POLANYI, KARL,
The Great Transformation, New York, Toronto, Farrar & Rinehart, Inc., 1944, pp.ix+395, 8vo.

 ポランニー『大転換』1944年刊、初版。
 著者略歴:カール・ポランニーKarl Polanyi(1886-1964:ポラニーとも、ハンガリー語では日本と同じ姓・名の順であり、ポラーニ・カーロイ)。オーストリー=ハンガリー帝国の首都ウィーンでユダヤ系家族に生まれ、生後まもなく副首都であるブタペストに移住する。父は、鉄道技師から鉄道建設業者となり成功を収めた。母セシリアは、「セシル・ママ」と呼ばれるサロンの主催者だった。5人兄弟の第3子、弟に化学者にして後社会哲学者に転じたマイケルがいる(奇しくも敵役であったミーゼスにも、工学者にして数学者の弟がいる)。家庭教師による古典語を含む語学教育を受けるも、父の事業失敗で家運が傾く。父の死後は家庭教師や法律事務所で働いて家計を助けた。
 1906年ブタペスト大学法学部に入るも、師事した法制史のピクレル教授にキリスト教否定の嫌疑がかかり、右派学生と大学当局による追放運動が起こる。ポランニーは教授擁護のための学生運動に携わり、放校処分を受ける。別大学に転籍し、ここで法学博士の学位を得ている。08年ブダペスト大学に復学。進歩派学生組織「ガリレオ・サークル」を創設する。ルカーチやカール・マンハイムがそのメンバーであった。労働者教育および知識人に対しては多彩な講師を招いての新文化の啓蒙活動を行った。親友ヤーシが14年に急進市民党を結成した時には、書記長に就く。第一世界大戦では、帝国軍の騎兵将校としてロシア戦線に従軍し、負傷により除隊した(1915-17)。
 その後の政治情勢はユダヤ系知識人への迫害を生起し、1919年ウィーンに亡命することになる(18年敗戦によりハンガリーは墺から分離)。23年同国人の共産主義者で女性革命家イローナ・ドゥチンスカと結婚。彼女はウィーン工科大学生で、看護婦として働いていた。24-33年経済週刊誌『オーストリア・エコノミト』Österreichische Volkswirt の副編集長を務める。この間、ミーゼスやハイエクが展開した「社会主義計算論争」に参加する。オーストリア学派経済学を研究し、その抽象性に疑問を抱く。また、フェビアン主義とG・D・H・コールの機能的民主主義論に惹かれ、キリスト教社会主義に興味を持った。27年には、仕事を通じ、ピーター・ドラッカーと知り合う。
 オーストリアでもファシズム勢力が優勢となり1932年イギリスに亡命。生活のため、ジャーナリズムの仕事のほかに、労働者教育協会やオックスフォード、ロンドン大学の公開講座の講師として、国際関係や英国経済史を講じる。50歳過から経済史を学び直し、また英国労働者の実態を知った。この時の講義ノートが、『大転換』の執筆に役立った。37年労働者教育協会から派遣されて、米国各都市でヨーロッパ情勢の公演を行った。40年ドラッカーの紹介で、ロックフェラー財団の後援を得て、ヴァーモント州のベニントン大学の客員研究員の地位を得る。この大学は、創立(1932)早々の小さな私立大学のようだが、教員にはドラッカーとフロムという錚々たる顔ぶれがいる(いずれもユダヤ系)。ここで、『大転換』(44年出版)は書かれた。
 一旦英国に戻ったポランニーは、『大転換』の成功によって、1946年60歳を過ぎて米国コロンビア大学の客員教授(47-53)として招聘され、「一般経済史」を講じる。共産主義者であった妻は米国入国ヴィザが発給されず、ポランニーはカナダのトロント郊外に家を構え、12時間かけてニューヨークまで通勤した。教授退任後も、教え子たちと経済人類学の共同研究を推進した。その成果は共同論文集『初期帝国における交易と市場』(1957)として刊行される。61年と64年には、故郷ハンガリーを訪れる。最晩年に、冷戦下の東西世界の平和共存を目指した雑誌『共存』発行を企画した。その刊行を見ず、カナダにて亡くなる。

  (以下本書からの引用は、断りがない限り新訳書からであり、ページ数のみを示す)
 本書は1844年にニューヨークで刊行、翌年に最終章を拡充させてロンドン版が出版。ポランニーは、まず70年代に「経済人類学者」として、知られるようになった(我が国では栗本慎一郎による紹介)。長らく忘れられた本書は、80年代から左翼的人士のバイブルとなった。「持ち前の驚くべき博識と語りの技能」(デイル、2020、p.256)を持つ彼にしか書けない本である。ジャーナリストとしての才気と歴史家としての分析が融合した書というべきか。私がこの本を読もうと思った動機は、社会主義計算論争に関連してオーカン『平等か効率か』を読んでいた時である。実証的な経済学者(オークンの法則で知られる)であるオークンが「私の先生であるカール・ポランニー」(p.24)云々と述べた箇所がある。確かにオークンはコロンビア大学を出ていることが分かった。よほど強い印象を与えた教師であると思えた。ステグリッツが新訳の序文を書いていることからも、理論経済学者にも影響を与えたことが解る。一読、スピームナムランド法に関する叙述の多さとロバート・オーウェンへの高い評価に惑わされる。 

 それでは、まず、「大転換」とは何を意味するのか。米国初版は『大転換』と題され、英国初版であるGollancz(左翼系出版社)発行本の標題には『我々の時代の起源(Origins of our Time)、:(副題として)大転換』が付けられている。とすれば、当代の起源となった大変動の意であろう。第1章冒頭に「大転換」の意味する所が掲げられている。「本書は19世紀文明の崩壊という出来事の政治的・経済的起源、並びにそれを招来した大転換を取り上げる」(p.5、一部改訳)(注1)。しかし、ちょっと意味が取りにくい(というより当方の英語理解力不足)。
 旧訳「訳者あとがき」では、自己調整市場が機能不全となりファシズム・社会主義・ニューデールの登場が象徴する19世紀文明崩壊を「表題がさす「大転換」の意味なのである」(旧訳、p.419)としている。新訳の訳者梗概でも、大転換を「19世紀文明の崩壊がもたらした世界的な変革を意味する」(p.4)としている。一方、新訳がそれに拠ったBeacon press発行のp/bの第二版(2001)には、スティグリッツの「序文」が付されている。そこには、「本書は、ヨーロッパ文明の工業化以前の世界から工業化の時代への大転換、およびそれにともなう思想、イデオロギー、社会・経済政策の変化を記述している」(p.vii)とある。また、同版に載せられたF・ブロックの「紹介」では、「市場主義の台頭」を第一の「大転換」とし、「ファシズムの台頭」を第二の「大転換」としている(p.xxvii)。市場社会の勃興である長期的な変動、あるいは1930から40年代の市場社会を克服しようとする短期的な運動の二つの意味があるようである。あるいは、二重の意味が込められているのか。
 私としては前者の意味であると思いたい。著者は農業社会から自己調整的市場への転換を、「過去の経済からこのシステムへの転換はまったく完璧に行われるので、連続的成長とか連続的発展という言葉で表現されるような種類の変化というよりは、毛虫の変態(metamorphosis)に似ている」(p.71)と、シュンペーターの「イノベーション」を思わせる表現をしているからである。後者では、「大」転換とは思えない。もう一つ、ポランニーの学術的出発点に、社会主義計算論争=転形問題(transformation problem)への参加があることを考えるからである。資本主義社会=自己調整的市場経済の成立による価値から価格への転形がTransformに含意されているように思われるからである。ちなみに、ポランニーは、労働価値説を明快に否定している。それは、「並外れた適用範囲をもってはいるけれども誤った一つの定理」(p.222)なのである。

 本書の内容を大胆にまとめれば、次のとおりか。
 19世紀の市場経済は、それまでの世界と異なり経済を社会(政治・宗教等の領域を含む)から分離させた。市場経済は自己調整的のように見えるが、実際にはその機能に必要な社会(コミュニティ)を破壊せずにはおかない。社会に致命的な損害を与えずに、経済機能を構築、維持するためには、政府の不断の保護政策が必須である。その保護を求める対抗運動が発生する。しかし、その保護政策そのものが市場の自己調整機能を妨害する。規制された資本主義は、脆弱で不安定なものである。そこで、政府は、社会的・自然的な生活環境の再生産に必要な保護を大胆に組織し直す変革を通じて、社会と経済を再び結合する必要がある。それは、ギルド社会主義の下で最も良好に達成できるだろう。

 これでは、余りにも簡略すぎるから、下に本書の具体的な内容が分かる程度に概要を記す。新訳の各章の頭につけられた「訳者による梗概」も参照したが、記者の興味を引かれた所を中心にまとめた。余りにも長くなってしまったが、「本書はきわめて内容豊かなので、それを要約しようとしもてむだであろう」(新訳、ブロックの紹介、p.xxvii)という言葉を言い訳とする。
 本書のキー・概念と思われるものをあげる。もう少し手軽にという場合は、概要から次の言葉を検索して、そのあたりを読んでもらえれば、大方了解できるのではないか。
  自己調整的市場、擬制商品、対抗運動あるいは二重運動、スピームナムランド法、オーウェン、社会の現実
 である。

 それでは、本書の章立てに従って、概要を記す。
 ポランニーの問題意識は、なぜ19世紀文明すなわち100年間(1818~1914)継続したヨーロッパの平和と繁栄の時代が突如終焉し、世界大戦と経済的破綻の時代となったか、そしてファシズムを生んだかということであろう。19世紀文明なるものは、四制度によって支持されていた。バランス・オブ・ポワー・システム(勢力均衡制度)、国際金本位制、自己調整的市場および自由主義国家である。とりわけ、これら制度の基盤なったのは、自己調整的市場である。ところが、「自己調整市場という考え方は全くのユートピアであった」(p.6)(ここで、著者のいうユートピアというのは、原義ギリシャ語outopos何処にもないとの意味であろう:記者)。
 純粋な自己調整的市場は、人間と社会を破壊することなしには存在できない。そこで、社会はやむを得ず市場に対する自己防衛手段を講じる。その結果、自己調整的市場が機能不全を起こし、ついには市場システムの上に成立する社会を崩壊させた。現代の危機の制度的起源は、19世紀西欧における自己調整的市場システム思想を生み出した社会的・技術的大変動の中にある。

 19世紀100年の平和は勢力均衡制度の賜物である。それは、前半世紀では、「神聖同盟」が、後半世紀では「ヨーロッパ協調体制」となって現実化した。メッテルニッヒの傑作が強権的軍事力を行使してようやく達成した目的を、弱体な後者は非抑圧的に僅かな武力行使で実現した。そこには、隠れた社会的手段である大銀行家による国際金融業が存在したからである。国債の大量所有者、投資家、取引業者は戦争の最初の被害者である。とりわけ、通貨が影響を受ける場合に著しい。大規模戦争の回避は大銀行家の役割となった。金融は、諸中小主権国家の議会と政策の強力な調停者となった。貸付は信用に依存し、信用は経済動向(behavior)依存した。立憲国家の経済動向は予算に反映され、通貨の対外価値は予算の評価に懸かっている。債務国は、金本位制の下で為替相場を安定させ、財政の健全性を守るように指導された。金本位制と立憲主義は、ロンドンのシティの声を伝達する手段であった。パックス・ブルタニカは、砲艦外交もよるが、多くは国際通貨の操作によって支配が維持されたのだ。平和の維持には、国際的均衡だけでなく国内の平和勢力の存在が必要である。それは、前半世紀は教会に精神的・物質的に支持された封建制と王侯貴族であり、後半世紀は国際金融業と国内銀行システムであった。ヨーロッパ協調体制が平和維持という政治的偉業を成就できたのは、国際的環境において政治組織と経済組織にまたがる大銀行家出現の帰結である。平和の組織は高度に人工的な経済の組織の上に築かれた。国際経済システムなしには平和は実現できなかった。
 しかし、各国の金本位制採用が拡大する1870年代末には、自由貿易体制は終焉を迎える。保護主義と植民地拡大の競争の時代が始まる。結果、三国同盟(独、墺、伊)と英仏の二大陣営が形成されることになる。バランス・オブ・ポワー・メカニズムは終わったのである。国際金融業が持つ戦争抑止機能も急速に減衰した。20世紀の到来とともに世界経済の崩壊が始まった。そのことは容易に気づかれなかったが、第一世界大戦(1914)の淵源は世界経済システムの解体にあった。大戦後の10年は革命の時代とされたが、実際はその正反対であった。徹底的に保守的で、戦前のシステムをより堅固な土台の上に再建することにより、平和と繁栄を回復できると信じられた。金本位制復帰は時代の信念であり、世界連帯の象徴であった。そこには、ロンドンのシティおよびウィーンのオーストリア学派純粋貨幣理論家の圧力があった。しかし、変化は、30年代初めに突然現れた。英の金本位制離脱、露の五ケ年計画、米のニュー・デールの開始、独ナチスの政権獲得、および国際連盟崩壊によるアウタルキー経済諸帝国の出現である。
 金本位制・国際経済システムの崩壊は、未曽有の大規模な世界大戦を伴もなった大変動の契機ではあったが、それによってはその深刻さと内容を説明できない。第一次世界大戦は単に19世紀型のバランス・オッブ・パワーの一時的不均衡による列強間紛争にすぎない。これに対し、第二次大戦は世界的大変動の一部であった。本書が証明すべき命題は、社会的大変動の源泉は、自己調整的な市場システムを樹立(再建)しようとした経済自由主義のユートピア的試行にあったというものである。19世紀文明は、人間社会の歴史においてみられなかった特異な文明である。それは、日常生活の行動において利得動機を基礎に置いた経済的な社会である。自己調整的市場システムは、この動機の上に導出された。市場社会の弱点が悲劇的な混乱となって表れたのは、ヨーロッパ大陸においてである。しかし、市場社会はイギリスで生まれた。ナチズムを理解するには、19世紀イギリスに立ち戻って探求せねばならない。産業革命、そして市場経済、自由貿易、金本位制度はイギリスで発展したものである。

 18世紀産業革命の核心は、奇跡的ともいえる生産用具の進歩にあった。しかし、それは普通の人々の生活に破滅的な混乱をもたらした。この混乱をポランニーは、ブレイクの詩の一節から「悪魔の碾き臼(satanic mill)」と呼ぶ。遡って、産業革命を準備したといわれる16世紀の第一次エンクロジャー(囲い込み)運動を見てみよう。エンクロジャーは、貧者に対する富者の革命と呼ばれてきた。領主や貴族あるいは百年を経てジェントリーや商人の手で、時に暴力をもって共有地から農民を追い出し、彼らの住居を破壊した。牧羊のために自らの牧草地として囲い込んだのである。農民は乞食や盗賊となって流浪した。国王、主教ら王権体制側は、破局を招きかねないこの惨禍から社会を守ろうとした。囲い込みを妨げる保護主義的立法措置をとったのである。
 19世紀の歴史家は囲い込みの実行者である議会側の同情者であり、王権側の措置を非難した。経済法則を理解しない反動的干渉主義だというのだ。しかし、王権側の措置が変化を有効に阻止できなかったとしても、全く効果がなかったのではない。措置の狙いは変化の進行速度を減速させることにあった。時に、変化の速度は変化の方向よりも重要である。前者は随意にはならないが、後者はかなり制御可能である。王権側による変化緩和の救済措置によって、イギリスは深刻な影響をこうむることなく、囲い込みの惨禍に耐えられた。しかし、商工業界階級が権力を掌握すると、王権の業績は簡単に忘れ去られた。囲い込み時代の恐怖と人口減少の脅威を克服した業績は人々の記憶から失われた。このことが、150年後に産業革命が同様に国民の生命と幸福を脅かしたときに、危機の本質が正確に理解されなかった理由かもしれない。
 産業革命という形の破局的厄災は、経済進歩の巨大な動きに伴う制度的メカニズムが始動したことを意味する。これらのすべては、市場経済の確立という一つの基本的変化に付随した動きに過ぎないし、市場経済の本質は商業社会において機械が与えた衝撃を理解することなく把握できない。商業社会において、ひとたび精巧な機械と装置が生産に使われると自己調整市場(self-regulating market)概念が出現せざるを得ない。精巧な機械は高価なので、大量生産が前提である。生産した商品が十分に捌け、原材料不足で生産が中断されない時に限り、機械は収支償える。市場経済システムの驚くべき特性は、ひとたびそれが確立されると、外部からの干渉を受けずに機能することである。過去の経済からこのシステムへの転換は、毛虫の変態のごとく完璧に行われる。そこでは、商人-生産者が購入するものは、原材料と労働、すなわち自然と人間である。商業社会の機械生産とは、社会の自然的及び人間的実体を商品へ転化することに他ならない。このような仕組みがもたらす混乱が、人間の相互関係を解体し、生活環境を絶滅する脅威となることは明らかである。
 議論を進めるには、19世紀が確立しようとした市場経済という自己調整的なシステムの根底にある特異な諸前提を理解する必要がある。市場制度は、新石器時代以降かなりありふれた制度ではあったが、その役割は経済生活にとって偶発的なものにすぎない。アダム・スミスの仮説では、未開人さえ利益を求めて行動する(狩猟社会での、ビーヴァーと鹿の交換を想起せよ:記者)。古代社会あるいは過去1万年の歴史を、およそ『国富論』(1776)の出版から始まった我々の文明の前奏曲とみる慣習は時代遅れである。例えば、部族社会では個々の成員の利益ではなく、共同体全体の利益が重要視される。このような状況下では、個人の意識から経済的利己心を除去する圧力が絶えず働くに違いない。
 ここで、ポランニーは「そしてわれわれは、ただ一つの目的を追求するために、複数の学問分野を渉猟することにしよう」(p.7)と宣言する。(エンゲルスが、モルガンを利用したごとく:記者)マリノフスキー、トゥルンヴァルトの人類学の成果を援用する。西大西洋諸島の共同体では、報酬を目的とする労働や最小努力の原理はなく、経済動機のみにもとづく制度は存在しない。そこでは、互酬と再分配の行動原理により生産と分配の秩序が保証されている。互酬は、主として血縁的組織(家族・親族)において作用し、再分配は主に共通の首長を頂く集団すなわち地縁的集団に効果を発揮する。互酬は対称的に配置された集団構成が背後にあり、対称的集団の対応点相互間の財・用益の占有移動を指す。再分配は何らの中心性が集団のなかに存在することに依存し、中央に向かい、そこから出る占有の移動を表す(注2)。互酬の例としてクラ交易があげられる。そこでは利潤の観念は排斥され値切り交渉は非難されて、気前の良い施しが称賛される。再分配の例としてはエジプト新王朝をはじめとする古代王国官僚制の集権的専制国家があげられている。様々な生産物は倉庫に集められ、非生産的臣民(官僚・軍隊・支配層)に現物で分配された。
 そのほかに歴史において大きな役割を果たす第三の原理として、家政がある。自ら使用するための生産のことである。家政は、互酬や再分配よりも古い制度ではない。より進んだ農業の段階で特徴的な経済行動である。アリストテレスは『政治学』で、家政と貨殖を区別した。家畜や穀物のような商品作物が自家消費され、余剰生産物が補助的に市場向けられる限り、家政の基礎は破壊されないと彼は論じた。ギリシャ経済が大規模商業と貸付資本に依存する時代に、市場の存在を無視する点では、アリストテレスは現実的ではなかった。けれども、制約も限界もない利得のための生産原理を、人間にとって本来的ではないと糾弾することによって、あらゆる社会的な諸関係と経済動機とは別であることを見抜いていた。
 おおまかには、西欧封建制の終了まで、あらゆる経済システムは互酬、再分配、家政の三原理、およびその組み合わせで組織されていたといってよい。これらの社会において、生産と分配の行動原理を統制する動機として、利得は突出したものではなかった。慣習と法、魔術と宗教が協働していたのである。
 市場の本質と起源に関する綿密な探求が必要である。なぜなら、資本主義経済は市場が支配的な役割を果たしているからである。そこでは、先の三行動原理とは別に、「取引あるいは交換原理」が、根本的な重要性を持つ原理として存在する。取引・交換は、その有効性が市場様式(パターン)の存在に依存する経済行動の一原理である。市場様式は、それ独自の動機である取引・交換動機とつながって、特殊な制度である市場の創出を可能とした。結局、それが、市場による経済制度の支配が全社会組織に圧倒的な結果をもたらした理由である。なぜなら、ひとたび経済が別個の制度として、特定の動機にもとづき特別な地位を与えられて組織されると、経済制度がそれ自身の法則に則って機能できるように、社会が形成されるに違いないからである。
 ポランニーは、「孤立している諸市場を一つの市場社会経済へと変える段階、すなわち、規制された諸市場を一つの自己調整的市場へと変える段階こそ、決定的なものである」(p.100)といっている。それは後に、無数にある市場が相互に結び付き、「大単一市場(One Big Market)を形成する」(p.125)あるいは「自己調整作用が相互に依存している競争的な諸市場によって守られている」(p.129)と表現した状況と同じ事であろう。
それは、私には、すべての市場が連結して、互いに影響を及ぼすこと、すなわち「一般均衡」の成立ではないかと思える。そこでさらに、思い出すのは、ポランニー自身書簡において、ウィーン時代のポランニーの知的・思想的源泉の一つとしてオーストリア学派経済学、特にシュンペーターの『理論経済学の本質と主要内容』をあげていることである(若森、2012,p.78)。『本質』は、経済学における一般均衡論宣言の書である。
 しかしながら、市場が巨大な自己調整的市場に展開するのを、市場拡張の自然的な帰結だと想像するのは余りにナィーブである。それは、機械の導入という人工的現象が創り出した状況に対応するため、同じく高度に人工的な刺激物が社会全体にもたらした結果であった。貨幣の出現が、市場を創造し分業を推し進め人間本来の取引・交換性向を開放することによって、社会を転換させるとするのは19世紀の神話である。古典派経済学の教義は、個人の取引性向から出発し、局地的市場の必然性と商業の必然性を演繹し、国内市場あるいは全国市場、ついには遠隔地交易を含む外国貿易への必然性を導出した。しかし、当代の経済史の知見に照らすと、順序は全く逆である。これら三タイプの交易は、経済的機能も起源も異なる。交易の起源は狩猟と同様の遠隔地からの財貨の獲得である。人間の共同体は古来、対外交易を行なってきたが、対外交易は必ずしも市場を伴うものではない。それは、元来取引というより、冒険や探検、狩猟、海賊行為,戦争の性格を持っていた。局地的市場は、主婦が生活必需品求め地元職人が製品を販売するような近隣市場であり、地域生活の添え物である。それは、支配的経済システムに変貌するものではなく、国内市場への出発点ではない。商業革命時代以前で全国取引と見えるのは、実は都市間取引であった。ハンザ同盟は、ドイツ経済を全国規模で統合したのではなく、むしろ取引から後背地農村を意図的に分離した。取引では、農村地方は存在しないに等しかった。
 遠隔地取引も局地的取引も、近代国内取引の母体ではなく、西ヨーロッパでの国内取引は国家介入によって創出された。都市文明は、中世的な局地的取引と遠隔地取引の独自の区別によって成立していた。資本主義的卸売業者は、農村を取引領域に取り込み、一国内の都市間で障壁のない取引を開始しようと試みた。これに対し、都市は全国市場の形成を妨害するあらゆる措置をとった。重商主義は保護主義的な都市や公国に圧迫を加えて、局地的取引と都市間取引に分離していた障壁を破壊し、都市と農村の区別をなくし、全国市場を形成したのである。政治的には、重商主義は細分化していた地域を中央集権的国家として統合した。
 重商主義は、その商業化傾向にかかわらず、二つの基本的生産要素すなわち労働と土地とが売買の対象となることを防圧してきた。重商主義は国家的政策として強固に商業化を主張したが、市場を市場経済とは正反対のものと考えていた。そのことは、広範囲な産業に対する国家介入によってよくわかる。封建勢力も、また市場経済の前提である労働と土地の商品化を嫌悪した。部族社会や封建制と同様、重商主義体制においても、経済秩序は社会秩序とは別ではなく、前者は後者の一機能にすぎなかった。しかるに、自己調整市場は社会を経済領域と政治領域に制度的に分離することを要求する。経済活動が社会から分離し、利得動機が経済動機となる19世紀社会は、歴史上並外れた新しい展開なのである。市場経済は市場社会のなかにおいてのみ存在できる。市場経済は、労働、土地、貨幣を含むすべての生産要素から構成される。しかし、労働と土地は、社会を構成する人間それ自身、および社会が存在する自然的環境に他ならない。マーケット・メカニズムにそれらを組み入れることは、社会の実態を市場法則に従属させることを意味する。
 労働、土地、貨幣は明らかに商品ではない。売買されるものは、何によらず販売のために生産されたものでなければならないという公理は、それらには全く当てはまらない。言い替えれば、商品の経験的定義によれば、これらは商品ではない。労働は生活を伴う人間活動の別称であり、土地は自然の別称にすぎない。そして、貨幣は購買力の象徴に過ぎず、銀行業務や国家財政の機構から生じたものである。生産物では全くない。「労働、土地、貨幣を商品とするのは、まったくの擬制(fictiton)(注3)なのである」(p.125)。市場メカニズムを、人間とその自然環境の運命に対する唯一の支配者となすことは、社会の破壊をもたらすであろう。労働力の商品化によって、労働力の所有者である人間はその文化的諸制度という保護膜を奪われて朽ち果てる。自然は汚染され、食料と原料を生産する能力は破壊される。市場が購買力を支配すれば、企業は周期的に整理されるだろう(この理由は後述:記者)。
 工場制を発展させ、工業を決定的に重要なものとしたのは、機械の登場そのものではなく、精巧で使用目的の明確な機械・装置の発明であった。工業生産には、長期的投資とそれに付随するリスクが伴うことになった。「商品のはけ口はめったになくならなかった、より大きな困難は、依然として原材料の供給にあった」(p.128)(資本主義の勃興期はケインズ時代と異なりサプライサイドが問題なのであろう:記者)。工業生産が複雑化するに応じて、確保しなければならない生産要素が増えていった。なかでも、労働、土地、貨幣の三生産要素は特に重要であった。商業社会において、それらの供給を組織する方法はただ一つ、購買よって調達可能なものとすることであった。すなわち、商品として組織されねばならない。 しかし、いかなる社会も人間と自然あるいはその企業組織が、市場システムという悪魔の碾き臼による破壊から保護されていなければ一瞬たりとも存在できない。自己破壊メカニズムを緩和させる防衛的な対抗運動がなければ、人間社会は破滅していただろう。かくして、19世紀社会の歴史は、市場組織の拡大と擬制商品に対してそれを制限しようとする「二重運動」の歴史であった。
 労働市場がない市場経済はありえない。英国では労働に先行して、土地と貨幣が流動化した。しかし、労働者は教区に拘束され移動に法的拘束があったため、全国的労働市場の形成は妨げられていた。労働市場の導入に伴う惨禍よりも、その貨幣収入がもたらす恩恵が一般人も明らかと思えるようになって、ようやく労働市場が組織された。しかしそれが現実になると、自由労働市場の経済的利益は、それがもたらす社会的破壊を相殺できなかった。労働を保護する新タイプの規制が導入されねばならなかった。その中で、スピーナムランド法は戦略的地位を占めていた。エリザベス救貧法では、貧困者はいかに低賃金でも、その賃金で労働を強制された。スピーナムランド法(1795)では、貧困者は、所得に関係なく教区により最低所得を保証された。一定額の家計所得に達しなければ、雇用されていても保証があった。そうなれば、雇用者は賃上げ意欲を失い、労働者は雇用者を満足させることに関心を失い、労働の生産性は低下した。同法は、退廃的な居心地の良い困窮を意味していた。何の労働もせずに生計を維持できるなら、だれも賃金のためには働きはしない。今や労働者は、社会に居場所を見つけられなくなった。結局、財政によって裏打ちされた「生存権」によって、救済されるはずの人々を破滅させた。地方の住民は貧民化した。
 選挙法改正で議会を握った商工業階級は、1834年の救貧法改正によって、イギリスに競争的労働市場、したがって産業資本主義を確立した。すると直ちに、社会の自己防衛、すなわち工場法等の社会立法および労働者階級の政治運動が現れた。我々の社会意識がスピーナムランド体制により形成されたことは、現代ではほとんど忘れ去られている。人々の知的関心が、あらたな痛みを伴って、自らの社会に向かったのは、スピーナムランド法廃止と救貧法修正以後の数十年間においてである。この生成しつつある現実を認識させる形式が経済学(political economy)であった。貧困、経済学、社会の発見は、互いにあざなえる縄のごときものであった。そして、人間の可能性は市場の法則ではなく、社会そのものの法則によって制限されているのを認識したのは、ロバート・オーエンであった。彼一人だけが、市場経済のヴェールの背後で出現しつつある現実の社会を識別した。

 本来、スピームナムランド体制は場当たり的措置に過ぎなかったが、文明全体の運命を大きく決定づけた制度である。この体制は、今日の社会問題の研究者とって注目すべきものであるから、この体制成立の前後の状況を考える。イギリス重商主義体制では、労働組織は救貧法と職人条例に基礎をおいていた。職人条例(1563制定)は、労働強制、徒弟期間および官吏による賃金査定が三つの柱である。条例は、職人のみならず農業労働者にも適用され、都市にも農業地域にも強制された。2世紀半にわたって職人条例は、規制と温情主義による国家的労働組織の大綱となっていた。救貧法についていえば、キリスト教社会では、老齢者、病身者、孤児は社会で世話しなければならなかった。その他にも、労働能力を持つ貧困者もいた。彼らは、生活できるように教区から仕事を与えられるべきだとされた(1601年救貧法)。救済のための税負担は、教区の家屋所有者や借地農に課せられた。英国に1万6千余ある教区単位の救貧法当局は、郷村の社会的構造を何とか破壊させず無傷のまま維持してきた。しかし、失業や貧民の救済が地方的組織で担われてきたことは、地域格差が大きいほど、管理良好な教区へ貧民がなだれ込む危険性が大きい。そこで、移住を制限する定住法が成立した。国民は、法の前には平等で人格は自由であった。しかし、職業と居住地の選択の自由はなく、労働を強制された。
 産業革命の途上で、産業界からの要請によって定住法の一部が撤廃(1795)され、労働の移動の自由が復活し、全国的な労働市場を確立できる状況となった。まさにその年にスピームナムランド法が成立し、「生存権」を保証した。エリザベス朝の労働強制原理とは全く逆の意義を持つ救貧法行政方式の導入である。受給者は救貧院に収容されることなく、院外救済されることになる。スピームナムランド法と定住法廃止という二つの経済政策には著しい矛盾があった。農村での貧民の不吉な増加は産業革命の最初の兆候であった。当時は、都市の工場と地方貧困者の大幅増に関係があるとは思われなかった。人口の累積的動揺は、別々の集団が様々な時期に商工業の雇用地域に引き出され、そして出身居住地に舞い戻るプロセスであった。分業によって労働者(職工)は簡単に転職ができず、失業すれば自分の郷村に帰ることになる。貧困の原因の大部分は、救貧法が適切に運用できなかったことに求められた。そうして、救貧法行政の観点からは、後退的なスピームナムランド法が施行された。
 雇用者は低賃金により利益を得ていたが、救貧税の負担はしなかった。長期的にも不経済な制度は、労働生産性を低下させ賃金を低下させた。だが、スピームナムランド体制に対する批判が激しさを増したのは、大衆の人間性喪失が、国民生活を麻痺させ、産業活力を奪い始めたことにある。イギリス農村の開化には、その後に成長した大陸工業都市に存在する環境が欠けていた。粗野な労働者を都市に同化させる媒介者に当たる熟練工、小市民層等の安定した中産階級が存在しなかった。自らの労働によって生計を立てられぬものは、労働者ではなく貧民である。スピームナムランド法は、労働者を人為的に堕落させる手段であった。労働を忌避したり、労働不適格者と偽装することを奨励しただけでなく、生活困窮からの脱出努力の目前で貧困の誘惑を増大させた。俗流経済解説者のハリエット・マーティノーは、社会の将来は労働者と貧民を区別するかどうかにかかっている主張した。スピームナムランド体制ではこの区分はなくなっていた。彼女は、自由競争的労働市場とそれから生じる産業プロレタリアートの出現を待望していた。
 労働者が肉体的に人間性を喪失していたのなら、有産階級は精神的に堕落していた。持てる者の、持たざる者に対する責任が否定され、二つの国民が生じつつあった。学者は、人間世界を支配する法則示す科学が発見されたと宣言する。この法則の命ずるところにより、共感の心が失われ、人間の連帯を放棄する禁欲的な決意が世俗的信仰となって威信を得た。

 スピームナムランドの時代まで、貧困者はいかに発生するかについては満足する答えは見出されなかった。けれども、18世紀には貧民と経済進歩は関係することは認められていた。貧困者が多くいるのは、後進国ではなく最も肥沃な文明化した国家である。18世紀中葉、イギリスは繁栄の時代に入ろうとしていた。イギリスに貧困者が最初に出現したのは16世紀前半であった。17世紀になると問題は落ち着いて来たが、貧困対する見解は多様になり混乱した。
 貧困を解決するためにクエーカー教徒のジョン・ベラーズは、教徒の貧者に集団的自助原理を用いた「産業協会」を構想した(1696年)。労働者が直接生産物を交換すれば、労働者は雇用者を必要としないと考える。あらゆる社会主義思想の核心にある考え方である。ベンサムは社会制度改革の思想家でもあった。彼は有名な「パノプティコン計画」(監視の容易な円形監獄建設:1794年)の一環として、囚人だけではなく貧困者を使った「産業所」計画を立案した。国営慈善株式会社によって50万人を雇用しようとした。ロバート・オーウェンは、1819年ニュー・ラナークに大規模な「協同組合村」を建設した。そして、労働紙幣による「全国労働交換所」を構想し、「全国労働組合大連合」を組織した。これら三人は、失業労働者を適正に組織すれば、余剰を生み出せると確信していた。
 三人は似通った幻想を抱いたが、現実は彼らの時代を通じ貧困者数は絶え間なく増加した。ベラーズからオーウェンに至る120年間に、人口も3倍になったが救貧税は12倍となった。貧民を使っての金儲けが成功できない事の答は、すでにデフォーのパンフレット『施しは慈善にあらず、および貧民の雇用は国家の厄災である』(Giving Alms no Charity and employing the Poor a Grievance to the Nation 1704)によって用意されていた。貧困者が救済されるならば、賃金のためには働こうとはしない。貧困者が公的施設で財を生産すれば、民間製造業でさらに失業者が生まれるだけであると主張したのだ。
 スミスの『国富論』(1776)では、未だ貧民救済は問題ではなかった。僅か10年後のタウンゼント『救貧法論』では、貧困は広範な問題として提起され、次の150年にわたって人々の心を占めて止むことがなかった。時代の雰囲気の変化は顕著で、分水嶺は1780年頃である。スミスでは、自然(土壌、気候、面積)は与件とされる。毎年の供給量の多寡は、労働の熟練度と社会の生産的人口の割合という二つの条件に依存する。つまり、自然的要因ではなく、人間的要因のみが考慮される。経済学は人間科学であるべきであり、自然ではなく人間本来なものを扱うべきであるとした。タウンゼントは、無人島に放たれた山羊と犬の個体数の均衡の例をあげ、人類の数を調整するのは、食料の多寡であるとした。貧困者を労働に駆り立てるのは飢餓の他はない。ダーウィンの自然淘汰説も、マルサスの人口法則もタウンゼントに由来する。人間社会に動物的側面からアプローチすることにより、人間の事象に新しい法則の概念、自然法則の概念を導入した。こうして、まもなく経済学者は、アダム・スミスの人間的基礎を放棄し、タウンゼントのものを取り入れることになった。マルサス人口法則とリカード収穫逓減法則では、人間と土地の生産力が、新部門を構成する要素である。貧民問題が明らかに解決できないと思われたために、マルサスとリカードは、タウンゼントの自然主義への堕落を是認せざるをえなかった。
 バークは、経済的自由主義者であり、市場に貧困者の面倒を見させれば、事態はおのずから調整されると考えた。ベンサムにとっては、自由放任は社会機構におけるもう一つの装置の意味でしかない。産業革命の知的推進力は、技術的発明にではなく社会的発明にあった。産業革命の推進力となったのは文盲近い無教育な職人の発明であった。土木建築や生産技術において自然科学が工学に決定的貢献をしたのは、産業革命が終了後のことである。一方、経済学の発見は驚異的な啓示であり、社会の転換と市場システムの確立を促進した。
 機械の出現以降、労働者は生存水準以上の賃金を得ることができなかった。今や、市場経済社会が最終的に形成されつつあり、貧困労働者の状況は改善されることはないだろう。スピームナムランド体制こそ低賃金の真の理由であったのだが、現実には低賃金は賃金鉄則が貫徹している証拠とみなされた。古典派経済学者が自然主義にその基礎を求めたのは、他には説明が出来なかったからである。実際には労働市場が存在しない資本主義を競争的市場主義経済として登場させたスピームナムランド体制時代に、経済理論の基礎が築かれた。相反する二つのシステムが社会に同時に作用した結果を、一元的に説明することは不可能である。形成されつつある市場経済システムおよび温情主義的労働規制システムという二制度から生じた諸事実を、である。
 リカードもマルサスも、資本主義システムの本質を理解していなかったのである。そのため、非現実的で難解な理論となった。したがって、その創始者スミスが生産と分配の法則を人間の行動から演繹すべきと主張したにかかわらず、科学的体系に動植物繁殖の「機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ:ギリシャ非劇で複雑な状況が機械仕掛けで舞台に降臨したデウスにより大団円となること)」が持ち込まれることになった。自然主義的科学によって、社会を人間社会に再統合することが社会思想の追及目標となった。マルクスの経済学も、結局は失敗に終わったその試みであり、理由はあまりにリカードと自由主義的経済学の伝統に執着しすぎたからである。
 タウンゼント、マルサス、リカード、ベンサムそしてバークと超改革論者から超伝統主義者まで、経済学の評価とスピームナムランド体制への反対では一致していた。ただ一人の人物だけが、人類に与えられた試練の意味に気づいた、それはロバート・オーウェンである。彼は、社会と国家の分離について深く理解していた。社会に対する害悪を防ぐために有益な介入はするが、社会を組織することはない機関として国家を構想したのである。機械に対しても敵意を抱かず中立的な性格を認めた。オーウェンは、社会の存在を発見し、キリスト教を超克しようとした。社会は実在し、人間は究極的にそれを甘受せねばならない。新たな努力をもってしても、原因を除去できない悪が存在すれば、それは必然であり避けることができない。自由に限界はあるが、人間が正義の理想に従い社会を転換させて初めてそれは明確になると考えた。彼はまた、人々の所得ではなく堕落と悲惨を強調して、経済問題が実は社会問題であることを看破した。貧困は産業革命のもたらした経済的側面にすぎない。工業が自然的発展に委ねられた場合の重大な害悪を指摘し、社会的監督による抑制の必要を唱えた。けれども、彼の要求した社会の自己防衛が市場システムの機能と矛盾することは予見できなかった。
 市場システムは、地球全体に広がり、すべての人々のみならず、法人をも内部に包み込み、第一次世界大戦頃には活動が頂点に達した。その動きと同時に対抗運動も開始された。それは、社会構造を破壊しようとする混乱に対する反作用であり、まさに市場が作った生産組織をも破壊しかねないものであった。市場システムの仕組みでは、労働の名のもとに人間が、土地の名のもとに自然が販売のために調達された。労働力の使用は、賃金で普遍的に売買可能となり、土地使用も地代で譲渡可能となった。労働と土地は販売のために生産されたとの擬制が一貫して維持された。自己調整的市場に対する対抗運動は、生産要素たる労働と土地について市場行為を抑制することを主張した。
 生産組織もまた、同様に脅威を受けた。市場システムの下では、価格水準が低下すれば、企業は(すべての要素費用が比例的に低下しない限り)毀損され、倒産に追い込まれる。そして、価格低下は通貨体制の行動様式によっても起こりえる。古典派経済学の(貨幣商品説)によれば、貨幣は商品であるから、その価値は需給で決定される商品価値である。金が貨幣として使用されている場合、銀行や政府による貨幣の創出は、金の自己調整市場に対する妨害を意味する。それゆえ、工業等の生産企業を、貨幣に適用された商品擬制による害悪から保護するために、中央銀行制度や通貨制度の管理が必要とされた。
 さて、二重運動は、商業階級に支持された経済的自由主義原理、および労働階級と地主階級に支持された社会防衛原理によるものであった。商業階級は議会の支配力を持ち、政治力を自覚するようになった。一方、中産階級は勃興する市場経済の担い手であった。19世紀末に普通選挙権が普及すると労働者階級が力を持つようになった。市場システムに内在する原因により、市場が機能不全に陥り階級間対立が深まると、政治的機能と経済的機能が党派的闘争の武器として行使された。ここにファシズムの生み出される土壌があった。
 経済的自由主義は、1820年代に成立した。それは、自由競争的労働市場、金本位制、および自由貿易を信条とするものである。しかしながら、自由放任は少しも自然ではなかった。自由市場は、成り行きに任せていたら存在しなかった。代表的自由貿易産業である綿工業が政府の保護主義によって創出されたように、自由貿易自体も国家によって実施されたものである。自由放任は達成手段ではなく、達成目標であった。逆説的なことに、自由市場の導入は、統制・規制・干渉を除去するにはほど遠く、その範囲を驚くほど拡大させた。そして、自由放任経済は国家行動の意図的な産物であるのに、それに継起した自由放任に対する統制は自生的に始まった。1860年以降の半世紀にわたる自己調整市場への対抗運動の立法面での先鋒は、自然発生的で純粋な実践的精神の発動であった。
 ポランニーによると、自由経済市場は、自己調整的であっても自生的秩序(spontaneous order)ではないということであろう。「自生的秩序」は自由主義者のハイエクによって、知られるようになったが、もともとはカール・ポランニーの弟であるマイケルの造語である。デイル(2020,p.231)の表現を借りれば、ハイエクにとって、マクロ経済管理と福祉国家は、タクシス(構築された組織形態)がコスモス(自生的秩序)の領域に不法侵入することを意味する。ポランニーにとって人為的市場機構に対する対抗運動は自生的に発生する。
 経済的自由主義者は、上記見解に強く意義を申し立てるに違いない。彼らの社会哲学では、自由放任が自然な発展であり、反・自由放任的立法が自由の原理に敵対する意図的な行為であると考えている。すべての保護主義は不寛容、貪欲、近視眼的思考による錯誤であって、それらがなければ市場は自ら困難を解決したであろうと考える。1920年代は、経済的自由主義の威信が絶頂に達したように見えた。金本位制への復帰は経済分野の至高の目標となり、あらゆる組織的な努力が払われた。対外債務の返済と安定通貨への回帰は、政治における合理性を示す試金石となった。健全な予算と通貨は経済的自由主義の前提であり、その実現のためには代価をいとわない。あらゆる個人的厄災や主権の制限も、通貨の健全性のためには犠牲とすべきとされた。
 30年代には米英が金本位制を離脱した。40年代は均衡予算と安定通貨にとらわれて再軍備が遅れ戦時経済に対応できなかった。これらのことによって、経済的自由主義者は敗北を喫したのである。経済自由主義原理の擁護者は、あらゆる困難の理由を、逆に原理を十分に適用しなかったせいであるとした。反自由主義者の陰謀という神話が造り出された。そのもっとも粗野な形は、干渉の源泉であるとされる政治的民主主義に対する攻撃となった。「集産主義的」な対抗運動の多様さは、社会主義やナショナリズムへの傾倒によるものではなく、市場メカニズムの拡大によって被害を受けた社会階層が広範なことを表している。
 自由放任は、理論的には、労働者が望めば自己の労働提供を止める権利を意味する。また、企業者が販売価格について協調する自由を意味した。しかし実際には、自己調整市場の要求が、自由放任の要求と衝突する場合には、常に前者の要求が優先された。二つの要求が衝突した場合、経済自由主義者は、反自由主義者と同じく、自由放任よりも規制という集産主義的方法を選んだ。このことこそ、近代産業社会の条件下では、反自由主義的方法すなわち「集産主義」的方法が、不可避であることを何よりも示している。
 自由主義者は、集産主義者による陰謀なる神話を作り出した。保護主義は農業関係者、工場主、労働組合による自己利益擁護のための運動で、その結果、市場機構を破壊したとするのである。俗流マルクス主義も粗雑な階級理論により、保護主義運動を党派的利益から説明した。実際には、階級利益をもってしては、社会の長期的動向について限られた説明しかできない。階級利益は本質的に経済的性格であるとする、同様に誤った学説がある。たしかに人間社会は経済的要因に制約されている。しかし、個人の行動動機がもっぱら物質的欲求充足の必要性によって決定されることはほとんどない。先入観なしに考えれば、かような動機が有効に作用するのは稀だろう。ある階級の利益は、地位と階級、声望と生活安定に直接関わっている。それは、本来経済的ではなく社会的なものである。
 保護主義運動は広範で包括的である。市場によって、階層横断的に住民の経済的ならぬ社会的利益が脅かされたことから、様々な経済階層がその危険に立ち向う勢力に加わった。商業社会において市場システムの構成原理のために戦うのが資本家の定めであるなら、社会的な絆を守るために頑張りぬく役割は、一方では封建的貴族に、他方では勃興する工業プロレタリアートが担った。市場崩壊のような危急の時に、農業勢力と都市労働者階級勢力が求める救済の方向は全く違った。地主階級は軍事的・封建的な家父長体制の復帰を試みるかもしれぬ。工場労働者は労働者の協同組合的共和国を樹立する必要を認める。歴史のドラマにおいてある階級の役回りを決定するのは、その階級が自己の利害を超えてどれだけ広く社会全体の利益を実現できるかにかかっている。保護主義運動を階級利得によるものではなく、市場によって窮地に立たされた広範な社会勢力によるものと説明したい。
 実際のところ、社会的な厄災は、所得の数字や人口統計によって測定できるような経済現象ではなく、なによりも文化的現象である。産業革命は、小半世紀にイギリス農村部の居住者大衆を、安定した定住者から絶え間ない漂白者に変えた。産業革命のごとき経済的激変、破壊的地滑り現象は、歴史においては稀有かもしれないが、諸人種間の文化的遭遇の局面ではありふれた出来事である。どちらの場合も、それは相対的弱者に破壊的な影響を与えるだろう。しかし、彼らの破滅の直接的原因は経済的理由ではない。それは、彼らが社会的存在として組み入れられている制度の崩壊にある。その結果は、自尊心と規範の喪失である。
 一世紀前に初期資本主義の悲惨な状況を生みだしたのと同じ力が、今や文化的遭遇による強制力として植民地世界を根源的に変化させつつある。インドの有名な事例を引く。19世紀後半にインド大衆が餓死したのは、ランカシャーの綿工業に搾取のゆえではなく、村落共同体が破壊されたためである。インド人は、東インド会社の独占体制下では、穀物の無料配給を含む古代的農村組織への援助により、良好に保護されていた。自由で等価な交換の体制となると、百万人単位で死人が出た。経済的、長期的には利益を得たともいえるが、社会的にはインドは解体され、悲惨な犠牲となった。
 未開社会を市場社会に比べて人間的でかつ非経済的にしていたのは、ある個人だけが飢餓に襲われる脅威がないことである。皮肉にも、白人の黒人世界に対する最初の貢献は、飢えという鞭を持ち込んだことである。今も、遠隔地で白人によって行われている労働力を引き出すための社会構造の破壊が、同目的のために18世紀には白人によって白人大衆に対して行われた。産業革命から民衆の生活を保護する任務は地主階級が先駆けて担い、結果的には一世紀にも及ぶ負け戦となった。しかし、彼らの抵抗は無駄ではなかった。数世代にわたって民衆の破滅を防ぎ、完全な建て直しのための時間を稼いでくれたからである。イギリスの保守的地主は、産業社会に対して根本的に新しい生活技術を樹立することを迫った。10時間労働法に代表されるトーリー社会主義運動である。労働者階級の社会防衛運動は、オーウェニズムとチャーチストの運動である。二つの異なった運動は、失敗の大きさだけは似ていたが、それはなによりも人間を市場から守る必要があったことを証明している。
 オーウェニズム運動は、本質的に資本主義を超克することを目指していた。すなわち、機械が導入されても、人間は自らの主人であり続けなければならない。そして、協働すなわち組合の原理が、機械問題を解決する。個人の自由や社会の団結、あるいは人間の尊厳、仲間への共感が犠牲になってはならない。オーウェニズムの強さは、現実的な着想と全人的な人間理解の方法にあった。また、その特徴は、社会を政治領域と経済領域に分けることを認めないで、社会的観点を主張した所にあった。ニュー・ラナークでは、人間的な住民とあいまった盛大な工場操業という不可能に思える偉業が達成されていて、約束された未来の場所のように思えた。しかし、オーウェンの企業では近隣都市よりもかなり低い賃金しか支払われていなかった。利潤は主として、短時間労働の高い生産性から生じたものであった。それは優れた組織と休養充分な労働によるものであり、労働者にとって実質賃金の上昇に勝る利点であった。これだけでも、オーウェンに従っていた労働者の心情を説明できる。こうした経験から、オーウェンは、産業問題に対する社会的、すなわち経済を超えた幅広い取組みを引き出した。
 チャーチスト運動は、国政上の道筋によって政府に影響を与えようとする純粋に政治的な活動であった。それは普通選挙権を要求するものであったが、その結果は民主主義がイギリス中産階級にとって無縁であったことを示している。普選が与えられたのは運動がとうに衰退し、労働者がその理想実現のために選挙権を行使することがないと確信できるようになってからである。イギリスでは労働者の社会的・政治的地位が低落したのに対し、大陸ではそれは上昇した。大陸労働者の地位は、農奴から工場労働者へと「上昇し」、直ちに選挙権を持った組合加入の労働者となった。こうして、イギリスにおいて生じた産業革命による文化的瓦解を免れたのである。社会保障はイギリスに比べてずっと早く実現された。大陸では、労働者階級の政党が労働組合を、イギリスでは労働組合が政党を創り出した。
 あらゆる社会防衛の目標は、市場の仕組みを破壊し、それが存在できなくすることにある。社会保険、工場法、失業保険等は、労働の柔軟性や流動性を妨害するものではないと主張することは、これら諸制度が初期の目的を果たさなかったと述べるに等しい。
 土地という自然の一要素は人間の諸制度(部族、村落、ギルド、教会等)に分かちがたく織り込まれている。それを取り出して、その市場を作るということは、我々の祖先がなした最も異様な所業である。自己調整市場の結合体である大単一市場(One Big Market)は、生産要素市場を内に含む。人間制度の構成分子である人間・自然と、生産要素としてのこれらは区別できないから、市場経済は、社会の制度が市場メカニズムの要求に従属する社会を意味することなる。土地の市場化という挑戦は、資本主義の純粋商業的形態とは異なる発展である。英国では、囲い込み等チューダー朝の農業的資本主義に始まる。18世紀以来、労働者住宅地や工場地を求める英仏の工業的資本主義があった。なかんずく最も強力であったのは無限の食料と原料の供給を求めた19世紀の工業都市の勃興であった。土地の商品化とは、封建制の解体の別称である。14世紀にはじまり、500年後に欧州の革命過程で終焉した。
 商業階級は土地の流動化要求を後援した。労働者階級は自由貿易で穀物が廉価になると解ると、自由貿易主義者にして反農業主義となった。土地流動化を防止する保護機能を果たしたのは地主階級であった。市場経済がもたらした輝かしい工業的発展は、社会実態に与えた多大な損傷という代償によってあがなわれた。農村を支配した地主は伝統的農村構造の解体を緩和して、産業革命の厄災からイギリス全体を救った。支配階級となった中産階級は法と秩序の維持の確保には適していない。自由主義に染まらぬ小農が身を挺してその役割を果たした。第一次大戦後の激しい農村運動は、彼らが労働者階級を排除できる唯一の階級であることを示している。しかし、国家権力が強化され、あるいは下層中産階級がファシストによって組織されると、ブルジョアは彼らに依存する必要がなくその地位は低下した。
 自由貿易は1840年代の穀物法をめぐる保護主義との戦いには勝利したが、1920年代の再度の戦いでは敗れた。市場経済には最初から自給自足の問題をはらんでいた。第一世界大戦は、欧州諸国に経済的相互依存の危険性を認識させた。どの国民も、食料や原料を自前で調達、あるいは軍事的手段によって確保することが出来なければ、健全通貨や堅固な信用をもってしても、絶望的な状態に陥る危険に恐怖した。労働者の階級、組合、政党も、緊急事態となれば契約の自由と財産権の絶対不可侵を謳う市場のルールを無視する可能性があった。共産主義革命という幻想的危険ではなく、労働者階級の破滅的干渉が強行可能な状況が恐怖の源泉となり、ファシスト・パニックが噴出することになった。
 労働者階級と小農の市場経済に対する反作用はともに保護主義を導いた。前者は、主として(人間に対する)社会立法と工場法、後者は(自然に対する)農業関税と土地立法の形態をとる。しかし、緊急事態に際しては農場主と小農は市場経済を擁護したが、労働者階級はそれを危機に陥れるやり方をした。土地に結び付いた社会階層は市場と妥協する傾きがあったが、労働者階級は市場ルールを破るのに躊躇せず公然とそれに挑戦したのである。
 貨幣供給も市場システムの下で組織されたゆえに、保護が必要となった。近代的中央銀行制度はこの目的ための仕組みとして発展した。市場が、その子供である企業を破壊するのを防いだのである。販売価格が低落するなら、契約で決定された賃金等の費用価格は短期的には下がらないため、利潤に影響する。利潤が価格に依存すれば、その価格が依存する通貨制度は、利潤動機に基づくあらゆる制度の機能にきわめて重要な意義を持つ。もし物価水準が貨幣的要因で一定期間低落し続けるなら、生産組織の混乱と資本の毀損によって企業は破産危機に瀕する。
 ところで、生産と取引が拡大したときに、貨幣量が比例的に増加しなければ価格水準は低下する。破壊的デフレーションの典型である。安定的な外国為替の必要から金本位制(国際商品貨幣システム)が導入された時、真の困難が始まった。金属貨幣は国内的には適切ではない、金属は随意にその量を増やせないからである。紙券貨幣が存在しなければ、国内生産を拡大できないか低価格で生産せざるを得ない。不況である。ここには、外国貿易に必要な商品貨幣と国内取引に必須な紙券貨幣の共存の問題がある。中央銀行制度はこの信用システム問題を大きく改善した。一国の信用供給の集中化によりデフレの組織化し、その影響を緩和させた。中央銀行制度は金本位制の(各国民経済間の)自動調整作用を名目だけのものにした。金融操作が、信用供与の自己調整メカニズムにとってかわった。
 中央銀行にとっての至上命令は、何時、如何なる状況下でも金本位制を維持することであり、何ら原理的問題はないと思われた。しかし、それは価格変動が少ないときだけである。為替相場の安定を保つために、国内物価水準が大きく変動するときは、状況は全く変わった。このような物価水準の下方運動は、窮乏と破壊を拡げる。それは中央銀行の措置を政治が決定する事項になったことを意味する。国内的には通貨政策は干渉主義の一形態にすぎない。階級間の衝突は、金本位制と均衡予算に密接に関連した通貨政策上の問題としてしばしば顕在化し、1930年代には反民主主義勢力の台頭に至った。
 世界は依然として国際主義と相互依存を信じ続けていたが、自国主義と自給自足の衝動で行動するようになった。対外的には保護主義と帝国主義、国内的には独占的保守主義傾向が顕著となった。国家の紙券通貨は国際金本位制から国民を保護する安全装置であった。それは、中央銀行が国内経済と国際経済との間の緩衝器の役割を演じたからである。1931年イギリスの金本位制離脱に始まる出来事に匹敵するようなことは、他の市場には起こらなかった。金本位制の破綻は、市場経済の最終的な破綻であった。カリスマ的指導力と自給自足的孤立主義に立つ意想外の勢力が突然出現し、社会の新形態を生み出したことは、同時代人の大方を仰天させた。
 自己調整システムの不全は、保護主義がもたらした結果である。自己調整市場システムは、労働、土地、貨幣という生産要素市場での作用によって、社会を破壊する脅威を与えた。社会の自己保存行動は、それら作用の確立を妨げ、あるいは確立した際の勝手な働きを抑制することであった。経済的自由主義者は、市場経済機能が有効な決定的証拠としてアメリカを上げてきた。それは、ただ労働、土地、貨幣の供給が無制限であったことを意味するに過ぎない。その意味では、自己調整的市場システムではなかった。供給に制約が生じると、アメリカでも社会防衛が開始された。
 国家は国家的通貨で表現されていた。国際金本位制は、国家の刻印が押された通貨で構成されていた。通貨システムは、国民経済および国際経済の生命線となっていた。国家の一体性は政治的には政府によって樹立されたが、経済的には中央銀行によって与えられていた。通貨システムは、国際的にはさらに重要であった。貿易に対する規制が厳しくなるほど、自由な支払は確保されねばならなかった。人間や財と異なり、通貨はあらゆる軛から自由で、何時いかなる所でも取引出来る。現物移転が困難になるほど、それらの請求権の移転は容易になった。1930年代には世界貿易が大きく落ち込んだが、それを補うように国際短期貸付は大きく増大した。国際資本移動と短期信用の機構が機能する限り、実物貿易の巨大な不均衡も会計上は克服できた。市場の自己調整手段が損なわれた場合、最後の手段が政治的介入であった。国際的な場面でも、市場調整の機能補完として政治的手段が使われた。武力の脅威による返済の要求、艦隊による貿易ルートの維持という事態が増加する。世界経済の均衡維持にはますます政治的手段が必用なことが明白となった。
  国際貿易の増大と周期的変動、および土地の全面的流動化という変化が、突然にしかも全欧州先進国に同時に起こった。わずか数年のうちに自由貿易は過去のものとなり、保護主義的な諸制度の下で市場経済が一層膨張する。農業恐慌と大不況(1873-1886)は、経済の自己治癒力に対する信頼を損ない、以後、市場経済的諸制度は、保護主義的措置なしには導入できなかった。1870年代末に、各国は貿易や為替の急変への対応を迫られ、社会立法や関税のような保護主義的措置の導入を必要とした。市場経済の至高の担い手、金本位制も同時に導入された。このような制度的変化は突如として作動し始めた。決定的段階はイギリスにおける労働市場の確立とともに到来した。労働市場では、賃労働の法則に従わなければ、人は飢餓にさらされる。このメカニズムの社会への衝撃はすさまじく、ほとんど即座に強力な保護的反作用が作動した。種々の生産市場も同様の展開を見せる。人間、自然、生産組織の防衛は、労働、土地、貨幣の諸市場への干渉となり、その干渉行為自体によってシステムの自己調整力を傷つけた。
 近代資本主義は、先入観とは反対に、小国主義とともに始まった。植民地は金のかかる贅沢であった。自由貿易論者も保護主義者も、あるいは自由党員も熱烈な保守党員も、植民地はやがて政治的・財政的負担となる定めの浪費的資産であるとの信念を共有していた。つまり、政府は冷淡であり、政治と経済を分離することが国際問題の領域に広がっていった。今や、世界貿易は、地球上の人間生活を、労働、土地、貨幣をも含む自己調整市場のもとに組織し、金本位制をその守護神とする状況となっていた。諸国家は自力では如何ともできず、中央銀行と関税によって、失業や経済変動に対処する他はなかった。次第に頼むに足らない世界経済への依存を自覚して、強大国は帝国主義と半意識的に自給自足体制への準備を取る傾向があった。経済的帝国主義とは、政治的に保護されていない市場に自国貿易を拡大する列強国間の競争である。貿易と国旗は、相携えて後進国へ殺到した。それでも、国際金本位制基準の確固たる維持は厳然としていた。このことが崩壊の制度的な一因であった。
 各国内でも、同様の矛盾が生じていた。保護主義は、競争的市場から独占的市場への転換を促進した。ますます、市場は競合する原子間の自律的、自動的機構とは異なるものとなった。ますます、個人は組織に代替され、人と資本は非競争集団に統合されていった。経済的調整は緩慢で困難になり、市場の自己調整力は大きく傷ついた。調整不足から不況は長期化し、社会的緊張が発生した。緊張は経済領域を超えて広がり、政治的手段によって均衡回復が要請された。にもかかわらず、政治を経済領域から制度的に分離することは市場社会に本質的なものであったため、これも崩壊をもたらす一因となった。それでも、世界経済が機能する限り、国内の緊張は潜在的なものに留まっていた。金本位制、すなわち世界経済が崩壊したとき、市場文明そのものも崩壊した。市場文明の没落に決定的であったのは、様々な国での階級勢力間の衝突であった。

 スピームナムランド法の全国的拡大によって労働者は誠実な仕事をしなくなり、独立した労働者という概念は現実に適しないものとなった。労働市場の時代はやって来たが、その出現は大地主の「掟」で妨げられていた。以前の貧困者は、労役所に入る不自由な貧民(pauper)と賃労働で生活する自立労働者に二分されていた。新救貧法は、貧困者(the poor:実直な、あるいは働く貧困者)なる一般的範疇をなくした。法は、貧困者の全く新しい範疇、失業者の概念を作り出した。貧民は慈愛のために救済されるべきであったが、失業者は産業のために救済すべきではない。重要な点は、失業者は飢餓の危険か、さもなくば恐怖の労役所か、の状況でなければ、賃金制度は崩壊し社会は悲惨と混乱に陥るということである。
 立憲政治は王権の専横行為を念頭に置いたものであったが、今や産業上の財産が大衆に対して保護されるべきものとなった。権力の分立は経済生活を支配する権力から大衆を分離するために使われた。アメリカ憲法は経済領域を憲法の支配から切断し、私有財産を最大に保護することで、法的に市場社会を創出した。労働者階級は財産所有者に対し無力であった。
 社会防衛と通貨への干渉とはしばしば同一の問題を意味した。金本位制の下では、通貨安定を求める人は、低金利と財政赤字に反対した。現実面では、社会負担と高賃金および労働組合、労働者政党を非難した。ヨーロッパ主要諸国では、いずれも、結果的に通貨救済のために労働者政党が政権を放棄することになった。一旦、労働者政党が無害化されると、中産階級諸政党は金本位制の防衛をあっさりと放棄してしまった。これらは、大衆政治において健全通貨の公準がいかに破壊的な影響を与えたかを示している。
 アメリカでも、ニュー・デールの開始は金本位制の離脱なしには開始できなかった。社会防衛が破綻しなかったのは、適時に離脱したためである。ウォール街から政治力を剥奪したことがその成果であった。しかし、金本位制が国内政治の問題に留まったのはアメリカだけであった。世界貿易から相対的に独立し、強力な通貨的地位を有していたからである。他国では金本位制からの離脱は、世界経済からの脱落を意味した。
 干渉主義と通貨問題、すなわち市場社会の根本問題が、20年代に再び姿を現した。経済的自由主義と社会主義はこの問題に対して異なる回答を与えた。経済自由主義者は自由市場と金本位制の擁護者である。彼らにとっては、通貨への信頼回復が市場機能の前提であるから、為替相場の安定を最優先した。その上、国際通貨制度には差し迫った状況があった。債務は賠償など政治的に生み出され、借款も賠償支払を可能とするために政治的に供与された。健全国家が混乱した国家を助けるべく、国際信用メカニズムの力を用いて世界経済の人為的均衡が保たれていた。自由経済主義者は所得と雇用を重視したインフレ政府に反対し、通貨安定を重視するデフレ政策を求めた。自由経済主義者の「自由」とは言葉とは裏腹に政府による価格と賃金の統制を意味した。干渉主義とインフレにはいずれも反対であるが、二者択一となると健全通貨理念を反干渉主義の上位に置いた。干渉主義への拘泥は、民主政府の弱体化を決定的にした。そうでなければファシストによる破局を避けられたかもしれない。
 社会主義とは、自己調整市場を民主主義社会に従属させることによって、自己調整市場を超克しようとする思想である。また社会全体の観点からは、社会主義とは、個人のすぐれた人間関係によって社会を組織しようとする、キリスト教に結び付いた西欧の伝統的努力の継続にすぎない(注4)。ソビエト・ロシアの存在は社会主義に影響を与えた。ロシアは、発展した工業、識字民衆、および民主主義的伝統をもたぬままに社会主義に転じた。それらは西欧では社会主義の前提条件とされていた。社会主義政党は全体として資本主義の改革を志向しても、その革命的転覆を目論んだものではない。しかし、危機の緊張した時代では、そのような兆候だけでも、市場を混乱させ、世界恐慌を起こすに充分であった。
 1920年代、労働者は議会で多数を擁し資本家に対抗すべく産業に干渉しようとした。資本家は産業を要塞化して国家に君臨し、民主主義組織を破壊しようとした。経済システムと政治システムの双方が完全な麻痺する刻が来る。恐怖が民衆を捉え、主導権は、究極の対価を問わずに、誰であれ安易な出口を示す者に押しつけられる。ファシスト的解決の機が熟した。
 ファシズムは、社会主義と同じように、機能不全に陥った市場経済にその淵源があった。自由主義的資本主義の行き詰まりに対するファシストの解決策は、生産と政治の両領域におけるすべての民主主義的制度の破壊と引き換えに市場経済を改革することである(社会主義と教会への攻撃が含まれる)。20年代の欧州では、ファシズムは未だ微弱なため、一時的傾向である反革命と民族主義的(ヴェルサイユ体制)修正論によって隠蔽され、それらと混同された。実際のファシズムの動向は市場システムの条件によって決定された。それまでは、イタリアの一権威主義的体制にすぎなかった。29年以降ファシズムの真の意味が明らかとなった。産業社会の直面する問題の解決策として登場したのである。ドイツは全欧州に及ぶ革命の指導国となり、やがて全世界に広がった。
 歴史は変革期に入り、日・独・伊が台頭し、国際システムは破壊し始めた。金本位制は、その創設者である米・英によって一時的ではあるが停止状態に追い込まれ、債務不履行(デフォルト)を口実に対外債務は破棄された。資本市場と世界貿易は収縮し、地球上の政治システムと経済システムはともに解体した。各国国内の変化も同様に徹底したものであった。二大政党制は一党制、あるいは挙国一致政府へと代わった。ファシズム、社会主義、ニュー・デールの新興体制は、自由放任原理を放棄した一点において類似している。
 ドイツは世界秩序の土台である世界経済の没落を待望し、その遠大な計画実現に必要な経済的自給自足体制を進めたが、真の意図を偽装していた。英米の金融界も国際連盟も、ナチスが19世紀経済の解体を希求しているとは思わず、彼らの行動は外圧のゆえであり、金融支援をすれば元に戻るだろうと考えた。イギリスは一時的に金本位制を離脱したが、引き続き、経済と金融は為替安定と健全通貨の原理を基礎としていた。金本位制経済の維持に固執した結果、より危険な国家破産を回避するために非効率な軍備の予算削減が主張された。再軍備は、大きな制約を受けたのである。疲弊した19世紀システムの清算を主導するドイツの優勢は続いた。自由主義的資本主義、金本位制、絶対的主権の破壊は、ドイツの略奪的奇襲に付随した結果であった。
 ロシアは、しばらくは単に資本主義世界に向けた革命的アジテーションの発信源にすぎなかったが、今や市場経済に代わりうる新たなステムの代表として現れた(注5)。ボルシェヴィズムの指導者は、世界革命は工業化した西ヨーロッパから始まるべきとの立場に固執していた。彼らには、一国社会主義は言語矛盾と思われた。それが現実となったとき、ほとんどの老ボルシェビキはそれを否定した。しかし、この逸脱こそが驚くべき成功であった。ロシア革命と呼ばれるものは、実は別の二つの革命から成るように思われる。第一は伝統的な西欧世界の理想を具体化したものであり、第二は1930年代の全く新しい発展の一部をなすものである。前者1917-24年の革命は、清教徒革命やフランス革命のモデルに従う政治的大変動の最後のものであり、単にロシアの出来事であった。後者の1930頃農業集団化と共に始まる革命は、世界を転換させる大きな社会変動の最初のものであり、世界同時発生的な普遍的転換の一部をなしていた。二つの革命の間にロシアに一国社会主義の決断を迫った条件に、国際システムの破綻があった。ロシアの輸出は穀物、毛皮等第一次産業的原材料に依存していたが、農業不況で商品価格は低落していた。これが、機械輸入を制約し国内工業の成立を妨げた。都市労働者と農民の緊張が高まり、農業問題の一時的解決策としてコルホーズの到来を速めた。ロシアに自給自足体制を強要したのは、資本主義的国際主義の消滅に他ならない。
 19世紀文明の崩壊は第一次大戦の荒廃によるものではない。社会主義者プロレタリアートや中産下層階級ファシストの反乱によるものでもない。あるいは、利潤率低下の法則や過少消費等の経済法則の結果でもない。それは、自己調整市場の作用に対し、社会の破壊を防ごうとした運動によるものである。市場と社会生活の基本的要求との葛藤が緊張と重圧を生み出し、挙句に社会を破壊した。戦争は破壊を速めたに過ぎない。
 市場社会に対する批判は、それが経済生活に基づいていることではなく、本当はその経済が利己心に基礎を置いていることにある。このような経済生活は全く不自然であり、歴史的に例外的であった。19世紀思想家は、人間は経済的合理性に従う、これに反する行動は干渉の結果に過ぎないと考えた。そうであれば、市場は人間にとって本来的な制度であり、放置しておけば市場は自然発生的に生じることになる。しかし、経済史の示すところでは、全国的市場の出現は、経済領域での政府統制から徐々に自然に解放された結果ではない。反対に、市場は、非経済的目的のための政府部門による意識的で、多くは暴力的な介入の結末である。19世紀社会の生まれながら弱みは、それが産業社会ではなく、市場社会であったことである。産業社会は、自己調整市場のユートピア的実験が恐怖の記憶となった後にも、存在し続けるであろう。
 19世紀社会は金本位制とその系である立憲体制によって機能した。代議制は債務国の財政と通貨に対するチェック機能として要請された。その経済的帰結として、通貨と代議政体は世界中に画一的な形態となった。しかし無制限の国家主権と他国に対する合法的干渉は矛盾し、行き詰まった。金本位制を破棄すれば、各国政府間の経済協力および自由な国家的発展が可能となる。産業文明を新たな非市場的な基盤へと移行する企ては、余りに絶望的に思える。多くの人は、経済制度の真空状態、悪くすれば自由の喪失を恐れる。
 しかし、移行時期に伴う多大な困難はすでに過ぎ去った。諸国において、経済システムが社会に指令することが終わり、経済システムに対する社会の優位が確実となる発展が既成の事実となっている。生産要素である労働、土地、貨幣の市場からの除去、すなわち商品擬制の廃棄による新たな現実が社会のあらゆる場面に広がっている。市場経済の終焉は、決して市場がなくなることを意味しない。市場は様々な形態で継続し、消費者自由を確保し、需要変化を示し、生産者所得に影響し、会計制度として働く。一方、経済的自己調整の機関としては全く停止する。
 自由の問題には、制度的次元と道徳的、宗教的次元の問題がある。後者の次元では、自由を維持する手段それ自体が自由を破壊しかねない疑問が存在する。自由には、その維持が至高の重要性をもつ自由がある。19世紀社会の政治と経済の制度的分離は、社会的には致命的な危険となったが、正義と安全を犠牲にして、自動的に自由を生み出した。市民的自由は、私企業、賃金制度と共に一つの生活様式に融合した。しかし、市場経済は、自由や平和を制度化することができなかった。その目的が利潤や繫栄にあるからである。もし、われわれが平和と自由を維持すべきなら、意識的に追及しなければならない。個人の自由については、我々がその維持・拡大に成功する程度に応じて、その大きさが決まるだろう。新たな社会では、不服従の権利が制度的に保護されねばならない。個人は権力を恐れず自己の良心に従うことができなければならない。権利章典の最初に書き加えられるべきは、政治的・宗教的信条や人種にかかわらず、正当に職業に就く権利である。社会の統合を目指したあらゆる動きは自由の拡大を伴わねばならない。計画化の動きも、個人の諸権利を強化するものでなければならない。こうして、今までの自由と市民的権利に、産業社会が提供する余暇と安全によって生み出された新たな自由が付加されることになる。公正と自由を備えたゆとりある社会である。
 しかしながら、自由な社会への道が道徳的に妨害されていることに気づかされる。自由主義者は、計画と管理は、自由の否定であると攻撃する。自由企業と私的所有こそが自由の基礎であると宣言している。それでも、彼らが実際に自由企業体制の再建に成功した国はない。大企業体制さらにはファシズムが成功したのは、皮肉にも彼らの努力の結果である。彼らが禁止を望んだ計画化、規制、管理が、明白な自由の敵によって取り入れられたのである。自由主義哲学は権力と強制は悪とし、人間社会におけるそれらの消滅の必要を主張する。自由主義者は、ユートピア的期待が実現できると誤解させた。経済を契約関係と、契約関係を自由と同一視した社会観のゆえである。しかし、それが不可能であることは、(社会・経済の)複合社会では明白である。いかなる社会も、権力と強制なしには存在できない。人間の意志と希望だけで形成される社会は幻想である。権力と経済的価値決定は、社会の現実の基本的骨格をなす。これらのことについては、人間は何らかの共同作業を要求される。権力の機能は、集団の生存に必要な全員協力の手段を確保することにある。また、経済的価値決定は、生産に先立ち財の有用性を担保することである。それは、人間の欲求と財の希少性とにより決定される。市場ユートピアを放棄することによって、我々は社会の現実とまともに向き合うことになる。それは、一方は自由主義、他方はファシズムと社会主義に区別できる。社会の発見は、自由の終焉を意味する場合も、自由の再生を意味する場合もある。ファシストは自由を放棄して社会の現実である権力を賛美した。社会主義者は社会の現実を受け入れながら自由の希求を擁護する(ただし、ポランニーは生産手段の私有を廃止するだけで、社会に共同体が実現するとは考えない。いかなる社会も不完全であることをキリスト教の社会観から学んだ)。
 西欧人の意識には、三つの本質的な認識がある。死、自由、及び社会についての認識である。第一は旧約聖書の物語、第二は新約聖書のイエスの教えを通じて啓示された。そして第三のものは、産業社会を生きることによって、我々示されたと著者はいう。この啓示の功績を帰する人を挙げるとすれば、ロバート・オーウェンがそれに最も近い。彼は、自分の協同的共和国でのみ、キリスト教の真の価値あるものが人間の手に取り戻されると信じていた。成熟を続ける人類は、複合社会における人間存在として生きることが可能である。人間が手に入れようとしている新しい力でさえ除去できない悪があるとすれば、不平を言わずそれを受け入れるであろう。人間が死を受け入れたように。

 最後の所(第21章)が、大きなテーマの割にはポランニーの叙述が簡略すぎる感がある。以上で概要を終わる。

 米国の古書店より購入。新しい本のわりにはダスト・ラッパーがついていない。

(注1)原文は、This book is concerned with the political and economic origins of this event, as well as with the great transformation which it ushered in.
 なお、「大転換」の初出は、1936年ニュー・デールに関連して使用されたとのこと(ギャレス・デイル、2020、p.16)。
(注2)「制度化された過程としての経済」1957年(『経済の文明史』所収)も参照した。
(注3) 原文は、fictitious。私としては、大文字のFではじまるFictionが望ましい。
 なお、マルクスにとって労働はあくまで商品であって、擬制商品ではない。
(注4)ポランニーの支持する社会主義は「ギルト社会主義」と呼ばれるものである。フェビアン運動から別れて、ラスキ・コールらによって主張された。それは三つの特徴を持つ。第一に、労働の商品性を否定していること、第二に、労働者による生産管理を支持し、産業自治が労働者の道徳的性格の向上に不可欠としていること、そして第三に「機能理論」に基づくことである(デイル、2020、p.74)
(注5)デイル(2020,p.196)によれば、ソヴエト・ロシアに対する熱狂は1930年代に頂点達し、40年代末には、いくらか収まった。「彼がスターリン体制[中略]を頑固に擁護したことはもっと不可解である」(同、p.179)としている。

(参考文献)

  1. オーカン、A・M 新開陽一訳 『平等か効率か 現代資本主義のジレンマ』 日本経済新聞社、1976年
  2. ポラニー、カール 寺沢英成・野口建彦・長尾史郎・杉村芳美訳 『大転換 ー市場社会の形成と崩壊ー』 東洋経済新報社、1975年
  3. ポラニー、カール 野口建彦・栖原学訳 『[新訳]大転換 市場社会の形成と崩壊』 東洋経済新報社、2009年
  4. ポランニー、カール 玉野井芳郎・平野健一郎編 『経済の文明史』 日本経済新聞社 1975年
  5. デイル、ギャレス 若森章孝・東風谷太一訳 『現代に生きるカール・ポランニー 「大転換」の思想と理論』 大月書店、2020
  6. 村岡到編 『原典 社会主義経済計算論争』 ロゴス社、1996年
  7. 若森みどり 「K・ポランニー ー社会の現実・二重運動・人間の自由ー」(橋本努編 『経済思想8 20世紀の経済学の諸潮流』 日本経済評論社、2006年  所収)
  8. 若森みどり 『カール・ポランニー ー市場社会・民主主義・人間の自由ー』 NTT出版、2011年  





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(2023/4/29 記)



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