Kalecki, M. Studies in the Theory of Businerss Cycles 1933-1939, Basil Blackwell, 1966, 8vo., pp.xii+71
Kalecki, M. Selected Essays on the Dynamics of Capitalist Economy, Cambridge University Press, 1971, 8vo, pp.viii+198 

 カレツキ『景気循環理論の研究1933-1939』1966年及び『資本主義経済の動学理論』1971年、各初版。
 カレツキは、「一般理論」の独立発見者とされる。カレツキ自身は、『資本主義経済の動態理論』(Selected Essays on the Dynamics of Capitalist Economy, 1971)の序文で、「第一部には、ケインズ(Keynes)の『一般理論』が出現以前の1933年、1934年、1935年にそれぞれがポーランド語で発表され、しかも『一般理論』の本質的な部分を含んでいる―と私自身が信じている―3編の論文が含まれている」(カレツキ、1984、p.vii)と述べ、独立発見を主張している。
 彼の良き理解者であった、ジョーン・ロビンソンは、「一般理論」の同時発見という言葉を使っている。彼女は、カレツキのポーランド語での初期論文を始めて英訳したStudies in the Theory of Business Cycles 1933-1939 (1966)に序文寄せている。そこでは、「『雇用、利子および貨幣の一般理論』は、1936年1月に出版された。一方、どちら側からのコンタクトもなしに、ミハウ・カレツキは同じ解決を見出だした。この本の第一論文は1933年に出版されている。それは前奏曲のように、後に詳しく説明されるテーマを明確に表現している」(ix)、そして、「英語での、この本の出版は、偉大な科学上の同時発見(coincidences of scientific discovery)の最も顕著な一つについて証拠を提供する」(xii:私訳)と書いている。 
 「一般理論」は、メンデルの法則の(再)発見や朝永・ファインマン・シェウィンガーの繰り込み理論のように科学上の同時発見なのだろうか。それには、まず『一般理論』あるいは「ケインズ革命」の本質が問われなければならない。上述の序文でロビンソンは、ケインズ革命の主題(theme)は次のものであるとしている(注1)。
第一主題、貯蓄と投資の均等。
第二主題、価格・貨幣賃金および雇用の関係。
第三主題、利子率は貨幣的現象である。
 わけても、『一般理論』または「ケインズ革命」のエッセンスとは何であるかは、理論面からみれば、大きく二つのタイプに分けられるとされる。第一のタイプは、それを雇用・所得水準の決定理論として評価するものである。乗数理論あるいは消費関数論に重点を置くものである。今一つのタイプは、利子に関する流動性選好説を評価するものである(参照:宮崎・伊東、1978、p.11)。アメリカ・ケインジアンに多く見られる前者の見方が一般的である。クラインは、『ケインズ革命』(1965)で、「ケインズの革命的な貢献は何であったろうか。[中略]革命はかかって有効需要の理論、すなわち全体としての産出量決定の理論を発展させた点にあった」(p.61)「ケインズの本質的な貢献は、完全雇用が自動的には保障されないことを示したところにあった」(p.96)とし、「流動性選好説をもって、現代ケインズ体系の本質的要素とみる必要はない。それはたんにこの理論をまとめあげ、これを完結させているだけである」(p.46)としている(注2)。

 上記でカレツキは、独立発見を主張していることを示したが、その発見内容を彼自身はどうみていたのであろうか。カレツキは、早くも『一般理論』が出版された年(1936)にその書評(TargettiとKinda-Hassによる英訳あり、以下それによる、p.250-251)のなかで、『一般理論』の内容を紹介しながら、カレツキ自身も同様の発見をしたことを本文(第5節)に対する注釈の形で述べている。6箇所ある注釈のうちの3箇所がそれである。順にみていく。
 
 (第5節)「まず最初に、投資は、短期均衡を、それゆえ一時点の雇用と社会所得の規模を決定する要因であることがわかる。事実、それら量が、現存の資本設備の下で、吸収される労働力の量を決定する」の本文に注して、「(注iv)投資が全体の生産量を決定するという主張は、ケインズに似た方法で、私自身1933年論文(ページ等略、以下同様)において証明している」としている。
 また、貯蓄が投資を決定するのではなく、投資が貯蓄を生むとして、「利子率がどうであれ、「資本」の需要と「資本」の供給との間の均衡は常に存在する、なぜならば投資は同量の貯蓄を「強制」するからである。このことから、利子率は資本の供給と需要を決定することは不可能である。それゆえ、ケインズ理論によれば、その水準は、其の他の要因よってすなわち、支払い手段の需要と供給によって決定されねばならない」の本文に注して、「(注v)資本の需要と供給についての類似の着想は、私自身によって1933年論文において与えられている」としている。
 さらに、名目(貨幣)賃金が減少した場合、投資を通じて短期均衡にどう影響するかを論じる。名目賃金の切り下げが雇用を増加させるとの考えは誤謬であると直接に述べていないが、「貨幣賃金の動きは、短期均衡に影響する要因ではありえない」の本文には、「(注vi)私は、また、生産は名目賃金の動向とは独立していることを、1933論文において示した」と注している。

 この書評で見るかぎり、カレツキは自分のオリジナリティの主張をいずれも、1933年のProba teórii koniunktury(「景気循環論概説」、以下Probaと称す)を根拠としている。そして、所得・雇用の決定理論だけでなく、利子学説についても、自己の独自性を主張しているように思える。なるほど、カレツキは、利子は貯蓄・投資を調整するものではなく、支払い手段の需給を調整するものだとしている。しかし、カレツキには内生的貨幣供給理論はあっても、ケインズのように貨幣の流動性を重視した利子理論はないように思える。
 ここでは、カレツキの同時発見のエッセンスを前者の所得決定理論とする。所得決定理論に付随して、その系として、「貯蓄のパラドックス」(注3)、および貨幣賃金切り下げは雇用増加とならないという主張を加えても良いかもしれない。「貯蓄パラドックス」は、個人の節倹がマクロの貯蓄増に結び付かないとしたもので、シュンペーター(強調原文:1952、p.411)は「ケインズ革命とは結局このことに帰着する」とした。

 「一般理論」の本質を、所得決定理論と絞ったとしても、カレツキの独立発見を否定する見解もある。パティンキンの説である。彼は、Anticipations of the General Theory? And other essays on Keynes 1982の第3章Michał Kaleckiのなかで、カレツキの独自性を検討している。以下、関連事項を適宜補いながら第3章を私なりに要約してみる。

  (パティンキンによるカレツキのオリジナリティの否定)
    [以下断りのない引用は同書から、私訳]
 カレツキは、『一般理論』の出版された1936年に、その書評論文で自分の独自性を主張した。彼の独自性が他人によって認められたのは、10年後にオーステン・ロビンソンが、ケインズについてのメモアール(1947)のなかで、触れたのを嚆矢とする。続いて、クライン、フェイウェル、シャックル等そしてパティンキン自身も、これまで同時発見を認めていた。しかし、これらの主張は、ポーランド語のモノグラフProba 1933を主たる根拠にしたものであった(実際は外国人経済学者の評価は、下記英仏二論文によるものと記者には思われる)。
 この小冊子Probaの主要内容は、『一般理論』刊行以前、1933年にライデンにおける計量経済学会で発表された後、国外研究者にも、もっとアクセスし易い二論文の形をとって出版された。1935年発表した、Econometoricaに掲載の”A Macrodynamic Theory of Business Cycles”およびRevue d’ economie politique の“Essay d’une théorie du mouvement cyclique des affairs”である。前者は景気循環の数学的処理に、後者は金融面に重点がおかれている。
 その後、25年経過して、彼の初期論文が妻により英訳され、Studies in the Theory of Business Cycles 1933-1939 , 1966に収められた。Proba(1933)論文の「第一部にして本質的な部分」(カレツキ序文)が“The Outline of a Theory of Business Cycle”として、加えるに“On Foreign Trade and Domestic Export” 1934と”The Mechanism of the Business Upswing “1935 等の論文である。(なお、これら英訳3論文はSelected Essays on Dynamics of the Capitalist Economy 1933-1970, 1971にも収録され、それぞれ「景気循環論概説」、「外国貿易と「国内輸出」について」および「景気上昇のメカニズム」として重訳されているので、和訳にはこれを利用する)
 パティンキンは、以上の他に、カレツキの書評論文等を個人的にポーランド語から英訳してもらい、それらも併せ参考にして考察している(Anticipations of the General Theory? は1982年の出版だから、TargettiとKinda-Hass 1982の書評論文英訳は利用できなかったのだろう)。

 パティンキンは、まず、Proba 1933論文の英訳をとりあげ、「それでは、この翻訳された論文で紹介されているカレツキの理論を検証してみよう。前段落で述べた1935年のカレツキの2つの論文(英・仏語論文の事:記者)と、多かれ少なかれ対応していることは言うまでもない。ストックホルム学派の場合と同様に、私の目的はカレツキが一般理論を先取りしたという主張を検討するという狭いものであることを強調しておかなければならない」(p.63)とする。

 カレツキは、彼の第一方程式とでもいうべき、PC + A  (P :実質粗利潤、C :資本家消費(後出のCc に同じ:記者)、A :粗蓄積)からはじめて、経済成長はなく、資本設備量は景気循環の波が1回転しても不変であるとの仮定の下、次の方程式を導出する、
   I  = B0A)― nK
 ここで、I は、投資注文量、B0 は資本家消費の固定的部分、A は粗蓄積、K は資本設備量、 は正の係数である。
 投資注文量I の増加は一定のタイムラグ(θ/2)を経て、粗蓄積A を同量増加させる。そして、上記I の方程式により、A の増加はさらなる、I の増加を引き起こす。しかし、θ 時間が経過して完成新設備の引き渡しが始まり、資本設備量K が増加する。そこで、上記方程式が資本設備量の減少関数であることから投資注文量の増加速度が鈍り、終には減少し始める。このようにして、カレツキは、投資循環サイクルを描き出す。
 パティンキンはいう、しかしながら、この循環(サイクル)は投資の循環であり、総生産あるいは国民所得の循環ではない。カレツキ(1984、p.13)は、「これまで、景気循環を発生させる投資財注文量、粗蓄積および資本設備量の相互に関連する変化について考察がなされた。このメカニズムによって生じる粗蓄積の変動はまた、総生産量の変動にも反映されなければならない」としているが、総生産量の変動には詳しい説明はない。ただ、「投資財の生産量が増加すれば総生産量は直接増加するが、それに加えて投資財産業で新規に雇用される労働者の消費財需要によって誘発される生産量の増加も伴うものである。それに伴う消費材産業における雇用の増加は消費財に対する需要をさらに増加させることになる」(同、p.13)と乗数理論の波及過程を思わせる記述がある。
 カレツキを一般理論の独立した、いな、先行した発見者とする論者が根拠としたのは、上記の文章の類である。カレツキの支持者の多くは、一般理論の本質は、貯蓄(カレツキ流には利潤)の水準を決定するのは投資の水準であり、その逆ではないという命題にあると考えてきた。すなわち、生産高の変化によって投資と貯蓄(カレツキでは利潤によって決定される)を均衡させるということである。
  
 パティンキンはこれら独自性の主張に対していくつか疑念を抱いている。
 第1に,投資の増加は、それに対応する貯蓄の増加を生み出すべく生産を増加させるという命題は、ケインズの1929年の『ロイド・ジョージはそれをなしうるか?』に優先権があるとするもの。
 第2に、カレツキは上述の文章では、貯蓄(利潤)水準を決定するのは投資水準であるとの命題を実証することに主眼を置いており、均衡生産水準の決定を分析することに主眼を置いていない。カレツキの目的は、資本主義経済の2つの基本的特徴、すなわち、投資と利潤の関係、および投資循環の発生について、マルクス経済学説を厳密にすることにあった。
 そのことは、1933年の論文冒頭の式(先に彼の第一式と呼んだ) P C + A において、カレツキは、記号A を資本家の貯蓄と投資の両方の意味で使っていることでも判る。資本主義経済で独立に決定される貯蓄と投資が、生産高の変化によって均衡となるメカニズムには、彼の関心がなかったことを示している。
 第3に、カレツキ理論の中心的なメッセージは、生産ではなく、投資の分析に関するものである。しかしそれは、カレツキが生産と雇用の水準に関心がなかったことを意味するものではない。実際、カレツキは1933年のProba の一部(1966年の翻訳版には収録されていない部分)で、自説の「応用」について論じており、次のような式をあげている。
  Y = q (B0 + A ) + rK
 ここで、Y は産出量を表し、q r は定数である。 しかし、カレツキが1933年論文の「本質的な部分」を英訳としたとする1966年の“The Outline of a Theory of Business Cycle”に、この部分を含めなかったという事実自体が、この論文の中心的なメッセージが産出量の決定ではなかったことを改めて示している。
 カレツキの中心的メッセージの主題が生産ではなく投資であることを示すものは他にもある。(この辺はパティンキンの叙述を離れている。数学的なことは理解できないので大谷論文を参照した)カレツキのライデンでの発表題目は「高等数学を援用して構築した景気循環論」であり、その後発表された上記英・仏語論文も、景気循環のタイトルを冠している。そしてそれら論文、特にその定差微分混合方程式の解を巡って、フリッシュー、ティンバーゲンらの批評が続いた。自他ともに、カレツキ論文の投資行動に対して主要な関心が集中していた。
 「私が最後に疑念とするのは、カレツキが1933年に発表した小冊子の中心的なメッセージの主題は、いずれにせよ循環であり、低水準の雇用が継続する状態ではないということである。彼の主な結論は、正弦曲線の形で図式化され、その中では好況が不況を滑らかな規則性で引き継いでいる。 カレツキは「失業均衡」の存在を説明しようとはしていない。それに応じて、ここで私の本論に戻るが、カレツキの1933年の景気循環に関する小論には、完全雇用水準未満での総需要と総供給(あるいはそれに相当する貯蓄と投資)を均衡させる生産高の変化のメカニズムに関する言及は、ほとんどないに等しい」(p.70)。
 しかしながら、パティンキンは、カレツキがケインズ流の均衡メカニズムを実質的に論じていることも認めている。1935年にポーランドの半官経済評論週刊誌Polska Gospodarcza [Economic Poland ]に発表した論文である。それは、1966年のStudies に"The Mechanism of the Business Upswing"として英訳された。ケインズの『一般理論』のある箇所と酷似しているとして、パティンキンがあげたのは、カレツキの次のような記述(概要)である。

 不況を克服しようとして、賃金を切り下げた場合、資本家の利潤は増加する。しかし、増加した利潤で、資本家はその消費を大きく増加させることはない。投資もしばらく様子見で直ちには行われない。企業者や銀行の手元に退蔵貨幣が蓄積される。増加利潤に見合う財の需要はなく、売れ残る。商品価格は低下して、費用低下の効果は相殺されてしまう。設備の過少利用を伴う失業が再現する(カレツキ、1984、p.26-27参照)。

 それでも、パティンキンによれば、『一般理論』以前の時期で、専門的な著作においては、カレツキは「失業均衡」というテーマに、ほとんど注目していない。一般読者を対象とした著作にしか現れない。カレツキが『一般理論』の1936年の書評で優先権の主張を展開した際、彼は完全に1933年のProba に基づいてそれを行い、この1935年の論文については一切言及しなかった。

 次いで、パティンキンは、1936年の『一般理論』書評論文を取り上げる。カレツキはこの書評の冒頭で、一般理論を「経済学史の転換点」と称賛している。同時に上記にみたように脚注のなかで自己の独自性を主張したのであるが、パティンキンはその本文部分である次の箇所を問題とする(彼のポーランド語からの英訳は、上記のTargettiらによる書評英訳とは異同がある)。

 第4節 「   = f )  と書くことができる。ここで、f  は増加関数であり、その「形」は資本ストックの規模と構造、資本家の貯蓄習慣、資本家と労働者の「嗜好」によって決まる。関数の導関数
  dY / dI = f‘
 は、いわゆるケインズ乗数である。投資が所定の水準I から所定の水準 I + ΔI (ΔI はわずかな増加である)に変化すれば、所得は水準 Y から水準Y + ΔIf'I )に変化する」

 第5節 貯蓄が投資を決定するのではなく、投資が貯蓄を生むとして、「利子率がどうであれ、「資本」の需要と「資本」の供給との間の均衡は常に存在する、なぜならば投資は同量の貯蓄を「強制」するからである。このことから、利子率は資本の供給と需要を決定することは不可能である。それゆえ、ケインズ理論によれば、その水準は、其の他の要因よってすなわち、支払い手段の需要と供給によって決定されねばならない」

 パティンキンが注目するのは、上記でカレツキが「ケインズの乗数」と呼んでいるものが、実際には、R・F・カーンによって「国内投資の失業に対する関係」(『エコノミック・ジャーナル』1931年6月号)論文で初めて経済理論に導入したことを指摘していないことである。カーン(そして後にケインズも)は、乗数をdY/ dI = f ' (I)と一般的に説明するだけでは満足せず、dY/dI = 1/(1 – 限界消費性向)という形をとることを実証し、投資水準と生産水準の間に正確な量的関係を確立したのである。カーン論文の主要なメッセージは、投資が増加すれば貯蓄も同様に増加するというものであった。そして、カレツキのこのような事実の記述(実際は不記述:記者)は偶然とは考えられず、このことで上記した第5節の2つの脚注(注iv 及びv:記者)で示した暗黙の優先権主張は大きく弱められる。同様に、カレツキが(これら脚注の最初の方で:注iv、記者)「投資が生産の総規模を決定する」ことを「ケインズと同様の方法で」証明したとの主張には、カレツキは正当性を誇張しすぎているとする。1933年論文Proba の一節は、一般理論の主要な貢献である部分、すなわち、生産の変化による(貯蓄=投資)均衡化の役割を明らかにしていないからである。
 全般的に、カレツキはカーンの乗数の重要性を軽視しようとしている印象である。その後の著作「景気循環の理論」1937年や『経済変動論集』(1939年)でも、乗数理論の軽視ないしカーンへの無視が見られる。
 カレツキは「書評論文」で、もう一つ『一般理論』への暗黙の優先権を主張している論点がある。名目賃金の変化は、短期均衡には直接的に影響しないという主張である(第5節注vi)。その証明には、企業家が投資活動において、賃下げによる収益性の上昇に直ちに反応しないと仮定すれば十分であるとする。ここでの議論は上記1935年の"The Mechanism of the Business Upswing"で示したものより機械的である。賃金下落が生産水準に及ぼす影響に関するカレツキの分析は、ケインズが『一般理論』の「貨幣賃金の変化」の章で提供している、そのような下落の影響の詳細な分析に比べると、実際には劣っていると、評価する。
 結論として、パティンキンは「カレツキは、投資と他のマクロ経済変数との関係を分析することに重点を置き、ストックホルム学派よりも一般理論に大きく近づいた。特に、1935年に発表した準通俗論文 ”The Mechanism of Business Upswing”がそうであった。それでも、クラインのような主張、1936年以前のカレツキの著作が「ケインズ体系における重要なものをすべて含む体系を作り上げた」とか、カレツキが「ケインズの一般理論を完全に先取りした」と評価されるべきであるとの主張は、受け入れられない。また、カレツキがケインズと「同じ解(same solution)を発見」し、「ケインズの理論として知られているものを独自に発見した」と評価されるべきだというジョーン・ロビンソンの主張も受け入れることができない。ひとつには、カレツキの理論には、ケインズの一般理論のような統合的な性格が欠けている。[中略]私がカレツキの理論を一般理論の独立した発展であると考えない最大の理由は、すでに強調したとおりである:つまり、カレツキの中心的なメッセージは、低水準の生産で均衡を生み出す力ではなく、投資の循環を生み出す力に関係しているということである」(引用表示略:p.77)としている。


 次に、パティンキンのカレツキの独自性否定(疑念)に対して、私の感じる疑問を書いてみる。パティンキンの上げた第1点、投資=貯蓄は生産を通じて達成されるとの命題は、ケインズの『ロイド・ジョージはそれをなしうるか?』1929に優先権があるとするもの。
 パティンキンは、「カレツキが一般理論の独立的発見(independant discovery)を主張したのは、ケインズの本が出版された直後のことである」(p.59)としながら、「私の目的はカレツキが一般理論を先取りしたという主張を検討するという狭いものであることを強調しておかなければならない」(p.63)とも書いている。本書の題名『一般理論の先行者?』からして、パティンキンは、独立発見より優先権を重視しているように見える。しかし、「同時発見」者としては、カレツキに充分な資格があるのではなかろうか。ケインズの小さな政治パンフレットをポーランドで見ることは困難であったろう。それでも、パティンキンは、上記結論の記述のごとく、カレツキの同時発見をも否定しているのである。

 パティンキンの上げた第2点から第4の疑念は、1933年のProbaを主たる材料として、いずれもカレツキの中心的メッセージは投資の動向や景気循環であり、不完全雇用均衡や投資=貯蓄均衡が生産量によって調整されることを正面から論じていないということであろう。しかし、パティンキンは、カレツキがケインズ流の均衡メカニズムを実質的に論じていることも認めている。1935年の「景気上昇のメカニズム」論文である。それでも、パティンキンは、『一般理論』以前の時期で、カレツキは、専門的な著作においては「失業均衡」というテーマにほとんど注目せず、取り上げても一般読者を対象とした著作にしか現れないという。
 ここで、パティンキンが専門論文と一般読者向けの書き物を区別する理由が私にはよくわからない。学術誌ではない一般誌に書かれたものは、検討に値しないというのだろうか。
 パティンキンも見ているはずであるが、取り上げていない、Studies 1966収載の“On foreign trade and ‘domestic export’”「外国貿易と「国内輸出」について」1934論文では、もう少し不完全雇用均衡や生産量変動が正面から取扱われていると思える。もっともこの論文はEconomista に発表されたそうで、これが一般誌か学術誌かは、私にはわからないのだが。ここでは、外国貿易(貿易黒字)と「国内輸出」(財政支出のこと)が、投資と同じ役割を総生産に与えることが論じられている。当該論文の該当箇所を引いてみる。
 「新しい外国市場を獲得することは、不況から脱出するための方策としばしばいわれている。しかし、この文脈において本質的に重要なことは輸出の絶対値というよりはむしろ輸入に対する輸出の超過額を増加させることである」(カレツキ、1984、p.16)。「この貿易黒字は、投資活動の拡大と同様に、生産量と生産量1単位当たりの利潤の全般的な増加をもたらすので、貿易収支の増加と同量だけ総利潤は増加するのである。このことから生じる既存生産設備のより高い収益性は、投資活動に対する刺激剤としての役割を果たす。かくして、新たな外国貿易の結果生じる景気上昇は、「正常なブーム」を発生させるのである」(強調引用者:同、p.17)。
 ここで、貿易黒字が波及投資を呼ぶことだけでなく、本筋ともいえる消費財生産の増加効果を加えなかったのは、貿易黒字による消費増が輸入として流出することを(後段で)論じているからであろう。“Outline of a Theory of The Business cycles”「景気循環論概説」(原論文1933:カレツキ、1984、p.13)で補っておこう。「投資財の生産量が増加すれば総生産量は直接それだけ増加するが、それに加えて投資財産業で新規に雇用される労働者消費需要によって誘発される生産量の増加も伴うのである。それに伴う消費財産業における雇用の増加は消費財に対する需要をさらに増加させることになる」。投資の乗数効果による経済拡大過程を表現していると思う。
 そして、「国内輸出」については、「もし政府が国債を発行して国内の資本家たちから資金を借り入れ、国債収入をたとえば軍備、失業手当、公共投資等に支出すれば、その結果は外国貿易黒字を確保する場合ときわめて類似している」(カレツキ、1984、p.19)としている。この経済は開放体系で、総利潤(資本家消費プラス貯蓄)は、資本家消費プラス投資プラス貿易収支プラス財政支出に等しいのである。
 そのうえ、1934年論文には、「乗数」も示されている。「貿易収支がs だけ増加すれば、総利潤はそれと同額増加する。総生産額に占める利潤の相対的分け前をα で示すことにしよう。かくして生産額はs /α だけ増加するであろう」(同、p.18)。1/α が貿易黒字(投資に同じ)乗数なのである。もっとも、乗数は単純に総生産額に占める利潤の相対的分け前から導かれたものであり、パティンキンがいうように、「dY /dI = 1 / (1 – 限界消費性向)という形をとることを実証し、投資水準と生産水準の間に正確な量的関係を確立した」のようなものではないが。
 次に、Selected Essays 1971、第Ⅰ部(カレツキの独立発見の論文が集められている)に収載されている” A theory of commodity, income and capital taxation”(「商品税、所得税および資本税の理論」)1937をみてみよう。カレツキは、原稿を1937年2月に『エコノミック・ジャーナル』編集長ケインズに送付している(Keynes、1983、P.789)。日付の点でカレツキの先行性の根拠としては使えないだろうが、同時発見あるいは『一般理論』刊行時にその本質を理解していたことの傍証とはなろう。
 この論文では、まず諸仮定の第一番に「すべての種類の労働や設備が過剰であるような封鎖経済体制を考える」(強調引用者:カレツキ、1984、p.34)としている。そして、「粗利潤と賃金の合計額を(ケインズがそう呼んだのと同様に)国民所得と呼ぶことにしよう。一方、国民所得は、総利潤と投資の合計でもある。労働者は所得のすべてを消費するものと想定されているから、粗利潤総額P は資本家の消費Cプラス投資に等しくなければならない。すなわち、
 P = C + I
 である。[中略]前述の方程式は(労働者が貯蓄しないというわれわれの仮定のもとでは)貯蓄と投資 の均等式と同等である。なぜなら、この方程式の両辺からC を差し引けば = という式を得るからである」(カレツキ、1984、p.35)と書いている。
 ちなみに上式左辺からCc を差し引いたC は、資本家貯蓄であり、労働者が貯蓄しないので、それは社会全体の貯蓄 に等しい。そして、上記引用文で[中略]とした部分には、「もし資本家の消費支出と投資支出の合計額 C+I が増加(減少)するならば、限界収入曲線が移動し、増加(減少)した資本家の消費支出と投資支出に粗利潤P が等しくなる点まで雇用が「押し動かされる」のである」と説明している。過少雇用均衡の下で、投資=貯蓄均等が雇用(生産)変動を通じて達成されることが示されているのである。

 最後に、パティンキンは、カレツキがカーン論文を無視したこと及び「カーン(そして後にケインズも)は、乗数をdY / dI = f ' (I )と一般的に説明するだけでは満足せず、dY /dI = 1 / ( 1 – 限界消費性向)という形をとることを実証し、投資水準と生産水準の間に正確な量的関係を確立したのである」(Patinkin、1982、p.74)と批判した点を考えてみる。
 カレツキがカーン論文を無視したことが、カレツキの独立性の主張を弱めるとのパティンキンの主張が私にはもう一つ理解できない。乗数の形での表現が記載されていないからであろうか。上で見たように、曲がりなりにも「乗数」表現は記載されている。そのうえ、パティンキンが、カーンとケインズの乗数を区別していないのも気になる。
 ケインズも認めるように、カーンとケインズの乗数は同一ではない。ケインズの乗数は「この関係は Δ Y / k・ΔI という形に書くことができる[限界消費性向をk を用いて を表すと]  1 - 1 / k が限界消費性向となる。  [段落]  k投資乗数と呼ぶことにしよう。カーン氏の乗数はこれとはやや異なっている。[中略] 雇用乗数 k ' とでも呼べるものである」(強調原文:ケインズ、2008、上p.159-160)[なお、ここでケインズは を賃金単位表示で実質化している:記者]。
 ここで、理解を助けるために、寄り道してカーンの論文「国内投資の失業に対する関係」1931の概要を下にあげる。

   (カーンの雇用乗数)
 公共事業あるいは道路建設に例を取る。それら公共投資の増大に関連して必要となる雇用増大は「第1次」雇用と呼ばれる。それには、「直接的」雇用とともに、新投資を行うために必要な原材料の生産と輸送に従事する「間接的」雇用も含まれる。第1次雇用による賃金と利潤の増加によって消費は増加する。それに応じるために消費財生産が増加する。こうして、同様に賃金と利潤が増加することになり、その効果は弱まりながら次々と無限に継続していく。このような過程で生じる雇用の総体を、カーンは「第2次」雇用と呼ぶ。いわゆる3次、4次以降に生じた雇用もひっくるめて「第2次」雇用としている。
 ここで、当時の不況期での現実に近似したように、消費材供給は無限に弾力的であると仮定する。雇用にありつけた人々はそれぞれ賃金W を受け取り、また追加的各労働者の雇用に対する利潤増加分はP であるとする。追加的各雇用者に伴う原材料・半製品の輸入増加分の価額はR とする。単純化のため、WP は、第1次雇用、第2次雇用を通じて同じであるとする。
 新たな追加された労働者は、その雇用によって各人の賃金からmW の、また利潤追加分からのnP 、の国産消費材への支出率の純増加もたらすものとする。この場合、国産消費財への支出率の増加の合計は、
   mW + nP
 となる。この支出増の直接的効果として、雇用量は次のように一層増大する。
    (mW + nP)/ (W + P + R )人 = 
 これから、第1次雇用によって生まれた各労働者について第2次雇用者数は、
      K + k2 + k3 + … = k / ( 1 – k )
 となる。第1次雇用に対する、第2次雇用の比率は、k/ ( 1 – k )である。第1次と第2次を併せた総雇用で考えると、もし第1次雇用としてN人が雇用されると、雇用の総増加量は、
      N ( 1 + k / ( 1 - k )) = N /( 1 - k )
 となるから、雇用乗数は 1/( 1 - k ) となろう。

 以上を踏まえたうえで、カーンとケインズの乗数の違いに戻る。
 上記論文で、カーンは、第1次雇用に対する、第2次雇用の比率、k / ( 1 – k ) を算出した後、実際の比率値推定のため、m 等に推測値を入れて、k / ( 1 – k ) の値を推定している。その際、「労働者1人が雇用されたとき、その所得増加分中の1/6が(その支払いが国内製品への支出と見なされるべき輸送費用と配給費用とを除いた)輸入完成財に向けられると想定することも、合理的であると思われる。いいかえれば、m’ は5/6に等しいとするのである」(強調原文:カーン、1983,p.17)と書いている。ここで、m’ は労働者1人当たりの所得増加分中の国産消費財に向けられる割合である。労働者所得増加分が国産財と輸入財に消費され、その割合の合計が1だから、労働者は貯蓄しないとの想定である。また、カーンはカレツキのように資本家という言葉は使わないが、「企業者」や「非賃金取得者」という言葉を使っている。
 カーンの考え方は、ケインズよりも、むしろカレツキに類似点があるように思われる。カレツキの理論は、上記では充分説明しなかったが、資本家階級と労働者階級を区分し、労働者は貯蓄しない(できない)とするのが大きな特徴である。ケインズの乗数は限界貯蓄性向(限界消費性向の補数)の逆数であり、個人は階級あるいは、所得にかかわりなく、所得が増えれば貯蓄が増えるという(消費関数を前提とする)「方法論的個人主義」にもとづいているのである。ケインズは、古典派やマルクスのように階級を分析には組み入れていない。

 パティンキンは、ポーランドからシカゴに移住した移民の出だという。バラルーシ移民の子と書いたものもあるが、歴史的には大きな違いはない。いずれにせよ、シカゴにはポーランド出身者が多く住んでいる。大学もシカゴ大学卒である。パティンキン自身はシオニストのユダヤ人で、1949年にイスラエルに移住している。そのパティンキンが、カレツキの事を「高度に反ユダヤ的な国でのユダヤ人」(a Jew in a highly anti-Semitic country:Patinkin、1982,p.68)であったと書いていながら、カレツキに対して同情的でないのはちょっと不思議である。
 
 いずれも日本の洋古書店より購入。ダスト・ラッパー付き。最近の本で、稀覯書には当たらない。

(注1) 但し、第一主題については、第一主題として明確に示されていない。
(注2)流動性選好説を重視するハロッドは次のようにいっている。「わたしの考えるところでは、利子の理論は、かれの体系のなかの中心点である。かれは経済組織が完全活動の状態に移行できないのは摩擦、硬直性、不可動性、あるいはまた本質的に景気変動に関連した現象に起因するものではないと考える点で正統派と相違している。もしも完全稼働と両立しない利子の中心水準が確立されたならば、経済体系の他の部分がいかに伸縮的および可動性を有していたとしても、それは経済体系を完全稼働に導きえない。[中略]これが、なぜかれが利子率は本質的に貯蓄に対する報酬ではなく流動性の犠牲に対する報酬である、という理論を不当とまで思われるほど強調したかということの理由である。流動性選好に影響する諸力の一群を与えられたものとすれば、自然的、必然的、かつ、基礎的諸力が変化しないかぎり永久に継続する利子はこれこれであるということになる。けれども、その利子率は経済体系の完全稼働とは両立しないかもしれない」(ハリス、1949、p.103-104)
(注3)「なるほど個人が貯蓄を行うと彼が自分の富を増加させるのは確かである。しかし、彼はさらに全体の富を増加させるという結論は、個人の貯蓄行為が他の誰かの貯蓄に、したがって他の誰かに富に影響を与える可能性のあることを閑却している」(ケインズ、2008、上.119)。
 サムエルソン『経済学』Economics 初版(1948)にすでに「合成の誤謬」(fallacy of composition)があげられており(p.8-9)、その6番目の例として「人々が個人として不況時に余計貯蓄しようと試みるならば、かえって社会全体の貯蓄総額を減らすことになるかもしれない」(訳は、都留重人訳13版より)と書かれている。

(参考文献)

  1. 大谷竜造 「カレツキーの景気論」(森嶋通夫・伊東史郎編 『経済成長論』 創文社、1970 所収)
  2. カーン、R. F. 浅野栄一・袴田兆彦訳 「国内投資の失業に対する関係」(浅野栄一・袴田兆彦訳 『雇用と成長』 日本経済評論社、1983年 所収)
  3. カレツキ 『資本主義経済の動態理論』 日本経済評論社、1984年
  4. ケインズ 間宮陽介訳 『雇用、利子、および貨幣の一般理論 上』 岩波文庫、2008
  5. L・R・クライン 篠原三代平・宮沢健一訳 『ケインズ革命 新版』 有斐閣、1965
  6. シュムペーター 中山伊知郎・東畑精一監修 『十大経済学者 マルクスからケインズまで』 日本評論社、1952
  7. 宮崎義一・伊東光晴 『コンメンタール ケインズ/一般理論』 日本評論社、第3版 1978
  8. 元木久 「カレツキとケインズ革命 ―『一般理論の発見』―」(橋本昭一編 『近代経済学の形成と展開』 昭和堂、1989年 所収)
  9. セイモア・E・ハリス編 日本銀行調査局訳 『新しい経済学 Ⅰ』 東洋経済新報社、1949
  10. Keynes, J. M. The Collected Writings of Jhon Maynard Keynes XII , Macmillan, 1983
  11. Patinkin, D. Anticipations of the General Theory? And other essays on Keynes, The university of Chicago Press,1982
  12. Samuelson Economics : an introductory analysis, New York, McGraw-Hill, 1948
  13. FERDINANDO TARGETTI, BOGULSLAWA KINDA-HASS “KALECKI'S REVIEW OF KEYNES‘ GENERAL THEORY”、Australian Economic Papes Vol.21,Issue39, December 1982





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(2025/6/25 記)



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