POLANYI, KARL,
The Livelihood of Man, New York, Academic Press, 1977, pp.lv+280+(2), 8vo.

 ポランニー『人間の経済』1977年刊、初版。
 ポランニーは、『大転換』によって近代市場体制が歴史的に特殊な体制であることを明らかにした。晩年に近づくにつれて、彼の興味は市場経済体制とは異なる、原始・古代社会の探求に向かった。初期の歴史的社会では、人々の財の授受関係は、利潤獲得を目指すものではなく、社会に埋め込まれていた。これらの社会では、たとえ市場、貨幣、価格が見出されても、自己調整市場社会のものとは異なる。原始・古代社会は、財の配分や交換比率の確立を自己調整的な価格によることなく達成できた。ポランニーの目指すのは、非市場社会経済学の構築である。「交換」以外の社会統合パターン(「互酬」、「再分配」)の一般的概念枠組を与えようとした。彼の歴史研究の根底にあって、それを牽引していたのは、人間と自然を破壊し「悪魔の碾き臼」と化した近代市場システムは、歴史の常態ではないという信念であった。市場体制社会以前の社会の研究は、自由と正義を目指す将来の人類社会実現の手掛かりとなるだろう。

 本書はポランニーの遺稿を編集して出版されたものである。遺稿は未定稿で、同内容の複数稿があった。本書を読むと、重複が多く、論述の中途で脇道に逸れたり、中断している所がある。初めに概要を箇条書きしながら、論述の順番はそれとは異なったり、全部を網羅していないところもある。どうも難解な本であるが、概要をまとめてみる。
 自分の解釈で()を使って論述を補った。また、要約とはいえ余りに長くなったので、議論の本筋から離れた部分は段落を下げて、文字サイズも小さくした。ただ、逆に言えば、省略するには惜しいエピソードのたぐいである。適当に飛ばし読み下さい。

 (第一部 社会における経済の位置)
A.概念および理論
 経済という概念は重農主義(フランス・エコノミスト)とともに始まった。それは、市場機構(プライス・メカニズム)の出現と時を同じくした。市場社会以前にも価格は存在したが、経済の大部分は荘園制による農業が占めていて、交易と金融が存在するわずかな都市部に限られた。そこでは、地域市場よりも遠隔地交易が主流であったから、価格は、変動ではなく安定性が求められた。交易は、地域間の安定的価格差によるものであったからである。
 しかし、時代は、地域市場を自己調整市場と転換するようになり、物的生産要素のみならず、労働や土地にまでも市場が成立するようになる。いまや、賃金・地代を含むすべての市場価格が相互依存性を持つようになった。経済の出現である。経済と市場は事実上一致していた。この経済を発見したケネーもその弟子ともいえるスミスも経済と市場を一体化したものと考えた。さらに、すさまじいことには、(市場)経済は経済メカニズムに埋め込まれた社会を作り出す。市場社会である。市場が社会を包摂し、人間の心も市場の精神が包摂した。
 自己調整的システムと化した19世紀社会は、労働者の飢えの恐怖と雇用者の利潤利得を動機として組織された。物的誘引によってのみ行動する人間像が描かれ、社会制度は経済システムで決定されると考えられた。市場メカニズム隆盛によって、経済決定論があらゆる社会の共通法則であるとする誤った学説が生み出された。
 経済的(エコノミック)という言葉は、全く別な二つの意味の複合である。第一は論理的なもので、目的―手段関係を表す。ここから、希少性の定義が生じる。第二は、生物としての人間は自然との代謝過程によらねば生存できない事実による。ここから、実体的(実在的)定義が生じる。ポランニーのいう経済学の誤謬は、人間の経済をそれの市場形態と同一視する偏向から発生する。これを避けるには。「経済的」という言葉の二つの意味の徹底した区別が必用である。
 新古典派経済学の創始者の一人であるメンガーには、まだ実体的経済へのこだわりがあったが、その後の発展はすべて希少性(すなわち最大化)の原理によっている。しかし、この問題を扱った黎明期に、アリストテレスは希少性の定義を拒絶した。アリストテレスは、『政治学』において、家(オイコス)や国家(ポリス)にとって本当の富とは、蓄積可能な生活必需品であるとした。彼は、人間の欲求と必要が無限であるとは考えなかった。動物は生まれた時から、自己の環境の中に生存に必要なものが用意されているのを知る。人間は、狩猟民・牧畜民・農耕民あるいは交易民さえも、生存に必要なものを環境の中に見出す。生活に必需以外の欲求は自然なものとはみなさない。需要側からの要因により希少性が生じるように見えるのは、財と享楽の欲求によって自然な生活から歪曲された誤った概念のせいだとする。家や国家の制度が正しく、よき生活に対する伝統的理解に従えば、人間の経済に希少性が入り込む余地はないと考えた。
 社会科学は、経済の実体的な意味に立ち返らねばならない。経済は、物的要求実現のための相互的な制度過程として、すべての人間共同体の基礎をなす。実体としての経済は二つのレベルから成立している。一つは、人間と環境の相互作用である。もう一つは、その過程の制度化である。相互作用はまた、場所の移動および占有(「持ち手」:hands)の移動の二つからなっている。相互作用において自然は無言の促進者あるいは妨害者として、人間は採取者・育成者あるいは製造者として働く。労働が生産要因としては傑出しているのは、一般にメンガーのいう高次財(生産原料)を代理しているからである。

 人間経済の主要統合形態としてポランニーは、互酬、再配分、交換の三つをあげる(ポランニーは、『大転換』では、第三の原理として「家政」を独立させていたが、この本ではより小さい集団の「再分配」として、再分配中に分類している)。統合形態とは、財や人間の動きが造り出すパターンであるが、それには社会の中に明確な構造の存在が必用である。これら三つの用語は、個人的態度の類型を示すためにも使用される。しかし、統合形態を支える制度的構造は、個人の行為の結果ではなく、社会的に生じるものである。互酬的な個人的態度と、それとは独立した対称的諸制度の経験的関係を発見したのは、トゥルンヴァルトである。南太平洋諸島における民俗学的調査の結果である。対称的に組織された環境下でのみ、互酬的態度は何らかの重要な経済的制度として帰結することが解った。同様に、予め中央の確立された組織下にしか、個々人の協力的態度は再分配経済とはならない。そして、合目的に制度化された市場の存在によってのみ、個々人の取引行為は共同体の経済活動を統合する価格に帰結する。
 再分配については、未開社会では、首長の重要な働きは、祭典、宗教儀式、饗宴等の機会に、食料や製造品を大規模に徴収し分配することにある。西欧人からは、圧政的な酷税や無慈悲な搾取と映ることも、多くは未開王国の再配分過程の一場面である。交換とは、成り行きの条件で、相互利得を求めて、各人間に行われる双方向の財の移動である。ふつうに理解されていないのは、偶発的な物々交換(random barter)行為、それ自身は価格を生じさせないことである。バーターする個人の意図を効果的にする市場パタ-ンなしには不可能である。行動原理が効果的になるには、ある制度的枠組みが必要である。この意味で、バーターは互酬と、再分配に非常に似ている。市場パターンは、単に個人の「取引、バーター、交換」の欲望に起源を持つものではない、それは他の方向からやってくる。
 統合の支配的な形態によって諸経済を分類することは、教えられることが多い。歴史家が多少とも伝統的に「経済体制」と呼びたがった封建制や資本主義の如き実在した経済の類型はこのパターンに属する。マルクス主義の伝統的な、奴隷制、農奴制、賃労働、という経済体制の分類は、経済の性格が労働の状況によって設定されるとの確信によるものである。ポランニーは、統合形態の支配が本質的に依存する二要素(土地と労働)に目を向ける。労働に劣らず、土地の統合が経済に組み込まれることも、同等に重要とみなすべきである。

B.制度
 十九世紀社会は、経済を社会から「分離させた」(separateness)制度である。それ以前の社会は経済が社会に「埋め込み」(embeddedness)されていた。
 ヘンリー・メインは、古代社会は身分を基礎にし、近代社会は契約による社会だとした。これを受けてテンニースは、それらをゲマインシャフトとゲセルシャフトに区分した。こうした理論的な発展は、隣接科学である人類学での、マリノフスキー、トゥルンヴァルト等の重要な発見につながった。彼らの考察は、文化人類学の一部門としての原始経済の研究(経済人類学)を確立した。それまでの、民俗学者、人類学者が、伝統的に無意識に「経済人」の概念でアプローチを行っていたのを批判した。
 マリノフスキーの諸著作によって、無文字社会の人々の行動は、現代人の我々にも理解可能なことが確信された。我々と野蛮人とが異なるのは、その心よりむしろその制度であることが判明した。一般的結論として、原始経済の物財の生産と分配は非経済的といえる社会関係のうちに埋め込まれている。もし、経済制度を(十九世紀的な)飢えと利得を動機とする行動の全体を意味するものとするなら、原始経済には経済制度は存在しないことになる。けれども、経済を実体的にとらえるなら、もちろん経済制度は存在する。しかし、それは制度的に社会と分離したものではなく、非経済的制度の作用の副産物に過ぎなかった。社会組織の機能に注目することによって、そうした事象の理解が容易になる。
 統合形態としての互酬の基礎には、社会内の対称的組織が存在した。多種多様な「取引」(トランザクション)は経済的見地、すなわち物的要求充足の様式から分類できない。原住民の贈り物が等価の形で返されねばならない取引、我々の観念からは等価物の交換に最も近く、実際上交易他ならないものでも、それには程遠いことをマリノフスキーは発見した。同品物が、同取引者の間で極めて頻繁に行ったり来たり交換されているのである。経済的な観念や意味を持たない取引である。交換の目的は当事者を親密にし、その絆を深めることにある。
 
 経済的取引が出現したのは、部族社会から古代社会に至るまでの期間であろう。部族社会と古代社会とは、国家段階の出現により区分される。古代社会では、部族によって行われる身分上の取引とならんで、財の重要性に関係する経済的取引が制度的に現れてくる。しかし、これが古代社会での進歩の唯一方向ではなかった。バビロンとギリシャでは、経済的取引が優勢であった。一方、シュメールやエジプトでは、再分配経済が主流で、経済的取引は付属物であった。
 古代社会のいくつかで、経済的取引が何故出現したのかの説明が重要である。十九世紀経済合理主義的説明では、経済人精神によるものである。不合理な迷信の束縛から解放されて、個人は利己主義に則り利得的バーターに乗り出したというのだ。本当の説明は、全く逆である。交換は、人間的結びつきの中で最も危なっかしいものである。それが共同体の連帯の維持に役立つとされたときに、はじめて経済に拡がった。経済的取引は、非利得的となりうる時に可能となった。同胞食料の犠牲の上に利己的利得を獲得するには、まず交換に内在する不公平な要素を除くことによって、連帯に対する危険を取り去ることである。メソポタミアでは、それは、神の代理人の名において等価の宣告を行うことで達成された。アテネ等の小都市国家では、共同体の連帯と経済的取引による反社会的危険との紛争は、小農経済型の発展によって、全く異なる解決をえた。やがて、こうした取引は公然と市場で行われるようになった。
 奇妙なことに、我々の日常生活をなす交換方法の起源がまだよく解っていないのに、再分配や互酬は、食料分配の一方法として知られていた。そのために、未開社会の等価性の意味を知らねばならない。等価物は、異なる財の間の量的関係を設定する工夫にすぎない。例えば1単位の穀物と1壜の葡萄酒等々。これを「価格」とするのは、等価性の概念を市場交換に限定するので誤りである。等価の役割は再配分過程の中で重要である。租税であれ配給であれ、様々な種類の財を、一定の比率で置き換える操作は、中央政府と市民の財交換システムには不可避である。租税は、大麦や油、あるいは羊毛でも可能なように、その課税単位当たりの支払額を規定されている。配給も同様に必需品のなかから選択許すなら同様に規定が必用である。現物経済では配給は重要である。配給(rations)は分け前であり、古代社会において人間の基本的権利のように思える。
 現物取引でも、交易者報酬の計算や交易者相互の支払を清算する方法は、大いに代替的等価によっている。非市場経済では、慣習や法による有効な代替的等価なしには、リスクなしの交易も支払清算も実施できない。等価性は価値標準というより会計業務の手段として有用だったのである。古代社会の実体的経済領域におけるいかなるの取引関係も、等価法則に則っていた。等価物のみが交換可能であった。取引は財(現代ではその等価は:価格)、サービス(賃金)、資金貸借(利子)、不動産使用(レント)等をカバーしていた。取引を妥当なものとする一条件は、一方の側の搾取を含まないこと、すなわち等価を維持する公正なものであることにあった。
 交換の等価は、独立小農民には、とりわけ重要であった。アリストテレスの議論では、「自然な交易」は自給自足から生じたことを前提としている。家族の成員が増加し、別々に暮らさねばならなくなると、自給性が損なわれる。個々の家族は、以前は共同保有する財を共同で使用したが、今や余剰物を相互にシェアすることを強いられることになる。それらの交換は、彼らの自給自足を回復するための利得抜きのものである。タルムードには、暴利の獲得は非自発的・偶然的であっても道徳的に危険とされている。等価物はこうした危険を防ぐものとされた。利得、利潤、賃金、レント等収入とされるものは、既存の社会的関係と価値の維持を要求されるなら、等価となるべきものである。これが、スコラ学者の要請した「公正価格」の理論的根拠であった。
 原始社会では食料の取引は共同体の連帯を破壊するとして禁止された。古代社会では、次第に食料取引は禁止されなくなる。こうした重要な変化は、部族社会の解体を伴って、主として二つの方向を取った。ある種の取引を制限し厳格に管理することで容認するか、あるいは、かかる取引から利得の原理を排除するかである。前者はギリシャのような小農民社会であり、市場形成の道をたどった。後者はバビロニアのような灌漑型帝国がたどった道である。それは人類の未来に前者に劣らぬ重要な道を開いた。なぜなら、人間の経済的歴史において、正義、法、個人の自由が国家の創造物として最初に決定的な役割を成し遂げたのは、後者の発展によるものだからである。
 古代帝国による正義の経済的役割は、利得を排除した結果、ある種の経済力を開放し、治水事業での労働生産性を何倍にも増加させた。等価の宣言は、古代帝国の王の主要な機能の一つである。しかし灌漑型帝国が成し遂げたことは、それにとどまらない。市場への発展を避け、取引の非売買的方向、処分的(取引)を切り開いた。交易の大部分は管理処分的方向で行われた。それらは、統合の再分配形態が支配した結果であった。とはいえ、専制的官僚主義が作用したのではなかった。むしろ、法によって正当化された利得抜きの取引と規制された管理処分は、人間生活でこれまでに見られなかった個人の自主性の領域を開いた。

 (第二部 市場経済の三要素 交易・貨幣・市場)
 これまで、交易と貨幣と、市場の発展は、一体のものとみなされてきた。交易は市場における財の移動であり、貨幣はそれを容易にする交換手段とされてきたのだ。しかし、いくつかの交易形態と様々な貨幣使用が、経済生活上重要となるのは、市場とは無関係で、それに先立つものである。市場は必ずしも自己調整市場ではない。価格(等価)は、元々その変更も含めて、市場経済的方法ではなく伝統や権威によって制度的に設定されるものである。
 マックス・ウェーバーは、対外交易は対内交易に先行すること、交換手段としての貨幣使用は対外交易から生じたこと、そして、組織化された市場も対外交易の領域で最初に現れたことを明らかにした。民俗学者のトゥルンヴァルトは、この考えを支持する原始共同体の事実を提出した。交易、貨幣、市場の発展は、共同体内部よりも外部において優先する現象であることが、ある程度確実に主張できる。対外市場と対内市場の明確な分離(前四世紀ギリシャにおける対外通貨と体内通貨の独立的機能に見られる)、それらに市場を連結する広範な仲介制度、「交易港」の管理主義的運営方法が明らかになった。
 交易、貨幣使用、市場諸要素が別々に生起したものだとすれば、そのような経済はどのようにして機能するかが問題となる。何よりも、非市場経済において生じることの研究が必要である。第一に、交換にもとづかない社会統合すなわち、互酬、再分配に関する歴史的資料の研究であり、第二に、交易、貨幣と市場が身分社会生じる時に見られる諸類型の研究である。(以下に「第一に」の説明はなく、「第二に」とした諸類型研究の方向で論じられているようである)
 操作的に定義すると、交易はその場所で調達できない財を獲得する手段である。それは非日常的な活動、狩猟、遠征、海賊行為に似ている。交易とそれらの違いは、強奪がなく平和的な双方性である。交易の目的は財の交換である。その際、交換レートは予め定められている。個人的利潤動機は入り込まない。手続きには儀礼的要素がある。原始社会では一方が訪問者で、一方がホストである。前者は財を運び、危険を負い、主導権を取る。後者は受動的に状況に対応する。
 交易には人員、財、運搬、二方向性の制度的特徴がある。まず人員について。原始社会では、交易は集団的事業であって、首長か全成員の参加で実施された。その結果、専門的商人はいなかった。古代になって専門的交易者が現れた。交易者の動機は身分動機(義務や公共奉仕による)と利潤動機の二つに分かれる。前者の代表例が仲買人であり、後者では商人である。前者である豊かな顕臣にとって主君からの褒美と比べて、取引の利得は問題にならない。過去のほとんどの社会では、一般的に身分社会であって、利潤動機による貧しい交易者の活躍の余地はほとんどない。古代には、上流か下層階級以外の交易者はいなかった。十九世紀に現れる商業的中産階級は西洋近代の産物である。古代世界での交易者は、東洋およびアフリカでは「タムルカム」であり、ヘレニズム世界では居留外人である。外国人果たした役割は少ない。「タムルカム」は仲介型商人であり、生計は身分による収入で保証されていた。収入は土地からのものと宮廷の倉庫から支給であった。アテネの居留外人は財産を持てず、概して貧しかった。
 財について。遠隔地から財を獲得・運搬するかの決定は、それらの難易度および対象物の必要緊急度による。古代の非市場的交易に一般的な交易はなく、特定の財を個別的条件で行う非継続的な企画事業なのであり、継続する私企業には発展しない。代わって輸出される財は中央政府の階層組織によって集められた。それらは貢納として無償の場合もあった。
 輸送。エジプト・中国のような古代灌漑帝国は、輸送路は河川沿いだった。トルコ・モンゴルのような遊牧民帝国は陸路保全、通商路を所有すること、が存在理由であった。隊商は帝国以前から存在し、警察力のない地域を通過するための組織である。それは軍隊の起源の一つになった。
 狩猟、遠征、侵略が一方向的なのに対し、交易は平和的で二方向的である。古代社会では、交易手続きの根本原理は等価物を変えないことであり、この固定「価格」取扱法は一般的であった。

 ポランニーは、貨幣を言語と同様に意味論的システム(別に論文「貨幣使用の意味論」あり。いずれも議論は、充分ではない)としてとらえている。貨幣研究の出発点とすべきは、「全目的」の貨幣が現れるのは近代的貨幣のみという事実にある。初期的な社会では全目的の貨幣はなく、「特定目的」貨幣が用いられがちである。異なった用法には通常異なった対象物が用いられる。奴隷は価値尺度として、子安貝は支払い手段として用いられるように。現代社会では、貨幣用法の統一化が交換手段としての機能を土台としてなされた。近代的貨幣は、様々な用法のすべてについて、シンボル用いてほとんど意味論的システムとして現れる。
 初期社会では、貨幣の支払い手段や価値尺度または富の貯蔵手段としての用法がみられても、交換手段としての用法は基本的なものではない。原始的社会ではいくつかの貨幣使用手段が相互に分離独立した制度となっていた事のなかに、その重要なメカニズムや構造の諸問題が提起される。交換手段以外の用法の分析でそれらが明らかとなるだろう。
 人間は文字や数字を発明する前に、複雑な数量的問題を単純な手作業で処理できる工夫を考えた。例えば算盤である。行政や経済もこうした工夫がなければ働かなかった。古代的に完備した組織によって政治・経済的に達成されたことを知るのには、それらの工夫の本質を理解することが鍵となる。
 貨幣使用の起源と発達については、物的対象物とその操作上の働きとの関係が決定的に重要である。貨幣対象物の主要な特徴は、計量可能なことである。相互に代替可能な物理的対象物(計量単位)が、貨幣の4種の手段のいずれかに用いられている限り貨幣とみなす。貨幣という言葉は、例外的に、物理的単位以外にも適用される。「架空の単位」である。
 伝統的貨幣学説では、貨幣を主として交換手段とみなす。この決定的な誤りは、人類学者たちによっても展開され、無文字社会にさえも適用された。この狭い貨幣概念は、貨幣の本質について歪んだ像を作り出し、非市場分析にとっての越え難い障害となった。貨幣を交換手段とする見方には、貨幣使用の初期歴史に関するかぎり、支持する事実は実に僅かしかない。交換は組織化された交易や市場の枠内で発達するものである。原始的社会では、交換手段としての用法は、ほとんど重要性を持たない。
支払い手段としての貨幣をみる。
 近代的な術語の意味では、支払いとは量化された単位を手渡して責務から免れることである。歴史的には、ほぼ民法が刑法に継起し、刑法が宗教法から継起したことを考えると、支払いとは、罪人(穢者、弱者、卑者)が、神(神官、名誉民、強者)に対して負う責務のごときものなのである。責務とその完遂は、特定的で、非量的で質的であり、適時に適当な方法で適当な事物によってのみ、償われる。これは近代的支払いの本質を欠き、決して金銭的な意味の支払ではない。だが、刑罰は支払いに似ている。むち打ち、断食など罪をぬぐうプロセスが計量化されている場合がそうだ。しかしながら、これは刑罰が支払い義務になっているにもかかわらず、計量可能物の引渡しではなく、計算可能な生命の価値や社会的・宗教的身分の損失によって罪が償われている。
 責務を負う人の免責単位が、たまたま物理的存在(犠牲の動物、奴隷等)であったときに、貨幣の完全な支払い手段的用法が出てくる。この場合も、責務の本質に変化はないが、支払い操作の少しの変化が、重大な差異を生んだ。受領者が、支払者の失ったものを得ることである。にもかかわらず、支払い効果が、権力や身分の低下を支払者に負担させることは、以前同様である。長い間、権力と身分は、経済的所有に優越してきた。短期間に、富は政治的重要性を持った直接的権力に転化した。いまや、富者は力を持つがゆえに、支払を受けた。ひとたび、貨幣が交換手段として確立されると、支払い手段としての使用範囲も大きく拡大した。
 蓄蔵手段としての貨幣の一起源は、支払いの必要である。富も、支払いと同様経済関係ではなく、社会的な関係から出てくる。富、すなわち財宝を持つ富者は、宗教的、社会的理由に基づく、罰金、示談金、税を支払える。富者が隷属民から受領する、税、地代、贈与等は社会的、政治的な理由(感謝、下賜品に対する喜び等)によるものである。
 価値尺度としての貨幣。互酬も再配分も、異種財を結び付ける「比率」なしに機能できない。それは、操作上の必要物であり、大規模な物資貯蔵を実施する経済・財政にとって決定的要因である。価値尺度なしに、税の査定・徴収、大規模家政の予算作成と運営、また多種の財を含む合理的会計は可能とならない。生活必需品の代替比率を表す固定的等価物は、慣習、成文法、布告等によって与えられる。今日価値尺度としての貨幣が当然視されるのは、価格が市場で決定されるようになった比較的近年の事である。
 買えない貨幣で支払ができると期待することは、ほとんど自己撞着と思える。しかし、交換手段として使用されなくとも、支払い手段として使用されることがあるという我々の主張は、まさにこの意味においてである。このことは、初期社会における財宝と基本物資の区分を部分的に説明してくれる。「財宝」は威信財からなっていて、所有するだけで、所有者に社会的威信を与える価値物や儀礼的物品のようなものである。与えても受け取っても威信を増すのが財宝の奇妙なところである。財宝になる財は、おそらく支払いにも用いられたであろう。他方大部分の地域では財宝となる貴金属類は、生存のためには交換されない(市場システムのない社会では財の貨幣用途が限られていたことをいっているのであろう)。にもかかわらず、財宝は経済的重要性を持ち、財を持つ首長は、間接的に従者を奉仕させ食料、原料、労働力を調達する。
 初期社会では、貨幣的交換比率が驚くほど安定している。現代、貨幣は経済の流動性や不安定性に結び付けられている。古代社会では、反対に、官僚的管理を不要とするような安定の源泉が貨幣制度にあった。
 交易と貨幣は常に世界に存在したが、市場はそうではない。市場は後発的なものにかかわらず、その起源を探るのは困難である。市場には二つの意味がある。第一に、市場は場所である。典型的には、食料品が原則として固定価格として買える戸外の場所である。第二は、需要・供給、価格メカニズムそのものである。それ自体は特定の場所や商品に結び付いていない。前者は物理的場所で、歴史家も理解しやすい。後者も経験的現象ではあるが、つかみどころがなく、単なる統計的出来事すぎず、歴史研究は簡単でない。
 場所としての市場が、先行している。東地中海に穀物を分配するメカニズムとしての市場が出現して二千年の後、西欧に価格形成市場という自己調整システム(自由資本主義)が発展し全世界に広がった。このシステムは交易方法の単なる変種ではない。土地も労働もこのメカニズムに支配される。貨幣と信用も市場を通じて働く。システムは社会全体を覆い、社会の根幹的な制度となった。
 近代の市場経済は小さな起源から三千年かけて成長した一つの過程の結果だとする見方は大きな誤りである。市場は元来、別々の制度的要素からなる独立した発展の結果である。二つの異なった起源がある。一つは、共同体に外的な発展であり、外部からの財の獲得に密接に結びついている。もう一つは、内的な発展であり、地域の食料分配と関連がある。内的発展はさらに、二つの大きく異なった様式を取る。第一は、灌漑帝国に一般的で、基本物質を中央に蓄積し分配するものである。第二は、初期の小農および叢林共同体に見られる、生鮮食品や調理済食料の販売が中心となるものである。このような多様な起源が、それぞれ市場制度の異質の構成要素になっていたのである。
 地域市場(内的発展のこと)の第二型のひとつは、古代ギリシャ・ローマでの食料小売のやり方である。アゴラ型の地域市場では、食料という特別の財は遠くからは運べず、近隣社会の産物であった。顧客は家庭を持たぬ貧しい労働者や旅行者だった。市場の食料分配に関する争いは、ポリスでは党派的政治問題となった。
 続いて「傭兵のための市場」を著者は取り上げる(これも第二型の一つということであろう)。小アジアのギリシャ圏では、傭兵のギリシャ軍が市場の推進者であった。それが、経済的刺激を与えたのは、戦利品の処分と軍隊への兵站からである。戦利品は、古典古代時代を通じて唯一にして最大の富裕化する手段だったかもしれない。戦利品は、財宝、家畜、奴隷からなり、上流階級で直接消費されるか流通した。奴隷や家畜は保管・移動の問題があり、すぐに売却され、貨幣が分配されるようになった。
 戦争の規模拡大によって、市場習慣の発達と相まって、伝統的な軍隊兵站法が全面的に修正された。軍隊は、現地市場での食料購入をあてにできるわけではない。確実にそこに市場が開かれるという保証が必要である。兵站上の技術が、紀元前5、4世紀のギリシャや小アジアの市場の発達を説明する。古典文献では、市場(アゴラ)という語は、どこでも、そして常に食糧市場を意味した。市場で交易が始められる前には、交易条件が決められねばならない。特に小アジア遠征では重要であった。異質の度量衡や鋳貨制度が存在していたためである。
 次いで、(内的発展の第一型である)古代灌漑帝国における、城門やバザールに見られる類似制度をみる。門の市場は、最も古くからあるもので、市場が再分配的帝国での食料分配と結び付いている。灌漑帝国では、中央政府と大規模穀物栽培が、寺院、宮殿、都市の「門」に精巧な貯蔵システムを造った。貯蔵の必要は飢餓の恐怖と、治水のために宮殿、寺院が組織する労働集団用食料の必要からである。一方では、税や地代の支払、他方で労働者や兵士への配給は、門での取引で行われた。食物が分配されているにもかかわらず、供給者と需要者の出会いがないので、食料市場はないのである。
 バザールでは、供給者と需要者の出会いは存在した。しかし、それは食料市場ではなく、ことに手工業職人の製造品のための市場であった。どの品目でも価格は単一ではなく、しっかりした組織で競争が排除されている点で近代的市場とは異なる。バザールは、単一価格という明確な市場的要素の一つを欠いていた。販売は戸外ではなく、店で行われた。手工業者のバザールには、いつのまにか地域の食料市場の機能が付加されていった。ついで、バザールは、交易港が世界市場の発展の結果として影響力を失うようになったとき、外国製品の販売機能も持つようになった。
 その後、「市場交易-対外市場」という節題となっている(ただし、対外市場の面は明確ではなく。市場一般のことを論じているように思える)。需要・供給―価格システム(価格形成市場)の起源は何処にあるか、また何時、如何にしてそれは(数?)千年の歴史制度である交易と結びついたか。市場メカニズムと交易は全く別で、自然なつながりはない。その結合は、非常に特殊な発達形態であって、思惟によってではなく、歴史的制度的に事実の探求によって究明されねばならない。
 市場交易出現の詳細は不明である。それはある特定地域に起こり、ある財から始まって他の財に拡がったことに違いない。制度的分析法を用いれば、比較的単純な用語で論ずることができる。交易は、人員、財、等価、取引の合成体であるというのだ。
 最後に、節題が「人員、等価、取引」とあるにもかかわらず、人員それも主としてタマルカムの叙述で終わっている。タマルカムは近代商人以前の身分的な存在であること。近代商業の出現ルートは仲介業と、競売そして銀行家であることに触れるだけで、論述は中途で終わっているように思える。

(第三部 古代ギリシャにおける交易・貨幣・市場)
 ギリシャが現代の政治、哲学、科学、美術の源泉であることは周知の事実である。ギリシャはまた、あらゆる進歩した形態の人間経済も創始した。現代の経済体制、市場経済体制および計画経済体制は、共にギリシャに起源をもつ。紀元前四世紀末には、東地中海の穀物取引は、世界市場と呼ぶに相応しい市場取引として、史上初めて出現した。皮肉なことには、この偉大な試みは、歴史上稀に見る極端な官僚的中央計画体制支配であるギリシャ人統治下でエジプトにおいて開始された。二つの体制は結び付いて出現した。
 ヘシオドス『仕事と日々』は、深刻な飢えの恐怖を反映している。恐れは、一つはドーリア人の侵入という政治的事件、もう一つは鉄の伝来という技術革命にもとづく。後者の影響の強烈さは、2500年後の産業革命に匹敵するほどである。それは、多くの場合悪い方向の変化であった。戦争と農業が、鉄製品の拡大によって革命化された。鉄製の犂で痩せた土地でも耕作できるようになったことは、自由人を土地に隷属させることになった。作物を栽培することと、劣等地からの収穫によって生活を維持することは別物である。耐え難い拘束の体制は、天候不順により一層苛酷になる。農業の原始的形態に見られる人間の自然への隷属が、とかく忘却される。  
 ヘシオドスが伝えるのはギリシャ的生活の挽歌、部族的秩序の崩壊なのである。部族の絆は衰える一方なのに、それに代わる封建的絆の形成が遅れていた。村の隣人や市民は信頼できなくなった。正確な等価性を欠いた部族的互酬とは対照的に、贈与の交換は相応の返礼が必用であった。休みなく懸命に働かなければ借金や飢えを逃れられない。経済単位は小規模の家政である。ヘシオドスは、労働だけでなく、節約も命じている。それまで富を獲得する手段は瞞着、暴力あるいは贈与であった。コツコツと富を蓄積することは全く新しい考え方であった。彼はまた競争が労働の刺激となるという新しい考え方を述べている。交易は存在したが、農民生活には影響を与えなかった。
 歴史家ヘロトドスはいう、ペルシャの大王達はギリシャを見くびった。その判断の過ちの大部分は、彼等には怪しげと見えたギリシャの新奇な制度、市場によるものであった。制御困難なもろ刃の剣の如き制度を操作するギリシャ人の能力を低評価したため、ポリスの持つ市民的規律、安定的権力を見抜けず、ペルシャ人は零落した。
 歴史研究者はポリスの現実の発展に無知である。ポリスを理解するということは、そこで市場が占める位置を理解することに異ならない。集会の場所を意味したアゴラが、いつのまにか市場(いちば)の意味でも用いられるようになった。市場はいかがわしいものとみなされ、アテネでさえまだ完全な成功を収めていなかった。古典期アテネに見られる、実践的民主主義と市場の勃興の結びつきには注目せねばならない。民主派政治家ペリクレスは、伝統的基盤の掘り崩すのに、地域食料市場が持つ戦略的利点を認識していた。彼は市場という下品な制度を信奉していて、家政を新しいやり方で組織した。市場を通じて売買を行ったのである。もっと小さい家政には何の蓄えもないから、アゴラは彼等が自給することも可能にした。
 しかし、経済全体に占める市場の役割を過大視してはならない。市場は、再分配システムの作動を容易にするための一工夫に過ぎない。支配的なのは、再分配システムであった。市民の生活に国家が責任を持つことが、ギリシャ都市経済の不変の原則である。輸入必需品の供給は公的に監視され、市民の生活もある程度保証されていた。こうして、ポリス経済は三つの要素からなっていた。領地型家政による再分配、国家レベルでの再分配、および市場である。
 ポリスは部族社会の伝統を、貴族的なものも民主的なものも、共に継承した。ギリシャ史の大部分では、領主型家政による再分配か国家レベルの再分配が行われた。しかし、なお食料の分配を組織する方法に、二つの可能性がある。一つは君主(王、独裁者、僭主)によるもので、エジプトに見られるごとく、そのためには中央集権的官僚制を必要とする。もう一つは、市民が自ら管理する民主的なもので、市場を必要とする。市場なしには、少なくとも終日、公共的義務に従事している一部の市民は食料を獲得できなかった。今日の用語でいえば、一つはエジプト式の大規模官僚制的計画であり、いま一つはアテネに見られた市場が重要な役割を担う小規模民主的な計画である。
 アリストテレスが国家という時、それはポリスを意味した。市民は、自分のポリスの外に出ると、如何なる法にも従わなかったし、逆に保護のない無防備状態にもあった。個人は、国家に参加することで自由を得た。ギリシャ人には、個人と国家の根本的対立という近代的概念とは無縁であった。市民全体で創造されたルールに個人は完全に従属した。このユニークな規律には経済分野も含まれていた。価格メカニズムは存在せず、設定価格で適当な供給量を確保するように、この規律は求めた。ポリスは、市場を市民の食料調達にとって便利な工夫とみなした。緊急に際しては、市場は即座に再分配装置に変換できた。ポリスは、市民に責任を負い、個人の経済活動に干渉した。ほとんどすべてのものが、都市の再分配の対象とされた。財貨、サービス、貨幣は、都市の中心部に集められ、貨幣や財宝は国家の財庫に蓄えられた。
 効果的に再分配を行うには、中央集権化された官僚組織が必要である。ギリシャは部族時代に、自給自足の領地的家政において小規模な再分配装置を生み出した。古典期のアテネ市民にとって、民主制とは、これら家政をポリスによって組織された民衆の公共的管理に置き換えることを意味した。民主勢力と領地的家政の反民主的勢力との抗争は続いた。アリストテレスはいった、寡頭制は富による富者の支配であり、民主制は貧者の支配であると。多数の貧者の支配には富が問題となる。ポリス民主制の特徴を失うことなしに、つまり官僚制度なしに、民主制は可能か。公共の生活(陪審員や評議会の行政員等)に多数の市民が参加できるには、彼らの扶養が必用である。それは、公共機関による扶養か、領主的貴族の私的扶養かによらねばならない。市民が自由で平等な市民であり続け、領主に隷属しないためには公共的扶養による他ない。要するに、ギリシャ的な意味の民主制には、富者による公共の買収を防ぐために物質的セーフガードが必用であった。
 二つのことが要求された。一方でのポリス自身による食料分配、他方での官僚制の回避である。(ギリシャ的)民主主義とは、民衆による民衆の支配を意味し、民衆の代表や官僚による支配を意味するものではなかったからである。アテネで、官僚制なしの国家分配が可能となったのは、食料市場による。貨幣での支払いが、食料等必需品の現物分配にとって代わった。市場は財貨を供給した。市民が受取る貨幣を市場で食料に変えることができた。官僚制なしに、国家は市民の必需品を提供できた。民主的形態の再配分は、市場の利用如何に掛かっていたのである。
 現代人には、アテネ民主主義の拡大主義は矛盾のように思われる。古典的民主主義が強大な海軍帝国を築き、同盟国を従えていたからである。しかし、歴史に照らせば、アテネ民主制が生き残るには、帝国を創造しなければならなかった。それは、ペルシャ大王の殲滅的報復を避けるための防衛手段であった。この軍事的戦略に対応する経済政策は、海外からの穀物供給の確保と防衛当事者への財政援助であった。艦隊と首都を防衛するために、海軍と帝国は相携えて進んだ。
 国政や軍事に携わる市民には、国庫から支給を受けた。それは、年賦金や租税や同盟国の貢納から賄われた。アテネの海洋支配が頂点に達したのは、民主派の領袖ペリクレスの下であった。政敵である保守派キモンは、指導者の領地的家政から再分配される富と、もの惜しみない公共奉仕によって権力にあった。ペリクレスは、「民衆に民衆のものを贈る」として民衆に権力を与えた。ポリスによるポリスを通じての再分配は、陪審者たちに給与を払う点でポリスの伝統に従うものであった。キモンとペリクレスの対立は、再分配における中心点、領地的オイコスと民主的ポリスの対立である。
 だが、アテネ市民に喜ばしい装飾をもたらし、その他の人間を非常に驚かしたのは、パルテノンをはじめとするペリクレスの壮大な建築計画だった。ペリクレスは、また民衆の集まる競技や宴会、行列などを催した。著者は、ケインズは『一般理論』で現代公共事業の歴史的対比としてピラミッドではなく、パルテノンをあげるのがよかったと書いている。
 アテネのアゴラは、主として消費用食料の販売のための小売市場であり、そこにはカペーロスと呼ばれる小売商人がいた。古典的アゴラの特徴は、厳重な境界の設定、取引ができる人とできない人の明示、公的市場監視人と市のスパイの存在、小農民によって直接商品が貨幣や物と交換される、ことにあった。アテネ文明の高さに幻惑されて、アテネの市場制度の幼稚な性格を見誤ってはならない。
 アテネでは、地域市場と海外交易は別ものであり、それぞれ別の異なった起源を持っていた。公の場所で穀物が分配されるか、アゴラで販売されるかは、政治的要因が決定した。これら要因は地域市場の発展にも影響を与えた。交易は市場とは全く異なり、多分市場よりも古いものである。両者の違いは、交易者の人物の違いに端的に表れている。身元や、身分だけでなく、呼称も違った。地域交易者はカペーロス、外国交易者はエンポロスと呼ばれた。
 両者の差異は単に機能的な面だけでもなかった。外国人が市場で販売を目的として財貨を提供することは、法によって禁じられていた。アゴラに露店を持つことは、市民の特権であった。後に、税の支払いによって、外国人にも認可されるようになったが。また、遠隔地交易商人・エンペロスは、ほぼ男性であったが、市場開催地の小売商人・カペーロスは男性に限定されなかった。前者は、古典期には市民であることは稀で、おおむね外国人または居留外国人であった。後者は、たいていの時代、市民たる交易者であった。アテネ市民が海外交易に従事することはなく、アテネは市民の商業活動によって収入を増加させることはなかった。輸出に対してではなく、専らアテネの交易港ピレウス売買する外国人から上がる収入にのみ関心があった。外国との競争が国内市場に与える影響は考えもされなかった。
 結論的には、地域の市場だけが、市場交易だった。海外交易は、管理交易であり、贈与交易であり、市場的要素は重要ではなかった。
 史上最初の都市市場であったアゴラを持つアテネは、なぜ市場交易の先駆者の地位に立てなかったのであろうか。極端な輸入穀物依存と一体化した食料市場利用の先駆的経験にかかわらず、なぜアテネは国際穀物市場の主導者とたりえなかったのであろうか。国際穀物市場こそが、アテネの抱える困難を解決できるものではなかったか。問題の要点は、古典期アテネの穀物取引条件は、市場交易の発展にどれほど資するものであったか、逆にいうと穀物供給を保証するために管理的取引方法をどれほど必要としたかということにある。円滑な穀物供給、そのための交易路の安全を保障するには、軍事的外交的手段が必用であった。この事情が穀物取引の方法と組織を決定した。問題の九割は地理的環境にあった。残る一割は対外政策によるものであった。
 ギリシャ全土は農耕地が不足で、アッテカ(アテネと周辺)では、油と酒の原料であるオリーブとぶどう栽培に適していた。ギリシャの対外政策の決定的要因は、食料とする穀物輸入への依存である。
 この環境から、ギリシャ人は経済学を発展させずに、代わりに政治理論に向かった。なぜなら、ギリシャは、食料供給について、経済学の主題である市場に頼らなかったからであると。満たされることのない食料供給に対する欲求は、自給自足をポリスの根本原理とすることになった。アリストテレスもプラトンも、ポリス市民は農民から構成されるべきだと考えた。
 現実の古典期アッテカの人口は、ほぼ二十万から三十万人、そのうち市民は約半数である。アッテカの穀物生産総量は、小麦が約一割であって、残りは大麦だった。穀物輸入は、国内生産の2・3倍(自給率は1/3~1/4程度か)。国内生産では、農業人口さえ扶養できなかったに相違ない。市民は、非常な貧困者や飢饉時以外は小麦を食した。奴隷と居留外人は、大麦を食した。とすれば、奴隷のかなりの部分は国産大麦で賄えたが、市民は全面的に輸入小麦に依存した。ギリシャの最大の経済問題はパンの問題だといわれている。アテネの対外政策を支配したのは、穀物供給状況であった。
 アッテカの穀物獲得の方法はどうであったか。穀物供給を保証するためにどれほど価格誘因に依存したか、あるいはほとんどが外交や民間・軍事による政治的方法による獲得だったのか。十九世紀自由貿易時代のイギリスは、食料を世界市場に依存した古典的代表例である。ローマ帝国は別の方法だった。紀元前四世紀に東地中海に形成されていた世界穀物市場をわざと破壊し、主要穀倉地を直接支配下に置いた。アテネはローマのごとき帝国的偉業を達成することはなかった。アテネは半世紀をかけて見事な海洋支配を構築した。交易路を確保するする間接的方法によって東地中海の供給を統制できた。地中海沿岸諸国はギリシャとの穀物交易に市場要素を導入しはじめていたので、この方法は供給国に、アッテカへの供給支配力を握られないために市場要素をうまく利用できた。最大限可能な穀物量を取り寄せるべく立法化が図られ、穀物輸入組織は管理されていた。交易路の安全性、交易条件、財貨の産地は、条約により取り決められていた。
 ペリクレスは、ペルシャとコリントの両勢力によって封鎖されていたエジプトとシラクサ(シシリー島)に変わって、黒海の穀物供給を発展させた。大穀倉地帯エジプトとの穀物交易はよく判らず、アテネの管理下で行われたものでもない。もう一つの大供給源シラクサとの交易は、交易路に介在するコリントにより締め出されていた。クリミアの後背地(ウクライナのことであろう)が、古典期アテネの主たる穀物供給地であった。紀元前五世紀中頃まで、黒海の産物が船でギリシャに運ばれることはなかった。伝統的な陸上ルートに代えて、海上ルートが登場したことで、ビザンティオン(イススタンプール)が勃興した。その背景にはギリシャ半島のマケドニア北部からドナウ河口にかけてトラキア帝国が建国されて、陸上ルートが使えなくなったことがあった。ギリシャは、トラキアへの植民は成功しなかったが、周辺の海上は制した。
 だが、紀元前四世紀半ばに、トラキア人がマルマラ海に迫り、交易ルートに危険となった。ペリクレスは、ルートを守るために陸狭に防壁を築いた。彼は、野蛮人の敵からからだけでなく、ギリシャ人の敵からも交易路を保護しようとした。穀物は、マルメラ海から直接アテネの外港であるピレウスへ運ばれたのではない。中間の半島や内海を経て、陸運と水運でリレーされながら運搬されていた。要衝の都市を支配し、時に住民を移住させてアテネ人を植民した。こうして、アテネの穀物交易ルートの軍事的制圧は完成された。アテネ船以外の船が黒海に乗り入れることを禁止したほどである。
 穀物は、アテネの植民地と海軍力に守られ、アテネの外交政策に合わせて、特定の経路で運ばれる。こうした条件下では、穀物は布告された等価で売買されることになる。黒海の穀物はビュザンティオンに行き、大半はピレウスのエンポリウム(貿易港、交易場所)へ運ばれた。その2/3がアテネに搬入されることになっていたが、ギリシャ本土の諸都市国家もピレウスで多くの穀物を購入した。 
 アテネはペロポネソス戦争(BC.394)の敗戦によって一時制海権を喪失した。戦後すぐに取り戻し、ビュザンティオンを支配するボスポロス王国とも商業条約を締結した。穀物供給は常に、条約を通じて確保されたのである。しかし、それは以前の交易とは大きく異はなっていた。トラキア、ボスポロスの海は西半分しか制せず、黒海の制海権はボスポロス王国が有していた。アテネは条約の最恵国待遇であったが、前五世紀に持っていた独占力はなかった。アレキサンダー大王が東方遠征を開始すると、黒海の穀物供給はその軍隊の兵站に回されたから、アテネ交易は終了した。続く数年間アッテカは最悪の飢饉に見舞われた。
 古典古代時代の穀物交易は明確に管理されていた。しかし、この時代は、穀物だけでなく交易一般が管理されていた。例えば、アテネの権勢を支える海軍の必需品である船舶用品の交易は厳格に管理されていた。いかなる国家も、木材、鉄、青銅、麻、蝋、ピッチ等をアテネの許可なしに交易できなかった。アッテカはもとよりギリシャ本土は、古典期までに森林のほとんどは伐採済だから(少雨で再生産力がないのであろう)、アテネは輸入木材に依存していた。
 もう一つの重要な貿易品目は奴隷である。その供給源は、戦争による捕虜となった「野蛮人」(バルバロイ:ギリシャ人以外の非自由民)である。奴隷交易の管理は、交易港と市場の成長を強く刺激した。前五世紀には捕虜となった奴隷は近くの交易港まで運ばれて売られた。前四世紀初頭に、戦場で競売されるようになると、兵站部の業務が奴隷商人に移管されるようになった。それまで、軍隊が農村から食料を漁ったり、地域の都市市場に依存したりするのに代わって、引き連れた大勢の従軍商人から、指揮官以下が固定価格で買うようになった。奢侈品交易ももちろん存在したが、管理貿易の副産物でしかなかった。
 二世紀の間、穀物交易は管理された非市場交易であったが、紀元前四世紀の最終四半期には、東地中海に国際的穀物市場が確実に存在した。それ以前にも、アテネの交易支配は弱まってある種の市場要素の成長がみられたが、市場制度の存在は示していない。というのは、商人が急行するのは、穀物余剰地であって低価格地ではなかった。価格については何ら触れられていない。この時期、アテネの穀物交易管理は退潮期に入り、商人の自主性が出てきた。だが、価格についての資料は不足しており大雑把なことしか言えない。まさに、この資料不足こそが、ポリス外部に何らかの市場組織が存在していたことを否定する。交易の市場的組織があれば、一定の価格の統一性と変化の規則性を生み出す。そうしたパターンがないから、資料の利用が困難なのである。
 二世紀にわたる小麦と大麦の価格変化にかかわらず、その価格比は、ずっと2:1であった。そして、ギリシャ全体で、小麦の公正な単価は5ドラクメであるべきだとされた。それには大きな変化はなく、実効性のある規範であった。アテネの価格統制には、穀物が必要不可欠であるという大きな留保条件が存在した。必要不可欠性は低価格の維持と結びつく。アテネ帝国は、穀物買い付けの独占体であり、売買場所はピレウスとビザンティオン限られたから、高価格という問題は起こらなかった。
 しかし、帝国没落後は軍事的支配力を失い、統制力は穀物供給者にどれだけ財政的利益が提供できるかに依存した。アテネが他の都市国家より低い価格を維持しようとすると穀物は集まらない。といって、高価格は市民に惨禍をもたらす。このデレンマを克服するため様々な方法が取られた。それらはいずれも、エンポリウム価格とアゴラ価格を区別する方法(卸売価格と小売価格に逆の差をつけるといえるか)を含むというものだった。先行するラギナ市では、穀物必要量を私的商人から時価で購入し、市民に単価五ドラクメの公正価格で販売した。この目的の為に財産課税による基金が設定された。
 アテネ取った方法は、アゴラ価格を、一部の外部変動から切り離し、外部価格に部分的にしかリンクさせないことだった。アゴラでは、穀物の供給不足は価格を上昇させるが、ある点に達すると、供給の減少は価格上昇の代わりに突然の下落となる。国家統制のメカニズムが完全に始動するのである。取られた方法は、外国人商人の利己心ではなく、商人の誇り、自負、威信に対して訴える。時価が高くとも、五ドラクメで売るように説得された。代償として、商人に名誉や顕彰が与えられた。穀物不足時の外国からの贈与も、実際には五ドラクメでの売却であった。しかし、この技巧は、原理的に市民の公共奉仕制度を外国人や居留外国人に拡張したものに過ぎない。これらアテネ流の価格・供給統制方式はすべて、あらゆるギリシャ都市で見られたものである。政策の内容は、エンポリウム価格が一定の範囲内の時は、アゴラ価格と連動し、危険な水準にまで高騰したときは、完全に連携を断つとことであった。

 すでにBC324年、穀物供給は相対価格の変動に応じて、東地中海を移動し全地域で価格が統一化する方向に向かっていた。しかしこれは、アッテカの交易組織の進化の結果ではなく、全く逆にエジプトが伝統的再配分計画に市場的方法を接合させた結果なのである。先述のアレキサンダー大王東征による、BC330-326年の飢饉は、穀物交易史に「新時代」ともいうべき転機をもたらした。東地中海穀物市場が初めて組織されたのは、この飢饉との関連による。飢饉はほぼ全ギリシャ世界に影響したけれども、それはギリシャ内部の不作のせいでなく、問題は組織にあった。直接的原因は、アレキサンダーの軍隊のために、ボスポロス経由の供給が減少したことにあった。新たな敵対的勢力の台頭は、穀物供給に対するアテネの支配権の終焉を意味した。
 穀物交易の完全な再組織化が必要なことは明らかである。その見通しは明るかった。アレキサンダーは、単なる征服者と違い、東西の統一、帝国の統一を思い描いていた。彼の名を冠したアレキサンドリアの規模をみれば、帝国の西半分の文化的・商業的中心地たるべく意図されていたのが明白である。文化と政治の首都にして地中海最高のエンポリウムを目指した。大王は、ギリシャの政治と経済に対しての洞察が深かったから、穀物と穀物交易の重要性を認識していたに相違ない。豊かな穀倉地の動脈であるナイルの河口に立地されたのは偶然ではない。穀物取引の集中がアレキサンドリアの目的の一つであった。アレキサンドリア建設と集中化された穀物市場創設がナウクラティスのクレオメネス(大王の家臣)によって行われた。穀物市場の確立は、アテネの独立に対する重大な脅威だったから、彼はアテネの著述家から非難を被るようになった。
 ギリシャ飢饉の時期、エジプトに市場は存在していたが、人口の大部分は、自分の土地であれ大所領の分配であれ、食料を土地から直接入手していた。広範な食料取引や現地人商人団の存在形跡はない。国家権力は弱体で、再配分機構を維持できなかった。商人は主として外国人であった。ギリシャで飢饉が起こると、ギリシャ商人は高値で穀物を買い取ったから、エジプト商人の少なさは、国内向け食料供給を危機にさらした。そこで、クレオメネスは、すべての穀物輸出を禁止し、栽培人が廉価でかまわないとしたのに、十分な高値で全量を引き受けた。外国人商人は一掃され、農民は利益を得た。クレオメネスは、国家統制下に国内分配の完全な再編成に着手したと考えていい。国内供給を再編成後、クレオメネスは、政府独占による輸出を高価格で再開した。輸出利益によって、国内価格を実質的に引き下げたとも見える(高価格は輸出組織確立までの短期間だったらしい)。組織は単純ながら効果的で、厳格な国家統制による価格形成市場もたらした。穀物はエジプトから取引中心地ロードス島へ船で運ばれ、そこにはギリシャ各地の駐在員から価格情報が集まった。ロードスの価格がギリシャ諸都市の平均価格を反映する傾向をもつようになり、「世界」市場価格となった。
 様々なギリシャ都市間で、価格がはじめて、一貫した基準によって互いに密接に関連するようになった。供給が価格に応じて移動する。東地中海に本当の意味で市場価格が現れる。アテネだけに、その純粋な影響をみれば価格は少し上昇したであろう。政治的影響力によって、規模以上の分け前を得ていたからである。供給はいまや現実の必要に応じて合理的に動くのであって、政治力や軍事力には影響されない。
 このことが、アテネを激しく反発させた。アテネにとって、食料供給を市場メカニズムに依存することは、政治的独立体として生き残ることと矛盾する様に思えた。この市場はエジプトの支配力と行政的能力に依存していた。供給は価格差に応じて移動したが、価格自体が行政的決定の結果であって、多数の利潤追求企業者の自動的反応によるものではなかった。輸送と通信の原始的な状況では、精巧な組織だけが、情報を与えることが可能であった。プトレマイオス王朝は穀物交易独占体制を堅持し、市場組織は次の世紀も一定の形で存続した。アテネの反発は、言論だけに留まらなかった。クレオメネスの取引開始の数年後、アテネはいかなる時も市場と独自の穀物供給源をもてるように、植民地を設置しようとした。最後の絶望的試みはどのみち失敗する運命にあったが、ローマの台頭がすべてを圧し潰した。新しい市場組織もギリシャの管理された交易も、数世紀のうちに消え去った。

 古代ギリシャには、交易と貨幣使用を市場要素と結び付けた三位一体の最初の例がある。しかし、これらの要素には類縁性はなかった。互酬や再分配が優勢である限り、交易、貨幣と市場が一つの制度全体を形成することはない。ヘロドトスもアリストテレスも、ある種の貨幣利用と商業交易の結びつきを感じ取ったものの、市場メカニズムについては全く無知であった。
 結局アリストテレスの商業交易関係の分析には、市場についての言及は何もなされていない。貨幣については、ほんの付随的に語っているのみである。人間は生まれつき自給自足的動物であり、交易とは家族が分住するようになって自給体制を補う手段と考えた。アリストテレスの主張は、第一に必用とされる偶然量だけが取引されこと、第二に実物交換であり、第三に同時に、すなわち信用を使わないで行われることである。実物交換では貨幣の使用や機能は言及されないだろう。それゆえ、プラトンもアリストテレスも、経済現象の要素を把握するのに、見事に失敗した。
 ギリシャには極めて截然とした貨幣の二分法が存在した。地域の貨幣と対外貨幣である。少額の銀貨、青銅貨がアゴラで、大きい額面の銀貨が対外交易に使用された。肝心なのは、後者が全面的にその地金銀価値で流通したことである。前者はそうではなく、発行都市の権威によって鋳貨価値が与えられた。様々な代用通貨や悪貨が鋳造されたが、通貨下落やインフレはなかった。市場がなければグレシャムの法則は働かないのである。
 制度として地域と外国の二タイプに鋳貨が分離しているにもかかわらず、相互に交換は可能であった。この交換の可能性を与えたのは、紀元前四世紀にアテネに現れたトラペザイト銀行家といわれる存在であった。トラペザイトとは、アゴラにテーブルを出して貨幣の検査、交換をする銀行家の座るベンチを意味した。大きい額面の貨幣を少額貨幣に交換し、アテネ貨幣を外国貨幣に交換した。彼らの果たした最も有益な役割は、特に初期には、貨幣、貴重品、宝石のみならず法律文書等の保管機能であった。社会的混乱期には、それらを家屋で保管することは危険であり、銀行家に預けられた。預金は主として安全のためになされ、利子は多分支払われなかった。預金は預金者の財産のままで、一般の資金と合体されなかった。銀行家は確かに貸付をしたが、それは預金者の指図によるか銀行家自身の資金によるものであった。したがって、信用創造はなされなかった。また、銀行家は不動産担保貸付を行うのは不可能であった。銀行家は、ほとんど例外なしに奴隷か解放奴隷あるいは外国人であり、市民権がないので土地財産を所有出来なかったからである。貸付の規模は小さかったに違いない。
 貨幣の検査、交換を別にすれば、最も重要な銀行業務の機能は、支払いに円滑化であると思われる。古代には物々交換しかなかった一つの理由は、後日の支払いを保証できなかったことにある。ギリシャでは、預金されたその貨幣が受取人渡されただけであるが、支払いを確実にして時間のかかる取引を助けた。銀行は遠隔地間わたる支払いも円滑にしている。銀行業を基礎とするいかなる種類の信用機構もなかった。それは、国家や支配者が緊急時に財政的困難を銀行家からの借り入れで解決した事実がないことからもわかる。財政的困難は低品位鋳貨の鋳造や、市場的方法を利用した強制公債(forced loan)で調達された。再分配的方法と市場的方法の結合がみられたのである。

 古代の経済生活は東地中海ではヘレニズム、西地中海ではローマ帝国のもとで絶頂期に達した。この五世紀間は古代「資本主義」に最盛期であるとともに、また非資本主義経済活動も高揚した。東地中海では、交易の中心地はアッテカから、アレキサンドリア、アンテオキア、セレウキアの南東方向に移動する。穀物、奴隷、奢侈品等の国際的交易は前例のない規模で発展する。同時にエジプトでは、マケドニア系ギリシャ人支配によってプトレマイオス王朝が、史上最も完璧な非市場的集権的計画経済体系を生んだ。ギリシャ人の、人間の経済に対する貢献は、二つのタイプの経済-市場と交換型、および、計画と再配分型-をほとんど独力でそれまでの最高形態にまで発展させたことにある。ローマは双方の影響を受けて発展した。最初は地域市場でのギリシャ人の交易と鋳貨使用の跡を追従し、南伊ギリシャ人の銀行業務と簿記をも併せ用いた。しかし、その後には、プトレマイオス流の洗練された再分配法が、帝国の行政的、財政的再編成法に影響を及ぼした。
 東地中海では、国内計画と政府交易の組み合わせが、後者の自由取引が優勢となりつつも、依然として支配的であった。しかし、古代西方では、交易と市場を用いる方法は、東方の水準には達しなかった。ローマの歴史では、共和制の末期に向けて、投機的商業が頂点となり、交換技術が高度に発展するのが判る。しかし、やがて、全体に再分配、実物経済に逆戻りし、市場が消滅する。
 ここで、ローマ帝国衰退の原因という古代史の重要問題が出てくる。古代史家ロストフツエフによれば古代資本主義は近代資本主義と同性格であるとし、ローマ帝国の衰退が資本主義的発展を中絶させた。衰退の原因は過剰な計画化の導入にあるとした。これに対してウェーバーはギリシャやローマの資本主義は、近代資本主義とは全く性格を異にするものだと考えた。それは政治に基礎を置く非生産的なもので、経済に基礎を置くものではなかった。政治改革が、資本主義の破滅をまねいたのはその政治的性格のためである。ローマ帝国の衰退の原因は、防衛の為に内陸部に拡大を迫られたことと、その沿岸的性格との矛盾にあった。経済活動が、奴隷や隷農等の人間と土地についての征服・略奪という再分配法、および私的個人による公共事業や公共サービスの収奪を通じて営まれていた。これらはすべて、私的再分配法か中央行政組織の再分配を通じて行われた。そこには、市場的方法は現れていないとウェーバーは考えた。
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  4. ポラニー、カール 野口建彦・栖原学訳 『[新訳]大転換 市場社会の形成と崩壊』 東洋経済新報社、2009年
  5. デイル、ギャレス 若森章孝・東風谷太一訳 『現代に生きるカール・ポランニー 「大転換」の思想と理論』 大月書店、2020年
  6. 栗本慎一郎 「経済人類学」(角山栄・速水融編 『講座 西洋経済史 Ⅴ経済史学の発達』 同文館、1979年 所収)
  7. 栗本慎一郎・笠井潔 『闇の都市、血と交換 経済人類学講義』 朝日出版社、1985年
  8. 若森みどり 「K・ポランニー ー社会の現実・二重運動・人間の自由ー」(橋本努編 『経済思想8 20世紀の経済学の諸潮流』 日本経済評論社、2006年 所収)
  9. 若森みどり 『カール・ポランニー ー市場社会・民主主義・人間の自由ー』 NTT出版、2011年  





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(2023/9/14 記)



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