合を実現する革新的経営者のことで、単なるルーチン・ワークとして経営を行う人は、軽蔑して「社長」と称したりした。「企業者」はエリートの称号なのである(ケステルス、1986年、p.227)。 次に「新結合」。生産が利用できる物および力を結合することであるとするなら、「新結合」は、生産物および生産方法の変更である。具体的には五つの場合が示されている。①新しい財貨の生産②新しい生産方法の導入③新しい販路の開拓④原料あるいは半製品の新しい供給源の獲得⑤新しい組織の実現(シュンペーター、1977年、上p.182-183)である。 最後に、シュンペーターのいう「発展」は、ワルラスの描く静的な均衡状態(静態あるいは循環とも)から、別の均衡状態への推移あるいは均衡破壊であるが、このような状態変更のなかでも、あくまで経済体系の内部から生じたものであり、かつ不連続的なもののみを指すのである。古典派経済学が描くところの、人口と貯蓄の増加によって「樹木のように」拡大するのは、彼にあっては「成長」であって「発展」ではない。 さて、こうして新結合を実現するためには、企業者は生産のために必要な生産手段を支配ないし購入しなければならないが、静態から出発するなら余分な資材はなく、現に使用されている旧結合から奪取しなければならない。しかも、企業者は資本家ではないから、必要資金を信用に求めなければならない。これをファイナンスするのが銀行家の信用創造である。そしてここに、シュンペーターは、資本主義独自の特徴を見て取っている。 企業者は、新結合遂行の結果、旧結合の企業に比べて超過利潤を得ることとなり、ここから利子が支払われる。逆にいえば、新結合のない静態経済では利子は存在しないことになる。これが多くの学者の反対を招いた著者の「動態利子論」である。著者もこの説に固執したため、ボェームを始めとする論争に多くのエネルギーを費やした。 景気循環も、新結合の群発とその収束の過程から説明される。先行の新結合を実施する企業者には多くの抵抗に遭遇するが、後発の企業者は受ける抵抗がより少なく新結合が群発する、それが物価を押し上げ、生産を拡大する、しかし追随者が増え新結合が普及するにつれ超過利潤はなくなり、やがて企業損失・価格低下・信用収縮に陥るとの塩梅である。 最後に感想を。哲学者の三木清は本書を評して、「始めて人間の出てくる経済学に出会った」とした(中山、1980年、p.507)。与件の変化ではなく、経済の内部に原因を求む著者の発展理論は、企業者が出発点である。しかし、この発展を担う、企業家がどのように時を置いて群発するかの分析は弱いように思う。(長期的に)生まれなくなるについては、分析はなくはない。後の『資本主義・社会主義・民主主義』では、資本家階級の衰退の理論が詳説されており、資本主義のエンジンが失速するとしている。その意味では「経済発展の理論」は、「経済衰退の理論」に発展したというべきか。 ドイツの古書店からの購入。本書初版は、『本質』より稀覯であると思う。ex-libraryであるが、やっと手に入れることができた。 米川紀夫の本(p.48 注1)には、「今まで本著の出版が、1911年か1912年か不明であった。シュンペーター自身は、論文や書簡で1911年に出版されたと言っている。オックスフォード(ケンブリッジの誤りか?:記者)大学のマーシャル文庫のドイツ語初版本ではフロントページの1911年が、手書きで1912年に訂正して書き直され、その第2ページが1912年となっている。[中略]わが国では1911年版の存在は、未だ確認できてない。」とのはなはだ気になる記述がある。上記の「フロントページ」とはハーフ・タイトル、「第2ページ」とはタイトルページのことであろうか。私蔵本にはハーフ・タイトルがなく(当初あったかどうか不明)、よく分からない。ただ、ウェブのマーシャル・ライブラリーで本書を検索したところ、一冊出てきたが、発行年は1912年とされ、特に注記はない。 (( 『経済発展の理論』1911年版の謎の一解釈 )) 以前上記部分を書いたときから、米川紀夫の本で「オックスフォード(ケンブリッジの誤りか?:記者)大学のマーシャル文庫のドイツ語初版本ではフロントページの1911年が、手書きで1912年に訂正して書き直され、その第2ページが1912年となっている。[中略]わが国では1911年版の存在は、未だ確認できてない」という記述が謎として、長らく気になっていた。 その後、オランダの本屋で、”The rare first edition of this classic with the date changed from 1911 to 1912 on the cover.”と説明のある本書を見つけ、値段もそう高くなかったので注文し、幸い入手できた。H.M.Hirschfeld(1899-1961)という人の旧蔵書である。同人はオランダの経済学者で経済官僚であったようである(オランダ語のWikipedeaがある)。この新入手本を見て、大体のことが解ったように思えるので、私見を以下に書く。 この本はいわゆるフランス装で、簡単な紙表紙がつけられて販売され、購入者が好きな装丁をする仕様である。原装のままの本書は見ていないが、新入手本の状態(後述)から、そう推定される。同出版社(Verlag von Duncker & Humbolt)で同年出版の原装・紙表紙のミーゼス『貨幣及び流通手段の理論』1912年(ホームーページにあり)を持っているし、現在売りに出ているシュンペーター『本質と主要内容』も、原装・紙表紙のままの写真が見られた点からも、そう考えて間違いなかろう。 新入手本はリネンで布装丁されているが、紙表紙の部分を切り取って装丁表紙に貼り付けてある。時々見かける装丁方式である。その貼られた(元)紙表紙の発行年が1911年と印刷され、インクで末尾の数字1を2に書き換えられているのである。標題紙の方は、1212年と印刷されている。 これから想像するに、米川のいうマーシャル文庫の初版本は、紙表紙の上から丸ごと綴じこんで装丁したのではないか。これも、よく見る装丁パターンである。それが、「フロントページの1911年が、手書きで1912年に訂正して書き直され、その第2ページが1912年となっている」ということではないか。 それに対し、日本の図書館(の入手本)では、紙表紙を取り去り、新たに表紙を付け直し、製本したのであろう。これが普通の製本方法である。このやり方では、本を開くと最初に標題紙を見ることになり、1912年出版の印刷部分のみが残り、紙表紙の部分は本としては残らない。 新入手本の紙表紙は、上記マーシャル文庫のものと同じように、印刷された発行年をインクで訂正されている。思うに、製本後刊行年が、紙表紙は1911年、標題紙は1912年と印刷されていることに気付いて、紙表紙のインク訂正が版元でなされたのではないか。実際に発行されたのは、1911年か1912年か知らないが、標題紙を印刷して製本し直すなら、経費も掛かる、ほとんどが捨てられる紙表紙を訂正するのが簡便だろう。どうせ、仮の表紙だから再印刷して、付け直すこともないと、インク訂正したのものか。更に想像を逞しくすると、本当は11年に発行されても、上記の理由で12年に統一された可能性も考えられる。 以上全くの推測で、当時の出版事情など調べた訳ではないので、勘違いがあるかも知れない。どうも、最初予想したように、半標題紙(half title)があって、そこに1911年と印刷していたのでは、なさそうである。 今でも、ネットで『経済発展の理論』初版を1911年と表示したものを時たま見かけるが、以上のような背景の故であると思える。小さな私的疑問のために、既に持っている本を買い増すのも、ご苦労様だが、ex-libraryでもなく、比較的廉価だったからと、自らを慰めている。下掲の写真を参照ください。 (2017/7/25追記) なお、シュンペーター自身が、『経済発展の理論』独語初版は、1911年と記載している(『景気循環論』Ⅰ、有斐閣、1958年、p.160及びp.180) (2014/9/6追記) (参考文献)
(2009/5/26記。2012/10/9 独語綴り訂正。2017/7/25 1911年版の記事と写真追加。2022/5/19 HP内の形式統一のため数字を半角に統一する類の改定) |